銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

来栖けいの16000円のディナーと、ゴッホの500円のポトフ(?)

2009-11-08 23:50:09 | Weblog
 私はテレビ東京はとても、お勉強をしていると感じています。企画があたっていると感じます。五強一弱といわれていたらしいのに、今ではNHKに次ぐ人気があるような気がします。

 不思議なことですが、日経新聞がバックにいるから、思い切って、金持ち階級(日本に於けるそれですから、大したことでもないが)を相手にしていて、その路線がかえって、美術やドキュメンタリー主体の、まじめな(といっても娯楽の要素のある)番組を作ることとなり、それが時代の要求に合っている模様です。

 今はあまりにもふざけすぎる番組はあたらないのです。不況で、みんなまじめに考えるようになっていますので、内容が軽すぎるものはあたらないのです。

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 で、そのテレビ東京に、船越栄一郎が、司会をするソロモン流という番組があり、この前、『美食の王子様』と呼ばれている来栖けいという青年が登場しました。私は、その人を実像としてはまったく知らず、いままで、書店で、その著者名を見たときに、女性だと思い込んでしまったぐらいの知識しかないのですが、

 その青年が、今度、レストランを開くことと成ったという映像を見ました。なかなかの苦労の末にとうとうそのレストランは開業してお客様たちを招くところまでになり、その映像も出ました。そこでは、食後のデザートなど、日本全国の名品スイーツを取り寄せて、供するのですが、ディナー・・・・・(を、もっともサービスした、お安い値段で提供しても)・・・・・が一万六千円になるのだそうです。

 私はその値段を批判するつもりもないし、来栖ケイという人を批判するつもりも毛頭ないのですが、現在の日本に、一夕、一万六千円払っても、「べつに。それがどうしたの?」という階層がいることには気が付きました。それをぼーっとしてみていたのですが、

 たちまちにして、ゴッホの最後の二ヶ月の生活に、心が戻ってしまったのです。

 ゴッホは、変形三畳程度の狭い部屋で、ベッドもおかずに生活をしていたかも知れず、(絵を描くためのスペースが必要ですから、床に、毛布を敷いた形で寝ていたかもしれないのです)

 ご飯は、毎日、毎日、カフェで提供される一種のまかない食みたいなものを食べていた可能性があるのです。

 朝食を400円と仮定する。昼食はフランスパンにチーズをはさんでもらって、300円、そして、夕食が800円です。フランスに住んでいるのだから、ワインはデカンタに入れて、300CCぐらいは付いてくるでしょう。それが、200円、パンが100円、コーフィーが100円と仮定すると、アラカルトの一皿は400円から500円となります。

 それは、主人夫婦が毎日飲む、コンソメに、何かを入れて、ポトフ仕立てにした程度のおかずだったと思われます。大きめにきったジャガイモやら、にんじん、たまねぎ、鶏肉等が入っていて、

 亭主が、親切なら、次の日はトマト味、に変わり、また、別の日には、ジャガイモの代わりに、白い豆等を使ってくれたかもしれません。

 もし、気が優しかったら、お昼のパンの間に、オリーブを薄く切ってはさんでくれたり、ピクルスを薄く切ってはさんでくれたりしたでしょう。でも、きゅうりやトマトは、あの時代には手に入りにくかったのです。

 今ほど、種類の多い野菜を、毎日、手軽に買える時代では、あの当時は無かったはずです。トラック輸送も発達をしていないし、スーパーも無かったわけですから。

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 以前、私は、ゴッホの月の生活費が15万円だと申し上げました。でも、誤解をしないでくださいませ。ゴッホは半分近くを画材へと投資していたのです。だから、実質的には、一月、8万円ぐらいで、部屋代も、何もかもをまかなっていたのです。コンビニで、ジュースを買うこともできないし、(ともかく、コンビには無いし、お小遣いもないわけで)

 すみません、ここで、突然ですが、切ります。今日は本当に疲れていて、かけません。ただ、これに続く、骨子は、それでも、ゴッホは幸せだったということです。

 それは、例の結婚詐欺をした女性の父が、事実上の自殺だったのではないかと言われる(週刊朝日によれば、その地方ではそういう噂があるそうですが)ことと比べれば、圧倒的に幸せな生活です。

 今般、自殺ではなくて、他殺だったと言う新説が開示されれば、さらに、矛盾がなくなるのです。

 しかし、主観的な幸福感とは別に、客観的には貧乏なのですから、彼が同じモチーフの、しかもバージョン1と比べれば、さらに力が弱いヴァージョン2を描くために、時間と絵の具を使ったとは、私にはまったく信じられず、したがって、同じような構図の作品が二つあるケースは、ことごとく、贋作だと感じます。この最後の一節が、今日、私が述べたいことの骨子でもあります。では、最後のほうが腰砕けといってよいほど簡単で恐れ入りますが、・・・・・
    2009年11月8日    雨宮 舜(川崎 千恵子)

 本日は疲労困憊なので、これで、失礼をいたします。
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