原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

子どもの「楽しい学び」の提案

2010年05月22日 | 教育・学校
 先週の日曜日(5月16日付)の新聞に 「子どもたちが“楽しく学ぶ”にはどうすればいいの」 と題する某学習塾の一面広告があった。

 この広告の上段に小学4年生を対象とした「勉強が楽しいか」との設問の国際調査回答結果が掲載されているのだが、日本人の子どもが“勉強が楽しい”と思う割合は「算数」が34%、「理科」が57%と、両者共に国際平均値を下回っているようである。
 紙面下段にはこの調査結果に対する当該学習塾の見解及び「楽しい学び」の提供が記載されているのだが、それによって生徒募集に繋げようとの思惑の広告である。 


 上記学習塾の見解については、この記事においては保留とさせていただこう。
 そして、教職経験があり、さらに我が子幼少の頃より「お抱え家庭教師」として君臨し子どもの学習の面倒を身近に見てきた原左都子なりの「楽しい学び」の提案を試みることにしよう。

 「楽しい学び」の提案をする以前の課題として、まず子どもの学習における「楽しさ」の解釈から議論を始める必要があろう。 
 いや、もっと根本的な命題として、「学習とは楽しくあらねばならないのか?」 との疑念さえもが私の頭をもたげてしまうのだ。
 と言うのも、私自身が高校までの学校の勉強を「楽しい」と思ったことが皆無と言えるからである。 そんな私でも大学(及び大学院)での学問は大いに充実していたことに関してはバックナンバーに於いて再三述べているのに加え、学問・研究カテゴリーの記事も何本か綴って公開させていただいている。

 いけしゃあしゃあと言わせていただくと、義務教育期間において私は学業成績優秀な児童、生徒であった。   教科間での多少のバラつきはあったものの、全般的に常に学内トップクラスの成績をキープし続けていた。 そんな私でも勉強を「楽しい」と思ったことは皆無なのである。
 ただ、学習におけるプラスの感覚は幼少の頃より必ずや我が内面に存在していた。 それは「楽しい」との感覚とはニュアンスが異なる種の感情である。 「達成感」「成功観」と表現するべきであろうか、要するに“学習後”の我が脳裏へのフィードバック感覚としての快感が存在したのである。 これが自己の内面から湧き出てくるものであれ、成績や席次という他者から結果として表示されるものであれ、年端もいかない子どもの頃の私にとっては大いに次ステップの学習意欲をそそられたものであることは事実だ。

 私の場合、物心ついた頃から母がフルタイムで仕事をしていたこともあり、家庭学習に関しては100%自主性のみに任されていた。 (田舎暮らしだったこともあって周囲に塾など一つも存在すらしないし、家庭教師のお世話になったことなども一切ない。) それでも何故に私が一人で健気に学習を続行し得たのかと言うと、それは私の生来の勤勉で律儀(?)で負けず嫌いな性質に加えて、上記の「達成感」「成功観」感情に支えられていたからに他ならないと自己分析するのである。

 ただ、私のように親が放っておいても“自主学習派”を貫く子どもとは至って少数派であろうと分析するのだ。 それは我が過去の教員経験、及び我が子を観察していて実感させられる思いである。
 たとえば我が子の場合は、生まれ持っての若干の特殊事情がある。この特殊要因を抜きに考察しても、生命体の生来の性質や特性とは個々により大きく異なるのを実感させられる日々である。
 生まれ持っての“自主学習派”とは程遠い個性を持つ子どもを捉まえて 「なんであんたは勉強しないの! よその子はやってるのに!」 と怒鳴りつける事ほど逆効果はない。 我が子の“自主学習派”ではない個性を早期に見抜いた私は、幼少の頃よりリビングルームに学習机を置き母自ら「お抱え家庭教師」として日々学習に付き合ったという訳である。

 
 教える立場からの考察として、子どもが幼少の頃は確かに“学び”において“楽しさ”も見出し易いものである。 と言うよりも幼少時には子どもが“楽しめる”ことに主眼を置いて教育がなされるべきなのは教育の原理においても当然の事である。
 ただ学習内容の進展と共に、どうしても“楽しさ”を超越した子ども本人の“努力”が要請されてくるものである。 教える側としてはこの時点こそが“踏ん張り処”であるのだ。

 ここで少しだけ上記広告主である某学習塾の見解を紹介させていただくと、「知識重視ではなく、新しい発見を提案することで子どもの興味をそそる」との記載がある。
 文言のみ読ませていただいた限りではごもっともの見解であられるのだが、一方で子どもの学習のさらなる進展を目指すためには新しい知識の習得は避けては通れないものである。 (おそらくこの学習塾の見解は「理科」を大いに対象として記載されたものであろうが。)

 やはり、子どもの学習には「楽しさ」のみではない「苦難を乗り越える努力」も不可欠であることは否めない事実なのである。
 教育者側がこれを如何に“自主学習派”ではなく自分自身で学習による「達成感」や「成功観」を得にくい個性を持つ子どもに乗り越えさせるか?
 これこそが本記事の神髄である。


 最後に原左都子の結論を述べよう。
 それは、教育者の子どもへの「共感力」であろう。

 我が子の「お抱え家庭教師」遍歴において私が最優先したのが、この「共感力」である。
 とにかく、子どもと一緒に同一課題に目を通し子どもの横で一緒に問題を解くのである。(もちろん子どものペースに合わせることが鉄則なのだが。) そうすることにより、子どもも頑張ろうとする意欲が育まれるのを実感してきている私である。 教育者が上の立場からあれこれ下手な指導をしているだけでは、決して「共感力」とは生じてくるものではない。 教育者も子どもと一緒に同一課題に取り組むパフォーマンスこそが、子どもの新たな課題に対する「苦難を乗り越える努力」を育てる事を実証してきている原左都子である。

 しかも、教育者と学習者である子どもとの「共感力」のコラボレーションの威力が、子どもの成長を経た後に子ども単独での学習習慣の創出にも繋がり、いずれは学習面において子ども一人で努力する土台が創り上げられることも我が子で実証済みである。
(ただし、これを成し遂げるには教育者側にこそ日々尋常ではない忍耐力が要求されるのだが。)


 子どもの「学ぶ楽しさ」を創出し得るのは、何も目新しいアイデアを展開することではなく、教育者側の弛まざる努力と子どもへの「共感力」であるとの原左都子の今回の提案である。
 教育者側の忍耐力の根源とは何かって??  それは子どもに対する「愛情」以外の何物でもないでしょうねえ~~
            
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4 Comments

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遊びから学ぶ (issei)
2010-05-22 21:52:00
遊びから学ぶ事って多かったと思っています。特に自然から学んだことが多いです。また、面白かったです、こま、凧、水鉄砲、竹トンボなど殆ど自作でした。それに引き換え現代の子供のおもちゃなどは、プラスティック製で、企業が製作したものが多く、つまらないと感じます。
勉強は楽しくなくては身につかないと思います。今までの日本の先生にはそれが不足していた様に感じます。具体的には私もわかりません。これからの新しい教育に化せられた課題のように思います。
リビング意で勉強させることには賛成です。子供部屋に追いやって良い事なんてないと思っています。
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子供の楽しみ (ドカドン)
2010-05-23 04:38:23
教科書と実社会が結びついた瞬間、面白いと思う。
在学中に、それを感じさせる教師が最高なんだと思います。

「水兵リベボウ、僕の船、シップス真ガール・・・」、これ意味不明な呪文が、世の中と結びつくんだ・・・、メチャクチャ面白いと感じたよ!
残念なのは、社会人になってから。

この面白さを高校時代に教えろよ!受験に必要ないからとスルーするから勉強に面白いと言う感情が湧かないまま社会に出る事になります。

戦国時代、武士は競って自分の領土を広げようとしました。
自分の安心できる領土を使って都(京都)に行ける様にしたかったからです。

だから東海地方の武士が強かった。
これを知ったのは、社会人になってから・・・、戦国時代の武士が戦争するわけが、高校時代は分からなかった。(世界史選択です)
この大儀の部分を、中学で教えてくれたら歴史は面白いんだよ!

なぜ戦争に明け暮れるのか、大義さえ分かれば、歴史も面白い・・・。
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isseiさん、子どもの勉強は楽しくあるべきですが… (原左都子)
2010-05-23 16:20:33
私も子どもの頃は、毎日外で遊んだり駄菓子屋へ行ってアイデアたっぷりの面白いお菓子を選ぶのが楽しみでした!
そのために、お勉強を早めに切り上げる毎日でしたね。

isseiさんがおっしゃる通り、子どもにとってはお勉強とは楽しくあるべきですが、この「楽しさ」の意味合いは子ども個々人にとって多様であることでしょう。 私にとってのその意味合いが「達成感」「成功観」であったように。

現在の学校は「一斉授業」を基本としていますから、よほどの力量のある教員でない限り、個々の生徒への「楽しさ」伝達は難しいのではないかと思います。
それを補完するべく現在では学習塾等が存在しているようですが、一体どこまで生徒個々人の個性にまで配慮が及んでいるのかは疑問です。

そこで、子どもの学習の最終責任を持つのはやはり「親」であるべきでしょう。
学校がダメなら塾任せ、そんな他力本願の発想では子どもの真の学習意欲など育つ訳はありません。
isseiさんがおっしゃる通り、子どもを子ども部屋に追いやって親は知らん顔ではなくて、親も一緒に学ぶ努力をしましょう! (と言いたかったのがこの記事の趣旨です。)
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ドカドンさんは、ご自身の興味が進路に繋がった方ですよね。 (原左都子)
2010-05-23 16:41:42
いつも“燃えている”ドカドンさんの下で育ってる子供さん達は、ドカドンさんの影響力を大いに受けつつ育っていらっしゃることでしょう。

高校時代ねえ…。 原左都子の半世紀以上に及ぶ人生の中で一番暗い時期でした。 なんせ学校が受験勉強一辺倒でしたから。 受験の重圧に押しつぶされるばかりで勉強がちっとも面白くないし、アホな我が親は地元国立理系限定だ!とホザくし、大いに困惑した我が失策の時代です。
その失敗を我が子には絶対に繰り返させたくないために、とにかく日々の学習の中にも子どもの夢の実現を最優先にして育てています。

ドカドンさんの場合、ご自身の十代の頃からの興味が現在の職業に繋がっている方だと認識させていただいております。 今はまだ小さいドカドンさんの子供さん達もきっとその影響を内面に受けているはずで、おそらく高校生位になると少しずつそれが開花してくるのを気付いたとき、親としてワクワクさせられるものだと私は思います。
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