銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

小津安二郎『東京物語』との相似、続『ハリーとトント』

2009-11-18 00:54:21 | Weblog
続・米・映画『ハリーとトント』

 この映画は、アメリカ版、『東京物語』ともいえるものです。その指摘はどこにもないし、
監督、マザースキーは、何も小津安二郎に対するオマージュなど広言しては、いません。

 特にこの脚本が練られた時期に、既に小津がアメリカで高い評価を得ていたかどうかを私はまったくといってよいほど知りません。

 だけど、老いた親が子供のところをたずねて、あまり丁寧な待遇を受けず、そこを去るという設定は同じなのです。

 東京物語のほうでは、原節子の戦争未亡人(息子の嫁)だけが、他人ゆえに、親切であったという設定です。この原節子の代わりをするのが、ティーン・エイジャーなのに、家出中のお嬢さんで、主人公ハリーと数日間旅行を一緒にして、彼の慰めの材料となります。

 そのお嬢さんがヒッチハイクをしながら向かう先が、コンミューンという設定です。で、みんながそこへ行くことを心配します。「フリーセックスのはずだから、すぐ妊娠するわよ』などといって行くのを反対します。

 この映画が、1974年製作ですから、こちらの設定はまことにリアリティがあると感じました。

 そこに、ベトナム戦争後のアメリカ社会の現実が反映しています。その当時アメリカは自信を失っていました。だからこそ、ドラッグのことやら、失業のことやら、いろいろ普通の家庭のデキゴトとして語られます。

 でも、反語としていえますが、アメリカが失意の時代だったからこそ、見事な文芸映画が出来したのでしょう。アメリカが繁栄を謳歌していた時期には、ヴァイオレンス気味の、娯楽作品が生まれるのです。

 これは、一人の人間にとっても同じことです。ちょっと低落傾向にあるときのほうが、ものを考えます。そういうときのほうが渋みがあって、精神的には充実をしていたりします。

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 もうひとつ、見事にリアリティがある場面がありました。主人公がニューヨークで引ったくりに会うのです。その際に、助けてくれるアフリカン(日本人が普通に言う場合には黒人といったりする)が、半地下にゴミ箱を抱えて消えていく場面です。

 主人公ハリーと同じビルに住んでいるのです。でも、白人のハリーは上の階に住んでいてアフリカンであるリロイという名前の男性は、半地下に住んでいるのです。その半地下が入り口しか示されないのですが、非常に汚いのです。劣悪な環境にアフリカンのほうは住んでいると言う設定です。私が借りていたのは、一戸建ての半地下なので大家手入れがよくて、これほど、劣悪な環境ではなかったのですが、

 マンハッタン島の、中の古いビルの半地下というのは、こういう感じだったのでしょう。

 ビルが壊されて、ニューヨークの郊外の一戸建て、(東のフォレスト、ヒルズか、西のニュージャージーという設定でしょうが)の次男の部屋に転がり込むと、リロイがお客としてスーツ姿で現れます。

 二人がピアノを弾いて楽しむところは、主役のアート・カーニーのボードビりアンとしての面目躍如というところですが、

 リロイのせりふがすごいのです。ニューヨークの男性アフリカンの状況を非常によく現しています。『母には仕事があり、生活保護紐は母もらっているというせりふ。確かに、女性のほうが仕事があるのです。お掃除とか手伝いとか言う分野で。

 男性のほうは大学教育を受けた人は別として、せいぜいが公務員でしょう。地下鉄の職員とか、清掃事業とか。高等教育を受けていないと、より失業をしやすいのです。働ける分野が少ないのです。売り子とか、レジ係としては雇われないし、サラリーマンとしても雇われないから。

 1970年代はそれが、現実であって、今は、オバマ大統領〔といってもハーフですが)が出現する時代になり、ミッシェル夫人は例のプリンストン大学の出身の弁護士という時代になりました。よかったね。アメリカで差別を受けていた人たち。時代は変わりました。

        2009年11月18日  雨宮舜 〔川崎千恵子)

 
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