コーヒー喫茶『一星』の一人掛けの席に座って、わたしは年賀状を書いている。思いがけない人から届いた二通に出すものだ。
『一星』が再開したことは、娘から聞いた。もっとも、娘は、わたしが買い物帰りに必ず以前の『一星』に立ち寄っていたことは知らない。友達と商店街を歩いていて、「こんなお店をみつけたよ」という感じで話してくれたのだ。
それによると、以前店主だった女性は体を壊して入退院を繰り返しており、今の『一星』は、息子のイッセイくんがやっているらしい。
しょっちゅう代金の合計や、使うべき器を間違えて叱られていたイッセイくんが、今は店長さんなのかと思うと感慨深い。
店の場所も変わっていたが、星のモチーフですぐにそれとわかった。わたしは大好きだったシナモントーストを注文し、返事を出さねばならない年賀状を取り出した。
わたしは一応イラストを描く仕事をしているので、年賀状のデザインも頼まれる。今回はリテイクの嵐で ヘビは難しいと身にしみた。どんなに可愛くデザイン化したつもりでも、どこかいやらしさが出てしまうのだ。わたしがヘビを見ただけで、ゾッとする人間だからかもしれない。最終的には、リボンのようなヘビにして、ようやくが出た
出窓の前の一人掛けの席で二通の年賀状を眺める。
一通は高校の時の同級生からで、二十代の前半で音信が途切れていた。家族の写真がプリントされたハガキに、わたしのイラストの載った雑誌を偶然見て懐かしくなったと、書き添えられていた。
わたしは若い頃、家族や子供の写真入り年賀状が嫌いだった。あなたにとっては目に入れても痛くないほど可愛い子供、かけがえのない家族かもしれないけど、第三者にはどうでもいいんだよ。それなのに、親戚ばかりか赤の他人にまで「見て、見て」とばかりに送りつけてくるなんて、受け取った方が恥ずかしくなる。
何より苛立たしかったのは、そういうことを言うと、「自分が結婚して家庭を持てないからひがんでるんでしょう」と決めつけられることだ。そうではなくて、わたしは「ひとりよがりなセンスのなさ」がイヤだったのに。自分は結婚して子供ができても、絶対こんな年賀状は出さないと、わたしは固く心に決めた。
娘ができたときは、そのことで夫と言い合いになった。
夫の実家は辺鄙な田舎で、昔ながらの共同体意識が根強く残っている。普段なかなか会えないのに、年賀状に家族や孫の写真を載せないなんて薄情だと思われるような土地柄なのだ。
「そんなものを見せびらかしあう集まりで、なかなか子供ができないお嫁さんなんかがどんな思いをしてるか、考えないの?」
わたしが断固として主張すると、夫の方が折れてくれた。クリスマスカードに娘の写真を同封し、年賀状はわたしがデザインしたものを使うことにして、決着がついた。
それから何年もの月日が流れ、わたしの気持ちも変わってきた。
おそらく、大多数の人にとって、家族写真入り年賀状は一番あたりさわりのないものなのだろう。
特に、世相が暗くなってくると、新年早々、リストラされたの、家のローンが払えなくなりそうだの書きたくない。年齢を重ねるにつれて体の具合が悪くなる人もいるだろうが、そんな愚痴を年賀状でこぼしたくない。
それなら、とりあえず家族が笑顔で写っている写真を載せ、自分は仕事をなくしそうでも、病院通いをしていても、子供の部活の話なんか書いておくのが、その人なりの大人のマナーだったのかもしれない。
友人知人の、色々な「近況」を知るにつけ、わたしはそんな風に思うようになった (*'-')
今でも、自分から家族の写真入り年賀状を出す気にはなれないが、少なくとも受け取っていちいち不愉快になるほど青くはなくなったわけだ
わたしはリボンヘビのハガキに、やはり数々の風雪を乗り越えてきた彼女とその家族へのメッセージを書いた
もう一通は、以前仕事でお世話になった、とても尊敬する大先輩からだった。
知り合った後、何年かは向こうからも年賀状が来たが、数年前からぱたりと途絶えた。わたしも、こちらが出しても返ってこないのは迷惑だからかもしれないと思い、二、三年前から出すのをやめてしまった。
久しぶりに届いたその人からの年賀状は、見事な毛筆の文字が並んだ、年賀状の王道ともいえるものだった。新年の挨拶と、難病と闘っていて年賀状もかけなかったというお詫びがしたためられていた(あまりに達筆すぎて読みづらいところもあるが、どうもそういうことらしい)。
わたしは自分の未熟さと浅はかさを悔いた。もういい年の大人なのに、相手がくれないからわたしも出さないなんて、何て幼稚だったんだろう。自分がその人を尊敬する気持ちに変わりがなければ、年賀状ぐらいいくらでも出せばよかったではないか。
「やっとまた筆が持てるようになりました」というその人の文字は、真っ白なハガキに、一本筋が通っているように真っ直ぐに、列なっていた。何度見てもほれぼれする墨痕だ
毛筆の美しい文字ほど絵になる年賀状はない。
どんな写真もイラストもかなわない。パソコンでは絶対に作れない。
子供の頃、「習字がもっと上手かったら、絵を描いたり、ハンコを押したりしなくても、字だけ書いておけばすむのに」とぼやいたことを思い出す。
そういえば、その人にもそんな話をして、「でも、そうやって一生懸命素敵な年賀状にしようとしたことが、今のあなたにつながっているんじゃない?」と言って貰ったのだ。
リボンヘビのハガキを見れば、その人には、「今のわたし」がどの程度の人間なのか、すぐにわかってしまうだろう。
少しは成長したと思って貰えるのか、「相変わらずねえ」と笑われるのか。
でも、素直に、ありのままのわたしを届けるしかない。
わたしはハガキにまっすぐ字を書くことができない。それこそヘビにように、行がくねくね曲がってしまう。だから、わたしのデザインするハガキはたいてい背景に罫線代わりのストライプが入っている。
なのに、もうそれをはみ出して曲がっていく自分の文字に、わたしは思わず苦笑いした