孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

コソボ  総選挙で急進独立派が第一党 独立へ加速か?

2007-11-19 19:26:04 | 国際情勢

(コソボを追われたセルビア人の老女 “flickr”より By Aleksandra Radonić')

*******
国連暫定統治下のセルビア・コソボ自治州で行われた州議会選挙は、監視する非政府組織の18日までの独自集計によると、開票率約80%の段階で急進独立派の最大野党コソボ民主党が34%を得票し、勝利する勢い。同党のサチ党首は17日、関係国がコソボ問題を国連に報告する期限の12月10日以降、直ちに独立宣言したいとの意向を表明、情勢が緊迫する可能性も。【11月18日 共同】
******

今年2月2日にアハティサーリ国連事務総長特使が制約付きで事実上のコソボ独立を認める仲介案を、セルビア政府側とアルバニア系住民側の双方に提示しました。
その内容は以下のとおり。
・ EUと国連が任命した監督官を置く。監督官はコソボ議会の法案に対する拒否権と官僚の罷免権を持つ。
・ 独立宣言は行わない。
・ 国歌、国旗の制定、軽武装の治安部隊の保持、国境警備隊の保持については、これを認める。

セルビア、コソボの当事者間で交渉がまとまらず、安保理に委ねられました。
EU、アメリカは賛成の意向でしたが、ロシアが拒否権発動を仄めかすかたちで決裂。
(ロシアは、セルビアの強硬な反対姿勢を擁護すると同時に、コソボ独立が国内のチェチェンなどの問題に波及・影響するのを危惧しているように見えます。)
その後、アメリカ、ロシア、EUの連絡調整グループが仲介役として乗り出し、12月10日までに国連事務総長への報告を目指していますが、進展は期待できない状況です。

今回の選挙結果(急進独立派のコソボ民主党が第一党になること)は、ある程度予想されていましたので、「現地筋の間では『セルビアはコソボの独立宣言までは織り込み済み』との見方もある。(12月10日の)報告書提出後は、関係国間で国内、国際両世論をにらんだ神経戦が展開されそうだ。」との報道もされていました。【11月11日 世界日報】

とは言っても、いまや国内少数派となったセルビア人に対する報復的な暴力的民族差別行為が多かったアルバニア民族主義のコソボ解放軍(KLA)が姿を変えたのが現在のコソボ民主党(PDK)ですし、サチ党首も当時のKALの指導者ですから、独立宣言を強行した場合の国内セルビア人保護に懸念が残ります。
NATO主導の1万6000人のコソボ駐留部隊が衝突の歯止めとなればよいのですが。
「(サチ党首は)PDKを設立する支援をしてからは、穏健な人物としてのイメージを打ち出している。」【11月18日 AFP】とも言われますが・・・。


(1991年にセルビア軍によって殺害された父親の遺影を掲げるアルバニア系の少女 “flickr”より By armend nimani)

コソボ内のセルビア人側は今回の選挙はボイコットを呼びかけましたので、議席はすべてアルバニア系(コソボ人口の9割)の政党ですが、推定投票率は40~45%にとどまっているようです。
セルビア人有権者の数%分を考慮しても、“独立を問う住民投票”的な選挙とも言われるにしては少し低率のように思えますが、こんなものなのでしょうか?

セルビアは今年1月に議会選挙が実施され、急進的民族主義のセルビア急進党(SRS)が第一党を維持しました。しかし、民主派諸党全体で6割を得票し、民主派諸政党による連立協議の結果、5月にコシュトゥーニツァ・セルビア社会党党首を首班(再任)とする、民主派政権が成立しています。

コソボ問題については、セルビア人は右も左もないとは言いますが、やはり濃淡はあります。
EUとの接近を志向する現政権に対し、セルビア急進党のニコリッチ党首はかつて、「コソボは永遠にセルビアの領土だ。軍隊と警察をコソボに返したい。コソボでのセルビア人の利益は守り抜く。新アルバニア国家は認めない」(コソボに軍隊と警察を返したら、またNATOの空爆を受けることも考えられますが…?)「コソボはアメリカの領土ではない。ヒロシマ、ナガサキは原爆が落とされても日本であったように、NATOの空爆を受けてもコソボはセルビアの領土だ」と明快に語っています。

また、今年5月国会議長に就くや否や、「国連安保理が隣のコソボ独立を画策しており、セルビアが危機に立たされている」という理由でセルビアに非常事態宣言を発することを検討し、結局民主派諸政党によって“はずされた”こともあります。
コソボの独立強行が、来年1月に総選挙が行われるセルビアの急進派を勢いづかせることは当然に考えられます。

コソボも国際的支持が必要ですので、独立宣言の時期については欧米の意向を探りながらとなるように思いますが、アメリカとEUも地域情勢の不安定化は望んでいませんので、コソボ新政権に協調を迫るとみられるます。
コソボの独立強行によってセルビアが急進化し両者の緊張がたかまれば、アルバニア人が25%ほどいてやはり問題をかかえるマケドニアにも波及します。
セルビア人が3分の一を占め、かつて激しいボスニア紛争を経験したボスニア・ヘルツェゴビナもまた緊張が高まります。
ルマーニアもコソボ同様の問題を抱えているそうです。
もともとトランシルヴァニアはハンガリー人の“聖地・故郷”みたいな地域だったのですが、移住してきたルーマニア人が多くなり、2回の世界大戦の混乱を経て“ルーマニア”となった経緯があります。
セルビアがハンガリー、コソボがルーマニアに相当する関係です。
その他、ロシアのチェチェンなどの民族運動を刺激することにもなります。
紛争・制裁でドナウ川の水運が止まるとブルガリアも大打撃を受けるそうです。
“火薬庫”の諸問題が玉突きのように・・・という懸念も。

個人的には、すでに9割がアルバニア人になっており、そのアルバニア人との間でここまで問題がこじれ、現在も事実上セルビアの支配権が及んでいない以上、コソボ独立の方向で動かざるを得ないのでないかと考えています。
セルビアも領土に固執するより、いかにコソボ国内に残るセルビア人の安全・権利を保護しうる仕組みをつくれるかという観点からの交渉に切り替えるべきではないかとも思っています。
コソボのいたずらな刺激を抑制しつつ、その方向でセルビアをなんとかなだめることができれば・・・、それができないからみんな困っているのですよね・・・。


(セルビアのラザルはセルビアの独立を守るため、1389年にムラト1世率いるオスマン軍とコソヴォで戦ったが大敗を喫しました。以来、セルビアでは「オスマントルコに敗れたコソボの戦い」という歌が600年以上に渡って歌い継がれているそうです。「王国発祥の聖地コソボを奪われた屈辱を忘れるな」という歌だそうです。)

「コソボをセルビア人の北部とアルバニア人の南部に分割する案も浮上しているが、誰が公式に提案するかが問題となっている。」【8月3日 IPS】なんて記事もありましたが、本当でしょうか?

こんな記事もありました。
「1995年のボスニア大虐殺の責任を問われ起訴されているムラジッチ元軍司令官の身柄拘束を条件に、セルビアとの安定化・連合協定(SAA)の交渉を2006年5月に中断していた欧州連合(EU)のオッリ・レーン拡大担当委員が、11月6日、ムラジッチ未逮捕にもかかわらず、協定を仮承認した。これによりセルビアのEU加盟への道が開かれることとなった。」【11月17日 IPS】

上記“ボスニア大虐殺”というのは「スレブレニツァの虐殺」とも呼ばれている事件です。
国連防護部隊(UNPROFOR)は95年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ北東部の街、スレブレニツァに「安全地帯」を設け、ムスリムをそこに避難させていました。
しかし、軽装備の国連部隊(オランダが担当)は武力で勝るセルビア人武装勢力に従う形で、ムスリム8000人をセルビア人側に引渡してしまいました。
引き渡されたムスリムはバスやトラックで連行され、山林などで虐殺されたそうです。
ムラジッチ被告の起訴事実は、この虐殺を指揮・命令したというもので、ジェノサイドの罪、人道に反する罪などに問われています。
(この事件の経緯、その後のオランダでの論議については、“リヒテルズ直子のオランダ通信”というサイトで詳しく説明されています。
http://www.naokonet.com/oranda/tokusyu/tokusyu.htm#ボスニア )

セルビアの“愛国者”にとってはムラジッチは英雄であり、今もセルビア国内に隠れていると言われています。
昨年2月にはベオグラードで、ムラジッチを支持する1万人規模のデモも行われたそうです。
横断幕には「ムラジッチ氏はセルビアの誇りだ」と書かれていました。

虐殺の一部を写したビデオが国内外でTV放映されたこともありました。
「ミロシェビッチ元ユーゴ大統領は、同法廷で、スレブレニッツァ虐殺をめぐってジェノサイド(集団殺害)罪を問われている。だが、セルビア人社会には紛争時代の残虐行為を否定する空気が強く、ボスニアの元セルビア人勢力指導者ムラジッチ被告ら大物戦犯が逃亡を続けられる土壌となっている。」【2005年6月4日 読売】
どこの社会でも自分たちに都合の悪い事実から目を背けたがるもののようです。

ムラジッチ及びセルビアの行為は裁かれるべきですが、引き渡した国連防護部隊の責任も問題になるでしょう。
実際、オランダでは「オランダ軍がふがいなかったせいで8000人近くの犠牲者が出たのか?」という問いかけが長く論じられていました。
上記紹介のサイト“リヒテルズ直子のオランダ通信”によると、オランダ国内の最終的な報告書は、簡単に言えば“現地オランダ軍はあの状況ではどうしようもなかった。それより、そのような現地にろくに調べもせずに軍を派遣し放置した政府の責任が重い”とするものでした。
これを受けオランダのコック首相は内閣総辞職します。

このときの国会での表明の一部です。
「・・・ここではっきり申しあげますが、オランダは、1995年の何千人というボスニアのモスリム人の残忍な殺害に対して責を取ろうとするのではありません。このような事態が起き得た、という状況に対してオランダの政治的な協同責任を明らかにする、ということです。『国際社会』とは匿名的なもので、スレブレニツァの犠牲者とその遺族に対して目に見える形で責任を取ることが出来ません。私にはそれをすることができる、そしてそれをいたします。また、もう一度強調しますが、オランダ軍兵士らは、私が以前にも申しあげた通り、ここで起きたことについては責任を持つものではありません。彼らは非常に困難な状況の中で、大きな使命を持って彼らの仕事をしてきたのです。・・・」

「『国際社会』とは・・・」のくだりは、ちょっと泣かせるものがあります。
国連活動のあり方、それへの派兵の問題について、いろいろ考えさせられる事件です。

話が大きくそれてしまいました。
このムラジッチ問題のために止まっていた交渉が、同問題は変わっていないにもかかわらず、セルビアのEU加盟に門戸を開く方向で動き出したというのは、今後へ向けてのセルビア懐柔策か何かでしょうか?


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バングラデシュ  サイクロ... | トップ | アラブ・アジア諸国  「原... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際情勢」カテゴリの最新記事