原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

五輪と言えば、やっぱり 「金(きん)」 でしょう!

2012年08月04日 | 時事論評
 ロンドンオリンピックも中盤の日程に差し掛かり、昨日より陸上競技が始まった。

 五輪と言えば毎度そうだが、事前にメディアが「メダル! メダル!」と騒ぎ過ぎ、冷静に判断した場合、記録や資質的にそれが取れそうもない選手を大々的にアピールし過ぎて“贔屓の引き倒し”状態を作り上げてしまうがいつもの常である。


 今回のロンドン五輪の場合、「柔道」などその最たるものだったのではなかろうか?

 柔道は元々日本のお国芸とは言えども、世界規模で柔道人口が急増するのと平行して、技と力を備えた海外選手が数多く育っている現状だ。 元々体格や体力面で日本人よりも優位な諸外国の選手が、五輪の柔道競技で「金メダル」をもぎ取ることは何ら不思議ではない。
 日本の柔道界も、もはやその厳しい現実を受け入れる時代ではなかろうか。 お国芸だからといって日本人選手にメダル奪取を実力以上に望む事は、マイナス効果こそを誘引する以外の何物でもない。 それよりも、「柔道」という格闘技が今や世界標準となり五輪のメイン格闘技競技にまで格上げされている事実こそを喜ぶべきではあるまいか?


 冒頭から原左都子の私論を展開したが、上記柔道競技において唯一「金メダル」を奪取した女子57㎏級 松本薫選手 の闘いぶりには感激した。  (この選手は「金メダル」を取れる選手だ!)と、1回戦、2回戦あたりから私は予想していた。 なんせ、松本選手の試合に臨む集中力や意気込みが他選手とはまったく異なっていたのだ。
 などと表現すると他の選手に失礼だが、例えばその前の女子の階級に登場したベテラン中村選手など気合や集中力はありそうなものの、あくまでも私の印象ではその表情に“悲壮感”が漂っているように見受けた。 中村選手の場合、前回の北京五輪で敗退の屈辱を味わされた北朝鮮選手と初戦で激突するとの悲運にも苛まれたようだ。 五輪2度目の出場に際し、外圧からもそのリベンジを果す事ばかりに意気込み過ぎたのではなかろうか。それが“悲壮感”として表出していたと私は捉えるのだが… 


 話題を「水泳競技」に変えよう。
 この競技も事前のメディア予測によると 「金続出!!、メダルラッシュ!」 だったと私は記憶している。
 ところが蓋を開けてみると、「銀」「銅」のメダルラッシュと言ったところか…
 それでも、私は女子平泳ぎ 鈴木聡美選手の100m、200m種目連続メダル獲得に大いに感激した。  この選手にも上記柔道の松本選手同様に、予選段階から勢いのある安定した心身力を私は感じ取っていた。 過去においてわずか14歳の中学生だった岩崎恭子選手が、突然五輪水泳会場で予選段階から好記録を打ち立て続けた影像が少しフラッシュバックする思いだった。
 鈴木選手の場合は既に大学生であり岩崎選手よりも年齢や経験が上だが、やはり私の予感は当たった。 今夜の女子リレーも楽しみだ。

 ついでに書くと、女子背泳ぎ100m代表の 寺川綾選手の今回の「銅」メダルもよかったのではないかと思ったりもする。 寺川選手の場合、アテネ五輪でメダルを目指し敗退した後北京五輪には出場すら叶わず、今回のロンドン五輪で是非共リベンジを果す事を自身の目的としていたようだ。 11年の年月をかけてもぎ取った「銅」メダルには彼女の達成感がこめられていると理解した。  寺川選手は既に水泳引退を表明しているようだが、まさか4年後にまた背泳ぎで五輪出場したいなどと言い出し現役選手を撹乱させ、自らの美学を打ち消すのだろうか??


 次に体操競技の 内村航平選手 に関して考察したいのだが、内村選手が体操男子個人総合競技で1984年のロサンゼルス五輪具志堅氏以降、28年ぶりに「金メダル」を獲得したことに関しては祝福申し上げたい。

 実は、原左都子は元々体操競技にはさほどの思い入れはなかった。
 そんな私がロンドン五輪直前に、NHK総合テレビの特集で1時間にも及ぶ内村選手の特集番組を見ることとなったのだ。
 その番組によると、日本体操競技男子代表の内村航平選手とは、世界でも類稀な体操資質を先天的かつ後天的に獲得している選手であるとのことだった。 番組の中で本人曰く例えば“三回転している最中に周囲の風景の色が見えて自分の空中位置が分かる”とのことだったのだが…
 ロンドン五輪最初の団体戦では、残念ながら内村選手はミスの連発である… これで本当に“世界でも稀な体操資質を持っていると言えるのか…”などと気をもんだ私だ。
 ところが内村選手は個人戦に入った後に、私の目には人格が変わったかのように蘇ったのだ! 2位に大差を付けてバリバリ「1位」の金メダルをゲットした。

 いやはや世界の五輪とは言えども、「団体」「個人」それぞれに適した人材がいることを実感である。
 ここで原左都子の提案であるが、本来個人で闘える競技にあえて国別「団体」戦を設ける必然性があるのだろうか?  これに関しては、オリンピックの存在目的や趣旨がからんでくるのであろうが…。
 私など組織や集団に所属する事自体を元々好まない人間である。 それ故その組織の一員の立場で努力する事を強要された場合違和感を抱いてしまい、ちぐはぐな行動をしそうに感じる。 それよりも例えばの話が私に国を背負って闘える程の個人力があるならば、その力を自らの単独力として発揮することにより、結果としてお国に貢献することを目指したいと思うのだが…。
 とにかく天才肌の内村航平選手が今回ロンドン五輪の体操「個人総合」に於いて他選手を圧倒するべく「金メダル」を獲得したことを、私は心より祝福したい。 


 最後に私論であるが、五輪に限らず物事の「勝負」とは1位になって初めて“勝った!”と表現できるのではなかろうか。
 オリンピックの場合、歴史的に「金」「銀」「銅」メダルが選手たちに贈呈されるシステムであるため、それらメダル奪取を目指してアスリート達が日々切磋琢磨している現状はもちろんの事理解している。
 ただ、ここは今一度「銀」や「銅」は“負け”であることを再認識するべきかとも考える私である。

 少し前に事業仕分け会場に於いて“2番じゃダメなのか?”などと言った国会議員も今や影を潜めた…… 
 国民皆がテレビで見ている五輪でメダルさえ取っておけば先進国に於いては著名人となれるし、後はそれこそそのメディアを利用しつつ芸能界ででも生きていけるかもね~~、などと安直に考えている奴らこそが鬱陶しいなあ。 中には過去のメダル実績を利用して国会議員になる輩すらいるし…

 その種の人生があって許されるのだろうが、私論としては4年に一度のオリンピックとはやはり「金メダル」の価値こそが真の頂点であると信じたい。