原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人が「人生を間違える」などあり得るのか?

2012年03月19日 | 自己実現
 先だって、恩師の文化勲章「秋の叙勲」受章のお祝い会合に出席させていただいた事に関しては、前回のエッセイに於いて公開したばかりである。

 その会合の場に於いて私は当「原左都子エッセイ集」の名刺を持参し、出席されていたゼミ生OBの一部の方々と名刺交換をさせていただいた。 
 「原左都子エッセイ集」は私のプライベート活動の範囲内で企画運営している業(なりわい)に過ぎないため、先日配布させていただいた名刺も当然ながら個人的に作成したものである。
 一方、ゼミ生OBの皆さんから差し出される名刺は、すべてご所属組織の“ロゴ入り”であられた。


 それを持ち帰り、今改めて眺めさせていただき抱く私の感情は多少複雑である。
 あの場で私的に作成した名刺を配る事がそもそも場違いだったのだろうか?  それに引き換え頂戴する名刺はすべて組織の“ロゴ入り”…   いやいや、ロゴが入っているからそれだけで名刺としての価値が増幅する訳でもあるまい…   私にとって今現在のプライベート活動に日々の生活の糧を見出せていると自負できるならば、それを名刺との形で堂々と顕示したとて許されるであろう。 等々……

 この私も20代の新卒で医学関係の民間企業に就職し役職に就任した暁には、自分が好みもせずとて会社のロゴ入り名刺を強制的に持たされたものである。
 営業・販売等の職種とはかけ離れていた従業員の私にとって、その名刺を自分の業務上配布する事は数少なかった。  要するにその名刺とは我がプライベートで配布する事を会社から暗黙に求められていたのであろう。 すなわちそれを私に持たせる事とは会社の販促活動の一環に他ならなかったと後に推察する。 さほどの販促に貢献しないまま、退職時大量に残った名刺をすべて会社に返還した私である。

 名刺というたかが一枚の紙切れが、その人の人生の何を表現できると言うのか??
 そんな大袈裟な発想をするのはもしかしたらこの原左都子だけなのかもしれないが、今の私は名刺一枚を配るに際しても、それが及ぼす影響力の重さの程を肝に銘じつつその行為に及んでいる。
 (結果としては、さほどの反応がないことにひとまず肩の荷を降ろしているのだが…

 ここで原左都子自身の今までの人生を、「名刺」という“いとも小さき紙切れ”を通して手短に表現させていただく事にしよう。
 我が遠き若き時代に所属した組織より“ロゴ入りの名刺”を強制的に持たされた時代から進化して、現在は自分自身の責任範囲で名刺を作成し配布しようとの意欲を得るまでに及んでいる。 他者からの評価の程はともかく、これはまさに「成長」と自己評価してもよいのではあるまいか?


 今回このような記事を綴ろうとしたきっかけとは、いつもながら朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”を見たからに他ならない。
 
 早速、3月17日付“悩みのるつぼ”に寄せられた50歳男性による 「映画に狂い人生を間違えた」 と題する悩みを要約して以下に紹介しよう。
 50歳でフリーの身にしてデザイン関係分野で働く男だが、最近自分の頭の中で考えてきたくだらない事がだんだん大きくなってきている。 大学中退、離婚、興した小さい会社も乗っ取られ、大病、……  自分が起こした事の責任を他人に押付けることなど出来ない。 ツキがない人生だったのは事実だが、現実に向き合う事を避ける性癖があることも否定できない。 そんな自分には映画の趣味があり、それに没頭している現実だ。 それが人生を豊かにしてきたことは事実である反面、いつからか自分にとって映画こそが人生を誤らせた猛毒だったとも疑い始めている。 人生を顕実に歩んでいった頭の良い友人達と違い、私は映画を通してその甘い毒にあてられ、実人生と違う時間を本物と感じて生きてきた気がしてしかたない。 


 それでは、原左都子の私論に入ろう。

 この50歳の相談者は、大病をしたとはいえそれに関しては現在克服できていると相談内容から推測する。 その闘病経験が何故今に生きないのであろうか?
 大学中退、離婚、個人事業の失敗など今の世にごまんと溢れている事象であろう。 それらもご自身にとっては辛い過去の経歴には間違いない事に同意するとしても、この男性は今まだ50歳にしてフリーの身分でデザイン関係で職があると言うではないか。 
 むしろ、今の時代の50代にして恵まれている部類と表現してもおかしくない立場にあろう。

 しかもこの相談者はご自身が没頭できる「映画」という趣味もあり、それに浸れる日常を過ごしておられるようだ。
 今回の“悩みのるつぼ”相談者であられる 経済学者の金子勝氏 が回答されているがごとく(映画という)「『違う時間』を持てた豊かさ」すらこの50歳男性にはあるのではないかと、私も同意申し上げる。

 それでも、何故この50代男性は自分の「人生を間違えた」とまでに悩んでおられるのだろうか? 
 その思考の根拠とは 「寂しさ」 に集約されるのではあるまいか?
 もしかしたらこの男性は「家族」を欲しておられるのかもしれない。 ならば今時50歳の有職者など、家族を持つに当たって適齢期とも言える若い世代ではあるまいか? その類稀な「映画」に掛ける情熱を通して良きパートナーに出会えることを、原左都子も応援申し上げたいくらいである。
 
 少しだけ発想の転換が出来たならば、この世の中とは実に面白おかしい世界であることが実感できるのではあるまいか?


 今回の表題として掲げた 「人が『人生を間違える』などあり得るのか?」 の結論を最後に綴るとすれば、一時「間違えた」と感じた人生程後々面白く転換する事も十分あり得るのかと原左都子は実感するのだ。

 先だってのパーティで頂戴した皆様の“ロゴ入り”の名刺ももちろん素晴らしい。
 それにしても、自分の人生とは日々移り行くのがこの世に生きる素晴らしさでもあろう。

 “悩みのるつぼ”相談者である50歳フリーデザイナー氏の今後も、ほんの少しの発想転換でその人生の行く先が豹変することを信じたい私である。 

吉井溥先生、「秋の叙勲」ご受章おめでとうございます!

2012年03月18日 | 教育・学校
 (写真は、昨日3月17日、横浜グランドインターコンチネンタルホテル「エーゲの間」に於いて開催された我が恩師 吉井溥先生 の「秋の受勲」ご受章お祝い会にて撮影したもの。 プライバシー保護の観点よりあえて写真の不鮮明処理を施しています。)

 
 我が恩師であられる吉井溥先生が、昨年秋の文化勲章「瑞宝中綬章叙勲」を受章されたとの連絡をゼミ生の先輩より頂いたのは、今年に入ってからのことである。

 原左都子が吉井溥先生にご指導いただいたのは、私が30代にして再び入学した公立大学及び大学院に於いてであった。
 そもそも入学当時の私の志望学問分野は「経営学」だった。
 ところが30代にして再び門をくぐった大学が受講必修選択科目としている一般教養科目として受講した「哲学」関連及び「法学」関連科目が、実に面白いではないか!
 これらに大いに学問意欲を高揚させられた私は、とにもかくにも受講可能科目は他学科の選択科目であろうがむさぼるように受講した。

 2年時の後期が始まる前に、所属ゼミを決定することを全学生が余儀なくされる。
 私の場合はあくまでも「経営学科」の学生として入学しているため、まさか当時一番はまっていた「哲学」関連ゼミを志願できるすべもない……
 
 そんな中、我が出身大学には「経営法学コース」との進路がある事に実に助けられた思いだったものだ。
 そのコースの担当教官の中で、勤労学生でもあった私が自分のスケジュールも視野に入れつつ、大学の時間割の可能な範囲で選択させていただいたのか「吉井ゼミ」だったというのが実は正直なところである。
 ゼミ受講申し込み締め切り期限が差し迫っていた中、大教室で吉井先生による「商法Ⅱ」の授業を受講後、まだ教壇に立っていらっしゃった先生に恐る恐るゼミ受講申請票を提出させていただいた私だ。
 (今頃になって受講申請しに来る“出遅れ学生”はどうせやる気がないぞ、と思われるのがおちと想像しつつ)、「受講申請が遅くなりまして申し訳ありませんが、よろしくお願い致します」等々、しどろもどろにゼミ申請書を提出する私に対して、吉井先生が実にお優しかったのが印象的である。 ニコニコとした笑顔で「こちらこそよろしくお願いします」と丁寧にご返答下さったことを今尚私は忘れていない。

 学生当時の私の目線からも、吉井先生とは18,9のキャピキャピ学生にも講義に飽きさせない授業展開が徹底している素晴らしい教授であられた。 
 そんな吉井先生の類稀なお力に依存させていただきつつ、私は大学院へも進学し引き続き吉井先生のご指導をいただいた。
 大学院ゼミは学生数が少ないため、私も先生に対して直接お話させていただける機会があった。 ある時ゼミの場で「先生は“話芸”が素晴らしいですね!」などと口が滑ってしまった私に対し「“話道”と言って欲しいです」と冗談交じりに返された吉井先生に自分の未熟さを思い知らされ、「申し訳ございません!」と平謝りしたことが実に懐かしい思い出である。 

 原左都子が吉井溥先生の想い出を語るときりがない。
 昨日の受章のお祝いにおいても、司会を担当されていたゼミ生の大先輩や元教官の方々が吉井先生の“話道”の素晴らしさに関して語っておられた言葉が印象深い。


 吉井先生とは、我が母校である大学及び大学院において「経営法学コース」を立ち上げられた張本人であるとのお話に思い入った私である。
 商学部経営学科においてこれ程「法学」の講義が充実していたのは、もしかしたら我が出身大学のみではなかったのだろうか?  それがもしももっと後や先の時代であったならば、私は吉井先生と出会わさせていただく事すらなかったのかもしれない。

 どうしても大学院「法学研究科」へ進学したく、私は東大を始めとする名立たる国立大学大学院受験を試みうとした事に関しては本エッセイ集バックナンバーでも既述している。(ところが結果としては、東大は受験を断念等、全て実り無く終わったのが悲しいかな現実だったものだ…)
 それでも当時法学に感化され吉井先生と奇跡的に巡り合わせていただけたからこそ、私はあの大学に於いて大学院への進級が叶い「経営法学修士」の学位を取得させて頂いたことには間違いないのだ。 

 
 この度、吉井溥先生が受章された「秋の叙勲」とは“教育研究功労”の分野により表彰を受けられたものであるとのことだ。
 吉井先生が大学教授(及び学部長、さらには名誉教授)としてご活躍された経過のみではなく、79歳になられている今現在尚、学問を始めとする社会全般に多大なるご貢献を続けていらっしゃるご実績が総合的に評価を受けられた結果として、今回の「秋の叙勲」ご受章に直結したものと私は拝察申し上げる。

 吉井溥先生、今回のご受章誠におめでとうございます!

職業に於ける「肩書」の意味合いを問う

2012年03月15日 | 仕事・就職
 (写真は、朝日新聞3月10日別刷「be」に掲載された 山科けいすけ氏による漫画 「らいふいずびうちふる」より転載させていだたいたもの)

 いつもならが不鮮明な写真を掲載して恐縮である。


 早速、朝日新聞に掲載された上記山科けいすけ氏による「らいふいずびうちふる」の漫画の内容を以下に改めて紹介しよう。
 息子曰く   「お父さん“自称占い師”って言うけど、自称じゃない占い師っているの?」
 応えて父曰く   「ん? そりゃあ、協会とか団体に所属しているとか…」
 それに息子が応じるに   「じゃあフリーの占い師はみんな自称なの?」
 父は困惑しつつ   「いや… お客がついて料金をもらって、それで生活してればプロだってことだから…」
 さらに息子が迫って曰く   「他に仕事やってたらダメなの? どこから“自他共に許す占い師”になるの?」
 その会話のやり取りを聞いていた街頭の占い師曰く   「占いが目的じゃない人はあっち行って!!」  「最近、あーいうのが多くて困るな……」


 この山科けいすけ氏の漫画を、朝日新聞紙上で拝見するのを毎週楽しみにしている原左都子だ。
 現代の社会病理とも言える(一種くだらないとも表現できそうな)諸現象を、山科氏が漫画という描写技術を通すことにより、やんわりコミカルに風刺されているところが実に素晴らしい。 

 今回山科氏が漫画の中で掲げたテーマである“自称占い師”に関して論評するならば、占い師とは“自称”以外にあり得ない職業分野であろうと原左都子も捉える。

 私も子どもの頃(高校生位の思春期まで)は、“星座占い”や“血液型占い”等に多少の興味があった。 周囲の友達が「今日は恋愛運がいい」だの、やれ「私はB型だからちょっと自分勝手なところがあるかな?」等々と面白おかしく騒ぐのに同調出来る時代が私にもあった。
 その後医学関係の分野に進み、例えば血液型に関して科学的に理解可能となった後は、その種の占いを好む人との会話とは、あくまでも人間関係円滑化の“会話術”の一種と自然と心得るようになり、そのように対応してきた。

 現在に至っても朝パソコンを立ち上げると、インターネット初期画面で「星座占い」を一応チェックするミーハーな私である。 こんな事を書くと原左都子も結局“単細胞”であることがバレバレだが、“星座占い”でいい事が書かれているとその気になって一時ウキウキ気分にさせてもらえるのだ! 
 反面、マイナーな占いを目にした時には “ちょっと待てよ、私に限ってそんな訳ないよ!” と占い師に反発しつつも直ぐに忘れ去れる身勝手な性格でもある。
 さらには「今日は異性から愛の告白を受けるでしょう」などとのあり得もしない占いを目にした場合、一瞬困惑させられるものの 「私が尊敬申し上げる男性の誰かからメールでも届くのかな~?」と我が身息災に解釈する事にしている。

 それにしても、繰り返すが「占い師」なる職業とは、大変失礼ながら“自称”以外にあり得ない分野に位置することは間違いない事実であろう。
 山科氏の漫画の中に登場する父親がおっしゃる通り、顧客がつき労働対価が得られ、それで「占い師」と自称する人物の生活が成り立っているのであれば、それは「プロ」として認められてもよいと言うことにはなろうか?
 そのように考察すると、私が日々インターネット画面で検索している“星座占い”の「占い師」とは、ネット検索数が収入の一部に直結しているとの事実なのだろうか??

 それを承知した上で「占い師」と名乗る皆さんに提言したいのだが、「占い師」の使命とは庶民に日々の活力を“一瞬”のみでも与えてくれる事、ただそれだけで十分ではなかろうか。 星座や血液型等々占いの分野の如何にかかわらず、「占い師」の“お告げ”を見聞した顧客が“一瞬”でも活気付けるような提言をする事こそが、今現在混乱した世の中において「占い師」と名乗るべく職業の使命を果せるという話であろう。


 現実問題として今の時代、“自称”“他称”にかかわらず一見しただけで「訳が分からない」職業が満ち溢れている。

 近年知人より頂戴した名刺より“訳の分からない”職種をここで列挙すると、「○○プロデューサー」「○○コーディネーター」「○○プランナー」「○○スペシャリスト」「○○エンジニアー」「○○クリエーター」「○○ソムリエ」……  このような外来語が溢れている職業社会の現状である。
 いえ、もちろん名刺のご本人と既に十分接点がある場合は、その職業で如何なる活躍をされているのかはある程度把握出来る。  そうではなく、初対面でこの種の名刺を差し出された場合には、誰とて困惑し「何をされているのですか?」と問い質したくなるのが実情ではなかろうか?
 これが“自称”なのか、あるいは上記山科氏の漫画のごとく「協会とか団体に所属して」その名称を使用しているのか一切不明である。  もしかして、その種の資格名を、名も無き民間団体による資格試験受験合格の後にご自身の“肩書”として使用しているのかもしれない。

 現在の日本に於いては無数の資格取得団体が存在し、それら団体が営利目的で市民にその資格取得を煽っている現状である。
 これら“資格取得の流行”に関してどれ程国政が関与しているのかは不明だが、その多くは政府とその天下り団体や民間団体との癒着により、“ろくでもない資格”取得を国民に煽り、多額の収益を得ている現状ではなかろうか。
 それが証拠に、我が子が中学校入学以来幾度も所属中高から受験を奨励された「日本漢字能力検定協会」も、過去に於いてその暴利の実態を叩かれた有様であることは皆さんも記憶に新しいであろう。  このような資格関連において暴利をむさぼる団体の存在を、政府はその癒着により他にも数多く容認している恐れを、我々国民は是非共危惧せねばならない。


 資格や肩書きを得たからと言って、易々とこの世に生き延びれるはずもないことを市民は肝に銘じるべきである。
 自分の職種の協会や団体に所属したならば、即我が身の今後が保障されるなどあるべくもない。

 ここはやはり自称であれ他称であれ「肩書」に囚われることなく、自分が目指す分野の専門力を日々高めつつ、世や顧客が何を欲しているのかを見定めながら各人が精進を続けるしかこの世を行き抜けるすべはないのではなかろうか。

定年後働きたい人材は周囲に迎合せねばならないのか?

2012年03月12日 | 時事論評
 我が亭主が4月初旬に定年退職を迎える。

 その事務処理に当たり、職場の定年退職業務担当者より「失業保険」の申請を勧められたのだと亭主が言う。 その場合、定年後すぐ職業安定所(ハローワーク)に通い、今後の就業に関して面談や相談を定期的に実施する事になるようだ。

 亭主曰く 「この経済不況下の今時、年寄りには清掃か守衛の仕事位の紹介しかないだろうなあ
 それに応えて私曰く 「もしも奇跡的に自分の適職を紹介された場合、働く気はあるの??」 
 さらに亭主が冗談半分で応えるに 「処遇待遇にもよるが条件が良ければ働いてもいいよ」 
 (そんな都合のいい仕事が年寄りにある訳ないじゃんねえ~~。


 少し前に政府は、65歳まで働きたい人全員を雇用するよう企業に義務付ける方針を示した。
 若者を始めとする現役世代とて超就職難のこの時代に、民間企業相手に“高齢者を雇用せよ”との政府の方針とは如何なものか、と呆れるのが原左都子の見解である。
 世界規模での経済危機のこの時代背景の下、現状打開策として今現在早急に着手するべき課題とは、若い現役世代の雇用こそを充実させる事であるはずだ。 こんな時に何故政府は高齢者の雇用の充実を打ち出したのであろうか?

 何年か前に“ワークシェアリング”が叫ばれた時代もあったが、その頃はまだしも“シェア”できる仕事が社会に存在していたからこそ、その議論が成り立った事と考察する。
 ところが今現在は、老いも若きもが“シェア”するべく労働市場が貧困を極めている実態であろう。 
 こんな厳しい世の中に生きている庶民の現状を知ってか知らずか、民主党政権が国民のどの世代にもいい顔をしようとの魂胆で安直な“八方美人”政策を示したとて、“ないものはない”社会背景の中、企業の定年退職者が「ハローワーク」へ通わされる虚しさも少しは理解して欲しいものだ。

 加えて忌々しき問題として、確かに高齢にして身を削ってでも働かねばこの世に生きていかれない貧困層が存在するのも事実であろう。
 ただ、今回政府が立ち上げた「65歳まで働きたい人の雇用を企業に義務付ける方針」とは、切羽詰った高齢者の存在を救う話とかけ離れ、ある種“恵まれた人種”をさらに保護せんとの議論であることに大いに反発したい私である。 
 (結局は、官僚依存野田政権が得意とする“政府と大手企業との癒着”の範疇の話だよねえ~)

 まあ確かに、例え大手企業に定年まで勤めたとは言えども定年後の暮らしがさほど豊かとは言えないのが今の時代のサラリーマンの現状であることも理解できる。
 我が家のごとく高齢出産で産んだ子どもの学費が定年後に至ってまだまだ発生するご家庭も今時少なくない事であろう。 親の介護や老人施設への入居にも多大な出費が伴うこととも推察する。
 そうした場合政府の方針はさておき、定年後も働いて一家の生計を支えねばならないご亭主がこの世に少なからず存在することは想像がつく。


 そのように定年後も一家を支えるため仕事を欲するご亭主相手に、定年後働くに際するアドバイスを提示したと思しき記事を1月31日付朝日新聞で発見した。

 朝日新聞1月31日付「耕論」ページの“65歳まで会社員ですか”との記事内から、原左都子が一番に異論を呈したい見識者氏の見解を以下に紹介しよう。
 「愛嬌が一番、自慢話ダメ」と題する見解を綴った62年生まれ(現在未だ40代との計算になるが)の人材コンサルタント専門家と名乗る人物のご意見を以下に要約する。
 大半の会社は高齢者に専門的な仕事を期待していない。 高齢者が持っているノウハウなど直ぐに役に立たなくなる。 高齢者に求められている資質とはひとえに「愛嬌」である。 逆に自慢話や愚痴は禁物だ。 今の高齢者は厚生年金をもらいながら働いているし「定年まで勤める」意識が強いので、再雇用されたら働く意欲が一気に下がってしまう故に定年を境にキャリアの断絶が起きている。 そのため高齢者は「愛嬌」だけでは済まなくなるが、能力を磨き続けるならば長い目で見れば日本の活力向上につながるはずだ。
 (以上、朝日新聞記事より 日本能率協会勤務の小林智明氏と名乗る一社員 の見解より引用)

 上記小林智明氏のご見解を、原左都子が今一度私なりにデフォルメしつつまとめ直して以下に再度紹介しよう。
 定年退職後再雇用された高齢者達に職場は専門力など誰一人として期待していないから、まずは「愛嬌」を若者達に振りまこうじゃないか! 決して自分がこれまでに培ってきた(既に形骸化している専門分野の)自慢話を一つたりとて後進の若者に披露してはならないぞ! お前らはなあ、過去の馬鹿げた政治に安穏とした時代の負の産物としてこの世に生き長らえているだけの存在なんだよ! 少しは恥を知れよ。 その恥を知ったならば、高齢者としてこの世で再び労働するに当たって「愛嬌」だけでは通用しないんだよ。高齢者なりにもっと能力を磨けよな。それこそが今後の日本の活性化に繋がるって事だよ!

 小林智明先生、よく理解申し上げました。
 未だ40代の小林先生の観点からみると、高齢者って社会の中で何の役にも立たない割には“自慢話”ばかりするろくでもない存在と言う結論なのですね。

 ところで小林先生。
 先生がおっしゃるところの「専門家」とは如何なる分野の専門家なのだろう。 この議論はそれに大いに左右されるものと私は心得るのだが、小林先生が現在人材コンサルタントであられるということは、そのバックグラウンド範囲内でものを言っておられると理解してよいのだろうか??
 そうした場合原左都子としては、貴方は未だその若さ故に単なる“世間知らず”と判断申し上げたい気もする。  高齢者と一言で表現しても、その経歴やバックグラウンドは千差万別であることだろう。 40代の貴方が今その高齢者を論評するのは、数十年時が早かったということではあるまいか?? 

 朝日新聞「耕論」のその他2つのオピニオンは、いずれも1940年代生まれで高齢者として今尚現役でご活躍中の方々よりご自身の経験を語られた充実したご意見であった。
 題名だけ紹介すると 「匠は還暦後も海外で通用」 「肩書より充実感を大切に」
 
 それらのご意見には私も同意申し上げたい。 
 年齢を重ねたからと言って、すぐさま職場の周囲に迎合して愛嬌を振りまかねばならない義務などないはずであるし、例えば先端科学技術の分野であれば科学の歴史とはそもそも地球上で5000年来の重みがあるもの故に、それに挑む基本姿勢を後進に伝承することは高齢者とて重々可能であるはずだ。
 
 むしろ後進弱輩者から傲慢な態度で頭ごなしに高齢者の存在を否定してかかられるとならば、この世の進化など望めないのではなかろうか?

 このような馬鹿げた見解が“一応専門家と名乗る”若い世代の人物より“そらみたことか”のごとく新聞紙上で掲載公開されること自体、野田政権の官僚の言うなりの単純論理に過ぎない 「つけを後世に残さない」 との政治指針と重複している事を実感させられ愕然とする思いである……。

母親としての義務から解放される日

2012年03月10日 | 教育・学校
 冒頭から今回掲げた上記表題の結論を語るならば、女がこの世に我が子を産み落とした以上、自分の命が枯れ果てるその日まで 「母親としての義務から解放される日」 が訪れる事などあり得ないのであろう。

 愚かな私は、産院にて帝王切開緊急手術の超難産の末に自分自身が生き長らえている事実に気付いた時、初めてそれに頭が回った。


 元々、私には母親志向 (言い換えると、子どもが欲しいとの志向) は無かった。
 自己実現の夢に明け暮れる“我が身息災”の日々を歩んでいた私は結婚願望が薄く、そのまま一生一人で生き抜く覚悟が脳裏に霞んでいた。
 縁あって晩婚に至った後も、私としては子どもの存在など二の次でよかったのが本音である。(現在の配偶者もそれでOK、との条件だったからこそ婚姻が整った背景でもある。) 
 そんな自己中心人生を歩むアウトサイダー的我々夫婦に、何とも有難い事に神は貴重な次世代の命を授けてくれた。

 これが高齢にして妊娠中は至って順調な日々を過ごし、出産直前まで高校教諭としての遠距離通勤を元気にこなした私である。
 いよいよ出産が差し迫った私は職場を退職し、亭主に稼ぎを頼る無職状態とはこれ程のんきで気楽なものかと、(要するに世間で言うところの“専業主婦”とやらの立場)を生まれて初めて経験しつつ、下手なりに亭主の飯を用意しつつ一時妊娠中の幸福感を味わったものである。

 ところが、事態は一変する。
 (我が子が生まれ出た時の事情に関しては、「原左都子エッセイ集」2008年8月バックナンバー 「医師の過失責任」 に於いてその詳細を述べているため、それを参照下されば幸いです。)
 超難産の末子どもを授かった退院後の私の母親業に“待った”などなかった。 とにもかくにも、この子を育てていく使命が私に課せられた事を実感し認識する事が私の母親業のスタートラインであった。

 その後我が子の“お抱え家庭教師”(自称サリバン先生)として君臨しつつの原左都子の子育て歴が展開する事実は本エッセイ集で幾度が公開しているため、長年の読者の皆様は既にご存知であろう。
 そんな中、原左都子が母としての立場で我が“お抱え家庭教師”歴を集大成として綴ったのが、子どもが義務教育を終えた2009年3月に公開した 「We can graduate!」 だったものだ。 (これも我が子のプライバシー保護観点よりここでは反復を避けますので、もしご興味があればバックナンバーをご参照下さい。)


 そして原左都子は一昨日我が子の高校卒業式を迎え、一保護者として学校の式典に出席した。

 上記2009年3月公開の「We can graduete!」を今現在私自身が読み返して感慨深いのは、その後我が子が高校に進学して以降、親の想像と期待をはるかに超えて目覚ましく成長した事実を実感させてもらえる事である。

 我が子が高3に突入する直前に突然、大幅に「進路を変更したい!」と私に訴えてきた。 これこそが、我が子の真の成長を象徴する出来事と私は実感させられる。
 よくぞまあ、自分の今後の進路を冷静に判断し変更できるまでに成長してくれたものである。 私が当初娘に望んでいた芸術系ではなく、娘が新たに選択した進路分野が“親の背中を見て育った”とも考察できそうな観点と思しき事が親として興味深いし、この分野ならば今後も我々親が積極的に関与可能な事を娘が虎視眈々と視野に入れたとするならば、その我が娘の冷静な判断力も評価に値するものと捉えるのだ。


 最後になるが、原左都子が我が娘の高校卒業により“心より”「母親としての義務から解放される日」 を実感した、実に“つまらない話題”を以下に紹介してこの記事を締めくくることにしよう。

 上記のごとく一昨日娘の高校卒業式に出席した私が“これぞ我が母親業最後の試練!”と実感させられたのは、卒業式後の「謝恩会」の場である。
 卒業式後の「謝恩会」とはPTAが主催するのが世の常であるが、原左都子にしてみればこのPTAこそが我が子の成長にとって何の利益もない割にはとことん鬱陶しい存在と位置付けていたため、義務教育課程ではこれを避け通して来た。
 ところが今回の我が子高校卒業に際しては、学校から大学推薦を賜りそれに合格している実態もあるため、謝恩会会場で恩師達にまさに“謝恩”の一言御礼挨拶を申し上げるべきとの判断に至ったのだ。
 そして卒業式典の後PTAが開催する「謝恩会」に出席したのだが、やはりそれに参加している親連中の存在が最後の最後まで鬱陶しいことこの上ない始末だ。
 この謝恩会の場では某ホテル(?)のバイキングビュッフェを外注していた模様である。 卒業式後おなかを空かせているであろう卒業生徒達に配慮して、私は外部で昼食を済ませた後に謝恩会に出席した。 ところが謝恩会の会合が始まるや否や、母親連中を中心に保護者達も生徒に負けじとバイキングテーブルに我先に押し寄せるではないか!! しばらくこのあさましい状態が続く…

 いや、保護者の気持ちが分からないでもない。 結局、この大人達も「謝恩会」とは言えどもその参加をPTAから半強制される中、とにかく会費分を飲食してとっとと帰ろうとの魂胆だったのではなかろうか??  それが証拠に、横で飲み食いに専念している保護者に「この謝恩会は今後どのようなスケジュールで運営されるのでしょうか?」と声をかけた私は、その保護者から「知りませんので、他の方に聞いて下さい!」と鬱陶しい奴と言わんばかりに冷たくあしらわれてしまった…

 子どもの卒業謝恩会に際して教員に謝礼を述べるでもなくただ飲み食いを続けるのならば、この原左都子のごとく子ども幼少時代から、その種の会合出席を強制されることが迷惑との思いをPTAに訴えてくればよかったものだ。 その努力すらせずして学校とPTA役員の言いなりになり、会合に形だけ出席する事が親の役割と割り切っている弱者保護者の存在とは如何なものか…。

 我が子18歳にして無事高校を卒業してくれた暁に原左都子が考察するに、一「母親」として最高に鬱陶しい存在だったのは、世間の批判を恐れずに表明するならば同じく母親をはじめとする保護者の存在だったと結論付けるのだ。 
 我が子幼少の頃よりの公園「ママ友」からスタートし、その後幼稚園・学校PTAの母親連中との付き合いを決死の思いですり抜けて来た私である。
 今回の高校卒業式後の「謝恩会」を最期として、我が人生に於ける母親連中との最後の付き合いの試練を終焉できることに感慨深い思いである。
 その意味で一昨日の我が娘の高校卒業式こそが、原左都子にとっての「母親としての義務から解放される日」の真の一通過点だったようにも心得るのだ。


 子どもがいらっしゃる女性の皆さん、もちろん今後もお互いにこの世に産み落とした我が子の成長を願い続けるのが母親としての一番の使命であることには間違いないでしょう。
 それに加えて、今後は「母親」どうのこうのの“肩書き”に安穏と縛られることなく、一人間同士としてこの世に生きていく中で今一度対等に出会える事に期待していますよ!