「人生の幅」 と 「人間性の幅」。
似ているようで異質な概念である二者の違いについて述べた文章を発見したのは、朝日新聞1月31日付夕刊“こころ”のページの「悩みのレッスン」の相談においてである。 今回の相談の回答者であられる 哲学者の森岡正博氏 が、回答の中で二者の違いについて言及しておられるのだ。
それでは早速、18歳大学生女性による「悩みのレッスン」の相談内容から要約して紹介する事にしよう。
私には生涯の友と思える大切な友人がいるのだが、金銭感覚が合わないことに気付き始めた。彼女は親からの小遣いで高額なパーマをかけたりスポーツ観戦をしたりする一方、私の家庭は余裕がなく自分でアルバイトをし始めてお金の価値が分かってきた。 彼女のお金の使い方に疑問を持ち、また彼女が新しいブランド品を持っているのかと思うと怒りに近い感情が湧き、最近では会う事も避けている。 今後彼女とどのように付き合えば楽しい時間が過ごせるのか?
森岡氏の回答を紹介するのに先立って、原左都子の私論から述べよう。
この相談を読んで真っ先に原左都子が感じたのは、今の時代とは未成年者ですら“貧富の格差”を身に滲みねばならぬ程過酷な社会なのか?、という事である。
確かに私が小中学生(特に地方の公立学校)においては、“貧富の格差”は存在した。 特に過疎地の自治体の場合私学など元より存在しないため、地域住民の子供達の皆が通学圏内の公立小中へ進学するのである。 そこにおいては必ずや“貧富の格差”が存在したものである。 ただし子供達がまだ成長過程であり幼いことが幸いして、“貧富の格差”現象が子供の心理面でさほど表面化しないままに卒業と相成ったものである。(当時より明らかな“貧困層”の子供達が存在した記憶があるが、それはごく少数派であったと記憶している。)
高校進学に関しては子供達の学習習熟度に応じて、どうしても進学先の“序列化”がなされる運命にある。 そうした場合、子供の進学先とは子供の学習習熟度と平行して、家庭の経済面においても自ずと似たり寄ったりの子供達が同じ高校に集結することとなる。 多少の“貧富の格差”はあれど、さほど“騒ぐ程の格差”ではない範疇と言えたであろう。
そして、それは大学においても同様だったと考察する。
ところが原左都子が上記に考察した現象は、ウン十年前の時代の話に過ぎないのだ。
今となっては、政権が票取り目的で“子ども手当て”をバラ撒くことが安易にマニフェストの主要項目に掲げられる程に、この国は親が子供を育てる資金すらない程の貧困にあえぐ国民が増殖したという実情なのであろう。
要するに、今やこの国には真なる経済難の時代が到来していると言うことに他ならない。
そうなると、この相談女子大学生の相談内容も切実であるということになる。
それでも大学に進学できてアルバイトをしながらも“一見リッチ族”の友人も得られ、相談者本人がその友を“生涯の友”として捉えられるのであれば、学生の間だけでもその友との“異文化コミュニケーション”を楽しんで、その経験を自身の将来の成長に繋げるという手もあろう。
ただ、この相談者はそうではないようだ。
18歳と言えば我が娘と一つ違いでしかないのだが、(私から言わせてもらうと)そんな子供が早くも友を通じて家庭間の“経済格差”に苦しんでいるという事自体が、この相談者が置かれている現実なのであろう。
それではここで、哲学者 森岡正博氏による回答内容を要約して紹介しよう。
金銭感覚の違いというのは昔から多くの人々が抱えてきた永遠の問題である。金銭感覚の違いを埋めることが出来ずに破綻する人間関係の話もたくさんある。 友人がブランド品を買い換える度に怒りの感情が湧くあなたの気持ちも分かる。 その上で、お金に余裕のある人は、いろんな経験を金で買えるので「人生の幅」を広げることができる。 これに対して、お金で苦労をした人とは自己実現出来ずに辛い思いをしている人に心から共感することができるため「人間性の幅」を広げることができる。これは人生の中盤から後半にかけてその人の大きな財産になっていくため決してマイナスではない。 今は少し友から距離をとることにより、その友の美点も見えてくるはずだ。 そしてあなたの怒りの原点である格差社会の問題についても、これからじっくりと勉強してみてはどうか。
再び原左都子の私論になるが、この相談女子学生(及びその家庭)が真に貧困にあえいでいるのか否かに関してはこの相談内容からは不明である。 もしかしたらこの相談者の親は未だ18歳の娘に対して、厳しい今の時代を将来に渡って生き抜くべく心を鬼にして、自身がアルバイトをしてでもある程度自力で大学を卒業させることを一つの教育方針としているのやもしれないのだ。
哲学者であられる森岡正博氏による「人間の幅」と「人間性の幅」の理論はもちろん興味深い。
確かに今現在の我が国は、両者をステレオタイプに分類できる時代が到来したと言える程に国全体が経済力を失ってしまっているのであろう。
ただ、原左都子は若かりし頃よりその両者をクリアすることこそが人生の醍醐味と捉えつつ我が人生を歩んでいるのだ。
私は若かりし頃から“お金で人生の経験を買える人”との付き合いも多くこなしていれば、はたまた“不運な境遇の中で辛い思いをしている人”にも思いを馳せつつ人生を歩んでいる自負がある。
それ故に森岡氏の上記の持論も尊重しながら、おそらくこの18歳大学生相談者女性も両者をゲットする底力があることを信じつつ今後の更なる発展を応援したい思いでもある。
ほんと、市場に出回っている“ブランドもん”なんか一切要らないよ!
(いえいえ、本当にその商品の価値を自分なりに見出せたならば、自分の経済力の範囲内で大枚はたいて購入してもいいんだけどね。 この原左都子だってそうしてるよ。) そうではなく、今流行っていて皆が喜ぶブランド物に飛びついてチャラチャラと持ち歩いたところで、今後の自身の未来にとって何の成長力にもなりゃしないと言う訳だよね!
自分で自分の人生を演出できる人生を歩めることこそが自分自身の“ブランド”の創出であるからこそ、若者には今後共に「人間の幅」と「人間性の幅」の両者を心に描きつつ精進を続けて欲しいものである。
似ているようで異質な概念である二者の違いについて述べた文章を発見したのは、朝日新聞1月31日付夕刊“こころ”のページの「悩みのレッスン」の相談においてである。 今回の相談の回答者であられる 哲学者の森岡正博氏 が、回答の中で二者の違いについて言及しておられるのだ。
それでは早速、18歳大学生女性による「悩みのレッスン」の相談内容から要約して紹介する事にしよう。
私には生涯の友と思える大切な友人がいるのだが、金銭感覚が合わないことに気付き始めた。彼女は親からの小遣いで高額なパーマをかけたりスポーツ観戦をしたりする一方、私の家庭は余裕がなく自分でアルバイトをし始めてお金の価値が分かってきた。 彼女のお金の使い方に疑問を持ち、また彼女が新しいブランド品を持っているのかと思うと怒りに近い感情が湧き、最近では会う事も避けている。 今後彼女とどのように付き合えば楽しい時間が過ごせるのか?
森岡氏の回答を紹介するのに先立って、原左都子の私論から述べよう。
この相談を読んで真っ先に原左都子が感じたのは、今の時代とは未成年者ですら“貧富の格差”を身に滲みねばならぬ程過酷な社会なのか?、という事である。
確かに私が小中学生(特に地方の公立学校)においては、“貧富の格差”は存在した。 特に過疎地の自治体の場合私学など元より存在しないため、地域住民の子供達の皆が通学圏内の公立小中へ進学するのである。 そこにおいては必ずや“貧富の格差”が存在したものである。 ただし子供達がまだ成長過程であり幼いことが幸いして、“貧富の格差”現象が子供の心理面でさほど表面化しないままに卒業と相成ったものである。(当時より明らかな“貧困層”の子供達が存在した記憶があるが、それはごく少数派であったと記憶している。)
高校進学に関しては子供達の学習習熟度に応じて、どうしても進学先の“序列化”がなされる運命にある。 そうした場合、子供の進学先とは子供の学習習熟度と平行して、家庭の経済面においても自ずと似たり寄ったりの子供達が同じ高校に集結することとなる。 多少の“貧富の格差”はあれど、さほど“騒ぐ程の格差”ではない範疇と言えたであろう。
そして、それは大学においても同様だったと考察する。
ところが原左都子が上記に考察した現象は、ウン十年前の時代の話に過ぎないのだ。
今となっては、政権が票取り目的で“子ども手当て”をバラ撒くことが安易にマニフェストの主要項目に掲げられる程に、この国は親が子供を育てる資金すらない程の貧困にあえぐ国民が増殖したという実情なのであろう。
要するに、今やこの国には真なる経済難の時代が到来していると言うことに他ならない。
そうなると、この相談女子大学生の相談内容も切実であるということになる。
それでも大学に進学できてアルバイトをしながらも“一見リッチ族”の友人も得られ、相談者本人がその友を“生涯の友”として捉えられるのであれば、学生の間だけでもその友との“異文化コミュニケーション”を楽しんで、その経験を自身の将来の成長に繋げるという手もあろう。
ただ、この相談者はそうではないようだ。
18歳と言えば我が娘と一つ違いでしかないのだが、(私から言わせてもらうと)そんな子供が早くも友を通じて家庭間の“経済格差”に苦しんでいるという事自体が、この相談者が置かれている現実なのであろう。
それではここで、哲学者 森岡正博氏による回答内容を要約して紹介しよう。
金銭感覚の違いというのは昔から多くの人々が抱えてきた永遠の問題である。金銭感覚の違いを埋めることが出来ずに破綻する人間関係の話もたくさんある。 友人がブランド品を買い換える度に怒りの感情が湧くあなたの気持ちも分かる。 その上で、お金に余裕のある人は、いろんな経験を金で買えるので「人生の幅」を広げることができる。 これに対して、お金で苦労をした人とは自己実現出来ずに辛い思いをしている人に心から共感することができるため「人間性の幅」を広げることができる。これは人生の中盤から後半にかけてその人の大きな財産になっていくため決してマイナスではない。 今は少し友から距離をとることにより、その友の美点も見えてくるはずだ。 そしてあなたの怒りの原点である格差社会の問題についても、これからじっくりと勉強してみてはどうか。
再び原左都子の私論になるが、この相談女子学生(及びその家庭)が真に貧困にあえいでいるのか否かに関してはこの相談内容からは不明である。 もしかしたらこの相談者の親は未だ18歳の娘に対して、厳しい今の時代を将来に渡って生き抜くべく心を鬼にして、自身がアルバイトをしてでもある程度自力で大学を卒業させることを一つの教育方針としているのやもしれないのだ。
哲学者であられる森岡正博氏による「人間の幅」と「人間性の幅」の理論はもちろん興味深い。
確かに今現在の我が国は、両者をステレオタイプに分類できる時代が到来したと言える程に国全体が経済力を失ってしまっているのであろう。
ただ、原左都子は若かりし頃よりその両者をクリアすることこそが人生の醍醐味と捉えつつ我が人生を歩んでいるのだ。
私は若かりし頃から“お金で人生の経験を買える人”との付き合いも多くこなしていれば、はたまた“不運な境遇の中で辛い思いをしている人”にも思いを馳せつつ人生を歩んでいる自負がある。
それ故に森岡氏の上記の持論も尊重しながら、おそらくこの18歳大学生相談者女性も両者をゲットする底力があることを信じつつ今後の更なる発展を応援したい思いでもある。
ほんと、市場に出回っている“ブランドもん”なんか一切要らないよ!
(いえいえ、本当にその商品の価値を自分なりに見出せたならば、自分の経済力の範囲内で大枚はたいて購入してもいいんだけどね。 この原左都子だってそうしてるよ。) そうではなく、今流行っていて皆が喜ぶブランド物に飛びついてチャラチャラと持ち歩いたところで、今後の自身の未来にとって何の成長力にもなりゃしないと言う訳だよね!
自分で自分の人生を演出できる人生を歩めることこそが自分自身の“ブランド”の創出であるからこそ、若者には今後共に「人間の幅」と「人間性の幅」の両者を心に描きつつ精進を続けて欲しいものである。
相談者がバイトで得る現金と同時に、真のお金の価値は、一生の宝だと思います。
ブランド物を、簡単に子供に与えるのは、子供をひ弱にしていると思います。
そこには本当のお金の価値は存在しないと思います。
子供が結婚し、ダンナの一ヶ月の稼ぎが、カバン一つの額より少ない時、その子供は、ダンナの稼ぎに感謝できない子になる。
親達が、簡単に子供にブランド物を買い与えた結果そうなる。
親は、子供に「人生の幅」も「人間性の幅」も教える必要があります。
簡単だ!「人から与えられる方法」を教えるのではなく「自分で手に入れらる方法」を子供に見せるだけです。
ややもすると子供に与えるだけになりそうですが、親の働く姿を見せる、出来なければ、親の仕事の大変さを語るだけでもいいのですが・・・!
経済難の今に至って尚、その歪んだ文化がまだ根付いている我が国の、実は「文化」とは程遠い低レベル現象がまだ根付いていることにウンザリの私です。
本文の相談者である女子学生も、友人のブランド何タラのくだらないところで怒っているのが少々気になる私なのですが、18歳という年齢を考慮した場合やむを得ないのでしょうね。
それと比較して我が娘など母である私の影響かと思うのですが、お洒落には興味があるもののブランドには一切無関心です。
それでも、海外旅行に連れて行った時など(日本国内では無名の)現地特有ブランドもののデザインが気に入ったと言って小遣から購入することはあります。
ブランド論議など二の次でいいのですが、ドカドンさんがおっしゃる通り、親の経済力で子供にブランドものを買い与える親とは、明らかに子供の今後の「人間性の幅」の成長を退けているということでしょう。
そうやって育った子供とは、親同様に今後も“ブランドもの”を買い漁る人生に幸せを見出し続けるしかないのでしょうね。
親の教育とは、国の衰退にもかかわらず子供が結婚後等の将来の後々まで持続してしまうから故に、親はそれを日々自覚しつつ子供の教育に励むべきですね!
昔の本当のお金持ちは貧者とは一線を画していたと思います。「住む世界が違う。」結婚などで両家を比較して使用される言葉です。現代ではお金持ちでも2代で潰れる時代ですから「住む世界が違う」などとは言っていられないので富者も貧者も同じ社会で生きるようになったと言う事ではないでしょうか。相続税などのシステムがそうさせたのかもしれません。そう言う中にあっても現実と向き合い可能な限りのお付き合いをしていけば森岡先生の言われる富者は「人間性の幅を」貧者は「人生の幅」を磨いていけるのだろうと思います。
今や貧富の格差による「住む世界が違う」などという言葉が死語となってしまいました。
明日はどんな暮らしができるのか摑みどころのない今の時代においては、この相談女子学生のように自分でアルバイトをしつつ学業に励む経験こそが将来活きるはずです。
まだ18歳ですから、友達がブランドものを持っているのを見て怒りの感情が湧く気持ちもわかりますが、そういう現象が取るに足りないことが理解できるのもそう遠くはないことでしょう。
私など「金持」が羨ましいとか自分も「金持」になりたい、などという気持ちが一切ない人間なのですが、それはその世界に生きた経験がなく実感として捉えられないからなのでしょうね。
それを幸いとして今の生き方に満足しつつ、今後共「人間性の幅」も「人生の幅」も私なりに磨きながら人生をエンジョイしたいと思っています!