原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ノーベル賞受賞者の母校報道に違和感

2015年10月12日 | 時事論評
 もしも私がノーベル賞を受賞したとして、郷里の出身小中高校へメディア取材が入るなど勘弁して欲しいものだ。


 いや中学校に関しては個人的に私を可愛がってくれた先生達が複数存在し、今に至って尚(あの方々にはお世話になったなあ)なる感謝の念を抱ける恩師の事を思い出したりする。 そのため、その方々が「あの子はどーたらこーたらだった」と取材に応じてくれる事はあり得るかもしれないし、それは歓迎したい。

 それに対し、小学校時代の教員など今思い出しても(大変失礼ながら)嫌な奴ばかりで、あんな奴らに勝手なコメントなど述べられたものならこちらとしてはたまったものではない。(おそらく既に全員他界しているであろうから、その心配もないのだろうが…。)
 高校に関しても個人的に心から語り合った教員など皆無のため、小学校同様メディア相手に勝手な発言をされては大迷惑だ。

 一方、大学(私の場合、二大学及び一大学院を修了しているが)に関してはそもそもその存在命題が“学問の府”であるため、学生と教官との距離が近く、この私も二大学の教官先生方に十分お世話になっている。 私の事をよく理解下さっている教官氏にメディア取材に応じて頂くのは歓迎するべく事である。


 さて今年のノーベル賞に於いて、2名の日本人氏がその賞を受賞した事は皆さん既にご承知であろう。

 ここで今一度、その受賞内容を復習させていただこう。

 まずは、ノーベル医学生理学賞に輝いた 大村智氏。
 (ここで余談だが、医学経験がある私の経験的感覚として、ノーベル賞に「医学生理学賞」なる部門が存在する事実にずっと違和感を持ち続けている。 生理学なる学問とは医学の一分野と把握している私としては、何故ノーベル賞が殊更「生理学」を「医学」と同列に扱う名称にこだわっているのかが理解し難いのだが…。)

 大村智氏がノーベル医学生理学賞に輝いたのは、「寄生虫による感染症とマラリアの新治療法の発見」とのことだ。 各種メディア報道によれば、大村氏はご自身の一生をかけて微生物研究を愛し、それに携わられた人物であるようだ。 ご本人曰く「私自身は微生物がやってくれた仕事を整理しただけ。科学者は人のためにやることが大事との思いでやって来た。」と語っておられる。

 ここで原左都子の私見だが、近年のノーベル医学生理学賞は、医学最新トピックスである「DNA分子生物学」や「再生医学」に偏り過ぎている印象を抱いていた。  それに対し、今回の大村氏の受賞は「感染症新治療法の発見」。
 まさに世界規模で膨大な人民に役立つ発見をされた大村氏に今回ノーベル賞を授けた本部の計らいとは、医学の原点に立ち戻ろうとの趣旨だったのではないかと、私は勝手に高評価している…。 


 次に紹介するのは、ノーベル物理学賞に輝いた 梶田隆章氏。

 梶田氏の受賞内容は、まさに原左都子の趣味の一つとも言える、素粒子には“質量があるのか否か?がテーマだ。 元々哲学が好きで科学・学問を愛好する私は、梶田氏のノーベル賞受賞に拍手を贈りたい。
 
 以下に、梶田氏が朝日新聞取材に応えた内容の一部を紹介しよう。
 私たちが見つけたニュートリノとは、これ以上小さくすることが出来ない素粒子の一つだ。 かつてはニュートリノには質量(重さ)が無いとされてきた。 ところがニュートリノに振動が見つかった。 その振動を解明する事により、何故宇宙に物質が存在するのかとの謎に迫れる可能性が出て来た。  (中略)  ニュートリノとは特別な素粒子だ。 それが宇宙の物質の起源を説明するカギと考えられるようになってきた。 それを確認するためには更に実験が必要だ。
 (以上、朝日新聞10月7日朝刊記事より一部を要約引用したもの。) 


 ここで、原左都子の私論に入ろう。
 
 上記で述べたごとく、今年のノーベル賞を受賞されたご両人の実績の程は素晴らしい。
 その実績の程を、何故国民が潰すべく報道しか我が国のメディアは出来ないのであろうか?

 日本とは一応“先進国”と私も理解しているが、片や地域格差を抱えている国家とも理解している。
 それにしても、どうしてこうも報道機関のすべてが、ノーベル受賞者出身県の“母校取材”に一目散に入るのかが私には理解し難いのだ。 
 一番優先して報道するべきは、ご本人が成し遂げた実績に対する内容であろうに…。

 さらには私は昨日、ノーベル賞受賞後ご両人の出身大学に関して殊更取り上げたNHK番組を垣間見た。 その放送内容を少し紹介するならば、お二方共に“地方国立大学出身”との内容だ。
 今回のノーベル賞受賞のご両人の場合、おそらく上記出身大学とは無関係に、その後の経歴によりノーベル賞受賞に至ったものと私は認識する。  と言うもの、私自身が過去に於いて理系・文系二つの“地方国公立大学”を経験して現在の人格を創り上げていると自負している。 もしもどちらか一つ(特に郷里の大学)に偏った報道をされたならば、メディアに対して異議申し立てしたくなる事だろう。

 もはや、遠い過去に於ける出身大学(及び小中高)との眼鏡で「ノーベル賞」の価値を語るなど、何の意味もない時代と進化するべき我が国 日本ではなかろうか!??
 人間とは、出身地(出身校)の産直品ではあり得ないのだ。

 そんな馬鹿げた議論を通り越して、真に個々に進化を遂げるべく努力した(している)人物本人を取り上げるべく、報道メディアには進化して欲しいものだ。

この記事についてブログを書く
« 絵むすび (朝日新聞 2015.1... | TOP | 今週末「還暦」を迎える原左... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 時事論評