この年末は、私の趣味の一つである「バレエ観賞」を2本、立て続けに楽しめることとなった。
そのうちの1本は、我が娘が幼少の頃よりの我が家における年末恒例行事である「くるみ割人形」観賞なのだが、今年はレニングラード国立バレエ「ミハイロフスキー劇場」版を選んで、東京国際フォーラム公演の座席を予約した。(20日に既に観賞済)
そして、もう1本は地元の小バレエ団による「コッペリア」である。 「コッペリア」はバレエを習っていた我が娘の古典全幕ものの舞台デビュー作品であるのだが、近くの劇場で公演があるのを発見したため、今週末に娘と共に出かけることにしている。
ここで突然話を歌謡曲に移すが、私の知る限り「踊り子」と題する歌謡曲が2曲存在する。
その一曲はフォーリーブスが踊って歌った「踊り子」であり、もう一曲は今は亡きシンガーソングライターの村下孝蔵氏による「踊り子」である。
両者共に、なかなかの秀作と私は評している。
それら「踊り子」の歌詞の一部をかいつまんで、以下に紹介してみよう。
まずは、フォーリーブスが歌って踊った阿久悠作詞の「踊り子」から。
♪私は踊り子よ ふるまいのお酒にも気軽く酔うような 浮き草の踊り子
愛してくれるのはうれしいと思うけど あなたはうぶなのよ 何一つ知らない
このまま別れていきましょう 短い恋と割り切って
港の酒場ではらんちきの大騒ぎ あなたもあの中で酔いどれておいでよ
私は踊り子よ うらぶれた灯の下で踊っていることが大好きな踊り子
ほんとは少しだけまごころに打たれたわ けれどもあなたとは暮らしてはゆけない…
続いて、村下孝蔵作詞の「踊り子」。
♪答を出さずにいつまでも暮らせない
つま先で立ったまま 君を愛してきた
踊り出すくるくると 軽いめまいの後 写真をバラまいたように心が乱れる
拍子のとれている愛だから 隠し合い ボロボロの台詞だけ語り合う君が続き
坂道をかける子ども達のようだった 倒れそうなまま二人走っていたね
つま先で立ったまま 僕を愛してきた
狭い舞台の上で ふらつく踊り子
愛してる 愛せない 言葉を変えながら
かけひきだけの愛は 見えなくなってゆく…
つま先で立ったまま 二人愛してきた
狭い舞台の上で ふらつく踊り子
若過ぎた それだけがすべての答だと
涙をこらえたまま つま先立ちの恋…
同じ題名の「踊り子」でも、前者は旅芸人の「踊り子」との恋を描いたものである。 川端康成の「伊豆の踊り子」における出逢いを彷彿とさせ、また一方で酒場の“舞妓、芸奴”や“ストリッパー”等にも思いが及びそうな、はかなき“浮き草”の恋物語である。
片や、後者はクラシックバレエのトーシューズで踊る女性ダンサーの「踊り子」をイメージしつつ悲恋を語った歌であろう。 トーシューズを履いて踊るバレエの「踊り子」と若かりし恋との“不安定感”を交錯させつつ、切ない恋物語が崩れそうに綴られている。
「踊り子」にはその踊りのジャンルを問わず、共通項が存在するように私は捉える。
あらゆる芸術の中でも、自らの「身体」を表現手段としてその芸なり技なり美を訴える芸術は「踊り」しかないのではあるまいか。 (「声楽」もその一種であろうが。)
私事になるが、我が家の娘は幼少時よりクラシックバレエを習ってきている。 小学校高学年にさしかかった頃に、初めて“トーシューズ”を履かせてもらえた時には、一家でお祝いをして喜んだものである。 (「つま先立ち」などという不自然な体型を強要することが、我が子の身体的成長に悪影響を及ぼさないのか??) などという親ならではの懸念も頭の片隅に無きにしもあらずだったのだが、それよりも (これで我が子も子どもから娘として成長できる) がごとくの一種の通過儀式のような感覚が、親の私にも初めて手にしたトーシューズに感じ取れたものだ。
一方で、私が今現在スポーツジムで楽しんでいるヒップホップやエアロビクスというのは、クラシックバレエとはまったく異なるジャンルの「踊り」である。 “コンテンポラリーバレエ”と名の付く、クラシックバレエから発展したそれに近いバレエが存在するが、その後庶民の間で発生したと思われる上記のヒップホップ等までも含めて、それらの共通点は“トーシューズ”を履かないことにあろう。
特に私が今現在勤しんでいる「ヒップホップ」など、例えば“猫背”状態で踊ったり、“つま先”よりも“かかと”が中心の踊りと言えそうだ。 (それ以前の問題として、バックの音楽が踊りのジャンルによってすべて異なるのは皆さんもご承知の通りであろうが)
これはこれで十分に整合性があると捉えて、現在「ヒップホップ」を大いに楽しむ私である。 生活に密着している、と表現すればよいのだろうか? むしろ、歳を重ねた人間にとっては、“猫背”のままで踊っていいと言ってもらえた方が開放感があって自然体で踊れそうなのである。
要するに“現代舞踊”とは、観賞する「踊り」から自分が楽しむ「踊り」へと変遷の道程を歩んでいるようにも捉えられる。 皆が自分自身で「踊り子」を演じてこその快感享受の時代なのであろう。
話を戻して「クラシックバレエ」観賞の魅力とは、やはり女性の「踊り子」が“つま先立ち”のトーシューズで踊る研ぎ澄まされた“繊細さ”が醍醐味であるように私は思う。 あの“つま先立ち”の緊張感こそが何百年に及ぶバレエの伝統であり、クラシック音楽とマッチして後世に伝えられるべく正統な芸術なのではなかろうか。
それにしても「恋」とは、いつの世も、老若を問わず、繊細で不安定ではかなくて“つま先立ち”の存在であるように思えるよね……
そのうちの1本は、我が娘が幼少の頃よりの我が家における年末恒例行事である「くるみ割人形」観賞なのだが、今年はレニングラード国立バレエ「ミハイロフスキー劇場」版を選んで、東京国際フォーラム公演の座席を予約した。(20日に既に観賞済)
そして、もう1本は地元の小バレエ団による「コッペリア」である。 「コッペリア」はバレエを習っていた我が娘の古典全幕ものの舞台デビュー作品であるのだが、近くの劇場で公演があるのを発見したため、今週末に娘と共に出かけることにしている。
ここで突然話を歌謡曲に移すが、私の知る限り「踊り子」と題する歌謡曲が2曲存在する。
その一曲はフォーリーブスが踊って歌った「踊り子」であり、もう一曲は今は亡きシンガーソングライターの村下孝蔵氏による「踊り子」である。
両者共に、なかなかの秀作と私は評している。
それら「踊り子」の歌詞の一部をかいつまんで、以下に紹介してみよう。
まずは、フォーリーブスが歌って踊った阿久悠作詞の「踊り子」から。
♪私は踊り子よ ふるまいのお酒にも気軽く酔うような 浮き草の踊り子
愛してくれるのはうれしいと思うけど あなたはうぶなのよ 何一つ知らない
このまま別れていきましょう 短い恋と割り切って
港の酒場ではらんちきの大騒ぎ あなたもあの中で酔いどれておいでよ
私は踊り子よ うらぶれた灯の下で踊っていることが大好きな踊り子
ほんとは少しだけまごころに打たれたわ けれどもあなたとは暮らしてはゆけない…
続いて、村下孝蔵作詞の「踊り子」。
♪答を出さずにいつまでも暮らせない
つま先で立ったまま 君を愛してきた
踊り出すくるくると 軽いめまいの後 写真をバラまいたように心が乱れる
拍子のとれている愛だから 隠し合い ボロボロの台詞だけ語り合う君が続き
坂道をかける子ども達のようだった 倒れそうなまま二人走っていたね
つま先で立ったまま 僕を愛してきた
狭い舞台の上で ふらつく踊り子
愛してる 愛せない 言葉を変えながら
かけひきだけの愛は 見えなくなってゆく…
つま先で立ったまま 二人愛してきた
狭い舞台の上で ふらつく踊り子
若過ぎた それだけがすべての答だと
涙をこらえたまま つま先立ちの恋…
同じ題名の「踊り子」でも、前者は旅芸人の「踊り子」との恋を描いたものである。 川端康成の「伊豆の踊り子」における出逢いを彷彿とさせ、また一方で酒場の“舞妓、芸奴”や“ストリッパー”等にも思いが及びそうな、はかなき“浮き草”の恋物語である。
片や、後者はクラシックバレエのトーシューズで踊る女性ダンサーの「踊り子」をイメージしつつ悲恋を語った歌であろう。 トーシューズを履いて踊るバレエの「踊り子」と若かりし恋との“不安定感”を交錯させつつ、切ない恋物語が崩れそうに綴られている。
「踊り子」にはその踊りのジャンルを問わず、共通項が存在するように私は捉える。
あらゆる芸術の中でも、自らの「身体」を表現手段としてその芸なり技なり美を訴える芸術は「踊り」しかないのではあるまいか。 (「声楽」もその一種であろうが。)
私事になるが、我が家の娘は幼少時よりクラシックバレエを習ってきている。 小学校高学年にさしかかった頃に、初めて“トーシューズ”を履かせてもらえた時には、一家でお祝いをして喜んだものである。 (「つま先立ち」などという不自然な体型を強要することが、我が子の身体的成長に悪影響を及ぼさないのか??) などという親ならではの懸念も頭の片隅に無きにしもあらずだったのだが、それよりも (これで我が子も子どもから娘として成長できる) がごとくの一種の通過儀式のような感覚が、親の私にも初めて手にしたトーシューズに感じ取れたものだ。
一方で、私が今現在スポーツジムで楽しんでいるヒップホップやエアロビクスというのは、クラシックバレエとはまったく異なるジャンルの「踊り」である。 “コンテンポラリーバレエ”と名の付く、クラシックバレエから発展したそれに近いバレエが存在するが、その後庶民の間で発生したと思われる上記のヒップホップ等までも含めて、それらの共通点は“トーシューズ”を履かないことにあろう。
特に私が今現在勤しんでいる「ヒップホップ」など、例えば“猫背”状態で踊ったり、“つま先”よりも“かかと”が中心の踊りと言えそうだ。 (それ以前の問題として、バックの音楽が踊りのジャンルによってすべて異なるのは皆さんもご承知の通りであろうが)
これはこれで十分に整合性があると捉えて、現在「ヒップホップ」を大いに楽しむ私である。 生活に密着している、と表現すればよいのだろうか? むしろ、歳を重ねた人間にとっては、“猫背”のままで踊っていいと言ってもらえた方が開放感があって自然体で踊れそうなのである。
要するに“現代舞踊”とは、観賞する「踊り」から自分が楽しむ「踊り」へと変遷の道程を歩んでいるようにも捉えられる。 皆が自分自身で「踊り子」を演じてこその快感享受の時代なのであろう。
話を戻して「クラシックバレエ」観賞の魅力とは、やはり女性の「踊り子」が“つま先立ち”のトーシューズで踊る研ぎ澄まされた“繊細さ”が醍醐味であるように私は思う。 あの“つま先立ち”の緊張感こそが何百年に及ぶバレエの伝統であり、クラシック音楽とマッチして後世に伝えられるべく正統な芸術なのではなかろうか。
それにしても「恋」とは、いつの世も、老若を問わず、繊細で不安定ではかなくて“つま先立ち”の存在であるように思えるよね……