原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

弱体化・貧困化する弁護士

2016年07月13日 | 時事論評
 参院選がらみのエッセイが続き、未だ「言論統制」の被害より解放されず一部の検索画面から削除措置を余儀なくされている我がエッセイ集だ。


 今回は大幅に趣向を変えて、先程ネット上で見た興味深い記事に関して論評することとしよう。

 その表題とは、 「日本最難関資格、弁護士の悲惨な現実」。
 早速以下に、要約して紹介する。

 最近、弁護士事務所のCMや広告をよく目にするようになった。 テレビでも弁護士は報道番組だけでなく、バラエティー番組などにも頻繁に登場する。
 司法試験は長年日本の最難関ライセンスといわれ、それに合格した弁護士は、知的で華やかな職業に見える。
 ところが近年、その弁護士の年収が激減している。
 以下は、日本弁護士連合会が作成している「弁護士白書2015」で発表された、弁護士の収入と所得の推移。 収入は弁護士売り上げ、そこから経費を引いた所得は年収と捉えればいい。中央値とは、上から多い順に並べた際に、全体の真ん中になる人の値。 所得の中央値を見ると、2006年の1200万円から、2014年には600万円と、キレイに半額になっている。 
 国税庁が発表している、弁護士の申告所得情報から算定した1人当たりの所得額も、概ね同じ傾向を示していることが分かる。 700万円弱といえば、社員数1000人以上の大企業における、大卒・大学院卒者の平均年収とほぼ一致する水準。 1200万円といえば、同じく大企業の部長クラスの平均年収となる。 2008年当時は大企業の部長並みだった年収が、わずか6年ほどの間に、全社員の平均水準くらいにまで下がったということになる。
 なぜ弁護士は、儲からない職業になったのか?
 答えは明らかで、弁護士の数が増えすぎたからだ。
 先述した「弁護士白書2015」では、全国の弁護士人数は、2006年に比べて2014年は実に約1.6倍にまで急増している。 これは、政府が進めた政策によるものだ。 2002年に閣議決定された「司法制度改革推進計画」では、政策の目玉が法科大学院の創設による司法試験合格者の拡大だった。 裁判など法的需要の増加を見据えて、それに対応できる法律の専門家を増やそうとしたものだ。 当時の法曹人口が、我が国社会の法的需要に十分に対応することができていない状況にあり、今後の法的需要の増大をも考え併せると、法曹人口の大幅な増加が急務となっているということを踏まえ、司法試験の合格者の増加に直ちに着手することとし、後記の法科大学院を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、平成22年ころには司法試験の合格者数を年間3000人程度とすることを目指すそうとしたものだ。
 確かにその後司法試験合格者は増え、弁護士数も急増したものの、思ったほど裁判や法律案件は増えなかった。 その結果、弁護士1人当たりの平均取扱事件数は減少し、収入減・所得減につながっている。 また、先ほどの所得データと併せて推測すると、実績のある弁護士さんの年収も幾分下がってはいるものの、おそらく最近合格した人たちの中に、圧倒的多数の貧乏弁護士が発生したのではなかろうか。
 しかし、このことは、多くの日本人にとっては、むしろ「幸運な見込み違い」といえるのではなかろうか。 アメリカのように、すぐに訴訟を起こす社会、弁護士が自己PR合戦を繰り広げる社会が、決して日本人が望む幸福な世の中だとは思えない。
 さて、冒頭のテレビCMや広告。 一部のPRが上手な法律事務所と、それを支援する周辺業者の象徴と言えよう。 その一方で、依頼者の立場になって真面目に取り組んでいるものの、自己PRに関心がなかったり下手だったりして、貧困化している弁護士がいるのも事実。 それが競争社会といってしまえばそれまでだが、あまり行き過ぎると結局は弁護士業界全体の信頼を失うのではなかろうか。
 (以上、ネットより現在の弁護士が置かれている状況に関する情報を引用・紹介したもの。)


 原左都子の私事及び私論に入ろう。

 私自身、30代前半独身時代にほんの一時だが 「司法試験」 を目指そうとした時期がある。
 その夢はすぐに断念した。 何故ならば、その試験に挑む道程があまりにも厳し過ぎるからだ。 ただ、私の場合は大学院法学研究科進学を志願しその厳しい受験勉強に励み合格した経験からその判断をしたのであり、決して、めくら滅法その受験を断念した訳ではない。
 
 当時は、まだまだ「弁護士」との職業が我が国に於いて輝ける存在であった。
 理系の「医師」と文系の「弁護士」。  その両者を天秤にかけるならば、その総数や受験の厳しさ、そしてその業務内容から判断して、1980年代後半の当時は「弁護士」こそが輝ける存在だった記憶がある。 
 極端な事例である事はお詫びするが、患者を10分間診察して「風邪でしょう」と診断しテキトーな薬を処方していれば済む医師。 それに対し、弁護士の実務とは多大な法的知識を要するのは元より、裁判に際しては勝利を視野に入れ理論武装し闘う力も要する。 どちらに軍配を上げるかと聞かれれば、当時の私は必ずや「弁護士」と応えたものだ。
 もしも私が後10歳若く、政府が立ち上げた「法科大学院創設」時期に受験年齢だったならば、間違いなくその道を歩んだ事だろう。 今思えば、10年歳老いていた事実が現在の我が身を救っているとの感覚だが…。

 私事が続くが、米国暮らしの我が実姉の配偶者が米国にて「弁護士」をしている。 本拠地である米国西海岸と東海岸に2つの個人事務所を構え、日々航空便で移動を繰り返しているとのことだが。 
 姉の話によっても、訴訟が多発する米国(日本やドイツのように「制定法国家」ではなく「判例法国家」だが)では、弁護士数が膨大に多い事実と比例してその報酬は決して多額でもなければ、世間での職業評価度も高くはないらしい。  故に日本のごとく「弁護士」一家だからと言って、それだけの理由で厚遇を受けるでもないとの談話でもある。  それと連動して、姉が高齢にて産んだ甥もごく普通に米国公立ハイスクールを卒業した後、本人が目指す州立大学に合格し現在そこに通っているとの話だ。
 (片や日本の場合は、親が「医師」やら「弁護士」やら「国家官僚」などと聞き付けると、私立学校側が放っておかないよね~~。 我が娘を過去に通わせた私立学校現場でも、その実態の程を鬱陶しくも見せられて来ているのだが…

 話を戻すが、私に言わせてもらっても「制定法国家」と「判例法国家」の違いはあれども、これぞ職業差別無き社会の理想形ではなかろうか?


 最後に、原左都子の結論で締めくくろう。

 あえて希望的・未来的観測をするならば、我が国でも、如何なる職種に於いても自分の実力がものを言う時代へと変遷しつつあり、そうであって欲しいとも思うのだが…

 それにしては、「弁護士」をはじめとする法曹界(検事や裁判官も含めて)の通過儀式である「司法試験制度」が厳し過ぎる現実だ。
 ただそれは我が国が「制定法国家」であるが故に、やむを得ない実態かもしれない。 (進路が刑事・民事のいずれかにもよるが)基本的には六法すべてをマスターせねばならないその負担たるや実に膨大だ。

 近年は「司法書士」や「社会保険労務士」等々周辺国家資格が充実し、それら資格取得者が個人開業している事例も目立つ。  その実態すら「弁護士」にとっては 一種の“業務妨害”とも推測可能だ。

 その意味では、医学界に於ける「医師」との職種の長年に渡る絶大なる権限力とは、「医師会」の業績(失策)でもあるのだろうか?!?

 このように考察してくると、確かに現在の我が国に於ける「弁護士」弱体化・貧困化の事実は、今後に続く困難な課題と言えよう…

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