原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

今年も年賀状を作成しました。

2018年12月15日 | 人間関係
 (写真は、昨日作成した友人⦅主に旧友⦆用の2019年年賀状。)


 毎年12月のこの時期になると「年賀状、どうしよう?」なる鬱陶しい課題が頭をもたげる。

 昨年も一昨年も同様だった。
 その我が心理を綴り公開した、2017.12.21 公開の「年賀状作成、今年こそ『もう辞めよう』と思いつつ…」の一部を以下に再掲載させて頂こう。

 結局、今年も作成して昨日投函した。
 ただ、これ程投函が遅くなったのは今までにない事だ。
 本気で「今年から虚礼廃止しよう!」との決意が強かった故である。 (中略) 
 そもそも毎年届く年賀状とは、私の場合、もう交流が無くなって2,3十年の年月が経過する人物がほとんどだ。 今更ながらそれらの人物と再会せねばならない用も無ければ、その気もないし、申し訳ないが再会してプラスになるとも思えない。(そこまで言うと、我が人格が疑われそうだが。) 
 いえいえ、もちろん再会したい人物もいる。 ただそれらの人物達とは、何も年賀状という形式をとらずとて電話・メール等々他にも連絡手段は保存してあり、こちらの意思次第でいつでも連絡可能な相手だ。
 ということは、年賀状を廃止しても何らの不都合が無い事との結論に至るではないか! 
 そうこう考え、亭主の年賀状作成のみ優先してパソコンで実施した後、しばらくの間、我が心理は自分の年賀状作成は廃止の方向に傾いていた。 
 何故、今年も年賀状を出そうかと方向転換したのかと言えば。 おそらく皆さんも同様のお気持ちであろうが。  要するに毎年年頭に “年賀状” が届けられる。 これらに対し、年明けに逐一返信年賀状を出す手間を勘案した場合、年内にまとめて作成して投函しておいた方が効率的である事実に間違いない!
 結局、特に年賀状がパソコン作成に移ろいだ現在に於いては、「年賀状文化」とはこの理論により成り立っていることに気付かされる。 (以下略)
 (以上、「原左都子エッセイ集」昨年12月に公開したバックナンバーより一部を再掲載したもの。)


 話題を、冒頭の昨日作成した我が年賀状に移そう。

 一見してお分かりだろうが、私の年賀状とは毎年私の写真満載の“自己PR(自慢)”ものでしかあり得ない。
 (参考だが我が年賀状は毎年2種類作成していて、上記写真版は「友人(ほとんどが旧友だが)用」。 もう一種類は郷里親族用のオーソドックスな絵柄ものを準備している。)
 
 この種の“写真入り年賀状”を毛嫌いする人種が多数であろう事を重々承知した上で、「嫌うなら嫌ってくれ!」との思いを敢えて前面に出した年賀状である。

 この“効果”の程が高いのだ。 
 要するに私側とすれば上記バックナンバー記載通り、「もう年賀状など取り止めたい!」との意思が強靭だ。 この“嫌われる”年賀状を作成して投函する事により、その相手が我が予想通り年々自然淘汰されていくのが面白い。

 そして嬉しい事には、残された20名程は必ずや次年の年賀状に、前年の我が写真年賀状に関する有り難き感想等々のお言葉をいただけるのだ。(もちろん社交辞令だろうけどね!)

 そんな中でも一番嬉しいのは、私の年賀状写真に触発されて自らも新たな目標を設定した、なる内容だ。
 ただ確かに我が過疎地郷里でずっと暮らしている旧友などは、我が年賀状写真を一見しただけでも“驚愕”するであろうことは想像が付きそうだ…

 何はともあれ、私が作成した写真版年賀状は、来年新春には我が旧友達に届けられることだろう。
 もう金輪際こんな年賀状を届けて欲しくない方々、及び我が年賀状に義理付き合いされていた方々は、年賀状のやりとりを取り止めて頂いてこちらは何らの不都合もない。

 ただ今回エッセイの最後に、我が結論を述べるならば。
 私にとって自分の写真入り年賀状を作成する事実こそが我が年間活動を振り返る手段であり(あくまでも娯楽分野に於いてに他ならないが)、自らが立てた計画を実行に移せた、この1年の自己実現成果を総括出来る手段でもあるのよ。