(陽気なミッキーマウス・・・ではありません。7日、グルジアの首都トリビシで、野党の抗議デモに催涙ガス、ゴム弾、放水で対抗する治安部隊 “flickr”より By criscoconnection)
パキスタンでも非常事態宣言が出されていますが、グルジアの首都トビリシで野党勢力のデモ隊と治安部隊の衝突が激化し、サーカシビリ大統領は7日夕、全土に15日間の非常事態を宣言しました。
今月2日以来、議会選挙の前倒し実施と大統領退任を求める野党勢力が6日間にわたって集会を続けていました。7日には、治安部隊が約3千人のデモ隊参加者に対し警棒で殴ったり、催涙ガスや放水で対抗。
589人が手当てを受け、20人が今も入院中という混乱が発生していました。
親欧米路線をとるサーカシビリ大統領は民主主義と自由経済市場を実現したとして国際的には高い評価をする向きもありますが、野党側は、国内では政権の強硬姿勢や反政府に対する追及、司法権の侵害、格差拡大などの問題が噴出していると主張しています。与野党ともに親欧米路線を採ることでは一致しているとか。【11月4日 AFP】
ただ、野党側からは対ロシア外交の失敗や、欧米との癒着を非難する声も上がっており、ロシアの制裁などで経済が好転しないことへの国民の不満も背景にあるとみられています。
「非常事態宣言下では集会やデモ、情報の収集や発信などが制限される。国営テレビ以外の放送は禁止される」との措置で、野党系と見られる独立系テレビ「イメディ」は7日夜、「局内に特殊部隊が突入した」と伝えた直後放送を停止しました。
特殊部隊員は同局職員の頭に銃を突きつけて、床に腹ばいにさせ、機材や携帯電話を破壊したそうです。【11月8日 毎日】
“非常事態宣言”という言葉だけからは伝わらない、権力による国民への剥き出しの暴力の怖さを感じます。
サーカシビリ政権は、ロシアがデモ隊を扇動していると主張し、ロシア外交官3人の国外退去処分を決定。
ロシアは「無責任な挑発だ」、「国内問題から国民の目をそらすために外国に責任を転嫁している」として激しく反発しています。
サーカシビリ大統領は8日、来年後半予定の大統領選挙を前倒し1月5日に実施し、非常事態を早期に解除すると国営テレビを通じて発表しました。
「選挙の早期実施がお望みなのだから、早くやろうではないか」と野党勢力に対するからかいを込めて語ったそうです。【11月9日 AFP】
グルジアという国は馴染みが薄い国で、旧ソ連からの独立国ということと、大相撲力士“黒海”の出身地というぐらいしか知りませんでした。
今年8月に、このブログ(8月12日 http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20070812)でも取り上げたように、「ロシア軍機が領空侵犯してミサイルを投下した」とグルジアが主張する件で、グルジア・ロシア関係が緊張したことがあります。
北海道より少し小さいぐらいのグルジアは黒海に面し、カフカス山脈でロシアに接しています。
スターリンの出身地でもあります。
国内にはグルジア人以外に、オセチア人、アブハジア人が居住しており、それぞれグルジア中央政府からの分離独立を主張(国際的には未承認)して、独自の支配地域(南オセチア自治州(自称“南オセチア共和国”)、アブハジア自治共和国)を形成、ロシアを後ろ盾にしてグルジア中央政府と対峙しています。
これまでに“民族浄化”や難民の悲劇も起きています。
更に、ロシアのチェチェン共和国とも国境を接している関係で、チェチェンゲリラが事実上支配している地域もあるようです。
以前はアジャリア自治共和国という分離独立勢力もありましたが、これは2004年にグルジア中央政府が押さえ込みました。
さして大きくもない国内に、このようなロシアと親しい分離独立勢力を多く抱えている複雑な状況にあります。
力士“黒海”もアブハジアに住んでいたグルジア人で、紛争の激化により、12歳のとき弟と飛行機で故郷を脱出。ご両親は後日徒歩でカフカス山脈に連なる山々を越えて脱出されたそうです。
(“Levan Tsaguria ” http://www.music-tel.com/georgia/kokkai/prof.html より)
サーカシビリ政権は03年のいわゆる非暴力の“バラ革命”で誕生した政権です。
当時の大統領は、旧ソ連のゴルバチョフのもとで外相を努めたシュワルナゼでした。
シュワルナゼは“新思考外交”を推進したことで西側世界からも高い評価を得ていました。
また、ドイツ統一にも多大の貢献したことで、後日“バラ革命”でグルジア大統領を追われるとき、ドイツへの亡命の申し出がドイツ側からあったそうです。
しかしシェワルナゼは、この申し出に感謝しつつも、家族とともに祖国に留まる決意を下したとのこと。【ウィキペディア】
ソ連から分離独立したグルジア大統領に迎えられたシュワルナゼですが、アブハジア紛争の難民問題、ロシアとの関係、経済停滞、汚職の蔓延・・・という状況に落ち込み、国民の不満が高まっていました。
03年11月、議会の総選挙が行われ、与党の勝利が一旦発表されました。
しかし、かつてはシュワルナゼ政権内にもいたことがあるサーカシビリが率いる野党は「選挙に不正が行われた」と強く抗議、(今回の抗議と同じ場所で)集会を開き、議会議場占拠する事態となりました。
シェワルナゼ大統領は国家非常事態を宣言して対決姿勢をみせましたが、結局翌日夜には辞任をみとめるところとなりました。
このとき、野党勢力が非暴力の象徴としてバラの花を掲げたところから“バラ革命”と呼ばれ、その後のウクライナのオレンジ革命、キルギスのチューリップ革命の先駆けとなりました。
その非暴力を掲げて世界の注目を集めたサーカシビリが、今回暴力的に反対勢力を排除し、非常事態宣言を出す事態に立ち入ったことになります。
バラ革命の混乱のとき、ロシアのイワノフの仲介もあったことで、ロシア関係は当初はそれほど険悪ではなかったようですが、基本的に国内に独立を主張する南オセチア共和国やアブハジア自治共和国があり、これらをロシアが支援するという構図のなかで、次第に対ロシア関係は悪化。
また、国内の求心力を高めるために意識的にロシアが後ろ盾となっている反中央政府勢力との対決姿勢を強めたこと、存立基盤を西欧に求めNATOやEUへの加盟を目指したことでロシアとの関係は更に悪化しました。
反発するロシアは、グルジア向けのエネルギー価格の引き上げやグルジアからの輸入制限で対抗、これによって国内経済は疲弊、この不満をそらすため更に民族意識を高揚し反政府勢力にあたる・・・という悪循環で対ロシア関係と国内経済状態の悪化が進行したようです。
それが、8月の“領空侵犯・ミサイル”事件や今回の非難応酬になっている訳ですが、かつてのバラ革命は背後でアメリカ系の組織が暗躍したとの噂もあります。
今回の動きにロシアの影があるとしたら、それまた“歴史は繰り返す”と言うかなんと言うか・・・。
今回サーカシビリ大統領を批判して集まった野党勢力の中核は、大統領との対立から辞任したオクルアシビリ前国防相ら、かつてのバラ革命当時の「同志」だそうです。
“ニュースな史点”(03年2月13日 http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/sitenlog/news031203.html )によると、かつてバラ革命のとき、サーカシビリ大統領はシュワルナゼに「あなたには二つの選択肢がある。(選挙に敗れ素直に退陣した)ド=ゴールになるか、(処刑された)チャウシェスクや(訴追された)ミロシェビッチのような末路を選ぶか」と辞任をせまったそうです。
サーカシビリ大統領は「お望みなんだから、早くやろうじゃないか」と大統領選挙前倒しを請合ったそうですが、何か言動に扇動的で軽いものも感じられます。
来年1月、ド・ゴールはともかく、チャウシェスクにはならないことを祈ります。