BE HAPPY!

大山加奈選手、岩隈久志選手、ライコネン選手、浅田真央選手、阪神タイガース他好きなものがいっぱい。幸せ気分を発信したいな

一星へようこそ ―ordinary―

2011-03-22 21:04:12 | 一星


  商店街を歩いていると、前方の景色に違和感を感じた。
違和感の正体はすぐにわかった。『一星』が休業しているのだ。クリーム色のシャッターが降りて、「勝手ながら、都合により当分臨時休業させて頂きます」という貼り紙が出ている。
『一星』は商店街の中のコーヒー店だ。わたしは毎日の買い物帰りに、ここでシナモントーストセットを食べるのを楽しみにしていた。口の中にじゅわっとしみ出すバターとシナモンシュガー、それをコーヒーで洗い流しながら文庫本を読むのは、わたしの至福の時だ。その『一星』の突然の休業に、わたしは呆然とした。

あまりにいつまでもクリーム色のシャッターの前で突っ立っていたのでは変な人なので、気を取り直してスーパーに入った。
頭の中では休業の理由を考え続けている。店長さんは、毎日カウンターでおしゃべりしているギョロ目のおばちゃんと、検査がどうとかと話していたことがあった。何か病気が見つかったのだろうか。
「当分」とは、どのくらいの期間だろう。もしかしたら、もう再開されないかもしれない。ここ数年、個人店がぱたぱた店じまいしているので、そういう想像が出てくるのは容易だった。
その日は、商店街にある別の喫茶店に入った。出てきたトーストを見るなり、がっかりした。表面だけがきれいに焼かれて、中にまるで火が通っていない。こういうのが好きな人もいるだろうが、わたしは中まで火が通ったサクッとしたトーストが好きだ。わたしはだだっ子のように小さく首を振った。
明日にでも『一星』に再開してほしい。いつも通りそこで営業してくれていることは、それだけでありがたいことなのだと思った。

『一星』の異変に呼応するように、夫の実家から、姑が倒れて病院に運ばれたという電話があった。
「すぐ、そちらに行った方がいいでしょうか」
と訊くと、兄嫁は、
「まだ大丈夫よ。主人はみんなを呼べって騒いでるけど、わたしは親を見送ってるからわかるの。あれくらいなら、今回はすぐ退院できるかも」
 義兄は悪い人ではないのだが、あまりにも言動が紋切り型すぎる。「こういう場合はこうすべき」というマニュアルで生きている感がある。今回も、親が倒れたのだから兄弟全員が集まるべきだと主張しているようだ。
「今日も病院に泊まり込むっていきまいてたけど、そんなことしてたら身が持たないわよって、さっさと帰って来ちゃった」
兄嫁の落ち着いた声に、わたしも胸をなで下ろした。
それでも、夫の会社にはすぐ電話した。仕事の段取りなど、それなりに考えておいて貰った方がいいと思ったからだ。夫も不安そうだったが、
「義姉さんがそう言ってるんなら、大丈夫だろう」
と笑った。わたしたちは、皆、本家をしっかり取り仕切っているのが兄嫁だと知っている。「一明は淑子さんの言う通りにしてたらええんよ」と、皆が言っていた。
学校から帰ってきた娘にも、おばあちゃんが倒れたと伝えた。
「何、それ、困る~
「困るも何もないでしょ。あんたの都合なんか、関係ないの」
こういうことは、いやも応もなく、ただ降りかかってくるのだ。文句を言ったって、どうなるものでもない。

その晩、夫はいつもより早く帰宅した。行きつけの店がサービスデイだとかで、気の合う先輩と飲みに行く日なのに。
「何だか気になっちゃって、誘われたけどことわって帰ってきたんだ」
「じゃあ、梅酒で晩酌する?」
夫は、家で飲むのは梅酒と決まっている。こういう微笑ましいところが好きだ。もやしとひき肉が中途半端に残っていたので、唐辛子でいためてつまみをつくった。
晩酌用のグラスは、その先輩のヨーロッパ土産だった。ベネチアンだかボヘミアンだか、面取りをしたグラスにプラチナの縁がついている。
夫は梅酒を飲みながら、
「おれ、何慌ててたんだろう。やっぱり、飲んでくりゃよかったよ」
と呟いている。

よく、「いざとなったら、女の方が強い」といわれるのは、多分、家事をしているからだ。
どんなことが起きても、時間が来ればお腹が空く。汚れ物も出るし、ほこりもたまる。誰かが動かなければ、生活がたちゆかなくなってしまう。
もちろん、不安で胸が潰れそうな時や、悲しみに打ちのめされている時に、ご飯のしたくなんかしたくない。だが、そうやって無理矢理動くことで、気が紛れたり落ち着きを取り戻せるのも事実だ。
「とんでもないことが起きた時ほど、ふだんどおりにするのよ」と言っていたのは、兄嫁だ。
たしか、お義父さんが危篤状態になった時だ。ぎゃあぎゃあ騒ぎ回っている義兄を尻目に、丁寧に材料を刻み、おだしをとっていた。
実を言うと、それまでのわたしは、ショッキングな出来事が起きると、「こんな時に家のことなんかやる気分じゃない」と、日常を放棄してしまうところがあった。それは逆なのだ、とその時気づいた。
不幸というのは、日常が吹っ飛んでしまった状態だ。だから、不幸から脱却するためには、日常を取り戻さなければならないのだ。
夫が夕刊を読みながら梅酒をちびちびやっている間に、わたしは居間の洗濯物をそれぞれの場所に戻し、テーブルの上のリモコンを100円ショップで買ったケースにまとめた。台ふきんで、テーブルの上を水拭きする。
夫の食器とグラスを洗い、シンクにつきはじめた茶色っぽい汚れをクレンザーで磨き、汁のふきこぼれたガス台もレンジ周り洗剤で拭いた。
シンクがぴかっと輝き、ガス台のガラストップに周囲のタイル壁が反映するのを見ると、お義母さんも『一星』も大丈夫だという気持ちになれた

居間に戻ると、ちょうど風呂から上がった娘が、テレビを見ながらボディクリームを塗り込んでいるところだった。
リモコンはテーブルの上に散らばり、拭いたばかりの天板にボディクリームの白い滴が落ちている。
何で、テレビのリモコンだけじゃなく、エアコンや照明のも出てるの? 何で、クリームが落ちないように気をつけられないの お母さんが、今きれいにしたところだってわからないの
「だから、今、ふこうと思ってたの。リモコンだってすぐ片付けるつもりなのに。やろうと思ってたら言うんだから」
娘はぶつぶつ言いながら、テーブルの汚れをティッシュで拭き取り、リモコンをケースに戻した。
「で、おばあちゃん、どうなのよ」
「まだわかんないよ。何かあったらおばさんから連絡がくるから、そうなったら腹をくくる。それまではいつも通りにしてるしかないでしょ」
「そんな上手く割り切れない」
「割り切れないわよ。だから、もやもやしてきたら家の中をきれいにするの」
「何で、そうなるの? 関係ないし」
「ものがごちゃごちゃしてたり、汚れてると、悪い気がよどんだりたまったりするのよ。あんたの部屋なんか、『場』ができてるんじゃない?」
娘は唇を尖らせた。無理もない。わたしだって、娘の年頃には、こんな話、わけがわからなかった。
娘が聴いている音楽には、よく「昨日と同じ今日なんかいらない」という歌詞が出てくる。わたしも、若い頃はそういうのがカッコイイと思っていた。
でも、生きていると、昨日と同じ今日がこないことが何度もある。そうして、わかるのだ。昨日と同じ今日がくることは、実はありがたいことなのだと。
お義母さんがすぐに元気になりますように。『一星』が営業を再開してくれますように。
そう願いながら、わたしは、娘のバスタオルから落ちたらしい糸くずと髪の毛をひろった。   (終)