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大山加奈選手、岩隈久志選手、ライコネン選手、浅田真央選手、阪神タイガース他好きなものがいっぱい。幸せ気分を発信したいな

一星へようこそ ―夜―

2011-04-23 19:32:16 | 一星


 おばあちゃんが入院して、そろそろ1週間になる。週末に一度皆で見舞いに行こうということになった。
金曜の夜の特急で出かければ、午後10時頃におばあちゃんの家に着く。晩ご飯は、特急の中で駅弁を食べた。おばあちゃんちに行く時は、いつも、少しデラックスなものを選んでもいいことになっている。今回は、「幕の内風釜飯弁当」にした。お弁当箱の中央にお釜を模した容器を据え、中に釜飯が入っている。その周囲をおかずが囲んでいるというものだ。
特急から各駅停車に乗り換え、さらに支線の終点近くまで行くと、おばあちゃんちの最寄り駅に着く。最寄り駅といっても、徒歩ではとても行けない。この時間だとタクシーに乗るしかなかった。「○○町の柴原」と言えばタクシーの運転手さんもわかってくれるド田舎だ。子供の頃、タクシーはこんな風に相手の家の名前を言って乗るものだと思っていて、友達に笑われたことがある。
タクシーを降りると、段々畑の横の石段と坂道を上って、ようやくおばあちゃんちの垣根にたどり着く。道路から離れると照明もなくなるので、足下が危うい。都会とは明らかに違う夜の暗さが、わたしはいつも恐かった。目を上げると、木や山が黒々としたシルエットになって、どんなに星がたくさん出ていても不気味だった。

久しぶりに田舎の夜の中に立って、わたしはこのあいだ図書室で読んだ絵本を思い出した。お母さんがイラストを描く仕事をしているからか、絵本を見るとつい手にとってしまう。それは、『原始の夜』という絵本だった。
原始時代の人間にとって、夜は大変恐ろしいものだった。暗闇の中で周囲のものが見えなくなるし、夜行性の獣も徘徊する。人間が何とかやっていけたのは、火があったからだ。火を焚いていれば、恐い獣も近づいてこない。人間は、火の周りに寄り添って、早く暗く恐ろしい夜が明けて朝がきてほしいと待ちわびた。
やがて、人間は電気を発明した。電気は煌々と闇を払い、もはや人間は夜を恐れなくなった。その頁には、とてもきれいな夜景の絵が描いてあった。宝石をぶちまけたようなイルミネーション
最後の頁は、真っ黒に塗りつぶされていた。そこには白抜きで、こんな文章が書いてあった。

『でも 夜は何も変わってはいません。/夜は 原始のころと同じ姿でそこにあるのです。/変わらぬ暗さと深さでもって 日が沈むたびにやってくるのです。』

おばあちゃんとこの夜は、原始の夜のままに見える。わたしはたき火を囲んで朝を待っていた原始時代の人間になったような心細さを感じた。
電気のある時代に生まれてよかった。都会の子でよかった。そう思いながら、玄関をくぐった。あの真っ黒い頁が背後の闇に重なった。

おばあちゃんの家に着くと、いつもおばさんがハーブティーを出してくれる。特別な甘味料が入っているのかと思うほど、甘くまろやかだ
カップは、お母さんがデザインしたものだ。お母さんは以前、雑誌の連載エッセイの挿絵を描いていたことがある。お母さんは、文章の内容とは関係ないカップやお皿の絵ばかり描いていた。でも、読者には好評だったらしく、イラストの食器を実際に製作・販売する企画が持ち上がった。最初のシリーズができあがった時、お母さんは、おばあちゃんちにカップとソーサーの5客セットをプレゼントしたのだ。このあたりの人は、「清明の嫁がつくった茶碗らしい」と端折って理解しているようだけど。
「お風呂は沸いてるから、よかったら入ってね」
と言って、おばさんはさっさと寝てしまった。おばさんのこういうマイペースなところが、わたしは好きだ。
おばあちゃんちのお風呂に入る時、わたしは服を脱ぐ前に 必ず中を一通り見回す。時々、壁にゴキブリ大の胴体を持つクモが張りついていたりするからだ
子供の頃は、お風呂もトイレも母屋とは別の場所にあった。暗い庭をつっきり、牛小屋(おじいちゃんが元気な頃は牛を飼っていたのだ)の前を通ってトイレに行くのが、わたしはたまらなく憂鬱だった。足下もさだかではない暗闇の中に、牛小屋の匂いが漂ってくる。トイレに入ると、都会よりワンサイズ大きなハエや蚊が飛んでいて、すぐにでも家に帰りたくなった
映画やドラマでは、よく、都会の生活に疲れた人が田舎に住み着くという話があるが、あんなのはまやかしではないかと思う。都会の生活に慣れた人間に、田舎の自然は猛々しすぎる。どんなにゴミゴミしていても、人がぎすぎすセカセカしていても、わたしは都会でしか暮らせないと思う。
そういえば、おばさんは東京からお嫁に来たと聞いた。おばさんは、わたしみたいなことを感じなかったんだろうか。

「思ったわよ」
おばさんは言う。明日は家に帰るという夜、わたしはおばさんと二人でハーブティーを飲んでいた。おばあちゃんは思ったより元気そうで、わたしたちの顔を見て、とても喜んでくれた。
「もう絶対、東京に帰ろうと思った。毎日逃げ出す機会をうかがってたわ」
なかなかきっかけをつかめず数ヶ月が過ぎた頃、東京に住むいとこが結婚するという知らせが届いた。おばさんも招待されていたので、「チャンス」と思ったそうだ。二度と帰ってこないつもりで、お気に入りの服は全部ボストンに詰めた。わくわくしながら東京行きの新幹線に乗った
東京駅に降りて、おばさんはびっくりした。空気の汚れが気になる。空中に漂う黒い粒子が見えるようだった。どんなに新しいビルも、この粒子にすすけて見えた。実家のお母さんの手料理は懐かしい味だったが、素材がよろしくない。田舎の野菜を使ったら何倍もおいしくなるのにと、悔しくなったそうだ。
「何より、お水がおいしくないの。このハーブティーが苦く感じるのよ」
結局、おばさんは田舎に戻ってしまった。ばかみたいに重いボストンを持って
最寄り駅に着くと、おじさんが改札のところに立っていた。おばさんが出かける時の挨拶が今生の別れみたいだったので、事故に遭う予兆ではないかと心配になり、迎えに来たのだそうだ。おじさんもなかなかいいところがある。
「何で帰ってきちゃったんだろうって思うこともあるど、わたしはいつのまにか、こっちの水になじんじゃってたのね」
おばさんの話は多分、ハッピーエンドなのだろう。でも、わたしなら、やはり逃げ出すと思う。
「どんなにお水がおいしくても、わたしはここの夜が恐い」
夜だけじゃない。大きな虫が恐い。舗装していない道が恐い。文明にくるまれて、わたしはものすごくひ弱な生き物になってしまったのかもしれない。
「でも、自然は本来恐いものなんじゃないかしら。長年、ここで暮らしているうちに、そう思うようになったわ。おばあちゃんも、昔の人はもっと自然を恐れていたって言ってたわ」
おばあちゃんちの裏手の山には、小さな祠がある。昔は、皆、ひっきりなしにおまいりしていたそうだ。そういえば、わたしも小さい頃、おばあちゃんに連れられておまいりしたことがある。苦労して山道を登ったのに、何もお願いごとはできず、「いつもお守り下さってありがとうございます」とお礼を言うだけだった。つまらない神様だと思った
―「何事もない」っていうのは、「いいことが起きない」んじゃなくて、「悪いことから守られている」んだよ。
おばあちゃんは言った。言葉の意味はわかったが、いまひとつぴんとこなかった。
「清葉ちゃんの年じゃ、わからなくて当然ね」
と、おばさんは笑った。
「何でもない日常が愛おしいなんて思うようになったのは、わたしも…そうね、四十を過ぎてからかしら」
翌朝、もう一度おばあちゃんの病院へ行き、その近くのお店でおばさん達とお昼を食べた。わたしたちはその足で帰途についた。

特急を降りると、もう夜になっていた。都会の夜は明るく電気に照らされ、通りの向こうまできれいに見渡せた。
この電気が全て消えてしまったら、そこには原始の夜が残るのだろうか。わたしはふと思ったが、その先は想像できなかった。
うちに着くと、大急ぎでお風呂をわかして、順番に入った。いつものうちのお風呂。わたしのタオル。使い慣れたシャンプーや石けん。やっぱり、ほっとする
おばさんが言っていた、「何でもない日常が愛おしい」というのはこういうことかもしれない。
おばあちゃんが早く元気になってうちへ帰れますように。早くいつも通りの生活に戻れますように。湯船の中で、わたしは祈った