原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“分かって欲しい”思いとは仏教では煩悩なのか?

2011年12月03日 | 人間関係
 これ程までにインターネットが世間一般に普及した現代において、ネット通信なくしてはもはや生活が成り立たないと原左都子も実感の日々である。

 先だって我が娘の大学推薦合格結果を真っ先に確認したのも、ネット上の大学のホームページだった。  合格発表時間の午前10時直後にはさすがにネット回線が混雑していたようで直ぐには繋がらなかったのだが、10時5分過ぎには早くも結果を確認することが叶った。

 航空券や旅行の予約など、今時ネットを利用しない手はない。
 あるいは美術館や観劇(私の場合バレエ観賞が趣味なのだが)等々個人の嗜好を満たす最新情報の確認やチケット予約もネットに頼るのが一番手っ取り早い。
 それからネット通販は元より、今となっては日常的な食材の配達や出前等もパソコンを通じて発注すれば直ぐに宅配してくれるまでに、インターネットは人々の生活に密着した存在になっていると言えよう。

 その一方で、ネットは人が個々人の思想等“自分の思いを伝える”べく個人的情報を伝達公開する手段としても目覚ましい発展を遂げている。
 私が発信しているこの「原左都子エッセイ集」のごとくのブログとてその一端であろう。
 (私は一切利用しておらず認識不足であるものの)“掲示板”や“つぶやき”?、あるいは“出会い系サイト”等々も人同士が交流可能なインターネット上のサイトと言えるのではあるまいか。


 さて話が変わるが、朝日新聞夕刊に継続的に掲載されている仏教家・小池龍之介氏のコラムを本エッセイ集のバックナンバーにおいて2度程取り上げさせていだだいた。
 (「原左都子エッセイ集」2011年10月バックナンバー 「“安請け合い”は人間関係の破綻を招く」 及び 「人は“プライド”を守るためにクレームを発するのか?」 と題する記事において、小池氏のコラムの要約と共に私論を述べておりますのでよろしければご参照下さい。)

 小池氏のネットに関するご見解に関しては、先だって訪れた美容院に置かれていた婦人雑誌のコラムにおいても偶然発見した私である。 (そうか、この人物は仏教家であるのみならずコラムニストとしても現在各種出版物に取り上げられているのだな、との認識を抱いた私だ。)
 そのように現在ご活躍の小池氏のコラム記事をたまたま何度か読ませていただいて原左都子が感じたのは、 「どうもこの仏教家先生は、ネット上で展開されている人間関係を否定的視野で捉えておられるのか?」 という懸念感であった。

 そうしたところ朝日新聞12月1日付夕刊の小池氏が担当されている連載コラムに於いても、ネット上の個人的情報公開を否定せんとする見解が記されていたのである。
 その内容を以下に要約して紹介しよう。
 インターネットを通じて人とつながりたい気持ちの裏にも「自分を分かって」という“煩悩”が紛れ込んでいる。  現在ネット上の日記や掲示板を通して膨大な量の言葉が吐き散らかされている現状だ。  ネット上の書き込みと個人的な日記との決定的な違いとは“他人に見てもらえているか否か”である。 ネット上に書き込む人達とは「自分ってこんな人だよ」と分かってもらおうと実は寂しくあがいている。  例えば、自分の誕生日に友達が赤坂のホテルでお祝いをしてくれた事や、皆からもらったプレゼントを写真付で紹介している日記があるが、なぜそんな事を書き込みたくなるのか?  「私はみんなから祝福してもらえたりプレゼントをもらえたりして、こんなに大事にされている。 こんなにステキな自分だとネットを見ている人たちにも分かって欲しいよ」 という思いに他ならないのだ。  (中略)   かくして現代社会は「自分の事を分かって」欲しい孤独な言葉へと翻訳できる文字達で満ち満ちている。  かつての日記とは他人の目を避けたいが故の心の避難所であった。 現在はそれを他人の目に晒すことで「わかってよーー」と心を乱すものへと変わっているが、これは“煩悩”でしかなく控えたいものだ。
 (以上、朝日新聞夕刊の仏教家・小池氏のコラムより要約)


 最後に、原左都子の私論で締めくくろう。

 仏教家でありコラムニストであられる小池氏とは、もしかしたら日頃ネット上のサイトにおいて、不特定人物からの誹謗中傷等により痛めつけられる等の被害にでも遭われておられるのであろうか??
 
 この私にとってはネット上でよく見かける“取るに足りない個人的自慢話”など“可愛いもんだ”♪ ぐらいに感じて素通りする対象である。 何故そんなものを殊更取り上げ“煩悩”などとの言葉を持ち出して、小市民を叩きのめす必要性があるのだろう???  勝手にさせてあげれば済む話なのではなかろうか?
 もし本気でこの種の“取るに足りない自慢話”を鬱陶しく感じるのであれば、一応朝日新聞のコラムを担当する程名を轟かせておられる有名人として取るべき行動とは、何もネット上の一般庶民が利用しているサイトなどさらりと素通りすればよいだけの話と、アドバイス申し上げたい思いなのだが……

 同じく一般庶民に過ぎない原左都子とて、つい先だって「原左都子エッセイ集」のコメント欄閉鎖措置を取る事と相成った。 それには種々の事情があるのだが、その思いを総括するならば不特定多数の読者が訪れて下さる“ネットの特質性”に対応していくことに、ある意味で限界を感じたからに他ならない。
  
 現実世界に於ける人間関係とは、直ぐそこに存在する生身の相手とのかかわりにおいて自分自身の五感で多角的に観察分析しつつ懇親の関係となることが可能である。 ところがこれが一旦ネット世界となると、その関係とは書かれた文章のみを判断材料とするしかないのが現状だ。
 要するに、ネット上の人間関係とは単なる言語の付き合いでしかないことが明白であろう。 ただし言語だけ、たかがそれだけの関係であっても、信頼関係が築かれて長年お付き合いが継続する相手も存在し得るのではなかろうか。
 私は現在「原左都子エッセイ集」のコメント欄を閉鎖してはいるが、たとえネット上の言語のみの関係と言えども信頼に値する方々が存在するからこそ、我がエッセイ集の継続が成り立っていると実感させていただいているのだ。

 そんな心境複雑な原左都子が既に5年目に至る長きに渡ってネット上で公開し続けているこのエッセイ集も、仏教家であられる小池氏の視点からは “自分の思いを分かって!” と訴える愚かな「煩悩」の集合体に他ならないと位置付けられてしまうのかもしれない。

 上記のバックナンバーでも述べたが、私は宗教とは無縁の人生を歩み続けているため小池氏がおっしゃる 「煩悩」 の概念自体が全く理解できないでいる。
 それでも仏教家先生に向かって大変失礼な事は承知の上で、原左都子から小池氏に伝えたい事があるのだ。

 人間関係とは信じる宗教あるいは無宗教にかかわらず “他者と分かり合う” ことから始まるのが原則ではあるまいか?
 今の時代、悲しい事に現実社会において人間関係の希薄化現象が蔓延ってしまった。  そのような虚しい現実世間の中で自分の生き様が見つけにくい人種が、一時ネットに救いを求めて 「私のことを分かって欲しい!」 との無言の叫びを発しても許されるのではないかと、私は捉えるのだ。

 原左都子ももちろん、ネット上の関係のみが心の拠り所となってしまう事態を懸念してはいる。 
 だが、特に若い世代とはネット上を彷徨いつつも社会の移り変わりや自己の成長と共に今後実世界に羽ばたける潜在エネルギーを内面に秘めていると、無宗教の私は信じている。
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