原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再掲載 「正しい“コロナ自粛の意味合いとは」

2021年12月09日 | 時事論評
 オミクロン株が本気でこの世の“コロナ禍”に拍車をかけるがごとく、世界規模で脅威を振るおうとしている現在。

 
 私は、過去に記したバックナンバーを先程発見した。

 早速以下に、それを再掲載させていただこう。


 2020.05.16付朝日新聞別刷「be」 Reライフ の記事内容は、作家・保坂和志氏による「夏の手前で 腹立たしさの理由は」 と題する記事だった。

 この保坂氏の記載内容が、原左都子の基本的考え方や生き様とピッタリ一致するため、それを以下に要約引用させていただこう。


 私は人から言われて何かをやらされたり禁止されたりするのが嫌いだ。 「みんながやっているから」という右へ倣えも嫌いだ。 自分の中で理由付けができていないと気がすまない。 そもそも会社員時代に受けた適性検査で、帰属意識の項目が百点満点の0点だったくらいで、子どもの頃から集団行動が出来ない。
 しかし友達は大事にする。 友達との約束は守る。 集団の約束事は守らなくてもいいが、個人的な「約束」は守る、ということだ。
 「自分は今、外に出ないようにしているが、それは本当に自発的な判断なのか? 強制された結果の行為で無いと言えるのか?」
 ここ何週間も、そこのところにずっと引っかかっているわけだ。 この「自粛」の実態は強制なのだから、私はそれを自分に納得させるために自発的な判断だと自分に言い聞かせているだけなんじゃないか?と。
 外出制限は感染防止が目的だ。 感染するしないは、政治や経済の問題ではなく科学の問題だ。 「ステイホーム」の呼びかけは、校則みたいな、どっちでもいいことを片方に制限するような恣意的な指示ではない。
 横断歩道を老人が渡っている最中に信号が変わっても車が発車しないのは、そこには人間としての生存のルールがある。 それと同じことだと。
 個人としてはそこで一応ケリがついている。 それにだいたい、そんな難しいことを言わなくとも「自分がうつされたくない」のひと言の方が今の気持ちはすっきりする。  そうなると今度は、今この時期に沖縄などの観光地に行く人達に対して感じる腹立たしさだ。 それはどこからくるのか?
 私は人に強制されたくないから人にも強制しない。 だから「今は皆が守っているんだ」という、生徒指導的な理由で腹が立つのではない。
 そこで改めて、「自由とは何か」という問題になる。 「何をしようが自由だ」というのは、本当に自由と言えるのか?
 「自由であることは、おのれの欲望の奴隷でないことだ」という、ある哲学者の言葉を思い出した。 
 「何をしようが、私の自由だ」と言って沖縄に行く人には腹が立つ。
 「馬鹿には腹が立つものだ」というのは、一つの有力な回答かもしれない。 そうは言っても、それが集団になると「馬鹿」では済まされない。 トランプ支持層のような「病気じゃ無い私たちにまで外出制限をするな! 仕事をさせろ!」との抗議デモのような脅威になる。
 
 (以上、作家・保坂和志氏による記載を一部を省略して引用させて頂いた、。)

 原左都子の私事及び私見に入ろう。

 いやはや上記保坂氏の記事内容とは、幼少の頃より集団嫌いだった我が思考・行動パターンと瓜二つだ!


 小学生時代の通知表に「生活面」での態度に関する評価欄があったが、その中に「協調性」の項目が存在した。 他の項目はすべて「優」評価だった記憶があるが、この「協調性」のみは担任が変わっても「優」を貰えることは一度足りとて無かった。😰

 「何事にも自分なりの理由付けができていないと気が済まない」との記述など、まさに一生に渡る我が人生の揺るぎない鉄則である。 😈

 「集団嫌い」ではあるけれど「友達」は大事にするなる保坂氏のポリシーも、まさに私にとっても一生涯の掟である。 それ故、我が友達関係(1対1が原則)は今尚続行中の大事な生き様となっている。 
 若き時代には、複数の仲間と酒宴等の場で大騒ぎして楽しむ場面もあった。 ただ必ずや、私にとって要の人物が存在してこそ成り立つ宴会であったものだ。

 「私は人に強制されたくないから人に強制しない」とのご記述も、我が日頃のモットーでもある。 
 我が高校教員時代に何故生徒間で人気があったのかを分析するならば、まさに教員の立場としても、これを貫いていた故であろうと振り返る。
 
 保坂氏の記述内で秀逸な部分は、「外出制限は感染防止が目的、政治や経済の問題ではなく科学の問題だ」の箇所だ。
 まさにおっしゃる通り!  元医学関係者でもある私の場合、これぞ一番に訴えたい論点だ。
 これがおざなりになっているのが我が国の政府や自治体による国民に対する“コロナ指導”ではなかろうか?
 連休に沖縄はじめ特に過疎地域へ旅に出た国民達とは、要するにご自身が「馬鹿だから」のみではなく、政府や自治体長の指導が中途半端な事実にこそ根源があったのかもしれない、とも考察可能だ。 (もちろん、ご本人達の思考も多少浅はかだったのかもしれないが… )

 最後に表題の「正しい“コロナ自粛”の意味合い」に話題を戻すならば。

 国民各々の行動パターンの是非を国民間で非難し合わないような体制作りを、国家や自治体が率先して慎重に成すべきではあるまいか?
 国家や自治体のその指導力が欠落し中途半端な情報を発信してばかりいるからこそ、国民底辺で歪みが生じてしまっていると私は分析する。

 例えば、「学校9月始業制」議論にしてもそうだ。
 当初文科省大臣の萩生田氏とて、それに同調していると国民から誤解されそうな回答をしていたことを私は記憶している。
 少なくとも本年度中のその実施可能性がゼロならば、それを明確に国民に伝えるべきだ!

 これなどほんの一例に過ぎず、国家や自治体のすべての“コロナ対策”が中途半端なお粗末さであること自体が、国民の混乱を煽っていると結論付けられよう。

 (以上、「原左都子エッセイ集」2020.05バックナンバーより再掲載したもの。)


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