世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(96)

2011-06-20 15:19:33 | Weblog

1905/5/27,18:00過ぎ、日没が迫り視界が狭まった。「日露戦争5」(児島襄)は次のように述べている。

この時刻には、戦闘はだれ気味になっていた。
連合艦隊は、戦艦「オスラビア」のほか仮装巡洋艦「ウラル」と運送船「ルス」を撃沈し、旗艦「スウォーロフ」及び工作艦「カムチャッカ」を大破した。また他の艦船にも損害をあたえ、仮装巡洋艦「佐渡丸」「満州丸」は、それぞれ病院船「アリョール」「カストローマ」を捕えて、対馬に連行中であった。


連合艦隊にも、それなりに砲弾を受け被害を受けていた。修理のため戦列を離れるもの、やむを得ず基地に帰還するものなどが出ているが、日本艦隊の戦意は衰えていない。そしてロジェストヴェンスキーは、ウラジオストクへの行くことを命じ、その指揮権を第三戦隊司令官のネボガトフ少将に譲っている。

バルチック艦隊は、北から東郷の第1戦隊に、南からは村上の第2戦隊に挟撃されている。
18:33、東郷の第1戦隊の攻撃を受け、戦艦「ボロジノ」の被害が増大する。

19:00、「戦艦アレクサンドル三世」が沈没する。工作船「カムチャッカ」沈没。乗組員合計64人が山口県の見島、と越ケ浜に漂着している。
19:13、距離が離れたので「三笠」は砲撃を中止する。
19:23戦艦「ボロジノ」沈没。
19:27、戦艦「スウォーロフ」は、水雷艇の攻撃により、ようやく沈没する。

19:55、9時間ぶりの夕食、そして全艦に鬱陵島への集合を命ずる。三笠の被弾数は32発、他の第1、2戦隊の艦船は平均8発、死者73人、負傷者313人と記載されている。まずは日本側の「大勝」である、と述べている。鬱陵島は朝鮮半島中央部・日本海側の沖合いの島であり、バルチック艦隊の浦塩行きをここで待ち伏せして、全滅させるつもりなのである。そのためにも、連合艦隊は夜も眠らない。駆逐艦21隻、水雷艇36隻による夜戦を指示する。

駆逐艦は300tレベル、水雷艇は100tレベルの小艦艇であり、船体が折れんばかりの荒れた海での航行には相当苦労している。そして闇夜の中で攻撃中の水雷艇同士が衝突して、3艇が沈没している。雷撃攻撃は敵艦に肉薄攻撃し、脇目も振らずに退避しなければならないので、戦果は不明だ。しかし後ほど判明した戦果は大きかった。

23:50頃、戦艦「ナワリン」沈没。
5/28,02:30頃、戦艦「シソイ・ウェリーキー」大破。日本海軍の秘密兵器「連繋水雷」による爆発である。ロープの両端に機雷を結んだものを引っ掛けたのである。
その他、巡洋艦「ナヒーモフ」と「モノマーフ」も魚雷を受けて航行の自由を失っている。

この夜襲は、「戦艦一隻撃沈、戦艦一隻及び巡洋艦2隻大破」と言う大戦果を挙げていたのであった。

この段階(5/27の昼から夜)で、バルチック艦隊の戦艦8隻中、5隻が沈没、1隻が大破している。
6月16日のNO.94で述べたバルチック艦隊の主力12隻中、残っているのはたったの5隻であった。即ち戦艦「アリョール」とネホガトフ少将が率いてきた第3艦隊の旧式の4隻のみであった。

(続く)
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