BE HAPPY!

大山加奈選手、岩隈久志選手、ライコネン選手、浅田真央選手、阪神タイガース他好きなものがいっぱい。幸せ気分を発信したいな

アウェイの中心で愛を叫ぶ

2015-01-26 22:01:23 | おはなし


 (このおはなしはフィクションです。実在の個人や団体には一切関係ありません)

わたしがダンサーになりたいと思ったのは16歳の時だった。
ダンサー志望の友人に誘われて公演を見に行き、ミイラ取りがミイラになってしまったのだ。
ダンススクールに通いたいと言うと、両親は猛反対した。「ばかばかしい」「才能もないくせに」「くだらないことを考えている暇があったら勉強しなさい」
そんな声すら、二階で勉強しているであろうお兄ちゃんの邪魔にならないよう、ひそめがちになるのがわが家だった。

お兄ちゃんはわが家の王様だった。長男でできがいいと、日本の家庭では往々にしてそうなる。全ての優先順位はお兄ちゃんが一番で、妹のわたしはほとんど顧みられなかった。
わたしが38℃の熱を出して寝ていた時も、かけられた言葉は、「お兄ちゃんにうつさないようにね」だった。
それなら、やりたいことぐらい好きにやらせてくれればいいのに。
わたしは件の友人と一緒にアルバイトをしてレッスン代をつくり、スクールに通った。
ある日、ロッカールームで着替えようとして、わたしは呆然とした。レオタードがめちゃめちゃに切り裂かれている。やったのはお兄ちゃんだとすぐわかった。お兄ちゃんは時々わたしの部屋へ物を借りに来るが、一度レオタードを干してあるのを見られたことがあったのだ。
両親に内緒でスクールに通っているので、わたしは誰にも訴えられなかった。本人に直接抗議すると、空とぼけられた上に、「おまえ、親に隠れてそんなことやってたの。黙っててやるから、金貸してよ」と、口止め料までまきあげられた。お兄ちゃんには、こういう陰湿なところがある。学校でも、弱みを握った級友を何人か便利屋にしているらしかった。
お兄ちゃんが神戸の大学に合格して、学校の近くで一人暮らしをすることになった時は、本当に嬉しかった。これでもう、陰でいじめられなくなる。
だが、お兄ちゃんは置き土産のように、両親にわたしがダンスを習っていることを告げ口していった。おかげで、わたしは両親と大喧嘩するハメになった。
両親は、ダンスなんて不良かはみだし者がやることだと思っているようだった。大事な夢をそんな風に言われて悲しかったが、何より我慢できなかったのは、「お兄ちゃんはあんなに賢いのに、どうしておまえはそんなに愚かなんだ」と比べられたことだ。わたしはカッとなって、お兄ちゃんは大人の前ではいい子ぶっているけれど、実は底意地が悪くてずるい人間であることをぶちまけた。両親はわたしの言うことなど、てんで信じてくれなかった。それどころか、「あんないいお兄ちゃんを中傷するなんて、おまえは何て情けない人間なんだ」と嘆かれた。
この家は、わたしにとって完全アウェイだと思い知った瞬間だった。
わたしは高校を卒業すると同時に家を飛び出した。

それからの道のりは、もちろん平坦なものではなかった。
両親とはまるきり縁が切れてしまったわけではなかったが、経済的にも精神的にもサポートを受けることはなかった。「親戚には派遣で働いてるって言ってあるから、間違ってもダンスをやってるなんて言わないでちょうだいね」と口止めされた時は、それほど世間に顔向けできないようなことをしているのだろうかと不思議になった。
一方、お兄ちゃんは、親の金でぬくぬくと大学生活を謳歌していた。就職は、誰もが知っているような大手企業に内定を貰った。なんのかんの言っても、日本の会社は高学歴男子に弱いようだ。
その会社を一年でやめて、母校の大学院に進みたいと言い出した時は、さすがに両親も戸惑ったようだった。博士号をとりたいといえば聞こえはいいが、要は仕事が続かなかったのだ。
会社を辞めたのは本人にしかわからない事情もあるだろうからどうこう言うつもりはなかったが、一年でも社会人として働いたのなら院に行くお金ぐらい自分で何とかすればいいのに、お兄ちゃんは相変わらず親がかりだった。学費も、神戸のマンションの賃料も生活費も、全て父に出して貰っていた。
阪神淡路大震災が起きたのはその冬だった。
お兄ちゃんは倒壊したマンションの下敷きになって亡くなった。遺体に取りすがって号泣する両親のかたわらで、わたしは途方に暮れていた。
悲しみたくても悲しめない。といって、ざまあみろとか、天罰だとも思えなかった。
わたしはお兄ちゃんにいなくなってほしかったわけではない。わたしと関係ないところで生きてくれるなら、お兄ちゃんなんか、はっきり言ってどうでもよかったのだ。
わたしにはもう、わたしの世界がある。家族よりわかりあえる仲間もできた。こんな世界だからライバル心剥き出しの人もいるし、理不尽なこともしょっちゅうだ。でも、少なくとも今いる場所は完全アウェイではなかった。
両親はどうせ、わたしの方が死ねばよかったのにと思っているだろう。わたしは葬儀が終わるとすぐみすぼらしいアパートに戻った。

わたしが震災で兄をなくしたからか、神戸を拠点に活動するダンスチームの振り付けを頼まれた。
震災後20年のイベントで踊るので、わたしにも出演してほしいという。
わたしは、「最愛の家族を失った悲しみとか、絆とか、癒やしと再生とかいうきれいなテーマではやれませんがいいですか?」と訊ねた。ひねくれた言いぐさに聞こえるかもしれないが、わたしにはそういうものが本当にぴんとこないのだ。自分が理解できないものをテーマに据えることはできない。
それでも構わないというので、わたしは心の底の本当の叫びをダンスで表現した。

本当は愛し合いたかったんだよー。お父さんともお母さんともお兄ちゃんとも。家族なんだから、あたりまえじゃないか。
わたしのことも認めてほしかった。わたしの夢も理解してほしかった。応援してほしかった。
だけど、ないがしろにされて、全否定されて、悲しかった、辛かった、情けなかった、思い切り傷ついた。
お兄ちゃんが死んだとき、わたしも「最愛の家族を失った悲しみ」を味わいたかった。でも、お兄ちゃんはそんな家族じゃなかった。
そんな家族がほしかった。そんな家族でありたかった。アウェイじゃなくて、ホームで生まれ育ちたかった。

ふと見ると、食い入るようにステージを見つめながら、涙を流している女の人がいた。
わたしが表現しているものに、魂の底から感応してくれていることがわかった。
あの人も、何らかの意味でアウェイにいるのだろうか。わたしのように、ホームを探しているのだろうか。いつか、わたしたちはホームにたどり着けるのだろうか。
そんなことはわからない。わたしにできるのは、今現在を精一杯生きることだけだ。
だから、ステージの上で、自分自身の肉体で、わたしは叫び続けた。

透明な悲しみ 

2015-01-22 21:10:53 | おはなし


 (このおはなしはフィクションです。実在の個人・団体とは一切関係がありません)

東遊園地には竹灯籠の炎が揺れていた。
大きく、1995 1.17。向かい合うように小さく3.11。
蒼白く明けてゆく空気には透明な悲しみが満ちている。
それは心底大切に思う人を悼むまっすぐな悲しみだ。
わたしは3.11の文字の方へゆっくりと歩いて行った。
夫が亡くなったのは阪神淡路大震災ではなく、東日本大震災だったからだ。

その日、わたしは東京にいた。突然の激しい揺れにテーブルの下にもぐりこみ、おさまってからTVをつけた。
東北地方で地震が起き、津波がくるという速報に血の気が引いた。夫がちょうど東北に出張に行っているからだ。
金縛りにあったように津波の映像を眺めてから、ようやく夫の携帯に電話した。予想通り、「電源が切れているか、電波の届かないところにいます」という応答があった。
次いで会社に電話すると、応対した女性が妙なことを言った。
「秋山さんの奥さまですか。お二人ともご無事ですか? 秋山さんもご一緒にいらっしゃるんですか?」
怪訝に思いながら、
「わたしは自宅におります。夫の携帯がつながらないので、会社に連絡がなかったかと思いまして。あの、出張の日程はどうなっているんでしょうか。夫は今、どこにいる予定なんですか?」
受話器の向こうで相手が絶句し、電話は唐突に保留になった。
何度目かの保留音の後、仲人をしてくれた田村部長が電話口に出た。
―由海(ゆみ)さん。こんな重大事になった以上は率直に話そう。秋山くんは出張に行ったんじゃなくて、有給休暇を取っているんだ。われわれは、夫婦で旅行に行くと聞いていた」
今度はわたしが凍りつく番だった。

しばらくして、また田村部長から電話が入った。仲人をした義理でも感じたのか、色々調べてくれたようだ。
社内に夫と同じ日に有休を取った女性が一人いて、一番仲のいい同僚にだけ、釜石においしい牡蠣を食べに行くと洩らしていたそうだ。
―由海さん。まだ何もはっきりしていないんだから、決めつけてはいけないよ」
状況証拠、という言葉が頭に浮かんだ。そう、全ては状況証拠でしかない。だが、わたしの心は真相を察知していた。

数日後、わたしは釜石の遺体安置所にいた。廃校になった中学の体育館には、納体袋に包まれた遺体が並んでいた。
何でもあまりにも数が多いと感覚がおかしくなる。わたしは、まだ夫と同じ会社に勤めていた頃、上司宛に届いた箱詰めのメロンを思い出した。箱の中にずらりと並んだメロンは、リンゴか桃のように見えたが、どれも普通の大きさのマスクメロンなのだ。
受付で告げた夫の特徴に似た遺体を、市の職員が探しては見せてくれる。納体袋にも、発見場所、日時、性別などを書いたメモがつけられているのだ。わたしはジッパーの間から磯臭い遺体を覗き込んでは首を振った。こんなことを何度繰り返さねばならないのだろう。
体育館のあちこちで、家族を見つけたらしい遺族の声が上がった。「お父さんだ、お父さん!」という高校生ぐらいの少女の金切り声。妻を見つけた夫はその事実を受け入れられないようで、「何でこんなところで寝てるんだよ。早く起きて帰ろう」と話しかけている。
獣が吠えるような声に振り返ると、白髪のおばあさんが子供のちぎれた手を指さして、孫のものだと叫んでいる。手首に巻かれたおもちゃの時計は自分が買ったものだという。
「お顔やあんよはどうしたんだい? ばあちゃんが探してきてやる。全部探してきてやるよ」
そう言って駆け出そうとするおばあさんを、市の職員が引き止める。そこまでが限界だった。わたしはおばあさんの横をすりぬけて体育館を飛び出し、校庭の木の根元にうずくまって吐いた。
もし夫の遺体が見つかったら、わたしはどんな顔をすればいいのだろう。もし、さっきの子供のように、相手の女性としっかり握り合った手だけが見つかったら? 無理矢理もぎとって、夫の手だけを持ち帰れというのか。
あの人達のストレートな悲しみが羨ましい。わたしの悲しみは、あの人達の悲しみとは異質だった。なぜなら、夫を奪ったのは、地震と津波だけではなかったから―

三日間釜石にいたが、遺体はみつからなかった。葬儀は遺体がないまま内輪だけで密葬にした。双方の親族は黙りこくって、ろくに口もきかなかった。
相手の女性の遺族はどんな気持ちでいるのだろう。わたしとしては、詫びの一つくらい入れてほしい気分だが、向こうは向こうで、「お宅のダンナにたぶらかされて」と思っているかもしれない。
ただ一つ、はっきりしているのは、わたしがとんだ道化だということだ。会社ではどんな噂が駆け巡っているだろう。そう思うと、東京にもいたたまれなかった。

現在、わたしは神戸にいる。大学時代の友人が洋品店を開き、わたしをスタッフとして迎えてくれたのだ。
仕事はそれなりに性に合っていたが、神戸というのはまずかった。毎年行われるルミナリエと1月17日の追悼式典が、いやがおうにも記憶をかきたてる。どちらの会場にも、わたしは断固として足を運ばなかった。
「その日」が近づくと、マスコミは「あなたたちの悲しみを忘れてはいませんよ」とばかりに特集を組むが、わたしにはその「悲しみ」すらひとくくりにされているように思われてならない。それはわたしの悲しみが、一般の被災者遺族のものとは違うからだろうか。
あれだけ多くの人達が全て、絵に描いたように愛し合っていたということがありえるのか。中には、冷え切った夫婦や、憎み合う親子、バラバラに崩壊した家庭もあったのではないか。報じられる「悲しみ」は、人間関係の暗部のドロドロした夾雑物をとりのぞいたきれいな上澄みだけをすくいとっているように見える。こんなことを考えるわたしは、やはり異端なのか。

今年始めて会場にやってきたのは、このあと、アルバイトのアイちゃんが所属するダンスチームのパフォーマンスがあるからだ。
アイちゃんは裁縫が上手い。公演の衣装は全て手作りだし、激しい稽古でほつれたレオタードはその日のうちにつくろう。汗で濡れたものを着ていると体を冷やすので、何度も着替えられるようにしておかねばならないからだ。その腕を生かしてお針子のバイトをして貰っている。うちで買った服が破れたの、虫に食われたのというお客さんのアフターフォローをするのだ。これができるのが、うちの店の大きなウリだった。
わたしは経理担当だが、アイちゃんに教えて貰って、忙しい時はつくろいものも手伝った。
二人で針を動かしながら、今回のパフォーマンスは大島奈那子の振り付けだと聞かされた。わたしは知らなかったが、ダンサーとしても振り付け師としても名の通った人のようだ。
「その人も阪神淡路大震災でお兄さんを亡くしてるんだけど、今回の舞台を頼まれた時、最愛の家族を失った悲しみとか、絆とか、癒やしと再生とか、そういうきれいなテーマではやれませんけどいいですかって言ったんだって」
その一言が、わたしの興味を引いた。

アイちゃん達のステージは、演劇でもミュージカルでもない、ダンスがメインの公演だ。こういう形態は日本では珍しい。
一応ストーリーはあるようだが、台詞がないので、踊りから読み取らねばならない。
「それがわかりにくいって言われちゃうんですよね」とアイちゃんは言っていたが、わたしは舞台から目が離せなかった。
大島奈那子という人は、間違いなくわたしと同じ、異端の苦しみと悲しみを知っている。そうでなければ、こんなステージをつくれるはずがない。
わたしは未だに、夫の死にどう向き合っていいかわからない。もし今突然夫の遺体が発見されたら、自分がどんな風に対面するのか想像がつかない。醒めた目で見つめるのか、恨み言をきかせるのか、あのおばあさんのように吠えるのか。
どうしても昇華されない怒りが、悔しさが、情けなさが、そのまま目の前の舞台に受け入れられていく。
いいんだよ。それでもいいんだよ。
会ったこともない大島奈那子さんの共感が伝わってくる。
そんなこともあるよ。そういう人もいるよ。無理をしなくていいよ。今すぐでなくていいよ。
救われたわけではない。吹っ切れたわけでもない。答えが出たわけでもない。
けれど、いつのまにか、わたしはあの日以来初めての透明な涙を流していた。

一期一会

2013-02-14 19:55:04 | おはなし
  アクセスして下さる皆様に愛を込めて


 初めて駐車場で見かけた瞬間、いいなと思った。
小柄だがフットワークが良さそうな雰囲気、すっきり通った鼻筋。
何より目元がやさしいと思った。
わたしは彼の家族を少し知っているが、目のつりあがった、いかつい顔立ちが多いように見えた。
彼の目は柔和だ。

わたしがその駐車場の前を通りかかる度、彼はいた。
いつも爽やかな色を身に纏い、それが彼の涼やかな顔立ちによく似合っていた。
普段はなかなか人の目をまっすぐに見れないわたしが、彼の顔は不躾なほど真正面から眺めることができた。
素敵すぎて目が離せないのだ

だが、ある日を境に、彼の姿は駐車場から消えた
そこはコインパーキングで、決まった車が停まっているわけではない。
彼の姿が見えなくなった途端、駐車中の車すべての顔ぶれが変わったように見えた。
彼はどうしたのだろう? どこへ行ってしまったのだろう? もうここへは来てくれないのだろうか。

会いたければいつでも会えるとか、そこに行けば必ずいてくれるというのは、甘えだったのだ。
そんなこと、とっくにわかっていたはずなのに、彼の不在に改めて思い知らされた。
もう二度と会えないかもしれないと思いながらも、駐車場の前を通る時は必ず、いつも彼がいた場所に目をやった。

もしまた彼がそこに現れたら、今度こそ逃さない。





必ず写真を撮るわ

ホンダのイケメン車、フィットハイブリッド
    


百万年の守人(2)

2012-02-08 22:06:16 | おはなし


 森番という語感から、何となく仙人のような老人を想像していたのだが、守衛小屋から現れたのは、ポロシャツにスラックスの、四十年配の男性だった。サラリーマンぽい印象だと思ったら、名刺を出してきたのでびっくりした。凪野さんという名前の人だ。いきさつを話すと、
「土地の人は、ぼくに訊けと言いましたか」
と、苦笑いした。
「今大学生の方なら、生まれる前のことですね。ぼくも子供だったから、ほとんど覚えていないんですが、この森の先にぼくの会社の原子力発電所があったんです」
そういうものが昔存在していたことは、社会科の授業で習って知っていた。クリーンなエネルギー源ともてはやされたこともあったが、クリーンどころか、放射線被害が恐ろしすぎて、今では全て廃炉になっている。
「原発廃止のきっかけになったのが、ここの発電所の事故でした。燃料棒がメルトダウンし、このあたりの土壌も、海も、そこからとれる作物や海産物も汚染されました。避難した人達は何年も帰ってくることができませんでした」
発電所は石棺といって、全体をコンクリート詰めにすることで放射能漏れを防いだ。コンクリートの業者は「百年は持ちますよ」と胸を張っていたが、25年ぐらいで早くもボロボロになってきたそうだ。
「コンクリートは、どんな砂を混ぜるかで保ちが全然違ってきます。その業者はおそらく、粗悪な砂を使い、さも上質のものを混ぜたような高い代金を請求したんだと思います。うちの会社は長いこと親方日の丸でやってきたので、そういうのが見抜けなかったんでしょうね」
しかも、「見たくないものは見ない」という事故前の悪しき体質はそのままで、定期点検を行った職員は、デジカメで撮影したコンクリートの写真をパソコンで修正して、「特に異常は見られない」という報告書に添付していたという。



「ところが、そうやって再び放射能漏れが起きる危険を隠しているうちに、小学生が何人か、森を抜けて石棺の側へ行っちゃったんです」
咲ちゃん達のことだと、ぼくにはすぐわかった。それで、森から戻ったらすぐ病院で検査をされたのだ。
「彼らは全員体内被曝していたそうです。その中の一人が、中学に上がってから、その事実を知ってしまったらしい。女の子だったんで、被曝した体じゃ赤ちゃんを産めないんじゃないか、それじゃあ好きな人ができても結婚もできないって悲観して、自殺してしまったんですよ」
ぼくは舌が口の裏に貼り付きそうになったが、懸命に声を絞り出した。
「よくご存じなんですね。遺書とかはなかったと聞きましたが」
「その子の両親が、うちの会社を訴えましたからね。『わたしの体の中には放射能があるの? 妊娠したら、赤ちゃんも放射能におかされるの?』って、ご両親を泣いて問い詰めたそうです。あんまり取り乱していたので、ご両親は、その場はとりあえずなだめるのに精一杯で、じっくり説明する間もなく死なれてしまったということでした。年齢的にもちょうど思春期でしたから、短絡的に思い詰めてしまったんでしょうね」
凪野さんはいたましそうな表情をしたが、どこか他人事という冷ややかさがあった。穏やかな風貌で、話していても優しそうな感じがするのだが、時々、は虫類の肌に触れたようなひやっとした感覚を覚える。
「会社は、もともとの石棺を、できれば50年間ぐらいは引っ張りたかったようです。でも、訴訟沙汰になってしまったので、慌てて新しい石棺をつくりました。古い石棺の外を、さらにコンクリートで覆ったんです。
裁判の方は、その子の方にも立入禁止区域に自分から入っていったという落ち度があるし、自殺の責任が100%うちの会社にあるともいえないということで、和解したんですけどね」
森番ができて、電力会社の職員が常駐するようになったのは、それからだという。
森番の任務は2つ。1つは誰も森に入れないこと。もう1つは石棺のチェックである。任期は3年で、その間は単身赴任になる。
凪野さんは、結婚が遅かったので、最近子供ができたばかりだが、志願して森番になったという。
「自分の子供があんなに可愛いものだとは思わなかったんで、離れるのは辛かったんですが、どうせなら石棺が新しいうちの方がいいと思ったんです。報告書には堂々と異常なしと書けますし、何よりも被曝の危険がまだないでしょう?」



ぼくは機械的にペダルをこぎながら、あぜ道を走っていた。
凪野さんの話で、謎は全て解けたといっていい。「森の奥に化け物がいる」というのは原発のことだろうし、「毒がわいて出ている」というのは、放射性物質の漏出や放射線をさしているのだろう。「白い怪人」は防護服を着た電力会社の人で、「20年後に悪魔に魂を奪われる契約」は、被曝してからそれぐらいでガンになる確率が高くなることをいうのだと思う。咲ちゃんの自殺の理由も、おそらく凪野さんの言った通りなのだろう。
凪野さんの話は衝撃的だったが、自分が何を知らなかったことがもっとショックだった。
教科書には、「その事故をきっかけにエネルギー政策が転換され、国内の原発は全て廃炉になった」と一行で片付けられていたので、ぼくは何となく、建物を壊して更地にして終わり、みたいなイメージを抱いていた。すべてはもうすんだことで、何もかも無事に終わったのだと信じ込んでいた。
ところが、実際は、事故から何十年も経ってから、咲ちゃんのような悲劇が起きていた。もしかしたら、他の原発跡でもそんなことが起きているのかもしれない。
それだけではない。原発が稼働していたときにできた放射性廃棄物の処理も色々問題を抱えているという。
ぼくは、最初に行きあたった図書館の前で自転車を止め、原発関連の文献を探してみた。
文系のぼくにもわかりやすそうな一冊を選んで拾い読みをしたが、それだけでも血の気が引くようなことが書いてあった。
放射性廃棄物は、とりあえず、どんどんドラム缶に詰め込まれたそうだ。それを土の中に埋めて処理する計画だったというが、ドラム缶が腐食して穴があいたらどうなるのか。もちろん、周囲はコンクリートで固めるようだが、コンクリートもいたんでくることは、既にあの村で実証されている。
だから、放射性物質が漏出しないように、絶えず見張っていなければいけない。
その期間は、放射性物質の種類にもよるが、低レベル放射性廃棄物で300年、高レベルなら100万年だという。
これは何だ? 天文学みたいな数字じゃないか。
その間中、ずっと、あの電力会社は森番を派遣し続けるのだろうか。そもそも、そんなに長い間会社が存続できるのだろうか。
大体、事故からたった30年で、もうこんなに風化しているのだ。人類が100万年も責任もって原発の負の遺産を見守り続けるなんて、可能なのだろうか。
ぼくは打ちのめされて、図書館の机に頬をつけた。


翌朝、朝餉の用意をしながら、睦美ちゃんはぼくを随分心配してくれた。昨日、よほどひどい顔で宿に戻って来たようだ。
でも、一晩眠って、睦美ちゃんの可愛い赤い頬を見て、おいしそうな食事の匂いを嗅ぐと、新たな気力が湧いてきた。
ぼくはこのことをレポートに書こうと決心していた。教授に、「こんなのは民俗学じゃない」と言われても構わない。
ぼくがここで知ったことを、どんな形ででもいいから残したい。一部はコピーして、この村に届けよう。
いつか、ここの人達がみんな、事故のことも、恐ろしい森のことも、禁を破って森に入った少女が辿った運命も、森番のことも忘れてしまっても、それを読んで何があったか知ることができるように。
ぼくたちが、300年でも100万年でも、見守り続けなければならないものがあることを忘れないように。
(終)

百万年の守人(1)

2012-02-07 22:45:08 | おはなし


 夏休みも半ばを過ぎ、ぼくは焦っていた。ゼミの課題が全く手つかずの状態だったからだ。
趣味のサイクリングで遠方に足を伸ばしたのも、課題のことが頭にあったからだ。ぼくのゼミは民俗学だったので、地方の古老から面白い昔話でも聞ければ、それを適当にまとめてお茶を濁すことができる。
寝袋を積んだ自転車であてどなく走りながら、その土地で立ち止まったのは、初めての場所なのに「ふるさと」という言葉がしっくりくる風景のせいだったろう。おそらく、日本人の原風景というべき景色が広がっていた。
農作業をしているのは高齢者が多かった。「こんにちは」と声をかけたが、誰もが怪訝そうに会釈をするだけだ。会話が始まらないと、レポートに使えるような話を聞くことができないのだが。
村のはずれには深い森があった。なぜか、立入禁止の看板が立っている。自転車を降りて、森の中を覗き見ていると、「森に入っちゃだめだべ」と声をかけられた。この土地で初めて聞いた人の声だ。振り向くと、五十年配の婦人だった。孫らしい、四、五歳ぐらいの男の子と女の子とを一人ずつ連れている。
「森の奥にはこわい化け物がいるべ」
男の子が言うと、
「違うよ。この森には悪魔が住んでいて、二十年後に魂を渡す契約をさせられるのよ」
と、さかしげに訂正した。「契約」という言葉の意味がわかっているのかなと可笑しくなった。
老婦人は黙って、じっとぼくを見つめている。その目の力にさからえず、ぼくは森から離れた。
自転車をこぎながら、ぼくは二人の子供が言ったことを思い返していた。男の子が言ったのは民間伝承ぽいが、女の子の言葉には、悪魔とか契約とか、妙に西洋的で現代的な響きがあった。この違和感のもとを探り出せれば、受け売りのレポートでも面白いものが書けるのではないか。

その夜は観光名所の近くの民宿に泊まった。ツアー客も多く、そのせいか、土地の人の応対も軽快だった。
ぼくは、部屋に晩ご飯を運んできてくれた女の子―高校生ぐらいの、毎年、夏休みのバイトに来ているという感じの子だった―に、森のことを聞いてみた。それまでニコニコと明るかった女の子の顔が、みるみる曇った。
「はっきりしたことは、わたしも知りません。毒が湧いて出てるとか、白い怪人がいるとか、子供同士でも色々噂しあいました」
睦美ちゃんという高校生の女の子は、顔をこわばらせながらも、そう話してくれた。小四の時、同級生の中でも無鉄砲な男子三人と、睦美ちゃんの親友の咲ちゃんが森の中へ探検に行った。四人とも無事に帰ってきたが、咲ちゃんは中二の秋に自殺してしまったという。
「遺書も何にもなかったから、理由はわかりません。ご両親もお葬式の後、すぐ引っ越しちゃったし」
だが、睦美ちゃんは、自殺の原因は森へ行ったことにあるような気がして、葬式に来ていた男子三人を問い詰めた。彼らによると、森は広場のようなところをぐるりと取り囲んでおり、広場には巨大な灰色の岩があったそうだ。彼らはそこから戻るとすぐ病院へ連れて行かれ、CTのような機械で検査をされたと言っていた。検査の結果や、何を調べたかは聞かされなかったという。
「森のことをちゃんと知っている人はいないの?」
「二十歳以上の人はみんな知ってますよ。成人式で説明会があるんです。だから、うちの県では成人式をパスする人は誰もいません」
そこでぼくは、寝床を整えに来てくれた仲居さんに森について訊ねてみた。仲居さんは困ったように口ごもった。
「どうでしょうかねえ。よその人にうかつに話して、ここがこわいところだなんて思われても困るし…」
ぼくは、大学で民俗学ゼミに入っていて、夏休みの課題のレポートにしたいのだと言った。そちらが困るなら決して言いふらさないし、夏休みの宿題なので大々的に発表することもないと説明した。
「なら、森番の人に話を聞かれるといいと思います。それが一番正確でしょうから」
森番とは、森の守衛のようなものだという。一つしかない森への入り口に小屋を構え、誰も通さないようにしている。

翌日、ぼくは「森番」に会いに行った。
(つづく)