中学生の娘がこの3月に学校からカナダへ研修旅行に行くに当たり、現地での研修の準備課題の一つとして、英語の授業において、日本の有名人を一人選んでカナダの人に紹介するための英文作りの宿題を課せられた。
その英文作成以前の“有名人”を誰にするかで迷った娘が、母の私のところに相談にやってきた。
私はすかさず、「原左都子なんかどう?」と応えたところ、娘に「真面目に考えてよ。」と一蹴されてしまった…。トホホ…
そこで私は、有名人と無名人の線引きとは何であろうかと、はたと考えたのである。
その線引きのひとつは世間における知名度であろうが、その知名度を測る一番分かりやすい尺度がマスメディアへの登場であろうか。
単純な話が、テレビに出ていることが、新聞に取り上げられていることが、あるいは本が売れていることが有名である証明という捉え方が、世間では一般的なのではなかろうか。
そして有名人になりたいと思う人はさしあたり、様々な専門分野でこれらマスメディアへの登場を目指すのであろう。
現在の私自身は、“有名人”願望はない方の人間であると言える。
昔から名声欲が全くなかった訳ではなく、若かりし頃は人並み程度にあったかもしれない。自分の専門分野で成功を修めて、あわよくばマスメディアに取り上げられたい、というような漠然とした夢を描くことはなきにしもあらずだった。
ただ、プライベートまでをも全て曝け出すような“有名人”には決してなりたくないものである。 知名度が上がることにより行きたい所へ行けなくなったり、会いたい人にも会えなくなったり、いつも綺麗にして微笑んでいることを強要されたり、ということは断じて勘弁願いたいものである。
無名である現在でさえ、今知り合いには会いたくないと思っている時に偶然会ってしまうシチュエーションなど、とても苦手である。例えば、バーゲン会場で安物を漁っている時や、体調不良で不機嫌な時、等々…。(そういう時は見なかったことにして声をかけないで下さいね、知り合いの皆さん。)
このように、私という人間の全人格を世間に曝け出す形での“有名人”願望は一切ないと言い切れるのだが、私の持つ人格や能力の一部を(ペンネーム等の匿名を条件に)世間に公開したい思いはある。それが証拠に、このように「原左都子エッセイ集」をブログという形で世間に公開している訳である。
ただ、世間を見渡すと、才能の一部で開花し名が売れはじめた人々は必ずやマスメディアに取り上げられて登場し、プライベートまでも晒しているようである。“有名人”となるチャンスが到来した場合、人間とは名声欲があらわになりプライベートまで晒そうとする動物なのであろうか。
そして皆さんもよくご存知のように、“普通の女の子に戻りたい”だの“普通のおばさんに戻りたい”だのと世間をお騒がせしてひのき舞台から去ったはずの芸能人たちが、必ずや恥ずかし気もなくのこのことカムバックして来るのは、どういった心理なのであろう。有名であることとは、一種の中毒症状のごとく魅力的なものなのだろうか。
「原左都子エッセイ集」も記事総数が250本近くになり、昨日も身内から、そろそろ出版化等、ネット以外のメディアへの公開を考慮する気はないのか、との質問を受けた。 これに関しては自己診断であるが、この種のオピニオンエッセイは今の時代まず売れない、と結論付けているため出版化の意思はない。あわよくば、コラムニストとして、出版物のコラムにでも定期的なエッセイを書いてみたい思いはあるが、この無名の私にそんな甘くて美味しい話が飛び込んで来る筈もない。
ペンネーム原左都子の本体である私は、やはり今まで通り“無名という生き方”を歩み続けることであろう。
その英文作成以前の“有名人”を誰にするかで迷った娘が、母の私のところに相談にやってきた。
私はすかさず、「原左都子なんかどう?」と応えたところ、娘に「真面目に考えてよ。」と一蹴されてしまった…。トホホ…
そこで私は、有名人と無名人の線引きとは何であろうかと、はたと考えたのである。
その線引きのひとつは世間における知名度であろうが、その知名度を測る一番分かりやすい尺度がマスメディアへの登場であろうか。
単純な話が、テレビに出ていることが、新聞に取り上げられていることが、あるいは本が売れていることが有名である証明という捉え方が、世間では一般的なのではなかろうか。
そして有名人になりたいと思う人はさしあたり、様々な専門分野でこれらマスメディアへの登場を目指すのであろう。
現在の私自身は、“有名人”願望はない方の人間であると言える。
昔から名声欲が全くなかった訳ではなく、若かりし頃は人並み程度にあったかもしれない。自分の専門分野で成功を修めて、あわよくばマスメディアに取り上げられたい、というような漠然とした夢を描くことはなきにしもあらずだった。
ただ、プライベートまでをも全て曝け出すような“有名人”には決してなりたくないものである。 知名度が上がることにより行きたい所へ行けなくなったり、会いたい人にも会えなくなったり、いつも綺麗にして微笑んでいることを強要されたり、ということは断じて勘弁願いたいものである。
無名である現在でさえ、今知り合いには会いたくないと思っている時に偶然会ってしまうシチュエーションなど、とても苦手である。例えば、バーゲン会場で安物を漁っている時や、体調不良で不機嫌な時、等々…。(そういう時は見なかったことにして声をかけないで下さいね、知り合いの皆さん。)
このように、私という人間の全人格を世間に曝け出す形での“有名人”願望は一切ないと言い切れるのだが、私の持つ人格や能力の一部を(ペンネーム等の匿名を条件に)世間に公開したい思いはある。それが証拠に、このように「原左都子エッセイ集」をブログという形で世間に公開している訳である。
ただ、世間を見渡すと、才能の一部で開花し名が売れはじめた人々は必ずやマスメディアに取り上げられて登場し、プライベートまでも晒しているようである。“有名人”となるチャンスが到来した場合、人間とは名声欲があらわになりプライベートまで晒そうとする動物なのであろうか。
そして皆さんもよくご存知のように、“普通の女の子に戻りたい”だの“普通のおばさんに戻りたい”だのと世間をお騒がせしてひのき舞台から去ったはずの芸能人たちが、必ずや恥ずかし気もなくのこのことカムバックして来るのは、どういった心理なのであろう。有名であることとは、一種の中毒症状のごとく魅力的なものなのだろうか。
「原左都子エッセイ集」も記事総数が250本近くになり、昨日も身内から、そろそろ出版化等、ネット以外のメディアへの公開を考慮する気はないのか、との質問を受けた。 これに関しては自己診断であるが、この種のオピニオンエッセイは今の時代まず売れない、と結論付けているため出版化の意思はない。あわよくば、コラムニストとして、出版物のコラムにでも定期的なエッセイを書いてみたい思いはあるが、この無名の私にそんな甘くて美味しい話が飛び込んで来る筈もない。
ペンネーム原左都子の本体である私は、やはり今まで通り“無名という生き方”を歩み続けることであろう。
ただ、自分のブログが本で出版されるなら、ペンネームのまま、本だけ全面に出したいとは、よく思いますね。
世の中の多くのブロガーは、そんな感覚だと思っています。違います?
芸能人のブログを、見に行って、確かに面白いものもあるが、これなら自分のブログの方が・・・、って言うのもある。
有名人の写真満載だけが売りで、内容が無いものもあった。
有名人は、その道を極めればいいのだと思うのですが、凡人にはとても険しい道程です。
もし、自分に曲が書けたり、詩が上手かったりすれば、有名人になってもいいけど、私にはそんな才能はない。
サラリーマンでいれて、ブログが書けて、読んでくれる人が少しいて、コメントも集まる。
それって、結構幸せな事ではないでしょうか?
その理由は、自費出版費用が高価過ぎるためです。
参考のために申しますと、その費用とは一冊150万~200万程度します。
そしてそれは、絶対に売れません。なぜならば、自費出版会社はごくごく一部の売れると判断した原著以外は、まったく売るつもりはないためです。
これは、私の姉が既に2冊も自費出版しているので、立証済みです。私の姉は一部の世界ではある程度の有名人でもあるにもかかわらず、2冊ともまったく売れておりません。
現在は、自費出版会社も経営破たんする時代でもあります。世間では本離れも急激に進んでいます。
ある程度の実力や知名度のある素人とはいえ、今は自費出版をするべき時代ではないでしょう。
出版社とは、今売れる本しか売りません。
今現在売れている本とは、ドカドンさんもご存知の通り、“しょうもない”本ばかりです。
かの有名な○○賞や、●●賞を受賞する作家とて、一時売れたら使い捨ての時代です。
ドカドンさん、私達“無名人”は健気にブログを綴り続けるのが一番賢い生き方のようですよ。
いうのでしょうか?元が取れる儲かる
一番いいのは、自分が費用を
出さずに出版されることですね。
気楽に待つことですね、
みんなが必要なものは、売れます。
ブログを書いている人は、
みんなが、可能性を秘めています。
誰が一番かは、神のみぞ知る?
現在は、戦死(選挙戦)して幽霊状況ですが。
でも、自分を知らない人が一杯居る都会に行ったりすると非常に居心地が良いんですよね。
とにかく、出版社とは売れるものしか売りません。すなわち、営業活動をしません。売れるとっかかりを作るためには販促活動が必須の時代です。この販促活動に多額の費用が発生するため、そもそも売れるものしか売らないというシステムとなっています。
確かに、超微々たる確率で、無名の人が書いた作品が思いがけなく売れることもあるようですが、それはごくごく氷山の一角のようですね。
そして、何が売れるのかというのがこれまた難しい時代で、ひとつのファッションのようなものですね。一発売れると多額の印税が入るのでしょうが、真の意味でのもの書きにとって、こういう売れ方というのが達成感につながるのかどうかも疑問でもあります。
地方議員の選挙戦って、早い話が名前を連呼しているだけなので、名前ならば絶対に誰にも憶えてもらえる自信があったためです。
親から「頼むからそれだけは踏みとどまってくれ」と強く引きとめられ、出馬は断念しました。
そうなんですか。で、田舎人さんは、地元では有名人でいらっしゃる訳ですね??
カナダでは有名でも、こっちではいざ何か書こうとしても書けない有名人もいそうですね。パフィーとかが有名らしいですがわたしゃ知りませぬ。
東郷平八郎や昭和天皇とか多分とてもカナダでも有名だと思いますが、日本人である我々は知っていそうでいざ何か書こうとしても何にも書けないかも。日本語でも。
有名になるって、難しいですよね。
ちょっとテレビかなんかに出たぐらいでは何も変わりません。
私の母親が独身時代、なにか文を書いて新聞に載ったとかいうことをえらく誇りにしていて自分が隣人たちとは違う特別な人間だと言わんばかりでしたけど、母のいた地方都市と違い首都圏で学生の作文程度が新聞に載るなどまずないですし、載っても覚えてもらえないし。
うちの子のいとこたちなんかは作文が新聞に出たり地方テレビ局のニュースに顔がでると何年でも覚えてもらえていて話題にしてもらえます。
いいなぁ。
ただ、有名になるとものすごく誹謗中傷されますよね。濃い悪意の中にさらされる。普通の人にはこれはちょっとしんどいんじゃないかしら。今はネットで自分の悪口を簡単に本人が見ることができますし。よほど精神が強くない限り、特に若いうちは、大変ではないかと思いますね。
昔玉の輿で庶民の女の子が華族とか、そういうおうちにお嫁に来て一番大変だったのは、まず家が寒いことだったそうですけど、とにかくものすごく悪口を言われること、これが耐え難かったらしいですよ。勤まるのは同じ階層のお姫さまたちと、芸者出身の女性ぐらいのものであったらしいです。
日本の有名人の紹介ですか。色々な観点がありますね。
テレビに出ている人物、新聞に採り上げられた事がある人物、本が売れている人物とか。
更には、歴史に残る人物、偉大な発明や発見をした人物、日本ではさほど有名でないが寧ろ海外で高い評価を得ている人物など。
お嬢さんのイメージが広がる宿題ですね。
ところで、有名になりたいと考えるのは、多かれ少なかれ人間が持っている自己顕示の欲求の様なものだと思います。人前で目立ちたいと思うのもそれかもしれません。誰かに理解してもらいたい、認めてもらいたいという気持ちが根源にあるはずです。
有名人の中にも確りとプライベートな面を確保している方も多いと思いますが、その辺りの線引きが難しいでしょうね。
余談ですが、長嶋茂雄さん。私は小学校で野球を遣っていた頃から長島さんに憧れていました。
長島さんが病に倒れた時、ご子息の一茂さんがこの様に仰っていたのが印象的でした。
「親父はね、長嶋茂雄を演じるのに疲れているのですよ」
有名人は疲れると思います。私の様な気弱な人間は直ぐにノイローゼになってしまう事請け合いです。有名人になる能力も勿論ありませんが。
徒然なるままにブログ綴るのみです。ささやかな歓びです。
笑い話や冗談話ではなく中には本気で考えている人間がいるところが怖い(笑
偉人が有名人という時代は確実に終わっているのかも?