原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

母親としての義務から解放される日

2012年03月10日 | 教育・学校
 冒頭から今回掲げた上記表題の結論を語るならば、女がこの世に我が子を産み落とした以上、自分の命が枯れ果てるその日まで 「母親としての義務から解放される日」 が訪れる事などあり得ないのであろう。

 愚かな私は、産院にて帝王切開緊急手術の超難産の末に自分自身が生き長らえている事実に気付いた時、初めてそれに頭が回った。


 元々、私には母親志向 (言い換えると、子どもが欲しいとの志向) は無かった。
 自己実現の夢に明け暮れる“我が身息災”の日々を歩んでいた私は結婚願望が薄く、そのまま一生一人で生き抜く覚悟が脳裏に霞んでいた。
 縁あって晩婚に至った後も、私としては子どもの存在など二の次でよかったのが本音である。(現在の配偶者もそれでOK、との条件だったからこそ婚姻が整った背景でもある。) 
 そんな自己中心人生を歩むアウトサイダー的我々夫婦に、何とも有難い事に神は貴重な次世代の命を授けてくれた。

 これが高齢にして妊娠中は至って順調な日々を過ごし、出産直前まで高校教諭としての遠距離通勤を元気にこなした私である。
 いよいよ出産が差し迫った私は職場を退職し、亭主に稼ぎを頼る無職状態とはこれ程のんきで気楽なものかと、(要するに世間で言うところの“専業主婦”とやらの立場)を生まれて初めて経験しつつ、下手なりに亭主の飯を用意しつつ一時妊娠中の幸福感を味わったものである。

 ところが、事態は一変する。
 (我が子が生まれ出た時の事情に関しては、「原左都子エッセイ集」2008年8月バックナンバー 「医師の過失責任」 に於いてその詳細を述べているため、それを参照下されば幸いです。)
 超難産の末子どもを授かった退院後の私の母親業に“待った”などなかった。 とにもかくにも、この子を育てていく使命が私に課せられた事を実感し認識する事が私の母親業のスタートラインであった。

 その後我が子の“お抱え家庭教師”(自称サリバン先生)として君臨しつつの原左都子の子育て歴が展開する事実は本エッセイ集で幾度が公開しているため、長年の読者の皆様は既にご存知であろう。
 そんな中、原左都子が母としての立場で我が“お抱え家庭教師”歴を集大成として綴ったのが、子どもが義務教育を終えた2009年3月に公開した 「We can graduate!」 だったものだ。 (これも我が子のプライバシー保護観点よりここでは反復を避けますので、もしご興味があればバックナンバーをご参照下さい。)


 そして原左都子は一昨日我が子の高校卒業式を迎え、一保護者として学校の式典に出席した。

 上記2009年3月公開の「We can graduete!」を今現在私自身が読み返して感慨深いのは、その後我が子が高校に進学して以降、親の想像と期待をはるかに超えて目覚ましく成長した事実を実感させてもらえる事である。

 我が子が高3に突入する直前に突然、大幅に「進路を変更したい!」と私に訴えてきた。 これこそが、我が子の真の成長を象徴する出来事と私は実感させられる。
 よくぞまあ、自分の今後の進路を冷静に判断し変更できるまでに成長してくれたものである。 私が当初娘に望んでいた芸術系ではなく、娘が新たに選択した進路分野が“親の背中を見て育った”とも考察できそうな観点と思しき事が親として興味深いし、この分野ならば今後も我々親が積極的に関与可能な事を娘が虎視眈々と視野に入れたとするならば、その我が娘の冷静な判断力も評価に値するものと捉えるのだ。


 最後になるが、原左都子が我が娘の高校卒業により“心より”「母親としての義務から解放される日」 を実感した、実に“つまらない話題”を以下に紹介してこの記事を締めくくることにしよう。

 上記のごとく一昨日娘の高校卒業式に出席した私が“これぞ我が母親業最後の試練!”と実感させられたのは、卒業式後の「謝恩会」の場である。
 卒業式後の「謝恩会」とはPTAが主催するのが世の常であるが、原左都子にしてみればこのPTAこそが我が子の成長にとって何の利益もない割にはとことん鬱陶しい存在と位置付けていたため、義務教育課程ではこれを避け通して来た。
 ところが今回の我が子高校卒業に際しては、学校から大学推薦を賜りそれに合格している実態もあるため、謝恩会会場で恩師達にまさに“謝恩”の一言御礼挨拶を申し上げるべきとの判断に至ったのだ。
 そして卒業式典の後PTAが開催する「謝恩会」に出席したのだが、やはりそれに参加している親連中の存在が最後の最後まで鬱陶しいことこの上ない始末だ。
 この謝恩会の場では某ホテル(?)のバイキングビュッフェを外注していた模様である。 卒業式後おなかを空かせているであろう卒業生徒達に配慮して、私は外部で昼食を済ませた後に謝恩会に出席した。 ところが謝恩会の会合が始まるや否や、母親連中を中心に保護者達も生徒に負けじとバイキングテーブルに我先に押し寄せるではないか!! しばらくこのあさましい状態が続く…

 いや、保護者の気持ちが分からないでもない。 結局、この大人達も「謝恩会」とは言えどもその参加をPTAから半強制される中、とにかく会費分を飲食してとっとと帰ろうとの魂胆だったのではなかろうか??  それが証拠に、横で飲み食いに専念している保護者に「この謝恩会は今後どのようなスケジュールで運営されるのでしょうか?」と声をかけた私は、その保護者から「知りませんので、他の方に聞いて下さい!」と鬱陶しい奴と言わんばかりに冷たくあしらわれてしまった…

 子どもの卒業謝恩会に際して教員に謝礼を述べるでもなくただ飲み食いを続けるのならば、この原左都子のごとく子ども幼少時代から、その種の会合出席を強制されることが迷惑との思いをPTAに訴えてくればよかったものだ。 その努力すらせずして学校とPTA役員の言いなりになり、会合に形だけ出席する事が親の役割と割り切っている弱者保護者の存在とは如何なものか…。

 我が子18歳にして無事高校を卒業してくれた暁に原左都子が考察するに、一「母親」として最高に鬱陶しい存在だったのは、世間の批判を恐れずに表明するならば同じく母親をはじめとする保護者の存在だったと結論付けるのだ。 
 我が子幼少の頃よりの公園「ママ友」からスタートし、その後幼稚園・学校PTAの母親連中との付き合いを決死の思いですり抜けて来た私である。
 今回の高校卒業式後の「謝恩会」を最期として、我が人生に於ける母親連中との最後の付き合いの試練を終焉できることに感慨深い思いである。
 その意味で一昨日の我が娘の高校卒業式こそが、原左都子にとっての「母親としての義務から解放される日」の真の一通過点だったようにも心得るのだ。


 子どもがいらっしゃる女性の皆さん、もちろん今後もお互いにこの世に産み落とした我が子の成長を願い続けるのが母親としての一番の使命であることには間違いないでしょう。
 それに加えて、今後は「母親」どうのこうのの“肩書き”に安穏と縛られることなく、一人間同士としてこの世に生きていく中で今一度対等に出会える事に期待していますよ!