「バイク? もちろん乗れますよ。おれ、天才ですから」
アテナがノックにこたえて立ち上がり、ドアに向かう気配が無線を通じて伝わってきた。
神奈は先端にかぎ爪のついたロープを2―B室の窓枠に投げ、かぎ爪が食い込むと、素早くロープを伝って窓にとりついた。ガラスを破り、部屋に転がり込む。
ドアノブを握ったアテナが振り返った時には、子供達は既に神奈の腕の中にいた。
「人質を確保」
続いてロープを登ってきた隊員がぴたりと銃を構えて神奈を援護する。
ガイアとアテナは反射的に斜め上方を見上げた。
ヘラクレスは三階の窓辺でライフルを構えてバックヤードを警戒していた。
警察がうろちょろ嗅ぎ回ったり、踏み込んでくれば、すぐさま発砲するつもりだった。罪に問われても構わない。もともと、警察の捜査がハデス達に及びそうになれば、全てをひっかぶって自首するつもりだった。自分はそのためにいる。あとは、優秀なお兄ちゃん達が、新しい世界を作ってくれる。
しかし、警察は思わぬところからやって来た。空である。
シルフィード777の白い機体はヘラクレスを嘲笑うように、三階の窓からは完全に死角になるヘリポートに舞い降りた。
ヘラクレスはライフルを手に部屋を飛び出し、屋上に続く階段を駆け上がった。
ドアの前でライフルを構えると、ビームサーベルのオレンジの光がドアを突き抜けてきた。体に痺れが走り、彼はくたくたとくずおれた。
「どうしました? 上にお仲間がいて、援護射撃をしてくれるはずだったのかい?」
ゼノンの声に、アテナとガイアははっと視線を戻した。
二人はあずかり知らぬことだが、3階に一人いるようだというエレクトラの報告を受けて、屋敷を包囲していたダリウスがテレスコープで3階の窓を探った。すると、3-Cの窓からヘラクレスがライフルを構えている姿が見えた。
シティ警察本部でこれを聞いたエースは、
―無理に下から踏み込んで銃撃戦になれば、招待客を巻き込む恐れがある。
と、空からの突入を決意したのだ。
神奈達は、ヘラクレスの身柄が確保されると同時にバックヤードに飛び込んだ。
「何か誤解があるようですわね。人質だの何だのって、この子達はアテナのお友達で、お夕食に招待しただけなんですよ」
ガイアは早くも立ち直って、ゼノンに微笑みかけた。
「そうだよ。ぼくはアテナおばちゃまの友達だ!」
神奈の腕の中でボビーが叫んだ。彼がもがくように暴れるので、神奈は二人を後方へ送れずにいた。
「ボビー。この人達はテロリストなんだよ。爆弾を仕掛けてたくさんの人を殺したんだ」
「まあ、坊や、テロリストだなんて…」
康の言葉を、ガイアはあくまでも笑い流そうとした。
そこへ、ハデスが息せき切って飛び込んできた。顔面は蒼白で、頬を縁取るあごひげも震えている。
「ママ、ヘラクレスが警察に…アリオンも任意同行を求められてる」
「任意同行じゃありません。アリオン氏には逮捕状が出ています。アテナさんにもです」
ハデスに続いて階段を上ってきたエースが言った。アテナに逮捕令状を提示する。
「何の容疑で?」 ガイアがエースを睨みつけた。
「爆弾テロの共謀共同正犯です」
ガイアは両手を広げて大仰にため息をついた。
「わざわざ演説会の日を狙ってそんないいがかりをつけてくるなんて。警察って本当に弱い者いじめが好きね。やっぱり、しょせんは体制の犬なんだわ」
「いいがかりで令状は出ません。ちゃんと、裁判所が納得するだけの疎明資料をつけて請求していますから」
エースが言った。
アテナの令状はすんなりと出たが、アリオンの疎明には多少の手間がかかった。経済に強いナッツのクライストが、電話に張り付いてキャッシュ・フローを解析し、ウラヌス名義で行われた株取引の利益がペーパーカンパニーを経由してアリオンの選挙事務所に流れ込んでいることをつきとめた。ウラヌスは二件のテロに連動した株の売買で利益を得た投資家だが、これは架空名義で、実際はアリオンが取引を行っていた。
普通、こうした動きを辿るにはある程度時間がかかるものだが、今回はアリオン側にもマネーロンダリングに十分時間をかけられない事情があった。テロ行為直前のわずかな時間に売り抜けた利益を、即選挙資金に回さなければならなかったからだ。
「ヘラクレスさんの部屋からは、爆弾の材料になる化学物質が発見されています」
エースは続けた。
「それから、これは彼が持っていた康くんの携帯ですが、夕食に招待しただけなら、なぜ携帯を取り上げなければならなかったんですか?」
エースはビニール袋に入った康の携帯を掲げた。
アテナが連行されそうな空気に、ボビーがまた叫んだ。
「やめて! アテナおばちゃまはいい人だよ。ぼくに新しい靴やふくふくのシャツを買ってくれたんだ。ぼくたち、三人でご飯を食べただけだよ。デザートにアイスクリームがついてて、おいしかったよ」
「でも、ボビー、この人達、ぼくらを始末するって言ってたよ。ぼく達を殺すつもりだったんだ」
康が言うと、ボビーはますますいきりたった。
「違う! 違う! アテナおばちゃまは親切だったよ! おばさんみたいに、すぐ怒鳴ったり、叩いたり、お風呂に顔をつけたりしないもの。おいしいものを食べさせてくれて、おかわりもさせてくれたもの。お願い、アテナおばちゃまをいじめないで。ぼく、おばさんとこなんか帰りたくない。アテナおばちゃまと一緒にいたい」
この言葉に、その場にいる全員が胸を衝かれた。ボビーにとっては、伯母の家こそが地獄だったのだ。
「わかったわ。おばさんの家には帰らなくていい」
ラファエルが言った。
「わたしのところへいらっしゃい。康と一緒に暮らせばいいわ」
「やだ。たい焼きを二つとっちゃうようなおばちゃまのとこへは行きたくない。ぼくはアテナおばちゃまと一緒にいる!」
ボビーはアテナの方に手を伸ばして泣きじゃくった。
ガイアが満足げな笑みを投げる。
「そうよ、こっちにいらっしゃい、坊や。この人達はあなたを救ってはくれないわ。ちっぽけな市民一人の痛みなんか、お役所にはどうでもいいことなのよ。わたしも、あの人が死んだ時に思い知ったわ」
ガイアが差し出した手に、ボビーは懸命に手を伸ばそうとした。
「オラ、チビ。うわっつらだけのやさしさに騙されてんじゃねーよ」
その声は、窓の外から聞こえた。
セイヤは777を2-B室のすぐ前にホバリングさせていた。オートパイロットに操縦を任せ、自分は救助した被害者の搬入口に仁王立ちになっている。白いパイロットスーツにライフキットを背負った姿は、妙に天使めいて見えた。
彼は、まるで地面の上であるかのように無造作に片足を踏み出して窓枠にかけた。
「康、こっちこい」
「セイヤお兄ちゃま!」
と叫んで康がその腕に飛び込むと、セイヤは彼を抱きかかえて777に乗せた。
「奥へ行きな」
と康を促し、今度はボビーに「来い」と呼びかけた。ボビーは首を振った。
「言っとくが、たい焼きが3つあったら3つともこっちに寄越すような女は最悪だぞ。こっちがいちいち感謝感激して、うんとそいつを大事にしてやらねえと、許してくれねえからな」
実を言うと、セイヤも年少の頃、そういう母性愛に溢れた女性に憧れたことがある。そのせいか、初めて交際した少女はそういうタイプだった。しかし、セイヤは次第に彼女の押しつけがましさが息苦しくなり、二人は結局3月で別れてしまった。
別れ話を切り出すと、彼女はこの3ヶ月間、いかにセイヤに献身的に尽くしたかを涙ながらに並べ立てた。
―それなのに、セイヤくんはわたしを捨てるのね。何てひどい人なの。
まるで極悪非道の人のように言われてセイヤは心底驚き、その晩、ラファエルに、
―おれ、そんなに悪いことしたわけ?
と、訊ねた。
―悪いっていうより、虫が良かったのよ。人間関係の基本はギブアンドテイクでしょ。なのに、恋人だからタダであれこれサービスしてくれるのはあたりまえ、なんて甘えた考えでいるから、後で請求書つきつけられて慌てることになるんだわ。
「おまえにこんな話しても難しいのはわかってるよ。だが、今おまえを愛して守ってくれる保護者はいねえ。だったら、自分で自分を守るしかねえだろう。生き延びたけりゃ、強くなれ。賢くなれ。赤の他人がわけもなく物をくれるはずなんかねえっつう現実から目をそらすな。お返しに自分が何をさせられたか、ようく思い出せ」
ボビーも、自分のしたことがまるでわかっていないわけではなかった。
アテナに連れて行かれた場所で紙袋を指示通り置いてくると、必ずそこで大爆発が起きた。だが、ボビーが感じたのは罪の意識よりも快感だった。
伯母の一家をはじめ、街の善男善女は誰一人彼にやさしさを向けてはくれなかった。彼をとりまく世界は冷酷で意地悪だった。やさしくしてくれたのはアテナただ一人だった。
なら、アテナの言う通りに冷たい奴らを吹っ飛ばして何がいけないのか。
「そうだよ、おまえは可哀想な身の上だ」 セイヤは言った。
「だが、自分で自分を可哀想だと思ってると、そうやって甘いエサにつられて落とし穴にはまっちまうんだ。もっとプライドを高く持て。ものほしそうな顔して歩いてんじゃねえ。世界中の人間がおまえをないがしろにしても、おまえはおまえを大切にしてやるんだ。穴に落ちたら這い上がれ。自分の意思で、自分の力で、自分のために」
いつのまにか、搬入口に戻ってきた康もボビーを呼んだ。
「ボビー、お願い。こっちへ来て」
ボビーにはセイヤの言っていることがよくわからなかった。
だが、その言葉の底にある何かが心を動かした。
ボビーは777の搬入口を、そこに立つセイヤと康をじっと見つめた。康の背中の羽が風にはためき、天使がはばたいているように見えた。
「行きなさい、ボビー」 アテナが言った。
「そのお兄ちゃんが言ってることは本当よ。わたしもあなたと同じ間違いをしていた。自分を傷つけた人達を憎むあまり、偽りの優しさに身を任せてしまった。ママの、見せかけだけのやさしさに」
(続く)