原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

子が親を捨てる決断をする時

2011年02月12日 | 人間関係
 「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて、私は「家を出て、親を捨てよう」と題するエッセイを綴り公開している。(2010年3月のバックナンバーをご参照下さい。)

 この記事は、まだ未成年者である女子高校生が大学の学科学部選択に際し親から自分勝手な希望を押付けられた新聞相談を読み、私自身も親から同様の身勝手な希望を強要された過去を振り返って、私なりの結論として「家を出て、親を捨てよう」とのテーマで私論を展開したものである。

 少しその内容を振り返ることにしよう。(以下、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより要約引用。) 
 さて、当時の我が親の思いが現在の私の生き様に如何なる影響力を及ぼしているのかについて、少し考察してみよう。
 結局、その後大人になった私は親の希望通り専門性の高い職業分野の国家資格を取得した後に上京して自立し、その分野で活躍することとなる。 ある程度の経済力も身に付け(親の希望通り一人で生き抜く覚悟と共に)長~~い独身貴族を堪能してきたとも言える。
 今は親となっている私であるが、上記のごとく我が親の勝手な思い込みに高校生時代を翻弄された我が身の反省から、我が子には自分の夢を叶える事を最優先するべく進路指導をしている。
 相談女子高生の場合大学進学まで後1年間の猶予がある間に、親と十分に話し合う機会を持ってはどうか。 それにより、既に具体的な進路を見定めている女子高生の未来に関する親子での合意が整うことを私は期待したい。 それでも尚この期に及んで娘の描く夢よりも保証のない「安定性」を愚かな親が優先しようとするならば、そんな時代錯誤の親はとっとと切り捨てて思い切って家を出よう。
 親とは実に勝手な生き物で、その分野で近い将来頭角を現し始めるあなたを見たならば、遅ればせながらあなたの背中を押し始めるかもしれないよ。 それが証拠に我が愚かな親など、自分自身が定年まで歩んだ公務員という道のひと昔前の時代の「安定性」にどっぷりと浸ったが故に、娘にまで無責任にその道を強要して結局は娘に愛想を尽かされる結果となったのだ。 そのくせ、そんな親に反発して郷里を出て上京以来大人に成長して自分が信じる道を自らの専門力により培い、経済力というバックグラウンドも伴って歩み続けている娘である私に、何十年来精神面でぞっこんおんぶし続けているのだから、親とは何とも身勝手なものよ…
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより要約引用)


 実はつい先だって、原左都子は郷里の母親に電話で大喧嘩を売って出たばかりである。 
 そのきっかけとは(母にとっては孫にあたる)我が娘の教育及び進路に関する感覚の行き違いであった。
 上記のごとく私の進路決定に関して身勝手な希望を押付けた親になど、一切我が娘の教育に関して口出しして欲しくない思いが強靭な私である。 (我が娘の場合、若干の事情を持って生まれてきているため、指導する側にある程度の専門性と力量がないことには太刀打ちできない要素もあるのだが。)
 それ故に娘幼少の頃より、たとえ祖母と言えども孫娘に対して“上から目線”は元より無責任な指導的発言を一切しないよう、我が母をも“指導”してきている私である。 これが功を奏して、母は孫である我が子に対しては直接無責任な発言はしないのであるが、私に対しては相変わらず好き放題自分の希望を押付けてくるのだ。

 我が母は高齢にして田舎で一人暮らしであるし、原左都子とて普段貴重な時間を割き大抵は我慢して電話での“年寄りの独りよがりのくだらない話”に耳を傾けている。
 ところが、こと娘の教育方針に関する話になると、我が高校生時代に身勝手な希望を押し付けられたことが脳裏によみがえってしまうのだ。 (あんたは高校生だった私に対して勝手な思い込みで本人が希望してもいない進路を強要したくせに!)との恨みつらみの思いが頭に渦巻いて怒り心頭なのである! この種の感情とは一生消え失せないものであることを今さらながら実感させられる思いだが…。 
 そして、ついに母に対して「しばらく電話を掛けてくるな!」との捨てゼリフを残して電話を切った私である。

 しかも我が母は定年まで公務員としてのフルタイムの仕事を全うすることを優先する人生を歩み、私(及び姉)の育児教育を祖母に任せ切りだったため、母親として日々我が子と接するという貴重な実態の重みが我が事として理解できていないのが事実である。 そんな母が年老いた今、娘である私に幾度も言う口癖がある。 
 「あんたは現在専業主婦でいい身分だね」
 この言葉の馬鹿さ加減にもうんざりの私なのだ。 (あなたが専業主婦をやりたかったならば、そうすりゃよかったんじゃないの? 結局それが嫌だったから子供をおばあちゃんに任せ切ってフルタイムの仕事に逃げてただけだろうが!) と母を捕まえて言いたい私であるが、それはもはや高齢であることを配慮して今さらやめておくのがせめてもの親孝行というものであろう… 


 ここで今回の「原左都子エッセイ集」の表題である「子が親を捨てる決断をする時」の議論に戻ろう。

 実は今回のテーマも朝日新聞「be」3週間程前の“悩みのるつぼ”を参照させていただいた。 その相談内容の詳細を記述していると今回の記事の文字数が容量オーバーになってしまいそうなので、ごく簡単に説明することにしよう。

 40代の女性相談者は幼き頃より家庭内における父親の暴力やそれをかばわなかった母親の態度に傷つきつつ成長し、今では夫と娘2人と共に仲良く暮らしている。 過去において自分に暴力を振るった父親に癌が見つかり現在闘病中だが、その父親に暴力を振るわれた自分は自ずと家族に対する愛情は薄い。 今後は親よりも自分が築き上げた今の家族や友人関係を大事にしたいが、私が今すべき事は一体何なのだろうか?

 この相談の回答者であられる経済学者の金子勝氏の回答の末尾に、原左都子も思いを同じくするのだ。 
 相談者はとりあえず親と向き合い本音を話してはどうか、と示唆する金子氏の相談回答の結論は以下の通りだ。「ふるわれた暴力の程度にもよるが、それが児童虐待に近いものだったら親子の縁を切ることも社会的に許容されるはずです。」  このご意見に大いに賛同する原左都子なのである。
 そしてさらに金子氏は付け加えている。
 「今後相談者が後悔しないためには、自分の親に感じた理不尽さの分まで自分の娘達の人格を大切にしてやればよいのです。」

 まさに子供を虐待した親が、その虐待した子に自らの病弱後や老後の介護を期待するなど、もっての他!! と憤慨する原左都子である。 
 そんな親どもが、老後の面倒を子供に見てもらえる道理など一切ないのだ!


 原左都子の個人的事情に照らした場合、過去においてこの相談者程の虐待を受けているとは判断し得ないのであるが、それでも子が親を必要とする時期の子育てを“おばあちゃん”に一任した親の責任を問うて当然とも考察可能であろう。
 しかも自分が普段放ったらかしている娘の思春期に、自分の身勝手な進路希望を娘に突きつけた責任は今さらながら多大なものがあると判断するのだ。

 さてそうすると、我が家もそろそろ「親の捨て時」か??
 などと言っている間に親とは急に他界してしまい、残された子としては後悔するばかり…とも、既に両親を失っている友から見聞しているのだが……  
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