先週末から不覚にも体調を崩している。この年齢になると多少体調を崩すことは特に珍しいことではないのだが、今回は歯痛を伴っていてこれがこたえる。今日は痛みが耳にまで及び、顔面にピリピリと神経痛も来る。
こういう時には“何を優先するべきか”というと、ゆっくりと休養するべきなのであろうが、どうもじっとしていると痛みが増幅して身に沁みる。そのため普段通りに過ごし、この通りブログ記事の更新もしようとしている。
しかもこんな日に限って「人は何を優先するべきか」などとテーマが難儀だ。臨機応変に軽めのテーマに変更すればよさそうなものであるが、頭が働かず別のテーマが浮かばないため、今回はこのテーマで強行する。
朝日新聞9月26日(金)夕刊「悩みのレッスン」の今回の相談は女子高校生による“学校がつらい”ことに関する内容である。
今回の回答者は哲学者の永井均氏であるが、“どうしても嫌ならやめよう”という趣旨であった。
私も本ブログの教育・学校カテゴリーバックナンバー「不登校という選択肢」において詳細に綴っているのだが、学校がどうしても嫌なら不登校、登校拒否という選択肢もある、との永井氏の見解に準ずる立場を以前より貫いている。
「不登校」のテーマに関しては既に上記の記事で私論を展開しているので、そちらを参照していただくことにしよう。
今回の記事では、永井氏の回答内容を紹介し、「人は何を優先するべきか」の私論を展開してみたい。
では、永井氏の回答を以下に要約する。
われわれは皆子どもの頃からずっと、大人から人生の道徳的な捉え方を教えられて育つ。その基本は嫌なことでもすべきことがある、というものだ。これを教えないと例えば「お酒を飲んだら車の運転をしない」といった必要な社会規範が守られないからである。だが、守られねばならない規範など実はそんなに多くはない。なのに、教えられた道徳的な捉え方が癖になって、嫌でも頑張ることそれ自体に価値があると思い込んでしまいがちだ。頑張る根性が将来役立つこともあろうが、そんなものにそれ自体で価値がある訳ではない。どんな時も、今現在を楽しむことをないがしろにしてはならない。これは時に忘れがちな、道徳的な教えとは正反対の、人が「すべきこと」である。自他に甚大な損害を与えない限り、どうしても嫌になったら思い切ってやめる、というのはとてもよいことだ。
(こう述べて、永井氏はこのコラムの回答者としての仕事に今回で自らピリオドを打たれた。
この相談コーナーの特徴は、思春期の若者からの相談に対し直接的な回答は避け、同様に悩む若者達をはじめ一般読者に、直面している事態に対する解決策を自ら思考して見出せるような、物事のある程度普遍的な“考え方”を示唆するところにあると私は捉えている。
この私も回答者諸氏の回答に同感し勉強させていただいているので、永井氏の今回の退陣は大変残念である。 )
さて、人間は何を優先するべきか。
社会規範の種類も様々ではあるが、自他共に甚大な損害を与える恐れのある事柄に対する規範に関しては皆が遵守するべきである。それは社会で生きる人間にとって最低限の約束事であろう。ただ永井氏が述べられているように、そういった社会規範は実は世の中にそう多くは存在しない。
世間で“規範”とされている事柄には、価値観が分かれたり選択の余地があるものの方がずっと多い。そのような選択可能な“規範”に直面した時に、周囲に流されたり惑わされることなく、自分自身が何を優先するべきかを判断できる能力や柔軟な思考が人間には要求される。永井氏の言われるように“今現在を楽しむことをないがしろにしない”という観点も人間にとって大変重要な選択肢であろう。
今日の私は休養よりもブログ更新の強行の方を優先して正解だ。記事作成に没頭した間、一時歯痛を忘れることができた。
こういう時には“何を優先するべきか”というと、ゆっくりと休養するべきなのであろうが、どうもじっとしていると痛みが増幅して身に沁みる。そのため普段通りに過ごし、この通りブログ記事の更新もしようとしている。
しかもこんな日に限って「人は何を優先するべきか」などとテーマが難儀だ。臨機応変に軽めのテーマに変更すればよさそうなものであるが、頭が働かず別のテーマが浮かばないため、今回はこのテーマで強行する。
朝日新聞9月26日(金)夕刊「悩みのレッスン」の今回の相談は女子高校生による“学校がつらい”ことに関する内容である。
今回の回答者は哲学者の永井均氏であるが、“どうしても嫌ならやめよう”という趣旨であった。
私も本ブログの教育・学校カテゴリーバックナンバー「不登校という選択肢」において詳細に綴っているのだが、学校がどうしても嫌なら不登校、登校拒否という選択肢もある、との永井氏の見解に準ずる立場を以前より貫いている。
「不登校」のテーマに関しては既に上記の記事で私論を展開しているので、そちらを参照していただくことにしよう。
今回の記事では、永井氏の回答内容を紹介し、「人は何を優先するべきか」の私論を展開してみたい。
では、永井氏の回答を以下に要約する。
われわれは皆子どもの頃からずっと、大人から人生の道徳的な捉え方を教えられて育つ。その基本は嫌なことでもすべきことがある、というものだ。これを教えないと例えば「お酒を飲んだら車の運転をしない」といった必要な社会規範が守られないからである。だが、守られねばならない規範など実はそんなに多くはない。なのに、教えられた道徳的な捉え方が癖になって、嫌でも頑張ることそれ自体に価値があると思い込んでしまいがちだ。頑張る根性が将来役立つこともあろうが、そんなものにそれ自体で価値がある訳ではない。どんな時も、今現在を楽しむことをないがしろにしてはならない。これは時に忘れがちな、道徳的な教えとは正反対の、人が「すべきこと」である。自他に甚大な損害を与えない限り、どうしても嫌になったら思い切ってやめる、というのはとてもよいことだ。
(こう述べて、永井氏はこのコラムの回答者としての仕事に今回で自らピリオドを打たれた。
この相談コーナーの特徴は、思春期の若者からの相談に対し直接的な回答は避け、同様に悩む若者達をはじめ一般読者に、直面している事態に対する解決策を自ら思考して見出せるような、物事のある程度普遍的な“考え方”を示唆するところにあると私は捉えている。
この私も回答者諸氏の回答に同感し勉強させていただいているので、永井氏の今回の退陣は大変残念である。 )
さて、人間は何を優先するべきか。
社会規範の種類も様々ではあるが、自他共に甚大な損害を与える恐れのある事柄に対する規範に関しては皆が遵守するべきである。それは社会で生きる人間にとって最低限の約束事であろう。ただ永井氏が述べられているように、そういった社会規範は実は世の中にそう多くは存在しない。
世間で“規範”とされている事柄には、価値観が分かれたり選択の余地があるものの方がずっと多い。そのような選択可能な“規範”に直面した時に、周囲に流されたり惑わされることなく、自分自身が何を優先するべきかを判断できる能力や柔軟な思考が人間には要求される。永井氏の言われるように“今現在を楽しむことをないがしろにしない”という観点も人間にとって大変重要な選択肢であろう。
今日の私は休養よりもブログ更新の強行の方を優先して正解だ。記事作成に没頭した間、一時歯痛を忘れることができた。
問題は、その示唆された永井氏のメッセージ性を受け止める事ができるアンテナとキャパシティを、女子高校生や若者が持っているか否かに尽きると思います。
逆に言えば、それら、つまりアンテナとキャパシティを持ち合わせていないが故、投稿と言う手段意外から得られる解決策としてのメッセージ性を受信できなかったのだと考えます。
とすれば、結論を言ってしまっては酷かも知れませんが、この女子高生には「物事のある程度普遍的な考え方の示唆」はやや難しい、と思います。
女子高校生が悩みの投稿をしたとすれば、その背景に在るものは、原さんが常々指摘される人間関係の希薄化とそれに因る社会の中での孤立化、コミュニケーション能力の低下などであリ、それらが青少年の悩みを深刻化させているのだと考えます。
帰結するところは、家庭内教育や地域社会での教育、学校教育などの教育の問題でしょう。更には教育を取り巻く今日的な社会状況という事になる筈です。
心の病を患う事は勧められませんが、若者には大いに悩んで頂きたいと思います。
野坂昭如氏の「みんな悩んで大きくなった」位の図太さも若者には必要です。
若者の悩みに懇切丁寧に回答するのも大切ですが、逞しく生きる術を育むことも教育の一環だと考えます。
コメントが的を得ているか否かは別として、最後に余談を記します。
何かに、例えば学業は勿論、スポーツや芸術活動などに夢中になっている高校生は「学校がつらい」等と新聞の相談欄に投稿をするでしょうか。まず、その様な時間は無い筈です。
若者ですから悩みはあるでしょう。しかし、自ら解決方法を心得ていますし、苦しさの向こう側にある慶びをイメージ出来ますから、それらに心を集中できるのです。
高校野球の球児たちの姿はその良い例だと思います。
でも何時もテーマはデスクの前に座ってから・・と言うより書きながら決めていく、右の脳の仕事です
だから今日は何を書くとは自分にも解らない、今日はたまたま昨夜ニューパンフが入荷したのUPして見ました。
悩みを打ち明ける相手がいない若者は今、世の中に氾濫しているのではないでしょうか。
本来ならば、まず親が子どもの苦悩を受け止めるべきです。ところがガイアさんがおっしゃるようにその能力やキャパシティのない親が子どもを産み育てている時代です。(あくまで一部の親御さんの話ですが。)
その次は学校の教員がその役割を果たすべきでしょうが、今の教員は自分が「忙しい」事を訴えてばかりで子どもに親身に向き合っていません。(教員の方々、極論であることをお詫びします。)
またその次は友人でしょう。ところがこの友人ですらネット世界にどっぷり漬かり、メールに即応しない奴はシカトと責めます。
そんな残酷な世界の中で自殺もせずに生き延び、新聞を読んで相談コーナーに相談を綴って寄せる若者は、私はむしろ評価したい、褒めてあげたい思いです。
私も高校生の頃は受験勉強のプレッシャーで苦しみました。そんな辛い経験を自らしているので、若い世代の悩みは全面的に受け入れてあげたいと思っております。
そして手前味噌ですが、今のところは我が娘の苦悩は母として全面的に受け入れている自信のある私です。
ただ、まだ中3で可愛い存在ですからね~。
これからが難しいですよね。
ガイア先輩、今後共いろいろ教えて下さいね!!
そんなハードスケジュールの中での毎朝のブログの更新は、凡人の私には真似のできることではありません。
しかもプライベートまでとことん充実していらっしゃるのは、今の私に取りましては羨ましい限りです。
僭越ながら、私も独身時代に館長さんに準ずる位のハートスケジュールをこなしていた時代がありますので、心底その頃の郷愁に駆られます。
今は子どもの未来を視野に入れつつ、自分の優先順位を冷静に捉えつつ精進する日々です。
悩みを抱える若者は多いと思います。
新聞に投稿する若者を寧ろ評価してあげるべきですね。大人の価値観や基準で若者を評価してはいけませんね。コメント内容を少し反省しています。
でも、友達から『どうしたの?』といった心配してくれた内容の手紙をもらい手紙で交流して復帰できたことがあります。
でも、最近では、日本の伝統とでもいうのでしょうか『思いやりと察し』の精神が失われつつあり、他人の心の痛み等、全く感じない方々が年齢を問わず、増えてきているように思えて仕方ないです・・・。
そうでしたか、あやさんも不登校に悩まれた経験がおありなのですね。
でも、ご友人のお手紙に助けられたとのこと、何よりでした。
手紙って、メールと違い心を伝えてくれるような暖かさがありましたよね。今、手紙を書く習慣がなくなりつつあり、こんな年寄りの私までもがメールに頼っている現実を本当に残念に思います。
あやさん、また是非、私のブログにいらっしゃって下さいね。
お返事、嬉しいです!。
私が不登校になった頃は、携帯電話とかが今のように普及していませんでしたので、手書きの手紙っていうのは、今の時代の電子メールより相手の心が伝わってきたように思います。
かく言う、私も、現在ではほとんど電子メールで済ませてしまってますが・・・。^^;
でも、イジメにあっていた頃は、今になって考えるとたいしたことは無いように感じますが、当時は自殺まで考えた程、悩みました・・・。
話は、急にかわりますが、日本の良い文化とか伝統を大切にしたいものですね。
ただ、年月が経過した今思うのは、いじめた方がとても哀れなのです。いじめる方は必ず心に闇を抱えています。家庭環境が劣悪だったり、何らかの劣等感を抱えて生きている人(子)たちです。今となってはまったく縁がなく、会うことも一切ないのですが、時々、あの子達は今どうしているだろうかと思うことがあります。
話がそれましたが。