原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「藪医者」の定義  - 医師・福田先生の雑記帖より -

2018年08月14日 | 医学・医療・介護
 当該gooに2004年10月からブログを公開されている医師・福田先生著「福田の雑記帖」に、比較的最近読者登録をさせて頂いた。
 ご専門の医学に関する記述はもちろんの事、ご趣味のバイオリン演奏やハーレーダビッドソン、あるいはお庭の手入れ等々幅広くテーマを設定され、大変興味深い内容のブログを発信されている。

 その雑記帖に少し前に「藪医者」を主題として論述されていたのを拝見し、私はご挨拶がてら、恐れ多くも持論コメントを記入させていただいたのだ。
 そうしたところ驚くことに、福田先生がその我が拙いコメントを雑記帖本文記事として再度取り上げて下さっているではないか!

 そこで今回の我がエッセイ集でもその返礼の形で、今度は私が福田先生の記事を紹介させていただきたく志した。


 それでは、「最近『藪医者』という言葉が消えた(2) 原氏のコメントに感謝して」と題する福田先生の記事全文を、以下に転載させていただこう。

最近、「藪医者」という言葉が消えた(2) 原氏のコメントに感謝して
2018年08月07日 15時45分35秒 | 医療、医学

 去る7月26日「藪医者」という言葉が消えてきた事について私見を述べた。それに対し「原左都子エッセイ集」の著者である原左都子様より貴重なコメントを頂いたので、お礼を込めながらちょっと加筆してみたい。
 原氏もパラメディカルのお一人として現役時代は免疫学の方面等に従事されていたとの事、かつ、私の雑記帳をときおり見てくださっているとの事で心から感謝申し上げる。私も今回はじめて氏のブログを拝見させていただいた。私のブログは自分で勉強したことや知り得たことの備忘録としての位置付けで統一性もなく中身は軽いが、氏のブログは構成もしっかりしていてメッセージ性も高い。今後何かと参考にしたい。
 以下が原氏のご意見であった。
————————————————————————————————-
 さて、「藪医者」に関する事案ですが。
 私は福田先生とは少し異なる観点から、「藪医者」の言葉が聞かれなくなった事態に関して考察しております。
 医療現場では今の時代「informed consent 」が一般的となりました。 その恩恵で、医師と患者の距離が縮まっているように私は感じます。
 私自身は普段より「予防医学」に徹し、基本的には“病院へ行かない主義”を貫いておりますが。 身内高齢者の付添い等でたまに病院を訪れますと、昔と比して医師と患者の関係が「対等」に近づいていることを実感します。 おそらく、医学部教育に於いても、患者とのかかわり方等の教育が進化しているのではないか、とも推測します。 患者側も、対等にかかわってくれる医師に対して「藪」と後ろ指をさす必然性が無くなっているのではないでしょうか?
 あるいは、現在は「医療訴訟」が一般的となりました。 そんな時代背景の下、医師もうかうか「藪」などしていられない厳しい環境下に置かれている、とも考察できそうですが…??
————————————————————————————————-
 ごもっともで反論はありません。追記いたします。
 私はヤブ医者という言葉が消えつつあるのは、医師と患者の距離が対話のスキルの向上など、教育の効果で一見縮まっているように見えるものの、実際には患者と専門職としての医師の能力差が広くなって、遠くなって個々の医師の能力は患者は判断できなくなってきた。そのため、と私は考えています。
 確かに患者医師関係は変わりつつあります。上から目線で患者をみる、専門用語を並べて患者を煙に巻く様な医師はかなり少なくなっています。和顔愛語を駆使しています。

 元々はヤブ医者という言葉は、ダメ医師をそれほど強く誹謗するものではない、と思っています。その理由は、医療が発展していなかった時代には医師の能力を判断する材料が乏しかったことがあげられます。

 医療は国威向上のため軍隊ではそれなりに普及していましたが、一般人が誰でも利用できる様になったのは昭和30年代の国民皆保険制度以降と言って良いと思われます。

 一般人が名医だ、ヤブ医者だと言ってもその判断は病が治ったか否か、すなわち死んだか否か、くらいしか判断できなかったと思いますし、人の生死は長い間、神仏に祈り、願かけるより仕方がなく、ヤブ医者という言葉が記録された頃は感染症を中心に疫病で多数の人間が死の転機を取り、医師は無力に近いこともありました。

 それでも、他に方法が無い以上、医師はそれなりに当てにされていたのでしょう。

 立場の違うものに対する羨望、時には蔑みなどを含め、言葉の上でけなすような枕詞をつけることはよくあったと思います。「大根役者」、「ヘボ役者」などもそれですが、医師に関してはさらに「たけのこ医者」、「土手医者」などもあり、これはヤブ医者よりもちょっときついニュアンスがありますが、それでもさげすみより親しみの呼称だった様に思われます。

 昔の医療は医師の感覚的、直感的医療でした。だから正確性には欠けていましたが当時はそれが当たり前でした。

 近代医療は検査と科学的データの時代、エビデンスにもとずいて判断されます。さらに病院機能間で連携も行われ、結果として医師の能力はより画一化されました。患者にとっては良い時代になったのですが、個々の医師の能力は患者は読めなくなっているといえましょう。だから、私の感覚では「ヤブ医者」、「土手医者」、「たけのこ医者」、などと呼びたくなる医師は依然として存在します。かつて「お前が医者ならトンボも飛行機」とまで言ったものです。

 時が過ぎ、老齢化した私は能力的にも低下しました。だから、患者に読まれる前に自ら「ダメ医者」、「ボケ医者」、「トンボ医者」と名乗って責任回避しています。

 (以上、医師・福田先生著 「福田の雑記帖」より転載させて頂いたもの。)


 最後に、原左都子の私見を述べさせていただこう。

 「藪医者」なる言葉が庶民間で発せられる事例としてよくあるのは、「あそこの医院は“藪”だから、行かない方がいいよ」 それを聞いたこれまた別の庶民がその言葉を鵜呑みにして、その医院を避ける。 そんな噂が重なり、近所の大方の庶民が「あそこは藪だ」と信じる。
 この悪循環事象に於いて一番置き去りにされているのは、患者側自身の「医学」に関する無知であろう。 
 同様の事象は、「名医名鑑本」に於いても顕著に現れている。 あれらの本の序列を読者である患者が単純に信じ、名鑑上位に君臨している病院が“ゲロ混み”状態を余儀なくされる。 そして医療の質が低下する…

 要するに上記に福田先生が記されている通り、たとえinformed consent が一般的に実施されようが、患者は医師の能力など何ら判断出来ていない状態に変わりはない。 その状態は昔から今に至るまで変化がないどころか、もしかしたら医師の“和顔愛語”のせいで、「あの医師は良い先生だ」なる単純な判断結果を導いてしまうマイナス面すらもたらしているのかもしれない。

 その意味で福田先生理論には説得性があり、この議論は原左都子ではなく福田先生に軍配が挙がろう。

 私自身は普段より「予防医学」に徹して基本的に病院に行かない主義であり、普段私自身が自分の病気で医師に接する機会はほぼ無いに等しい。
 ただ医師は確かに一般庶民から絶大に“当てにされている”のが実情であろう。 
 その重荷に耐え、患者に“和顔愛語”演技が出来る医師は、庶民から「藪」と後指をさされる事を回避できるのかもしれない。

 あっ、福田先生、今度どこかが悪くなったら福田先生に看て頂こうかしら。