原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

コメント欄をオープンする以上、私は読者皆様と以下のような議論を再開したいが…

2017年02月22日 | 自己実現
 前回公開した 「『原左都子エッセイ』のコメント欄を閉鎖した理由」 に記した我が思いを証明するがごとく、一バックナンバーに本日偶然多くのアクセスを頂いたようだ。

 それは、2008.5.13 公開の 「能力別クラス編成を憂慮する」 と題するエッセイだ。


 当時当エッセイのコメント欄にコメントを頂戴した皆様の同意を得ずして、再度公開する失礼をお詫びしておく。


 それでは、当該バックナンバーに寄せられた「コメント欄」記載内容の全文を以下に紹介させて頂こう。


 
Unknown (カズ)

2008-05-13 16:16:39

そういや、或る何かの番組で小学校の教科書から、台
形の面積を求める公式が消えていたのを出演者の方が
驚いていましたね。この時も、公式が成立する理由を
学ぶことの意味を強調する声がありましたね。


カズさん、円周率についてもそうです。 (原左都子)

2008-05-13 16:33:47

カズさん、いつも早々とコメントをありがとうございます。
私は円周率を3としたことに社会が大反撃したことも印象深いです。
私の見解を述べますと円周率の概念が重要なのです。
それを理解もせずしてただ単に3か3、14かにこだわるのは解せない話です。もちろん、3、14にした方が子どもの計算力はつくでしょうが、概念理解を重視する私としては計算上は3で十分との立場を今なお貫いています。
3、14を主張している人達は真に円周率の概念を理解した上でそう思っているのでしょうか?大変失礼ながら今なお私はそう思っています。


ツールの暗記は苦痛です (こまねちちゃん)

2008-05-13 18:13:10

こんにちは、これは大変興味深い話だったので、私の考えも述べさせていただきます。
その前に、今の小中学校で成績優先クラス分けが進んでいることを知りませんでしたので、個人的にはかなりショックです。
そんなことしたら、他人を平気で差別したり弱者への救済に無関心な人に育ってしまいやすいと思います。
私も、公式や単語などを背景や概念の説明も無しに無理やり暗記させる教育方針は、子供の豊かな精神的成長に少なからず弊害があると思います。
本来、それらは何かを成すための道具に過ぎないのですから。
そりゃ知っているに越したことは無いですが、極端なことを言えば、用途に応じてPCなどから探せれば充分に活用できていると評価できます。
こんな、実社会では当たり前のことが、教えられていないなんて・・・・大丈夫か?今の子供たち!って心配になりました。
子供は国の宝ですから、もっと人間形成に重きを置いた教育をしないと、今以上にグローバル化が進む将来、日本の頭脳は立ち行かなくなると思います。


こまねちちゃん、差別意識大きな問題です。 (原左都子)

2008-05-13 19:13:40

こまねちちゃん、貴重なご意見をありがとうございます。
今回の記事では述べなかったのですが、生徒や単純な保護者の差別意識も大きな問題です。
事実、保護者会に出席しましたら「我が子が最優秀クラスに入れて光栄です。」と何の戸惑いもなく述べる保護者が多いのです。
私など、こういう単細胞親が子どもを育てている現状を垣間見て背筋がゾッっとするばかりでした。
真の意味での人材育成の観点を国にも保護者にも望みたいものです。


Unknown (ゆき)

2008-05-13 21:59:42

はじめまして
子供には個性がありますから
個性を伸ばす事が大切ですね
私の娘の事で教師の言う事は聞いていません
参考になる勉強方法ですよね


こんばんは~! (常夏ボーイ)

2008-05-13 23:05:14

結構、木曜日の退院に決まりました。(--;)
一泊 12000円の収入に繋がったのに残念です。
でも、痛みや苦しさがそのままなのに退院なんて納得出来ないです。
で、ガンは右下葉に12センチの物が出来、摘出しました。リンパ節の転移は無く、レベル1でした。今後の事は、退院前に説明が有るそうです。(^^;)


ありがとう~(^_-) (常夏ボーイ)

2008-05-14 00:01:34

生保の特約を付けていたので凄い黒字になりますよ~(^^;)
でも、油断大敵です。今‥隣で寝て居る爺さんも昨年同じ主治医の手術を受け転移無しで退院し、半年で再発し‥肝臓に転移し抗癌剤治療の為入院してます。
黒字と思ってもお金は使えないかな~(^^;)
この病院は入退院が激しいですよ!手術室20室ありますしね…
抗癌剤の使用は必要無いそうです(^-^)v


つづけておじゃまします (toshiyuki)

2008-05-14 04:19:31

私立は進学実績がもっとも重要なのです。コメントにもありましたが多くの親達が望む方法でもあるのです。私の息子も私立高校3年生、3年になってはじめて文理別のクラス編成になりました2年までは毎年クラス替えがありましたが成績にかんしては平均になるように分かれているようでした。
ただ中3からは数学等でクラスをさらに半分に分けて授業を行う分割授業がはじまるとその分け方は成績順です、学校の味方をするようですが一番やりやすく(レベルが近いので授業がやりやすい)効果も期待できる方法ではないでしょうか。
中高一貫の私立に行かせた場合、中学受験して入学するわけですからおなじくらいのレベルの子(良く似たタイプの子)が多く、子供にとっては楽しく親にとっても安心ですが、個性を磨こうと考えた場合は?ですね。
入学後の5年間でそのことは感じましたね。


ゆきさん、すばらしいお母様ですね! (原左都子)

2008-05-14 07:36:51

ゆきさん、初めてのコメントをありがとうございます。
ゆきさんのブログの中学生時代の記事を拝見しました。すばらしいお母様でいらっしゃいますね。ゆきさんを信じ、ゆきさんの自主性を尊重したお母様の愛情に拍手です。
また、ゆきさんご本人がもっといいですね。ご自身が好きだと思える社会、理科の勉強に専念しその結果を見事に出されましたね。
私はゆきさんのブログを垣間見させていただいただけなのですが、お母様のお考え同様ゆきさんには元々高い学習能力がおありなのだと察します。そんなゆきさんがお母様の愛情に支えられ、実力を発揮されたお話は大変興味深いものがありました。
またお越し下さいますように! 


常夏ボーイさん、引き続きお大事に。 (原左都子)

2008-05-14 07:51:53

常夏ボーイさんには別便でも連絡させていただいておりますが、リンパ節への転移がなくて一安心ですね。
抗癌剤の使用の必要もないとのことで、体力消耗も回避できそうですね。私の場合は、術後の回復は順調だったのに抗癌剤の副作用で毎日発熱し体が弱って大打撃を受けましたので。
そうですね。満を持してお金はキープしておいた方がよいかもしれません。
病棟には様々な病状の方が入院されていますよね。私の時もそうでした。
とにかく、引き続きお大事にして下さいね!


教育って難しいねぇ~ (幸慶家)

2008-05-14 08:19:39

こんにちは。
さとちゃんの言うのもごもっともだと思いますが、≪学習タイプ別、学習環境別、すなわち生徒の学習への取り組み方の個性に応じたクラス編成≫での、各個人のそれを見極める教師能力があるか・・・と言う事にも。
そもそも、こういうのって、≪必要≫なの?
老いさんも、実際中学時代に、この「能力別クラス編成」を体験しました。
で、やはり、さとちゃんの記事にあるような、「差別」「落ちこぼれ」状態をも体験しました。
実際、こんな事、公表するのも恥ずかしい限りなんですが、授業内容に着いて行けないのね・・・
結局、判らない、面白くない、やらない、益々判らない・・・と、落ちこぼれて行きました。トホホホ・・・
差別もありましたね。
だから、「こんなの」要らない!
成績のいい奴は放っておいても自分から勉強するんだから。



教育のスタート (嵯峨野)

2008-05-14 14:04:32

私は、教育の出発点を保育園からスタートすべきと考えています、この頃から道徳、倫理観を養える教育のあり方を考える時期に来ているのではないでしょうか、文武両道の精神を幼稚園児までに教育して、心を養って行くのが今後の教育の在り方と思います。
受験を前に、暗記ですべてを覚えるのは、物事の理解力、判断力の無い人間ばかりになり現代社会のひずみが大きくなるように思えますが、幼児教育のあり方を考えて行きたいと私は考えています。


toshiyukiさん、真の学力とは… (原左都子)

2008-05-14 14:07:21

確かに私学にとっては大学進学実績が命です。そして、安直に成績順に生徒を振り分けて指導するのが学校にとって一番効率のよい方法なのでしょう。
ただ、子どもの個性とは実に多様です。同程度の成績であれ、学習方法や家庭での学習環境(親の教育方針も含めて)は皆異なることでしょう。
とにかく、単に大学進学という目先の目標ではなく、将来に通じる真の学力を、そして人間としてのバランスのとれた成長を願い日々子どもの教育に当たっている私にとっては、しばらく不本意で頭の痛い日々が続きそうです。


幸慶家さん、悪循環スパイラルは回避するべきですね。 (原左都子)

2008-05-14 14:25:09

老いさんのおっしゃる通りなんです。
「理念なき教育改編」でも述べたとおり、ゆとり教育の失敗は、結局は教員の資質や能力不足、そして教育指導内容の不備にあると私は考えております。
どのようなクラス編成にしようとも、上記の条件が整えられないのならばその効用は期待できないでしょう。それならば、いっそのこと“ごちゃ混ぜ”クラスの方が偏った差別意識も回避できるし、個性豊かな子ども同士が影響を及ぼし合ってむしろ成長できるのかもしれません。
学習において一番回避するべきことは、老いさんの言う“わからない、面白くない、やらない、もっとわからない、…”この悪循環スパイラルですね。最低限、教育者と名の付く人は生徒がこのスパイラルに落ち込まないような指導を心がけるべきです。


嵯峨野さん、道徳、倫理観教育は家庭が主体であるべきです。 (原左都子)

2008-05-14 14:44:58

嵯峨野さん、初コメントありがとうございます。
私は本ブログのバックナンバー記事「道徳教育私論」において既述しましたが、子どもの人間としての基本的な道徳心、倫理観教育に関しては家庭がその主体であるべきと考えます。もちろん、学校等の集団生活の場では、家庭では経験できない集団という社会における道徳心を教育するべきなのは言うまでもありませんが。
そして、私は早期教育に関しましても反対派です。
学科教育のスタートは小学校からで十分と考えています。
早期教育の意味合いも様々でしょうが、現行の一般的な保育所、幼稚園等で行われている学習予備段階のお遊び的なもので十分だと思います。
もちろん、子どもの個性に応じて各家庭が対応する分には自由でしょうが。
余談ですが、私は変な幼児で、幼稚園で一番面白かったのが「知能テスト」でした。こんな面白い“遊び”があるんだ、と子ども心に感激して没頭したのを今なお憶えています。人の個性は様々です。
また、お越し下さいますように。


教育 (k)

2008-05-14 20:26:30

・教育の目標は、機会均等より学習成果の平等である。


kさん、機会均等が保証されてこそ… (原左都子)

2008-05-14 21:28:19

kさん、当ブログへのコメント誠にありがとうございます。
私も学習成果の平等を決して否定しているわけではありません。それに関しましては、当ブログを熟読いただけましたらおわかりいただけることと存じます。
ですが、とりわけ子どもの教育について議論する場合、人間社会の基本として、すなわち基本的人権の観点から、まずは機会均等が保証されてこその学習成果の平等について語るのが本筋ではないでしょうか?
残念ながら、現状の社会では子どもの機会均等が保証されていない状況です。
そして、学習成果の平等に関しましても、その評価基準もあいまいです。
そもそも、kさんにとっての学習成果とは何なのでしょうか?
もし差し支えございませんでしたら、もう少し詳細にkさんのご見解をご表明いただけたらと思います。
その上で、議論させていただけましたら幸いと存じます。
再度のコメントを心よりお待ち申し上げております。              


分けて分けて、そして・・・ (kuisin)

2008-05-14 23:29:18

ども、kuisinです。
私は完全な能力別授業は受けていませんが、中学の時に英語のみに限って習熟度別ではありました。
恐らくはここでコメントをしている皆さん、そして原さんも、この授業そのものを受けたことはないかと存じます。(あったらすみません)
数少ないこの場での体験者としての率直な意見を述べれば、“必要性が分からない”の一点に限ります。
私の学校の場合ですと、英語はビギナー、(中間の名前は忘れました・・・以後便宜上“中間”とします)、そしてマスターの三つのクラスに分かれていました。クラスの分け方は完全にテストの成績のみで左右され、40点以下ならばビギナー、40~70までなら中間、それ以上はマスターとなってました。
なぜか不思議なことに、私たち生徒の中に、ビギナーと中間、または、中間とマスターの間を行き来している生徒がいました。成績の向上が名目なのに、右往左往とはこれ如何に??
友達の中にビギナーと中間のクラスを行ったり来たりしている友人がいたので、話を聞いてみると、教え方が全くの別で、別のクラスからきた場合に訳が分からなくなる、とのことで、次のテストではその学習法の違いに付いていけず、クラスがまた変わってしまうのだそうです。
私自身は中間にずっといました。(成績からすると普通・・・)ビギナーは分かりませんでしたが、一度だけ成績が良かったテストがあり、その後マスターに行ったことがあります。
教師が違えば学習法も異なる。メンバーが違えば競争もあったものではない。順調に積み重ねていたはずなのに、いきなり高く放り投げられるような、空虚感。
結局次のテストの結果は散々で、すぐに中間のクラスに戻りました。
あ~・・・何が言いたいのかと申しますと、一部の生徒以外は付いていけないのがほとんどだった、ということです。
まぁ私の学年で試験的に導入されただけらしいので、その後もその中学で継続されているのかは分かりませんが・・・。ただ原さんの記事を読んで、ふと思い出しました。
置いてけ堀は、子供の方がつらいものです。
では、またまた、長文失礼しました。


kuisinさん、すべての生徒の学力向上のためのクラス編成であるべきですね。 (原左都子)

2008-05-16 06:46:10

kuisinさん、返答が少し遅くなりましたが、kuisinさんのコメントで、能力別クラス編成の実態の一例がよく理解できました。
kuisinさんの例の場合、能力別クラス編成の目指す方向が捉えにくいですね。その編成で力が伸びるのは最上位クラスをキープし続ける生徒のみであるような気もします。
生徒に混乱を起こさせて、やる気を失わせる能力別クラス編成の意義とは一体何なのでしょう。一部のエリートの輩出でしかないようにも感じられますね。
クラスを成績で分けさえすれば学力が向上するものでは決してないですね。指導側は自らの指導効率や学校の体裁という観点ではなく、常に生徒個々の立場に立った指導体制作りを心がけるべきです。
学校は指導者のためではなく、生徒のために存在するのですから。



 以上、あくまでも過去の我がエッセイ集の一バックナンバーにコメントをお寄せいただいた一事例を紹介したまでの事だ。
 コメンテイターの皆様が、きちっと!我がエッセイ論題に的を絞って的確にコメントして下さっているその事実とご能力の程が実に素晴らしいでしょ!?!

 上記コメンテイターの中で、いまだお付き合いがある方もいる一方、もしかしたら生存されているのか否かの連絡がまったく途絶えている方もいるのが実情だ……


 可能ならば、私とて我がエッセイ集のコメント欄を再度オープンしたい。
 だが、過去にその栄光を十二分に経験し堪能させて頂いた身にして、既に我がエッセイ集のコメント欄の繁栄時代は過ぎ去ったと心得えるべきだろう。

 今後はまた異なる形態で、我がエッセイ集を充実せんと志したいものだ。

「原左都子エッセイ集」のコメント欄を閉鎖した理由

2017年02月20日 | 人間関係
 私は、2011.11.18付の「お知らせ」カテゴリーに於いて、「コメント受付一時休止のお知らせ」と題するバックナンバーを公開している。

 これを改めて見て、私はコメント欄を「閉鎖」したのではなく「休止」中だという事実を自分自身で発見した。
 へえ~~、そうだったんだ。
 などと無責任にも納得しつつ、「という事は、またコメント欄をオープンにする事もあるのか??」と自問自答する始末だ。

 とにもかくにも、当該バックナンバー全文を以下に今一度紹介しよう。
 日頃より 「原左都子エッセイ集」 をご愛読いただきまして誠にありがとうございます。
 この度、都合によりコメント欄を閉鎖し、コメント受付を一時休止する措置を取らせていただく事と相成りました。
 その間、原左都子宛にメッセージをお送り下さる場合は、左欄の 「メッセージを送る」 をご活用いただけましたら幸いです。
 ご自身のメールアドレスあるいはURLをご記載いただいた場合、個別に返答を申し上げる場合もございます。
 「原左都子エッセイ集」本体は、今後も変わりなくエッセイを綴り公開して参る所存です。
 今後共、皆様のご訪問を心よりお待ち申し上げております! 
 (以上、本エッセイ集「お知らせ」カテゴリーバックナンバーを反復したもの。)


 自身のブログのコメント欄は「閉鎖(休止?)」しておきながら、私は身勝手にも人様のブログへは土足で上がり込んで、コメントを記載させて頂く機会がここのところ増えている。

 その行為には、私なりの「理由」(と言うか「魂胆」と言うべきか?)があるのだ。

 一番の魂胆とは……
 自己紹介を兼ねて、「いつも貴ブログを拝見しております」とのメッセージをお伝えする手段として、コメントを記載させて頂く機会が最近多い。
 もちろん、記載されている内容に同感したり感動させて頂いて、その思いをコメント記載との実行に移す事と相成るのだが。


 我がエッセイ集も、開設直後よりコメント欄を閉鎖(休止)した2011年11月まで、有意義で心打たれるコメントを読者の皆様より沢山頂いてきた。
 当時のバックナンバーを自分で読み返す都度、コメント欄に頂戴した数々のコメント群も同時に読み直しては、(そう言えばこんな方もいらっしゃったし、またこの方も長期に渡りずっとコメント欄で我がエッセイ集を支えて下さったなあ)などと、名残惜しい思いも抱くし、コメント欄閉鎖措置により惜しい人材を私は沢山失っている感覚にも苛まれる。
 コメント欄を開いてさえおけば、これらの方々との有意義な人間関係が未だ継続しているのだろう、と自分が取り返しがつかない過ちを犯した事実を思い知ったりもする。

 時には、我がエッセイより長文(3000字を超えそうな)コメントを寄せて下さる人物も複数存在した。
 それを熟読させて頂き、これまた私もその長文数を超える文字数の返答をお返ししたこともあった。

 我がエッセイ集は時事社会問題等々に対するオピニオン公開を主眼として開設しているため、その性質故に誹謗中傷等々ご遠慮申し上げたいコメント被害にも遭った。 ただ、それとて「原左都子エッセイ集」にご興味をお持ちいただいた証拠であり、ある意味では歓迎すべき行動かとも判断したりもした。 
 (今現在も、ネット上で「ミニスカおばさんが綴る5流オピニオンエッセイ集」ナンタラの記述が消去されずに存在する様子だが、 私など、中途半端に2、3流ではなく“5流”との表現が嬉しい程だ。 あるいは“ミニスカおばさん”など、褒め言葉と解釈している。)

 
 他人様のブログ コメント欄を現在覗かせて頂いて、私が感じる事がある。

 私がブログを開設した10年程前に比して、エロコメ等々の迷惑コメントが完全排除可能なコメント欄のシステムとなっている時代の流れと並行し、皆様のコメント欄が “綺麗にまとまり過ぎている” 印象を受けるのだ。
 それは時代の良き変化として受け止めるべきであろう。

 ただ正直言って、すこし物足りなさを感じる私でもある。
 「はい、貴方と私は仲良しです。 素晴らしいですね、良かったですね。 これからもよろしく。」 それですべてが収まるのならば、それに越した事はないのだろう。
 私など、それってコメントではなく“単なる挨拶言葉”の域を超えていないと寂しく思うのだけど……

 私が数年前までコメント欄を開いていた時期と、ネット上の「交流」の仕方が全く違ってしまっている。
 ブログのコメント欄がそのような時代背景に移り変わり、危険回避に偏っている事実こそに、人間関係の希薄化を感じたりもさせられるのだ。

 そうとは言っても既に還暦過ぎた身の我がエッセイ集に、もしも3000字を超過する長文反論ご意見を頂いたとして、それに更に反論し議論する時間が私側こそが取れるのか否かの不安感もあるのだ。
 何分、亭主が定年退職後いつも家にいる立場であり、義母・実母の介護責任も一手に担い、日々その世話に活躍せねばならない身だ。
 (私が思うに、定年退職したご亭主って24時間フリータイムでしょ? それに引き換え、その世話をせねばならない妻の立場は実に大変! 昼がくれば昼飯の準備、夜になると夕飯の準備に入らねばならず、自身が集中している事柄をいちいち中断させられる始末。 世の定年退職男どもよ、夕飯はともかく昼飯くらい一人で食べろよ!と言いたくもなる。  エッセイ本体を書くのもその合間にこなさねばならい立場で、コメント欄の対応が自ずと後回しにならざるを得ないのは火を見るよりも明らかだ…  私だって24時間フリータイムの身になりたいものだよ!

 それと並行して、そもそも私は“挨拶程度で済ます”綺麗ごとの人間関係は、近隣の人達との付き合いのみで済ませたい思いもある。
 どうせ付き合うならば、たとえネット上であれ、原左都子相手に“3000字の長文ご意見”を寄越してくれるがごとくの勢いが感じられる関係を築きたい思いが強いのだ!  (いえいえ、もちろんの事、短文にも命が込められている事実も経験済みですよ。)

 その返答がこちらから叶わぬ今、やはりコメント欄休止(閉鎖)状態を続行するのが我が現在の実生活上のポリシーに合致するのかと考えたりもする。

パズル「推理」 (朝日新聞2017.2.18編)

2017年02月20日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞2017.2.18 パズル「推理」に原左都子が解答したもの。)

 
 慌ただしい週末を過ごし、土・日に配達された朝日新聞を昨夜開いたところ、パズル課題は「推理」だった。

 今回は、難易度5と最高レベルだ。 
 いつもよりやる気が倍増し、課題に取り組んだものの……

 9割方解答したところ、テレビ視聴する予定だった「四大陸フィギュアスケート大会 男子フリー」放送が始まってしまった。

 これが凄い!!
 男子フリーの世界とは4分内に4回転ジャンプを数回飛ばねば、もやは優勝出来ない高レベルの世界と化している。
 この“神業”を難なくこなす選手が次々現れるのが、これまた驚異的に素晴らしい!

 結局、6回の4回転ジャンプに成功した米国 ネイサン・チェン選手が今回の優勝をもぎ取った。


 さて、パズル「推理」に戻ろうとしたが、技術力が驚くべく進化したフィギュア演技視聴に集中した私は精根果ててしまった。


 今朝、一通りの仕事を終えた後、パズル「推理」に戻った。

 後1割の課題とは、「値段」の駆け引きだ。
 9割がたけりがついた後「値段」に於いてもう一歩のところでつまずいていた私は、“林さん”が「消臭剤は250円ではない」と言っている点に着目した。
 そうすると、30円差、20円差の人物達の「値段」の整合性が自ずと付くようになる。


 そして、解答を仕上げたのが上記写真だ。

 おそらくこれで間違いはないと思うのだが、朝日新聞「推理」ファンの皆様のご解答と一致するでしょうか??

遊び心と春の風 -2017年春編-

2017年02月17日 | 自己実現
 「春一番」が全国を吹き荒れる本日2月17日の日本列島だ。


 私が住む東京でも早朝は未だ寒さが勝っていたものの、午前10時過ぎ頃から南南西の風が吹き荒れ始めた。
 集合住宅高層階に位置する我が家の南面ベランダでも、朝干した洗濯物が大風に煽られ始め、飛ばされそうになった。 急いでベランダに出て、洗濯ものを部屋にしまい込まねばならない有様だった。


 「春一番」と聞いて思い出すのは、当該「原左都子エッセイ集」にて開設まもない時期の早春に綴った春一番に関するバックナンバーである。

 早速以下に、約9年前の2008.2.28 に公開したバックナンバー 「遊び心と春の風」 と題するエッセイの一部を反復させて頂こう。

 春風が花粉を運んでくる季節が訪れてしまった。 この時期がつらい人は多いことと察するが、私もそのひとりである。 病院へは家族の付添い以外は行かない、薬は飲まない主義の私は、5月の連休が終わる頃までくしゃみと鼻水と目の痒さとそれによる睡眠不足との闘いの日々だ。 ティッシュの箱が下手をすると一日一箱なくなる。 化粧は剥げるし、鼻の皮は剥けてヒリヒリするし散々な目にあう。
 前書きはさておき、実はこのエッセイは花粉症とは何ら関係のない“遊び心”がテーマである。
 本エッセイ集の本文やコメント返答の中で何箇所か“遊び心”について触れているのだが、私は一見真面目そうに見えて(??)その実“遊び心”旺盛な人間だ。 わかりやすく表現すると“ちょい悪”であるかもしれない。 若かりし頃からこの“遊び心”をとても大切に生きてきている。 春風が吹かずとも、年中遊び心満載である。
 中学生の頃、既にこの“遊び心”があった。 小さい頃から真面目人間のレッテルを貼られていた私であるが、第二次反抗期を過ぎた頃からこの“遊び心”が表出し始めていた。
 例えば、授業中にちょっといたずらをしたくなる。 今なら机の下で携帯でメール交換でもするのであろうが、当時は携帯はない替わりにこっそり手紙を回すという手段があった。 これが大好きで率先して仲間に加わっていた。 先生は私がそんなことに積極的に加担しているとは露も知らず、申し訳ないことに周りの友人ばかりが叱られていた。(ごめんなさい…)
  ある時には、授業に故意に遅れることを私から積極的に仲間にそそのかした事もある。 この時には当然ながら遅れた全員が廊下に立たされたのだが、先生は真面目で通っている私が仲間にそそのかされたと勘違いし、私に同情してくれた。(そうじゃなかったのよ、先生。 私が主犯だったの。仲間のみんな、ほんとにごめん。)
 だが子どもが“遊び心”を発揮するのは心が開放されている証拠であると私は思うのだ。 大学受験を目指して心が閉鎖的であった高校時代には“遊び心”が表出する機会は一切なく、ほとほとつまらない高校時代を送った。
 さて大人になってから、しかも上京後一人暮らしを始めて何ら“足かせ”がなくなった後は“遊び心”のオンパレードである。(誤解のないように言っておくが、仕事、学業、大事な人間関係との享楽等々、自分の主たる生活要素をすべて完璧にこなした上での話ですよ。)
 私はこの“遊び心”のお陰で長~い独身時代を心底堪能した。 実に充実した独身時代だった。(よろしければ当エッセイ集の“恋愛”“酒”“雑記”カテゴリー等々のバックナンバーをとくとご欄下さい。)
  “遊び心”にも自己責任が伴うべきである。  自立した大人であるならば、自己管理力と周囲からの信頼との後ろ盾の下“遊び心”を発揮するべきである。 それら自己管理力や他者からの信頼のバックグラウンドもなく“遊び心”を実行に移す輩がいるならば、それは単なる“遊び人”あるいは“単純馬鹿”に過ぎない。
   (  中略  )
 花粉症で鼻水タラタラ状態で色気も何もあったものではないが、暖かい春風の中、少し“遊び心”を楽しんでみましょうか。 ハックショ~ン!!
 (以上、バックナンバー「遊び心と春の風」より一部を引用したもの。)


 上記エッセイ公開より9年の年月が過ぎ去った。

 改めて当該バッククナンバーを9年ぶりに読み返してみると、当時はまだまだ私の心身に “本気の遊び心の勢い” が内在していたと自分の若さに驚かされると共に、その我が勢いに羨望すら抱く。
 私としては、ずっとそんな“遊び心”を温存して来たつもりだったのに、年月の流れとは無情にも人から“自由度”や“楽しさ”を奪っていくものなのかと、ちょっぴり悲しい感情すら抱かされる。
 所詮人間とは、年月の経過と共に “つまらない人生” を歩まされ死に至るべくDNA統制されているのか? との被害妄想感にすら陥りそうだ。

 「花粉症」に関しても、あれから9年の月日が過ぎ去り、我が花粉症は激化の一途を辿っている。
 と言うより、生まれながらのDNA要因として「アレルギー性鼻炎」を抱えている私の場合、その後の鼻炎の悪化度合いの程が甚だしいのだ。 今や、年中鼻水タラタラ状態で、一日2箱のティシュボックスを要する身だ。 その結果として化粧が剥がれるどころか、年中人前で鼻水を垂らさざるを得ない悲惨な状況下にある。


 そのように人前で鼻水を垂らしつつも、私には今後の人生に於ける私なりの夢が燦然と存在している。

 その夢とは、やはり「遊び心」 を持続したい! との希望だ。
 人間が長生き出来る秘訣とは、これ、すなわち「遊び心」を内面で育み続ける事と私は信じ疑っていない。
 その「遊び心」課題とは、当然ながら人それぞれでもあろう。

 そんな「遊び心」を我が意で実行しつつ、今後もアレルギー性鼻炎など吹っ飛ばし人生を楽しみ続けたいものだ。 
 
 などと本日今年の「春一番」大風に煽られながら、今日のエッセイを綴った次第である。

身内年寄りの我がままを如何に処理すればよいのか?

2017年02月15日 | 人間関係
 (写真は、今から約30年程前に実姉の“1度目”の結婚式に参列した際に撮影したもの。 花嫁である姉と母そして私の3人のショット写真だが、そのうち私の部分のみ再撮影したもの。 )


 今回この写真をピックアップしたのには理由がある。
 来る3月初旬に郷里の実母が入居中の高齢者有料介護施設へ、昨年10月の施設引越作業以来初めて訪れる予定となっている。
 その際にこの写真を含め母が写っている数枚の過去の写真を持参しようと、古いアルバムから引っ張り出してプリントアウトしたのだ。

 と言うのも母は施設入居に際し、一人暮らしをしていた郷里の自宅を即刻売却した。
 その際、自分が保存していた写真アルバム類のほとんどを廃棄処分したのだ。 その理由とは、それらを施設へ持ち込んだところで、近い将来自分の死後残された遺族(私の事だが)の後片付けの負担を増やすだけだ。 それを最小限に留めたいと母自身が配慮したためだ。
 そんな母なりの気遣いは、実際問題後片付けを担当せねばならない身としては有り難い。 「よくぞ、思い切ったね!」などと母を褒めつつ… 
 それでも、特に母の思い出深い写真類を今回の施設訪問時に持参せんと志したのだ。 そして、母が喜びそうな写真を改めて再撮影しプリントアウトしたとのいきさつだ。


 そんな我が実母だが、施設入居の日々が長くなるにつれ必然的に私への愚痴電話が多くなる。
 元々想像済みだが、入居当初はあんなに素直に喜んでいたのに、やはり何事も“慣れ”が引き起こす歪みとは誰とて何処でも必然的に発生する現象であるものと実感させられる。

 1ヶ月程前の事だったか、母が電話で私に告げるには「入居者仲間が3度の食事時に自分の自慢話をするのが鬱陶しい」……
 大いに起り得る事態だ。 
 それに対する我がアドバイス、「そんなの “あら、そうなの” とでも交わしてテキトーにあしらえば済むでしょ。 決して負けん気を出して自分の自慢などしない方が身のためだよ。 それをする程に自らの馬鹿さ加減を露呈する結果となるから。 そもそも嫌な奴とは距離を置いて、自分が好む相手と付き合ったらどうなの?」
 母曰く、「施設内は貴女が考えている程甘くない。 嫌な奴とも付き合わねば高齢者連中が集まっている施設では渡って行けない」
 「少しは気持ちは分かるから、そうすれば」などとテキトーに応えつつ、我が母も主体性無き人生を歩んで来たのだと実感させられる。
 それが嫌なら最初から施設になど入居せずして、独り身で生き抜くポリシーを育成しとけばいいのに…  昭和ヒトケタ生まれとは、戦争体験を繰り返す人生を歩むうちに自ずと集団主義に流れざるを得なかったのだろうか……
 ただその時の電話で、実母が良い意味でも悪い意味でも施設の一員として過ごしていこうと頑張っている姿を垣間見れた気もした。


 少し時が流れ、つい最近実母から別件で電話が掛かって来た。

 母曰く、「3月に貴女が来るらしいが、その時に親戚筋に貴女からお礼の菓子折を持参して欲しい。 と言うのも、私の兄弟夫婦がこの施設まで数回訪ねて来てくれている。 そのお礼を貴方にして欲しい。」

 う~~~ん、ちょっと待って! といつも言いたい私だ。
 自分の親戚筋に日頃お世話になっているのは実母である貴方自身でしょ?  その場合、遠くに住む娘の私からではなく、自分自身の名でお礼をするべきだと私は考える。 それならば、菓子折を貴方宛に送付するから、貴方自身が今後施設へ訪ねてくれる親戚筋に自分から(私の経済負担で送った)菓子折を手渡せば済むでしょう、と私が主張すると。
 
 それがとことん気に入らない実母だ。
 どうしても、貴女(私)の名前で親戚筋に母が日頃お世話になっていますと頭を下げ、挨拶をして欲しいと言って譲らない。
 実際問題、その実母の我がまま意向に沿って、私は40年来付き合いが全く無い郷里の親戚筋に毎年の年賀状はもちろんの事、電話にても母がお世話になっている旨を義務感で年に2度程かけている。 (いやもちろん、私が低姿勢で電話をすると郷里の親戚の皆さんは演技でも喜んでくれるのだが……)


 この現象、皆様はどう思われますでしょうか??

 私としては既に郷里を離れ、40年の年月に及び都会で自立し我が暮らしを営んでいる身だ。
 たとえ近い将来実母が他界しようが、私は今後も自分の骨を大都会東京に埋める予定でいる。
 故に、郷里の親戚筋とは母他界後には完全に縁が切れると考えている身にして、実母の意向に沿って、他人に等しい郷里の親戚筋に菓子折を送り、年に2度程ヘーコラと電話を掛け続けねばならないのだろうか!?

 良きアドバイスをお願いしたい気にもなる。