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夏の終わりというのは、一年でも一番感慨深いもののように思えます。
阿久悠さんは、夏について、「狂おしい音楽に身もだえ、その姿が恥ずかしくないと思えるような妙な季節で、自分のことを劇中人物のように思わせる」
そして、それが潮が退くようにさめ、「急に正気に戻って…ここはどこ? 私は誰? と云いたい気分になる」のが秋だと述べておられます。
作詞家らしい言い表し方ですね。
幸田文さんの「季節のかたみ」(講談社文庫)には、12の月それぞれを幸田さんがどうとらえていたかが書かれています。
8月の章には「浜風」というタイトルがついています。甲子園球場で、ライト方向に飛んだホームラン性の打球を押し戻す方向に吹く風も浜風ですが、これとは関係ありません
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そんな、つぎつぎ起きる心身ともの忙しさに、とかくぞんざいに暮らしがちな八月ではあるけれど、私には一つだけ涼しい記憶がある」
として、幼い頃、浜辺で、水が最初に浪の形をとってくるところをみきわめようとしていた時の涼しい風や、あたりの深閑とした雰囲気を回想し、
「あの時はまだ、多忙でめまぐるしい夏ではなかったのだ、と思いまた、あの時はぞんざいな心ではなく、ていねいな眺めかたで海を見ていたな、と思いあたるようになった。なにかほっとするのである」
と綴っています。
わたしが幸田さんを好きなのは、ここで「忙しい夏」を否定するような形で終わってしまうのではなく、最後に、
「今、私は老いて、ことに夏を深閑とくらしているが、当節はまた誰も一段と多忙な夏のように見受ける。若い夏なる哉、と祝福を贈りたい」
と結んでいるところです。
その時その時の、年齢やら境遇やらで、静かに暮らせる時もあり、嵐のように多忙な時もありますよね。多忙に過ごしている人に、「もっとていねいに生きなさい」と説教するのではなく、「若い頃はそうよね。わたしもそうだったわ。忙しいのは若い証拠よ」とエールをおくるような、あたたかい目線が心に沁みるのです。
明日からやってくる九月は、「たたみ」という表題。
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九月は事の多い月で、しかもその流れ方が速い。遊んでいた子供たちに学校がはじまるし、あらしはあるし、その後始末もあるし、かと思えば、お月見もあるし墓参もある…埒もなくあたふたとひきずりまわされて、一ヶ月はまたたく間である。そのあげく…忙しかったわりには深い感銘も手ごたえもない、という結果になる。九月の手管にまどわされたのである…
目前のことにまどわされず、物事も季節もしっかりと足の下に踏み敷く気でないなければ、九月という月は扱えない。さんざ手を焼かせて、あっさりと逃げていく、徒な恋のような、そんな手管にのせられたのではかなわないと思う」
ふりまわし系なのか? 九月
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「それだけにまた九月を上手に暮らせば、おもしろい。今朝おきて踏んだ畳のつめたさになにか心あたらしくされ、八時、学業に勤務に子を夫を送り出すとき、自分でもふしぎなほどやさい気になっていた、と話したひとがあるがいい話だとおもう。ものにまどわされないでいるとき、人は素直でやさしくて、たのしいし、情緒も心ばえも養われる」
もう随分前に買った本ですが、月が変わる時にとりだして、次の月について書かれた文章を読み、指針にするようにしています。
でも、何かあるとすぐ頭からぶっとんじゃうんですよね
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