(写真は、旅雑誌より転載した「ハプスブルク家歴代皇帝が暮らしたホーフブルク王宮。)
娘と二人のオーストリア個人旅行出発が、後3週間少し後に迫っている。
昨夜は娘と共に旅行日程の確認を行い、お互いの旅行気分を高揚させる作業を施した。
一番の残された課題は4本前のエッセイにても記載した通り、特に旅程4日目の私が名付けて「ウィーンカードにての“ムン・パッカフリーツアー”」(“ムンは娘の愛称、パッカは私の愛称だが)の詳細日程が未だ下調べ不足状態である事だ。
ただ、実際4泊6日程度の小旅行の場合時間的限界があり、どうしても“総論旅行”となりかねない。
そこを個人旅行の形態を最大限活かし、単にあっちもこっちも行ってきました! ではない付加価値のある旅にしたいものである。
旅程4日目の母娘フリーツアーは、宿泊ホテルがハプスブルク家“夏の離宮”の位置付けのシェーンブルン宮殿のすぐ近くである事を活かし、その栄華の歴史を巡ろうかと志している。
「ウィーンカード」(ウィーンの公共交通網が4日間乗り放題+各名所見学割引チケット付きのカード)をウィーン到着後すぐに購入し、それを最大限利用するスケジュールとなる。
さて冒頭にて掲載した写真は、そのハプスブルク家の王宮写真だが。
ここでネットより、ハプスブルク家に関する情報を引用させていただこう。
(その前に少し余談だが、私は高校・中学「社会」「商業」の教職免許を取得し、高校現場にて教壇に立った経歴がある。 ただし我が大学院での専攻が「経営法学」だったため、自ずとそれに関する教科授業(商業法規、商業経済等々…)を受け持った。 「社会」に関しては「現代社会」の授業のみを経験している。 現在「社会」教職免許は「地歴」「公民」に分離しているようだが、私の時代はそうではなく、「社会」免許を取得しているとややもすれば、「歴史」を持たされる危険性もあった… 実は「歴史」は我が現役高校生時代に一番“嫌い”な科目だったのだが、そんな教科を教員として受け持たされたものならば生徒の皆さんに対して大いに迷惑を掛けた事であろう…、 それを想像する都度、今でも怖いものがある…… )
それでは、ネット情報を引用しよう。
ハプスブルク家はオーストリアの名門王家。 大空位後のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)の即位(在位1273〜91)に始まり、1438年からはその滅亡まで神聖ローマ皇帝位をほぼ世襲した。 15〜19世紀、神聖ローマ皇帝をほぼ継承したオーストリア王家。 10世紀スイスにおこり、1273年同家初の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)を出した後オーストリアを所領に加え、1438年アルブレヒト5世の神聖ローマ皇帝就任(アルブレヒト2世(神聖ローマ皇帝))後、1806年帝国消滅まで皇帝位をほぼ独占した。
ドイツでは、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家との間に宿命的な対立があったが、12世紀末と13世紀半ばにフランスとイギリスが介入し、異例の国王二重選挙となった。 その結果、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が即位するまでの間、ドイツは実質的に皇帝不在となった(大空位時代)。ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)は、自家の領地広大を第一義とする典型的なドイツ貴族であり、神聖ローマ帝国は完全に形骸化していった。
その後、西ヨーロッパ諸国が中央集権化しつつある中で、ドイツは逆に各両方国家の独立傾向が強まった。 15世紀前半のアルプレヒト2世(神聖ローマ皇帝)以降、オーストリアのハプスブルク家が皇帝位を独占する(1438〜1806)ようになるが、それはもはや神聖ローマ帝国でもドイツ帝国でもなく、ハプスブルク家の帝国というにふさわしいものであった。
その間ドイツでは、現地のスラヴ人やマジャル人を同化・吸収しつつ、いくつかの諸公国と多数の村落・都市を形成していった。 その結果、オーストリア・ブランデンブルク・プロイセン(ドイツ騎士団領)といった、近代のドイツの政治を動かすことになる大領邦が成立し、ドイツ国内の重心は東方に移動した。 また、今日のスイス地方の農民と市民は、13世紀以降のハプスブルク家の支配に抵抗し、1291年ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンの3邦が永久同盟を締結、自由と自治を守るために相互援助を誓った。
同盟にはその後、他の邦も次々に加盟し、圧迫するオーストリア(ハプスブルク家)軍を度々破った。1499年、オーストリアは失地回復をはかってシュワーベン戦争を引き起こしたが、スイス諸邦軍はこれを撃破し、事実上の独立を勝ち取った。
(以上、某ネット情報より一部を引用したもの。)
私見及び旅行準備作業のまとめに入るが。
我が高校生頃にヨーロッパ旅行を一度でもしていれば、もしかしたら上記のような王族の歴史に興味が持て、社会科の「歴史」の授業にも多少は関心が抱けたのかもしれない。 ただ当時は、残念ながら我が高校時代に私が住んでいた過疎地より海外旅行へ行く家庭など無いに等しかったものだ。 (1974年 我が19歳時点での“米国短期留学" を単身で成し遂げた事が、周辺にサプライズ!と受け止められるレベルの時代背景だったものだ… )
ただ残念な事には、冒頭写真のホーフブルク王宮を一覧するのみで“丸1日”かけても時間が足りないとの旅雑誌情報である。
それでも、今回の母娘ウィーン個人旅行に於いては、その“ハプスブルク家の栄華と滅亡”の一端でも垣間見て来ようではないか!
娘と二人のオーストリア個人旅行出発が、後3週間少し後に迫っている。
昨夜は娘と共に旅行日程の確認を行い、お互いの旅行気分を高揚させる作業を施した。
一番の残された課題は4本前のエッセイにても記載した通り、特に旅程4日目の私が名付けて「ウィーンカードにての“ムン・パッカフリーツアー”」(“ムンは娘の愛称、パッカは私の愛称だが)の詳細日程が未だ下調べ不足状態である事だ。
ただ、実際4泊6日程度の小旅行の場合時間的限界があり、どうしても“総論旅行”となりかねない。
そこを個人旅行の形態を最大限活かし、単にあっちもこっちも行ってきました! ではない付加価値のある旅にしたいものである。
旅程4日目の母娘フリーツアーは、宿泊ホテルがハプスブルク家“夏の離宮”の位置付けのシェーンブルン宮殿のすぐ近くである事を活かし、その栄華の歴史を巡ろうかと志している。
「ウィーンカード」(ウィーンの公共交通網が4日間乗り放題+各名所見学割引チケット付きのカード)をウィーン到着後すぐに購入し、それを最大限利用するスケジュールとなる。
さて冒頭にて掲載した写真は、そのハプスブルク家の王宮写真だが。
ここでネットより、ハプスブルク家に関する情報を引用させていただこう。
(その前に少し余談だが、私は高校・中学「社会」「商業」の教職免許を取得し、高校現場にて教壇に立った経歴がある。 ただし我が大学院での専攻が「経営法学」だったため、自ずとそれに関する教科授業(商業法規、商業経済等々…)を受け持った。 「社会」に関しては「現代社会」の授業のみを経験している。 現在「社会」教職免許は「地歴」「公民」に分離しているようだが、私の時代はそうではなく、「社会」免許を取得しているとややもすれば、「歴史」を持たされる危険性もあった… 実は「歴史」は我が現役高校生時代に一番“嫌い”な科目だったのだが、そんな教科を教員として受け持たされたものならば生徒の皆さんに対して大いに迷惑を掛けた事であろう…、 それを想像する都度、今でも怖いものがある…… )
それでは、ネット情報を引用しよう。
ハプスブルク家はオーストリアの名門王家。 大空位後のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)の即位(在位1273〜91)に始まり、1438年からはその滅亡まで神聖ローマ皇帝位をほぼ世襲した。 15〜19世紀、神聖ローマ皇帝をほぼ継承したオーストリア王家。 10世紀スイスにおこり、1273年同家初の神聖ローマ皇帝ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)を出した後オーストリアを所領に加え、1438年アルブレヒト5世の神聖ローマ皇帝就任(アルブレヒト2世(神聖ローマ皇帝))後、1806年帝国消滅まで皇帝位をほぼ独占した。
ドイツでは、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家との間に宿命的な対立があったが、12世紀末と13世紀半ばにフランスとイギリスが介入し、異例の国王二重選挙となった。 その結果、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が即位するまでの間、ドイツは実質的に皇帝不在となった(大空位時代)。ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)は、自家の領地広大を第一義とする典型的なドイツ貴族であり、神聖ローマ帝国は完全に形骸化していった。
その後、西ヨーロッパ諸国が中央集権化しつつある中で、ドイツは逆に各両方国家の独立傾向が強まった。 15世紀前半のアルプレヒト2世(神聖ローマ皇帝)以降、オーストリアのハプスブルク家が皇帝位を独占する(1438〜1806)ようになるが、それはもはや神聖ローマ帝国でもドイツ帝国でもなく、ハプスブルク家の帝国というにふさわしいものであった。
その間ドイツでは、現地のスラヴ人やマジャル人を同化・吸収しつつ、いくつかの諸公国と多数の村落・都市を形成していった。 その結果、オーストリア・ブランデンブルク・プロイセン(ドイツ騎士団領)といった、近代のドイツの政治を動かすことになる大領邦が成立し、ドイツ国内の重心は東方に移動した。 また、今日のスイス地方の農民と市民は、13世紀以降のハプスブルク家の支配に抵抗し、1291年ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンの3邦が永久同盟を締結、自由と自治を守るために相互援助を誓った。
同盟にはその後、他の邦も次々に加盟し、圧迫するオーストリア(ハプスブルク家)軍を度々破った。1499年、オーストリアは失地回復をはかってシュワーベン戦争を引き起こしたが、スイス諸邦軍はこれを撃破し、事実上の独立を勝ち取った。
(以上、某ネット情報より一部を引用したもの。)
私見及び旅行準備作業のまとめに入るが。
我が高校生頃にヨーロッパ旅行を一度でもしていれば、もしかしたら上記のような王族の歴史に興味が持て、社会科の「歴史」の授業にも多少は関心が抱けたのかもしれない。 ただ当時は、残念ながら我が高校時代に私が住んでいた過疎地より海外旅行へ行く家庭など無いに等しかったものだ。 (1974年 我が19歳時点での“米国短期留学" を単身で成し遂げた事が、周辺にサプライズ!と受け止められるレベルの時代背景だったものだ… )
ただ残念な事には、冒頭写真のホーフブルク王宮を一覧するのみで“丸1日”かけても時間が足りないとの旅雑誌情報である。
それでも、今回の母娘ウィーン個人旅行に於いては、その“ハプスブルク家の栄華と滅亡”の一端でも垣間見て来ようではないか!