原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

大規模災害発生時の緊急対応に際する非常識

2013年03月11日 | 時事論評
 (写真は、2011年3月11日午後2時46分に発生した 東日本大震災 激震直後の午後3時過ぎに撮影した我が家の一光景)


 未曾有の大震災勃発後2年目の春を迎えている。

 昨日の東京地方は午前中に25℃を超える夏日を記録したかと思いきや、午後過ぎには嵐のごとくの大風が吹き荒れた。 北からの突風と共に気温が急激に低下する中、黄砂で黄色く変色した外気中に飛び散る花粉とPM2,5を吸い込みつつ連発するくしゃみと鼻水を耐え忍びながら、私は所用に出かけた。

 本日は昨日とは一転して肌寒い陽気である。 大震災発生後2年目を迎えた本日、私が住む地域では比較的落ち着いた気候であることに多少救われる思いだ。


 現在パソコンキーボードを打つ私の後ろのテレビからは、「東日本大震災ニ周年追悼式典」の中継が流れている。 ちょうど今午後2時46分となり、黙祷が始まった…


 昨夜はNHKテレビに於いて夜9時から放映された “NHKスペシャル”「メルトダウン」を娘と共に見聞した。
 震災直後の福島第一原発現場における原子炉冷却失敗の詳細を取り上げ、その失態を元に今後如何に原子炉事故拡大を防いでいくかに関し見識者が議論する等々の内容であった。
 
 ここで手短に、昨夜放映された上記NHKテレビ番組に対する原左都子の私見を述べよう。
 東電の取り返しがつかない失策に関してはもちろん許し難い思いを抱かされる。 
 反面、では、他の優れたエキスパート団体が大震災発生に即して完璧に対応したならば、今回の事故を最小限に留められたのだろうか??  結局、そんな“奇跡的エキスパート団体”など存在し得ないのがこの世の悲しい性(さが)との、虚しい結論を私は抱かされてしまうのだが…
 取り返しがつかない事態が発生した事後に、その事態を詳細に分析し落ち度を批判する言動も重要ではあろう。  だが今回の大震災に限らず、“事後批判”とは当該分野に関して多少のバックグラウンドがあれば比較的容易にこなせる業であり、そこには責任も伴わないと私は捉えてしまう。(要するに批判者側の言いたい放題と表現しようか…)
 
 もちろん、原子力発電という人民に与える巨大なる危険を背負って成り立っている大規模組織においては、出来得る限りの危険回避に備える使命があるのは当然のことでもあるが…
 それでは、不完全な人間集団である我々が今後如何なる行動を取ればよいのかと言えば、それはまず過去の失策を当事者はもちろんのこと、社会全体が我が事として反省し肝に銘じる事ではなかろうか?


 大幅に話題を変えるが、東日本大震災発生2年目に際し、本日我が家では今後の大規模震災発生時に家族の個々人が取るべき対応に関して今一度話し合った。

 東京に位置する我が家の場合、2年前の大震災時の被災状況は大規模被災地に比し決して大きくはない。 
 それでも、我が家なりの小規模被災は経験している。 上記写真を参照していただくと分かり易いが、集合住宅上階に位置する我が住居は震度5強の揺れに際し、棚や机の置物がすべて床に落下する被害を被っている。(大物家具に関しては免災措置を施していたため辛うじて倒れることはなかったが、机や背の低い本棚等は15cm程移動した。)

 以下に、2011年3月11日大震災発生後に公開した「原左都子エッセイ集」を少し振り返らせていただこう。
 3月11日午後に外出予定があった私はその準備に取り掛かろうとしていた。
 「あっ、揺れている。これは地震だ。」  その後 どんどん揺れが大きくなる。 (これは尋常な地震ではないぞ)と思い始めると同時に、和室に設置してある高さ230cm程の書棚が前後に大きく波打ち始め、上部が後ろの壁にぶつかってはドーンと大音量を発し開き戸が全開してしまった。 咄嗟に(中の書籍が飛び出したら大変!)と思った私がその扉を閉めようと和室に駆けつけたところ、横の机の上に山積みにしてあった書物や資料等々が机の揺れと共に和室一面に放り落とされてしまった。
 この時私は、ここで書棚を押さえていたのでは必ずや倒れて我が命を失うであろう事がやっと想定できた! 書棚が倒れる心配よりも自分の命をつなぐべきだと少し冷静さを取り戻してみるものの、和室から見えるリビングルームの置物はすべて床に放り落とされ、壁に掛けていた絵画等も落ちて散在している。
 尚、揺れがおさまる気配はない。 とりあえず自分の命を守ることを優先した私は自宅内の物が落下しない場所に立った。 立っていられない程の揺れなのだが、座ると上から物が落下してケガをする恐怖感で座る気になれない。
 多少揺れが落ち着いた時点でテレビのスイッチを入れると、悲鳴にも似たアナウンサーの津波避難指示が流れている。 私自身は東京地方に特化した情報こそが知りたいのだが、そんなことよりも大被害を及ぼす津波警報が優先されるのは当たり前であろう。
 これは自分で今取るべき方策を判断するしかないと悟った私は、とりあえずベランダから周辺地域の状況を観察した。 一見したところ近隣住居の中に倒壊した家屋はなく近くの公立小学校の“古い校舎”が崩れている様子もない。  おそらくこのまま自宅にいるのが一番安全だと私は悟った。
 次なる心配は我が娘! であるのは親として当然だ。 首都圏の交通網は全面マヒ状態。 早速娘との携帯通話を試みたものの、報道で見聞しているごとく携帯電話は一切繋がらない。 16時を過ぎてパソコンからメールをしてみると、やっと送信されたようだ。 ただ娘よりの返答は届かない状態が続く…。  もし娘が早い時間に帰宅できた場合、自宅内の惨状を見せてトラウマに陥らせることは避けたいと考えた私は、激しい余震が繰り返す中果敢にも散乱物の“片付け”行動に入った!
 首都圏の交通網は復旧が不可能状態のようだ。 「下手に大混乱の首都で“帰宅難民”になるよりも、もしも学校で一夜を明かせるならばそれが一番の安全策!」との私の指示に素直に従った我が娘は、所属高校の体育館で「緊急対策グッズ」を配られ眠れぬ中何とか一夜を凌ぐことと相成った。
 (以上、「原左都子エッセイ集」より一部を要約引用)


 2013年3月の本日、娘と共に再度当時の事を懐古したところ新たな“アンビリーバブル情報”を得た私だ。
 実は、震災当日(娘所属の私立)学校側は生徒に対して個々の携帯電話から親に迎えに来るよう伝える事を指示し、迎えに来た親から子どもを帰したとの事だ。
 近くの子どもはそれが叶ったのかもしれない。
 ところが当時の首都圏交通網は鉄道、道路共にほぼ断絶状態。 一体全体どうやって親に迎えに来いと言いたかったのだろう???  親はもちろん我が子が可愛い事には間違いないが、決してスーパーマンではない。 親とは自分の身を守ってこそ子どもを助けられるものでもあると私は信じている。 それでも学校の指示に従い、夜を徹して娘を迎えに行った親もいたとの娘の談話だ。  私自身は子どもの安全を最大限保障することを欲し、娘には学校に留まる指示をした。 それが大正解だったと今尚疑っていない。

 東日本大震災発生後しばらく経過した後日、学校から大震災発生時の今後の対応に関し初めて作成された書面が届いた。  それによれば、今後は生徒を学校に留めることを主たる方針とするとのことだ。 これこそが非常識ではない正当な対応であろうと、保護者としては実に安堵したものである。 


 未曾有の大震災発生後、2年の年月が流れた。
 政権は移り変わり、安倍政権は原発の再稼働を明言する始末だ。

 今日のこの日、我々国民が目指すべきは今後大震災発生時に官民の“非常識”対応と闘う姿勢を保つことと私は心得るが如何だろうか?