孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

イラン  チャドル、ラグビーそして一時婚

2007-11-16 17:12:09 | 世相

(これはかなりきちんとしたチャドルでしょう。 “flickr”より By farshad5475 )


最初はトルコから、またスカーフの話。
これまでも取り上げてきたように、トルコは建国以来徹底した政教分離を国是としており、学校など公の場でのスカーフ着用を禁じています。
http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070901など)
この“スカーフ”は政教分離を重視する世俗主義の象徴でもあります。
しかし、今年7月の総選挙でイスラム主義政党である公正発展党が勝利し、同党所属のギュル元外相が大統領に就任するという情勢で、若干これまでと異なる流れが出てきているようです。
公正発展党は総選挙では“公的な場でのスカーフ着用解禁”は公約からはずし、世俗主義を堅持する姿勢を見せましたが、“そうは言うものの・・・”というところもあるようです。

エルドアン首相は9月19日付の英紙のインタビューで、イスラム教の象徴とされる女性のスカーフ着用について、大学での禁止措置を「撤廃すべきだ」との考えを示しました。
制定作業が進む新憲法案には、スカーフ着用を認める「個人の自由」が盛り込まれる可能性があるとも報じられています。【9月20日 読売】

そんななかで、イスタンブールに開校した米国系の私立大学が、イスラム教徒の女性に学内でのスカーフ着用を認め、論議を呼んでいるそうです。
同校は「米国の大学」であるため、政府の高等教育審議会の規則に準じる必要がありません。
スカーフ着用にこだわる女子学生の中には、費用のかかる外国留学を選択する人も少なくなく、信仰深く保守的な女子学生からは留学の必要がない同校に対し歓迎の声が上がっているそうです。
しかし、「イスラム化」を懸念する世俗主義の一部は同校の方針を問題視し始め、またこの「世俗対宗教」という“スカーフ”論議が再燃するかも・・・とのことです。【11月15日 毎日】
なお、女子学生の約1割がスカーフを着用しているそうです。

イスラム女性の服装つながりで、次はイラン映画「チャドルと生きて」の話。
イランのジャファル・パナヒ監督の作品で、2000年ヴェネティア国際映画祭グランプリ賞他、様々な賞を受賞した映画です。
イランが遠心分離機3000台を設置し終えたとか、IAEA報告書を受けて制裁をどうするかとか・・・そういった話よりも、イランの人がどんな服を着て、何を食べて、どんな家に住んで、どんなことを悩んでいるのか・・・そういったことのほうがイランという国を多少なりとも理解する上で役に立つのでは、政治的なニュースから得られるイランのイメージと国内の人々の暮らしぶりにはギャップがあるのでは・・・そんな思いからこの映画を取り寄せてみました。

チャドルはイスラムの女性が外出のときに着用する頭から体まですっぽり覆う布です。
いろんなタイプがあると思いますが、映画の中で登場人物が使用していたのは、黒っぽい風呂敷を大きくしたようなただの布切れです。


(映画「チャドルと生きて」のワンカット)

スカーフの上から更にこのチャドルを被ります。
映画の中では、病院に勤める友人に会うため建物に入ろうとすると、受付女性から「チャドルがないと入れない」と断られて、スカーフだけの女性が「知らなかった。急いでいて持ってくるのを忘れた。」と困るシーンなどがあります。
「チャドルと生きて」というのは日本でつけたタイトルで原題は「The Circle(円)」です。
こういう日本語タイトルにしたのは、映画が描いているイランの女性を取り巻く制約を“チャドル”に見立てたのでしょう。
(チャドルについては、当の女性たちから「下に何を着ていてもわからないという意味で気楽でいい」という声もあるそうで、かつての王政時代にチャドルが禁止されたとき、一番反対したのは貧困層の女性だったそうです。)

原題の「The Circle(円)」は直接的にはこの映画の構成を表しています。
病院の分娩室で赤ちゃんが産まれる。明るい病室の白いドアの小窓から覗く妊婦の母親は、生まれた子供が女の子と聞いて「検査では男だったはずなのに。女の子では夫の家から離縁されてしまう。」と途方にくれます。
この“望まれない”女児の出産から、登場人物がかかわったり、あるいは同じ場所に居合わせたりした別の女性に話は次々にバトンが渡されていきます。

刑務所から仮出獄してきたらしい女性。故郷に帰ろうと恋人か家族の男性にシャツを土産に買う。身分証明書を見せるか同伴者がいないとバスのチケットも買えない。なんとかウソをついて手に入れるが、警察の検問に怯え結局バスに乗れない。
獄中で知り合った男性の子供を妊娠している女性。その男はすでに処刑されており、なんとか子供をおろそう脱獄までするが、実の兄たちから逃げるように家からも飛び出す。夫もいない父親の同伴もない彼女をどこの病院も相手にしない。
刑務所時代の友人で今は医師と結婚して病院勤めの女性を頼るが、自分の過去を隠しているその女性はひたすら夫にばれるのを恐れるだけ。
女ひとり、身分証明書もないとホテルにもとまれない。困って歩く街角で知り合う自分の子供を置き去りにして逃げようとする女性。「施設に入れられたほうがあの子にとっては幸せ・・・」と置き去りにしたあと、売春のおとり捜査にひっかかる。「こういうことは初めてなの。見逃して・・・」
別の売春捜査で拘束された、すべてを見透かしたような、半ば開き直ったような売春婦。

登場する女性はすべて身の置き所もなく困り果てた女性達ばかり、その厳しい境遇の連環を画面はたどります。
どうしてそうなったのか、これからどうするのかといった説明はありません。
一方で、男性はと言うと、おなかの子供の処置に悩む女に命じて自分の不倫相手の女性を電話口に呼びだす警察官、売春婦を拾ったことがばれて警官を拝み倒して目こぼししてもらうタクシー運転手・・・自分たちに都合のいい人生を生きています。

最後、売春婦が連れて行かれた真っ暗な拘置所、その闇の中にこれまで登場した女性達がうずくまっています。
警官に呼ばれた女性の名前は、映画冒頭の出産シーンの女性の名か?
暗い部屋の小窓が冷たく閉ざされ全くの闇だけがのこります。

非常に暗い、救いのない映画です。
イラン国内では上映が禁止されているのは当然ですが、テヘランを舞台にしたこのような映画が撮影できたことすら驚きです。
2000年というハタミ大統領の頃で、規制は一番緩かった時代ではありますが。

パナヒ監督の最新作「オフサイド・ガールズ」が今公開されています。
イランでは男性のスポーツ試合を女性が観戦することは禁じられています。
でも「私たちだって、サッカーの試合がスタジアムで観たい」という女の子達が男装してスタジアムに潜り込み引き起こす騒動・・・というコミカルなタッチの映画ですが、島では上映されないので、レンタルDVDでも出る頃にならないと目にできないでしょう。

イランで全ての女性が抑圧されているという訳ではもちろんありません。
映画「オフサイド・ガールズ」の向こうを張るような“オンサイド・ガールズ”とでも言うべき女性たちの活躍を伝えるニュースもあります。
女子ラグビーに熱中する女性を紹介した記事です。



*********
イスラム教国のイランでは、激しいスポーツの類に入るラグビーと女性は理想的な組み合わせとは言えないかも知れないが、公的機関の勧めもあり、女性たちは熱心に取り組んでいる。
イランの女性は頭と体を布で覆わなければならないが、ラグビーフィールドでも例外ではない。女性たちは「マグナエ」と呼ばれる頭、首、肩をすっぽり覆う布をかぶり、長袖の濃い色のTシャツ、ぶかぶかのベストとジャージーといういでたちでフィールドを突進する。
ラグビーのようなスポーツのためにデザインされたユニホームとはとても言い難いが、「パス!」「タックル!」などと男子選手顔負けに叫びながらフィールドを駆けめぐり、ほかのどこでも味わうことのできない方法で汗を流せるため、選手たちは気にしていないようだ。
イランの女性は、自らを中東では最も自由を享受していると考えているが、依然として仕事や趣味を、出産、料理、掃除など昔から期待されている役割と両立させざるを得ない。
女性の競技スポーツが厳しく抑制された1979年のイラン革命当時には、女性がラグビーのような激しいスポーツをすることは想像すらできなかった。世界的競争力をつけるにはまだ道のりは遠いが、状況は変りつつある。
【11月7日 AFP】
**********

イランやイスラム世界の女性の権利に問題があるという指摘に、「女性を守ってあげるための保護主義の表れであり、女性をないがしろにしているわけではない・・・」という言い方がときどきされます。
やはりこれは詭弁でしょう。
男性が望む“貞淑な妻、良き母親”の道から一旦はずれた女性には、過酷な人生が待ち受けています。
もちろん日本もまだまだ男性社会ですから女性がひとり生きていくことは大変ですが、イランではバスにも乗れない、ホテルにも泊まれないというように、街角で立ち尽くしてしまいます。

仮に“良妻賢母”として生きようとしても、男性中心の社会における家庭内でどのような現実がおきるかは殆ど想像力を必要としないところです。
イランに限らず、中国・インドなど女性の権利が十分でない国々では多くの女性が家庭内暴力等に苦しんでいます。

イランには“シーゲ”(一時婚、臨時婚)と呼ばれる制度があるそうです。
聖職者にコーランを読んでもらう、あるいは、男女二入だけでコーランの一節を読むだけでも“臨時の婚姻関係”が男女間に成立するという仕組み(金銭的関係がある場合でも)で、その期間は一夜でも百年でもいいそうです。
http://www.tkfd.or.jp/blog/sasaki/2007/06/no_15.html(中東TODAY 佐々木良昭 日時: 2007年06月03日)
上記サイトに、従来から黙認されていたこのシーゲをイラン内相が正式に認めたという記事があります。

このサイトの説明によると、正式な結婚との差異は、遺産の相続権が臨時婚の相手の女性には発生しないことと、男性側の家族の承認を必要としないという点だそうです。
イスラム法では4人までの妻帯を許されていますが、臨時婚の場合には、男性は何人とでも結婚ができるということになるそうです。
認めた理由は貧困女性の生活保護と、男女の性的満足を満たす(若者の暴発を抑制する)ということだそうです。
「臨時婚を認めるということは、悪い表現をすれば売春の合法化であり、よく言えば貧困者、寡婦などの救済、性道徳の乱れを抑えるということであろう。」と佐々木氏は述べています。
なんとも男性に都合のいい制度ですが、このシーゲの問題は生まれる子供が男性から認知を受けられず放置されることです。
表向きストイックな宗教社会の裏には、これを支える現実があり、それはどこまでも男性中心の仕組み・・・といったところのようです。
イランの売春・麻薬・シーゲ・DVを描いたカナダのTV番組を録画した、こんな動画もありました。
http://governmentdirt.com/prostitution_behind_the_veil_in_iran_cbc_passionate_eye

長くなりましたが、最後に、三井昌志さんという方の旅行記・写真サイトにこんな一節がありました。
バスでイランからトルコへ国境を越えるときの様子です。

* ***チャドルを脱ぐ女達*****
バスに乗り合わせていた女達の表情も、イラン側にいる時とトルコ側にいる時では違っていた。イラン側では女性は皆、黒チャドルで全身を覆わなければいけない。しかし国境を越えてトルコに入るとその義務はなくなるから、そそくさと脱いでしまう。そして、用意していた明るい色のスカーフに着替える。スカーフの色が変わると、女達の表情も明るくなる。重い荷物を降ろしたときのように、ほっと顔が和む。少なくとも僕の目にはそんな風に見えた。中には煙草を吸い始める女性もいる。人前で煙草を吸う女性の姿は、イランでは一度も見かけたことがなかった。
チャドルを脱ぎ、人目を憚ることなく煙草を吸う。そんなささやかな自由を手に入れただけでも、人の表情は変わるものなのだ。
http://www.tabisora.com/travel/081.html




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