孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の「スレブレニツァ大虐殺」に関する、PKO参加のオランダ政府の責任

2013-09-07 22:49:05 | 欧州情勢

(スレブレニツァ近郊ポトチャリの記念墓地で、親類の墓の前で涙を流す虐殺事件の生存者の女性ら(2013年7月11日撮影)【7月12日 AFP】)

未だ癒えない「スレブレニツァ大虐殺」の傷
1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のなかで起きた「スレブレニツァ大虐殺」についてはこれまでもしばしば取り上げてきました。

当時、ユーゴスラビアからの独立をめざすボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人、ボシュニャク人(ムスリム人)、クロアチア人の三つどもえの激しい戦闘が行われており、国連のPKOが行われていました。

「スレブレニツァ大虐殺」の簡単な概略については以下のとおりです。

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国連防護部隊(UNPROFOR)は95年7月、ボスニア・ヘルツェゴビナ北東部の街、スレブレニツァに「安全地帯」を設け、ムスリムをそこに避難させていました。
しかし、軽装備の国連部隊(オランダが担当)は武力で勝るセルビア人武装勢力に従う形で、ムスリム8000人をセルビア人側に引渡してしまいました。

引き渡されたムスリムはバスやトラックで連行され、山林などで虐殺されたそうです。
ムラジッチ被告の起訴事実は、この虐殺を指揮・命令したというもので、ジェノサイドの罪、人道に反する罪などに問われています。
(2007年11月19日ブログ「コソボ 総選挙で急進独立派が第一党 独立へ加速か?」http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20071119 より)
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この事件の傷は、今もなお癒えていません。

****旧ユーゴ・スレブレニツァ虐殺から18年、新生児など409人を新たに埋葬****
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中の1995年に、現在のボスニア東部スレブレニツァでイスラム系の男性と少年およそ8000人がセルビア人武装勢力に殺害されたスレブレニツァ虐殺事件から、11日で18年を迎えた。

スレブレニツァ近郊ポトチャリの記念墓地では、昨年遺骨が発見されたうち新たに身元が判明した409人の犠牲者の埋葬式典が行われ、1万5000人を超える人々が参列して祈りを捧げた。

今回埋葬された犠牲者には、14~18歳の少年44人と女性2人のほか、セルビア人から逃げてきたイスラム系女性がポトチャリの国連軍基地で出産し、直後に死亡した新生児の女児も含まれている。
この女児の遺体は、虐殺で犠牲となった父親の墓の隣に埋葬された。【7月12日 AFP】
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事件を首謀したとされるセルビア人武装勢力のリーダー、ムラジッチ被告は、同被告を民族的英雄とみなす向きも多いセルビア人社会のなかで長く逃亡生活を続け、そのことが、セルビアのEU加盟交渉の足かせともなっていました。

セルビアは、2011年5月に同被告を拘束したことを発表し、同被告は国連旧ユーゴスラビア国際法廷(オランダ・ハーグ)に引き渡されました。

オランダの苦悩
「スレブレニツァ大虐殺」はボスニア・ヘルツェゴビナに深い傷を負わせただけでなく、同事件に関与したオランダにおいても、“セルビア人武装勢力の脅しに屈して、大勢のムスリム人を見殺しにしたのではないか?”という、反省の議論を呼び起こしました。

同事件におけるオランダ軍の対応については、事件後、オランダ国内におけるいくつかの調査報告のほか、国連、オランダ軍からの空軍援助に応えられなかったフランスでも調査報告書がだされています。

この国内外の調査報告、および、報告を受けてオランダ首相が辞任に至った経緯については、、”リヒテルズ直子のオランダ通信”(http://www.naokonet.com/oranda/tokusyu/tokusyu.htm#ボスニア )というサイトで詳しく説明されています。

上記サイトによれば、国連は“1999年11月には、国連もスレブレニツァ事件について報告書を出しており、軽武装のオランダ部隊にはスレブレニツァの陥落を防ぐためにセルビア軍に対抗するだけの軍事力を持たなかったこと、また、国連指揮官がオランダ軍からの空軍援護の要請を再三にわたって拒否したことなどの不備を認めて、オランダ部隊を非難するのではなく、当時の国連自体の不備を認めています。”とのことです。

一方、フランスの国会調査は、“オランダ軍からの空軍援助の要請を認可しなかったことの責を認めつつも、「オランダ軍は安全領を保護するために十分なことをしなかった」と、あたかもフランス軍であったなら、こういう結果にならなかった、といわんばかりでした。”とのことです。

オランダ国内の、オランダ戦争文書研究所(NIOD)の調査報告については、以下のように説明されています。

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NIODは虐殺事件の責任の重点をボスニアのセルビア軍にあるとし、ムラディッチ総督の主犯は紛れもなく、疑いの余地がない、としています。

これまで、ことあるごとにオランダ社会の非難にさらされ、悪いイメージを作られてきたオランダ部隊に関しては、安全領保護を目的として駐留していた軽武装のオランダ軍には、セルビア軍の攻撃に応じる軍事力はなかったし、攻撃は誰にも予想できないもので、国連の対応にこそ不備があったとし、オランダ部隊の兵士らは、長きにわたる罪悪感とオランダ社会の冷たい視線から、少し解放されたかに見えます。

寧ろ、すでに派遣の段階で、この地域が非常に困難な状態であることがわかっていたにもかかわらず、オランダ政府はそれについて十分な検討を行わなかったこと、米軍の情報提供の申し出を拒否するなど、オランダ側の諜報活動にも不備があったこと、また、部隊の派遣から、事件の最中、またその後に渡って、この件を防衛省と外務省に任せっきりで、内閣として十分な対策を講じなかった、その点でコック首相には政権の監督者として不足があったことなど、オランダ政府の、スレブレニツァ事件前後の関与・監督が極めて不十分であったことを、NIOD報告書は手加減なく批判しています。【リヒテルズ直子のオランダ通信】
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このNIOD調査報告を受けてオランダ・コック首相は2002年7月に内閣総辞職しています。
総辞職にあたってのコック首相の表明は以下のとおりです。

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国際社会は、いわゆる安全地帯の人々に対して十分な保護を与えるという点で不備でありました。
これについてオランダ政府もまた国際社会の一員として不十分でありました。

今、導いたこれに対する帰結(総辞職:訳注)はひとつの特殊な出来事、または、ひとつの特殊な瞬間に対するものではありません。そうではなく、複数の政権期に渡って積み重ねられてきたことに対するものです。積年の政策に対する総括的な責任を、この決定によって取る、ということです。、、、、

ここではっきり申しあげますが、オランダは、1995年の何千人というボスニアのモスリム人の残忍な殺害に対して責を取ろうとするのではありません。
このような事態が起き得た、という状況に対してオランダの政治的な協同責任を明らかにする、ということです。

『国際社会』とは匿名的なもので、スレブレニツァの犠牲者とその遺族に対して目に見える形で責任を取ることが出来ません。私にはそれをすることができる、そしてそれをいたします。

また、もう一度強調しますが、オランダ軍兵士らは、私が以前にも申しあげた通り、ここで起きたことについては責任を持つものではありません。彼らは非常に困難な状況の中で、大きな使命を持って彼らの仕事をしてきたのです。、、、」【リヒテルズ直子のオランダ通信】
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国連の任務遂行中でも、部隊を派遣する各国政府の責任が問われる
「スレブレニツァ大虐殺」を巡っては、オランダ政府の責任が裁判でも争われていますが、オランダ・ハーグの最高裁は、オランダ政府の責任を認める判断を下しています。

****ボスニア大虐殺、オランダ政府の責任認定****
オランダ・ハーグの最高裁は6日、1995年にボスニア・ヘルツェゴビナで起きたスレブレニツァ大虐殺に絡み、セルビア人勢力にイスラム教徒3人が殺害された事件の責任を巡る訴訟の上告審で、2011年の控訴審判決を支持し、オランダ政府の責任を認めた。

判決は当時、国連防護軍として駐留していたオランダ軍部隊が、部隊施設に逃げ込んだ3人をセルビア人勢力の要求に屈して避難させず、同勢力に引き渡したと指摘した。

判決はまた、当時のオランダ軍の事実上の指揮権は国連でなく同国政府にあったとした。国連の任務遂行中でも、部隊を派遣する各国政府の責任が問われることを示す判断で、ロイター通信は今後、各国が平和維持活動への参加をためらう可能性があると報じた。【9月7日 読売】
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なお、オランダ軍指揮官の責任については問わないとされています。

****オランダ指揮官の責任問えず=スレブレニツァ虐殺事件****
オランダ検察は7日、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦時の1995年に同国東部スレブレニツァで住民約8000人が虐殺された際、国連平和維持活動(PKO)のため駐留していたオランダ部隊がセルビア人武装勢力から住民を保護できなかった問題で、当時の部隊の指揮官らの刑事責任は問えず、訴追に向けた捜査は行わないと発表した。

直接問題となったのは、虐殺された住民のうち3人の保護。オランダ・ハーグの高裁は2011年7月、同国部隊はこの3人がセルビア人勢力に殺害される可能性を予見できたのに保護しなかったとして、オランダ政府の責任を認める判決を下した。ただ検察は「刑事責任を問えるかどうかは本質的に問題が異なる」としている。【3月8日 時事】 
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日本もこれまで多くのPKOに参加してきましたし、今後も“国際貢献”というよりは、政情が穏やかでない地域における人道的保護の見地から、PKO参加に至るケースが多々発生すると思われますが、参加する以上は相応の覚悟が求められます。

今年3月、アフリカ中部のコンゴ(旧ザイール)に展開中の平和維持活動(PKO)部隊「国連コンゴ安定化派遣団(MONUSCO)」に、反政府武装勢力の無力化や武装解除を任務とする強制力を持った戦闘部隊「介入旅団」を組み込むこと(いわゆる“平和強制部隊”)が認められたように、戦闘に遭遇、あるいは巻き込まれる可能性も今後ますます高くなると思われます。

ルワンダ内戦当時反政府勢力を率い、現在ルワンダ大統領の席にあるカガメ大統領は、目の前で虐殺が行われているときに動かなかった国連PKOのUNAMIR司令官ダレール将軍について、
「人間的には尊敬しているが、かぶっているヘルメットには敬意を持たない。UNAMIRは武装してここにいた。装甲車や戦車やありとあらゆる武器があった。その目の前で、人が殺されていた。私だったら、絶対にそんなことは許さない。そうした状況下では、わたしはどちらの側につくかを決める。たとえ、国連の指揮下にあったとしてもだ。わたしは人を守る側につく。」と語っています。
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