先だって、恩師の文化勲章「秋の叙勲」受章のお祝い会合に出席させていただいた事に関しては、前回のエッセイに於いて公開したばかりである。
その会合の場に於いて私は当「原左都子エッセイ集」の名刺を持参し、出席されていたゼミ生OBの一部の方々と名刺交換をさせていただいた。
「原左都子エッセイ集」は私のプライベート活動の範囲内で企画運営している業(なりわい)に過ぎないため、先日配布させていただいた名刺も当然ながら個人的に作成したものである。
一方、ゼミ生OBの皆さんから差し出される名刺は、すべてご所属組織の“ロゴ入り”であられた。
それを持ち帰り、今改めて眺めさせていただき抱く私の感情は多少複雑である。
あの場で私的に作成した名刺を配る事がそもそも場違いだったのだろうか? それに引き換え頂戴する名刺はすべて組織の“ロゴ入り”… いやいや、ロゴが入っているからそれだけで名刺としての価値が増幅する訳でもあるまい… 私にとって今現在のプライベート活動に日々の生活の糧を見出せていると自負できるならば、それを名刺との形で堂々と顕示したとて許されるであろう。 等々……
この私も20代の新卒で医学関係の民間企業に就職し役職に就任した暁には、自分が好みもせずとて会社のロゴ入り名刺を強制的に持たされたものである。
営業・販売等の職種とはかけ離れていた従業員の私にとって、その名刺を自分の業務上配布する事は数少なかった。 要するにその名刺とは我がプライベートで配布する事を会社から暗黙に求められていたのであろう。 すなわちそれを私に持たせる事とは会社の販促活動の一環に他ならなかったと後に推察する。 さほどの販促に貢献しないまま、退職時大量に残った名刺をすべて会社に返還した私である。
名刺というたかが一枚の紙切れが、その人の人生の何を表現できると言うのか??
そんな大袈裟な発想をするのはもしかしたらこの原左都子だけなのかもしれないが、今の私は名刺一枚を配るに際しても、それが及ぼす影響力の重さの程を肝に銘じつつその行為に及んでいる。
(結果としては、さほどの反応がないことにひとまず肩の荷を降ろしているのだが…)
ここで原左都子自身の今までの人生を、「名刺」という“いとも小さき紙切れ”を通して手短に表現させていただく事にしよう。
我が遠き若き時代に所属した組織より“ロゴ入りの名刺”を強制的に持たされた時代から進化して、現在は自分自身の責任範囲で名刺を作成し配布しようとの意欲を得るまでに及んでいる。 他者からの評価の程はともかく、これはまさに「成長」と自己評価してもよいのではあるまいか?
今回このような記事を綴ろうとしたきっかけとは、いつもながら朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”を見たからに他ならない。
早速、3月17日付“悩みのるつぼ”に寄せられた50歳男性による 「映画に狂い人生を間違えた」 と題する悩みを要約して以下に紹介しよう。
50歳でフリーの身にしてデザイン関係分野で働く男だが、最近自分の頭の中で考えてきたくだらない事がだんだん大きくなってきている。 大学中退、離婚、興した小さい会社も乗っ取られ、大病、…… 自分が起こした事の責任を他人に押付けることなど出来ない。 ツキがない人生だったのは事実だが、現実に向き合う事を避ける性癖があることも否定できない。 そんな自分には映画の趣味があり、それに没頭している現実だ。 それが人生を豊かにしてきたことは事実である反面、いつからか自分にとって映画こそが人生を誤らせた猛毒だったとも疑い始めている。 人生を顕実に歩んでいった頭の良い友人達と違い、私は映画を通してその甘い毒にあてられ、実人生と違う時間を本物と感じて生きてきた気がしてしかたない。
それでは、原左都子の私論に入ろう。
この50歳の相談者は、大病をしたとはいえそれに関しては現在克服できていると相談内容から推測する。 その闘病経験が何故今に生きないのであろうか?
大学中退、離婚、個人事業の失敗など今の世にごまんと溢れている事象であろう。 それらもご自身にとっては辛い過去の経歴には間違いない事に同意するとしても、この男性は今まだ50歳にしてフリーの身分でデザイン関係で職があると言うではないか。
むしろ、今の時代の50代にして恵まれている部類と表現してもおかしくない立場にあろう。
しかもこの相談者はご自身が没頭できる「映画」という趣味もあり、それに浸れる日常を過ごしておられるようだ。
今回の“悩みのるつぼ”相談者であられる 経済学者の金子勝氏 が回答されているがごとく(映画という)「『違う時間』を持てた豊かさ」すらこの50歳男性にはあるのではないかと、私も同意申し上げる。
それでも、何故この50代男性は自分の「人生を間違えた」とまでに悩んでおられるのだろうか?
その思考の根拠とは 「寂しさ」 に集約されるのではあるまいか?
もしかしたらこの男性は「家族」を欲しておられるのかもしれない。 ならば今時50歳の有職者など、家族を持つに当たって適齢期とも言える若い世代ではあるまいか? その類稀な「映画」に掛ける情熱を通して良きパートナーに出会えることを、原左都子も応援申し上げたいくらいである。
少しだけ発想の転換が出来たならば、この世の中とは実に面白おかしい世界であることが実感できるのではあるまいか?
今回の表題として掲げた 「人が『人生を間違える』などあり得るのか?」 の結論を最後に綴るとすれば、一時「間違えた」と感じた人生程後々面白く転換する事も十分あり得るのかと原左都子は実感するのだ。
先だってのパーティで頂戴した皆様の“ロゴ入り”の名刺ももちろん素晴らしい。
それにしても、自分の人生とは日々移り行くのがこの世に生きる素晴らしさでもあろう。
“悩みのるつぼ”相談者である50歳フリーデザイナー氏の今後も、ほんの少しの発想転換でその人生の行く先が豹変することを信じたい私である。
その会合の場に於いて私は当「原左都子エッセイ集」の名刺を持参し、出席されていたゼミ生OBの一部の方々と名刺交換をさせていただいた。
「原左都子エッセイ集」は私のプライベート活動の範囲内で企画運営している業(なりわい)に過ぎないため、先日配布させていただいた名刺も当然ながら個人的に作成したものである。
一方、ゼミ生OBの皆さんから差し出される名刺は、すべてご所属組織の“ロゴ入り”であられた。
それを持ち帰り、今改めて眺めさせていただき抱く私の感情は多少複雑である。
あの場で私的に作成した名刺を配る事がそもそも場違いだったのだろうか? それに引き換え頂戴する名刺はすべて組織の“ロゴ入り”… いやいや、ロゴが入っているからそれだけで名刺としての価値が増幅する訳でもあるまい… 私にとって今現在のプライベート活動に日々の生活の糧を見出せていると自負できるならば、それを名刺との形で堂々と顕示したとて許されるであろう。 等々……
この私も20代の新卒で医学関係の民間企業に就職し役職に就任した暁には、自分が好みもせずとて会社のロゴ入り名刺を強制的に持たされたものである。
営業・販売等の職種とはかけ離れていた従業員の私にとって、その名刺を自分の業務上配布する事は数少なかった。 要するにその名刺とは我がプライベートで配布する事を会社から暗黙に求められていたのであろう。 すなわちそれを私に持たせる事とは会社の販促活動の一環に他ならなかったと後に推察する。 さほどの販促に貢献しないまま、退職時大量に残った名刺をすべて会社に返還した私である。
名刺というたかが一枚の紙切れが、その人の人生の何を表現できると言うのか??
そんな大袈裟な発想をするのはもしかしたらこの原左都子だけなのかもしれないが、今の私は名刺一枚を配るに際しても、それが及ぼす影響力の重さの程を肝に銘じつつその行為に及んでいる。
(結果としては、さほどの反応がないことにひとまず肩の荷を降ろしているのだが…)
ここで原左都子自身の今までの人生を、「名刺」という“いとも小さき紙切れ”を通して手短に表現させていただく事にしよう。
我が遠き若き時代に所属した組織より“ロゴ入りの名刺”を強制的に持たされた時代から進化して、現在は自分自身の責任範囲で名刺を作成し配布しようとの意欲を得るまでに及んでいる。 他者からの評価の程はともかく、これはまさに「成長」と自己評価してもよいのではあるまいか?
今回このような記事を綴ろうとしたきっかけとは、いつもながら朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”を見たからに他ならない。
早速、3月17日付“悩みのるつぼ”に寄せられた50歳男性による 「映画に狂い人生を間違えた」 と題する悩みを要約して以下に紹介しよう。
50歳でフリーの身にしてデザイン関係分野で働く男だが、最近自分の頭の中で考えてきたくだらない事がだんだん大きくなってきている。 大学中退、離婚、興した小さい会社も乗っ取られ、大病、…… 自分が起こした事の責任を他人に押付けることなど出来ない。 ツキがない人生だったのは事実だが、現実に向き合う事を避ける性癖があることも否定できない。 そんな自分には映画の趣味があり、それに没頭している現実だ。 それが人生を豊かにしてきたことは事実である反面、いつからか自分にとって映画こそが人生を誤らせた猛毒だったとも疑い始めている。 人生を顕実に歩んでいった頭の良い友人達と違い、私は映画を通してその甘い毒にあてられ、実人生と違う時間を本物と感じて生きてきた気がしてしかたない。
それでは、原左都子の私論に入ろう。
この50歳の相談者は、大病をしたとはいえそれに関しては現在克服できていると相談内容から推測する。 その闘病経験が何故今に生きないのであろうか?
大学中退、離婚、個人事業の失敗など今の世にごまんと溢れている事象であろう。 それらもご自身にとっては辛い過去の経歴には間違いない事に同意するとしても、この男性は今まだ50歳にしてフリーの身分でデザイン関係で職があると言うではないか。
むしろ、今の時代の50代にして恵まれている部類と表現してもおかしくない立場にあろう。
しかもこの相談者はご自身が没頭できる「映画」という趣味もあり、それに浸れる日常を過ごしておられるようだ。
今回の“悩みのるつぼ”相談者であられる 経済学者の金子勝氏 が回答されているがごとく(映画という)「『違う時間』を持てた豊かさ」すらこの50歳男性にはあるのではないかと、私も同意申し上げる。
それでも、何故この50代男性は自分の「人生を間違えた」とまでに悩んでおられるのだろうか?
その思考の根拠とは 「寂しさ」 に集約されるのではあるまいか?
もしかしたらこの男性は「家族」を欲しておられるのかもしれない。 ならば今時50歳の有職者など、家族を持つに当たって適齢期とも言える若い世代ではあるまいか? その類稀な「映画」に掛ける情熱を通して良きパートナーに出会えることを、原左都子も応援申し上げたいくらいである。
少しだけ発想の転換が出来たならば、この世の中とは実に面白おかしい世界であることが実感できるのではあるまいか?
今回の表題として掲げた 「人が『人生を間違える』などあり得るのか?」 の結論を最後に綴るとすれば、一時「間違えた」と感じた人生程後々面白く転換する事も十分あり得るのかと原左都子は実感するのだ。
先だってのパーティで頂戴した皆様の“ロゴ入り”の名刺ももちろん素晴らしい。
それにしても、自分の人生とは日々移り行くのがこの世に生きる素晴らしさでもあろう。
“悩みのるつぼ”相談者である50歳フリーデザイナー氏の今後も、ほんの少しの発想転換でその人生の行く先が豹変することを信じたい私である。