銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

『大切なのは、心の満足と希望です。金や地位ではない』

2009-11-11 23:55:41 | Weblog
 前報を書いた後で、ちょっと心配になってきました。私の長年の読者様が、誤解をなさるといけないと思って。つまり、『彼女は、とうとう痺れを切らして、お金や地位にあこがれるようになったのか』と。

 いやあ、そういう風になるのも一法だと思います。が、私は頑固にも、一番大切なものは、心のあり方だと思い続けているのです。

 気の持ちようというのかな? 『来栖ケイの一万六千円・・・』と言う文章を書いたときに、疲れすぎていて、最終段階が腰砕けになりましたが、ゴッホがなぜ、元気いっぱいだったかというと、好きなこと、やるべきことへ、まい進していたからでした。

 一方で、結婚詐欺を働いた女性の父が、趣味人として遊び暮らしていたのに、60歳のときに羅臼の崖から車ごと転落した(地元では自殺といううわさが流れている)のは、

 正しい意味での、目的意識を、抱けなかったからです。彼の父親、(つまり、殺人事件まで起こした女性にとっては祖父)からの、婉曲的であれ、直接的であれ、命令を受けていて、それに逆らえなかった人生だからこそ、生き続ける、または、生き抜く気力が生まれなかったのです。弁護士か行政書士になることは、その男性にとっては、好きなことでもなければ、大切なことでもなかったのです。しぶしぶやらなければならないことで、しかも達成できる見込みの無いことでした。気の毒なひとでした。

~~~~~~~~~~

 私たちは誰だって、幸せになる権利はあります。しかし、それがなかなか簡単ではありません。でも、少しずつでもよいから、自分に似合っている道に入り、自分を生かす方向へ向かうべきです。しかし、それだって容易ではありません。この私だって、落ち着いた気持ちを持ちながら、かつ、希望を抱き続けられるようになったのは、ごく最近のことなのです。

 よく、更年期障害のひとつとして、女性が、愚痴を言うことが、取り上げられます。不定愁訴というらしいのですが、そんなの・・・・・は、当たり前のことなどという時期もあったのです。または欲求不満とよく言いますね。それだって、私には身近なことでした。

 本当のところは「我慢をしながら、ずっと待っていた」というのが正しいでしょう。そして、今私が持っている希望というのは、大それたものではありません。まったく小さなものです。お金や地位を得る方向のものでもありません。

~~~~~~~~~~~~
 でも、そこにいたるまで、選択の妙はあったと思います。選択については、『いささか、賢かったかなあ』と思っています。選択の機会とは、際限の無いくらい、一瞬、一瞬に訪れます。私のように、勤務の無い人間だと、午後の時間の使い方が、まず、選択の対象です。午前中は文章を書くのでも絵を描くのでも、クッキーを焼くことでも、よいから創作に当てます。しかし、午後三時ごろになると迷います。

 外出するべきか、それとも、自宅でできることを、続けるべきか? 『午前中の仕事の延長をしたほうが、能率がよいなあ』と思いながら、一方で、画廊街には月曜日に行くほうが得だというルールもあります。主役に会えるからです。どうするか、迷いますが、一瞬で決断をして、後で後悔をしないように、努力をしています。どちらにしても精一杯やって、できたところで、大(?)満足をするように努めています。

 できなかったことについては、さっとあきらめて、後悔をしないこと。常に『ああ、よかった。今日はこんなに、よい経験をした』と考えるようにしています。見つけられるのです。小さな種を。すばらしい文章の種を。常に、わき出でてくるものがあります。人に伝えたい、語りたい、ことが生まれてきます。それが幸せです。

 昔はあせっていました。希望の対象が、有名になることだったから、焦っていたのです。でも、65歳を超えたら、『良くぞ、ここまで生きてきたなあ』と思って、『そこまでで、できたことだけで、まず満足をすべきだ』と、覚悟を決めたのです。
~~~~~~~~~~

 天才と呼ばれている人々を研究すると、長い期間にわたって、創作を続けていたわけではありません。燃え上がるように、創作を続けた期間とは、長くて17、8年です。それで、たいてい死んじゃっています。かわいそうですが、そうなのです。

 そんなに、有名な大人物でも、それほど、多くの量の仕事をしたわけでもないのです。それなら、もっと小粒で凡人たる私が、焦る必要は無いのでした。ここまでの仕事だけでも、十分に満足すべきだと感じたのです。

 一方で身近な人々(母とか夫とか子供とか)が「そんなに、いつも疲れていて大丈夫?」と心配してくれているのも、感じていました。だけど、「もっと、休め」という忠告を受け入れる気にならなかったのが、65歳までです。
~~~~~~~~~~

 65歳までは、常に『死を思え(メメントモリ)』は、頭の中にあって、それもまた、焦る原因でした。『もっと、たくさん文章も絵も、創って、おかなければならない』と常に思っていて、追い込まれていました。

 でもね、67歳まで生きてみると、『これって、想定外じゃあない?』と思ってしまって、頬が緩む感じがします。われながら、その事実に、笑ってしまいます。医療に詳しい妹が、『お姉さんって、すでに四回死んでいても、おかしくない』というほど、いろいろあったのに、今、ほとんど、以前と変わらない形で生きています。

 もちろん、体力は抜群に落ちていますから、できることの量は半分ぐらいになっています。銀座の画廊を回る体力も落ちてきていて、それに対しても、素直に、自分で認めています。『今週は、大切なところに、いかれなかったね』と思っても、それを残念がらないように、さらっと、受け止めています。

 前回で、お話をした、<<<深紅・一色の、大島紬を着た、お雛様をやさしくしたような美しい若い女性が、心理的に幸せなのか、そうではないのか>>>は、知りません。そこまで長い時間、接触をしていません。ただ、私が、その人や、そのお師匠さんである、マスコミ界セレブらしい男性を、うらやんでいないことだけは、確かなのです。

 数年前に大船駅のホームで、担当編集者らしい女性と、活発な会話を繰り広げていた、新堂冬樹と思われる男性と出会ったときは、自分の普段着姿を悲しいと感じました。よる大船に、買い物に行くだけだったので、何も気を使っていない服装のときでした。しかも、どうしてか、私の注目に、彼も気が付いたのです。

 そのときは、『銀座に行く程度に、気をつかっておけば、よかったなあ』と、残念に感じました。しかし、今、同じことが起こったら、『ふ、ふ、ふ』と内心で、微笑むだけで、残念がらないでしょう。そういう変化が、私自身の内部に起きています。自分の気の持ちようが、一番大切なのだと、思い始めています。   2009年11月10日  雨宮舜(川崎 千恵子)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする