先の書の252頁の訳文を次に記す。
表
「辛亥年七月中記す、私こと乎獲居臣おわけのおみの上祖の名は意富比垝 おおひこ であり、その児の名はカタリノ宿禰、その児の名はテカヨリ別、その児の名はタカハシ別、その児の名はタサキ別、その児の名はハヒテ」
裏
「その児の名はカサハヨ、その児の名はオワケノ臣。世世杖刀人の頭となり、勤め奉り今日に至る。ワカタケル大王の寺、磯城の宮にあるとき、我天下を左治し、ここに此の百錬の太刀をつくらしめ、太刀を奉ったいわれを記すなり」
八代の系図が刻まれ、乎獲居臣の父祖とは第九代・開化天皇の実兄、第八代・孝元天皇の長男、意富比垝(大彦)だった。開化、孝元天皇の実在が明らかになると同時に、日本書記の正しさがまた一つ証明されたことになる。
この概略の意味は、次の通り。
稲荷山鉄剣「オオヒコ」の衝撃!【1】
2017.08.9 皇族
オオヒコの子孫のオワケノオミの一族は、先祖代々、杖や刀を製作管理する、
職業集団のリーダーとなってお仕えし、今日にいたっております。
第21代雄略天皇のワカタケル大王(おおきみ)が、磯城の宮に居られる時、
私は天下のまつりごとをお助けしました。
何度も鍛え丹精こめて製作した刀を造らせて、我が家の輝かしい由緒を記した次第です。
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『私ことオワケノ臣は、第八代孝元天皇の長男の意富比垝(大彦)の末裔である。第九代開化天皇は、その意富比垝(大彦)の弟である。我々一族は先祖代々、杖や刀を製作管理する、職業集団のリーダーとなってお仕えし、今日にいたっております。
第21代雄略天皇のワカタケル大王(おおきみ)が、磯城の宮に居られる時、私は天下のまつりごとをお助けしました。
何度も鍛え丹精こめて製作した刀を造らせて、我が家の輝かしい由緒を記した次第です。』
と言ったところが、その言わんとするところの解釈なのである。
第八代孝元天皇--長男・意富比垝(大彦)--カタリノ宿禰--テカヨリ別--タカハシ別--タサキ別--ハヒテ--カサハヨ--乎獲居臣おわけのおみ(私)
と言う系図をこの鉄剣は示しているわけで、当然のことではあるが、第八代孝元天皇の実在を証明していることになり、意富比垝(大彦)の存在が証明されたことは、その父親が孝元天皇であることから孝元天皇の存在も実証されたことになり、同時に意富比垝(大彦)の弟は第九代の開化天皇と言うことに繋がり、闕史ではなくなることの証明となろう。
ちなみに稲荷山鉄剣の銘文の「辛亥年」は471年で、雄略天皇の御代(458~480年)にこの鉄剣は作られたことになる。
さて先の書255頁は、纏向遺跡のことを述べている。纏向遺跡は、垂仁天皇(AD242~AD290)の御代に作られたと言う。日本書紀の次の一文があるからだ。
日本書紀巻第六
活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇
いくめいりびこいさちのすめらみこと
二年冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也。
「二年冬十月さらに纏向に都をつくり珠城タマキ宮といった」
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_06.html
垂仁天皇(AD242~AD290)の跡を継いだ第三子の景行天皇(291~320年)も、纏向日代宮(ひしろのみや)で治天下(あめのしたしろしめ)したのである。
時代は、神武天皇から数えて第十一代目であられる垂仁天皇(AD242~AD290)の時代となっている。決して邪馬台国に関係のある国ではない。邪馬台国はあくまでも九州北部に存在した倭国連合である。
(続く)