3月に打ち上げられるスペースシャトルへの搭乗を47日後に控えている宇宙飛行士の山崎直子氏が、「ママさん飛行士」と呼ぶのをやめて欲しいと訴えているらしい。
ごもっともな訴えである。
宇宙飛行士とは、一般主婦が学校のPTA役員を担当するのとは訳が違い、「ママさん」などとの軽いノリで全う出来得るはずもない過酷なミッションが課せられる職種である。
もっとも、山崎家の場合は直子氏がNASAの宇宙飛行士候補になった後は、ご主人が仕事を辞めて子育てをはじめ主夫業を一手に担っておられるとの報道であるため、直子氏は「ママ」稼業とは実質縁がない日々なのかもしれないが…
(余談ではあるが、奥方が宇宙飛行士になど採用された事によるご主人の“はた迷惑”を察して余りあるような気もする。それでもこうも大々的に報道されてしまっていては、イケメンのご主人とてまさか今“離婚”を切り出す訳にも行かないのかとも推測するし、ご主人も奥方が宇宙飛行士であることをちゃっかりと利用しつつ収入を得ているようでもあるし、とにもかくにも山崎一家がうまく機能しているうちはそれでよしと考えるべきか…… )
話が変わって、この原左都子も「ママ」などという言葉に虫酸が走るタイプの人間である。
私も子どもを産んだ経験があることに揺るぎはなく、そして産んだ一人娘が若干の事情を抱えて産まれて来たが故に、我が職業経験を活かして「お抱え家庭教師」の役割も果たしつつ、母親として娘とおそらく人よりも数段濃厚な親子関係を築いてきていることも間違いない事実である。
ただ、私の場合は長い独身時代の多岐に渡る職業・学業経験を経て後の出産であったという経歴があるためかもしれないが、元々子育てに当たって一家庭内の“狭義”の「ママ」感覚で子どもに接するというよりも、もう少し“広義”の意味合いの社会的な子育て感覚で対応してきているように自己分析するのだ。 それ故に、そこには「ママ」の呼び名は到底相応しくないとの違和感を覚えてしまうのである。
それでも母親を取り巻く社会の現状とはこの期に及んで旧態依然とした有り様で、子どもを産んだ女性を“狭義”の「ママ」に陥れるべくまったく進化を遂げていない模様だ。
原左都子には上記のような“広義”の社会的意味合いでの子育てをしている自負が元々あるため、子どもにとっての初めての“社会”である幼稚園の頃より母親同士の会合において「○○(子どもの名)の“母”です」ではなく、「○○(私の姓)です」と自己紹介するのだが、周囲の反応は決まって「○○ちゃんのママ(あるいはお母様)ですね」である。 これには愕然とされられ続けたものだ。
話が飛ぶが、今回の政権交代においても民主党議員の中で「ママ(現役の母親)」である事“それだけ”を武器にして立候補して当選してしまった“素人”女性議員が何人か存在するようだ。 その種の議員などは選挙前から自ら「ママさん議員」であることを前面に出し、民主党がマニフェストで掲げた“子ども手当て”のバラ撒き”に迎合することが当選の条件だった様子である。
今回の通常国会においての「ママさん議員」の質疑とはやはり狭い「ママさん」範疇をまったく出ておらず、国政全般を如何に捉えて立候補したのかに及んではお粗末で寂しい限りであるのが、一小国民がテレビ映像を垣間見ての印象でしかない。 これでは、学校におけるPTA役員のノリと大差がないと思える(実際問題、地方議員など党派にかかわらずその経歴が“学校のPTA役員”のみで当選している女性が存在する実態なのであるが…)のは、国会議員にして家庭内の“狭義”の「ママ」の域を超えられない故であるのか…
今回の記事を綴るに際して参照させていただいたのが、少し古くなるが朝日新聞1月16日の「声」欄における40代の女性による投書である。
私論と一致する部分も多いため、この投書を要約して以下に紹介しよう。
山崎氏の「ママさん飛行士」をはじめ、「ママさん選手」「ママさん議員」など、子どもをもつ女性に「ママさん」とつけたがるメディアの風潮は今に始まったことではないが、ママさんとは「大変な子育てがあるにもかかわらず頑張っている女性」の意味合いでしかないのか? 伝える側には恐らく悪意はなく、むしろ応援する気持ちなのだろうが、余計なお世話だ。 「ママさん」の意味合いには「社会的」に“特別な存在”という意識が潜んでいるように思う。 一方で男性を「パパさん」とは呼ばない。 未だに子育ては「女性の仕事」との意識が働いているのだろう。 たかが呼び名であるが、そんなものは付けずに女性の職業が純粋に評価されることを願う。
最後に私論でまとめよう。
産んだ子どもの「ママ(母親)」である前に、社会的に貢献できる存在の一人間でありたい…。 一昔前にはそういう女性が我が国において“国賊”のごとく蔑まれた時代もあったのであろう。
既に時代が大きく移ろいでいるにもかかわらず、女性同士の会合において子どもを産んだ女性がそれぞれのシチュエーションにかかわらず未だに「ママ」であることを前面に演出しなければならないとするならば、厳しい見方をすれば、そこには女性側にこそ自立でき切れないでいる一面も内在するのかもしれない。 その証拠が、50年ぶりに政権交代したにもかかわらず、「ママさん議員」とやらの国会議員が今尚存在して“母親の視点でしか”物申せない現状が蔓延っていることである。 これは同性として何とも貧弱な現象とも捉えられるのだ。
一方で山崎直子宇宙飛行士にしても、ご主人に仕事を辞めさせて幼少の子どもを任せた挙句、一家をマスメディア報道にがんじがらめの仕打ちに耐えさせてまでも、自らの宇宙飛行士の仕事を全うしたいという強靭な意思の持ち主であろうかという疑問が私の心の片隅にもたげるのだ。 これでは、過去の日本男児が奥方に内助を強いて自分のみ自己実現してきた歴史とさして変わらない。 もちろん、一旦NASAに宇宙飛行士候補として選ばれた以上は仕事を全うするべきなのは当然であるとしても、奥方のまさかの夢に奇跡的に巻き込またが故に、自身の人生を翻弄されているご亭主や子どもさんの現実に同情する私でもある…
先輩女性飛行士であられる向井千秋氏の場合、名門大学教授のご亭主にこそ迷惑を及ぼそうとも、子どもを産んでいなかったが故に「ママ」どうのこうのの鬱陶しさに巻き込まれずに済んでいるのがまだしも救われた気もする私である…。
やはりそれ程「ママ」であることとは、プラスマイナス両面で“重い”現状でもあるのか???
ごもっともな訴えである。
宇宙飛行士とは、一般主婦が学校のPTA役員を担当するのとは訳が違い、「ママさん」などとの軽いノリで全う出来得るはずもない過酷なミッションが課せられる職種である。
もっとも、山崎家の場合は直子氏がNASAの宇宙飛行士候補になった後は、ご主人が仕事を辞めて子育てをはじめ主夫業を一手に担っておられるとの報道であるため、直子氏は「ママ」稼業とは実質縁がない日々なのかもしれないが…
(余談ではあるが、奥方が宇宙飛行士になど採用された事によるご主人の“はた迷惑”を察して余りあるような気もする。それでもこうも大々的に報道されてしまっていては、イケメンのご主人とてまさか今“離婚”を切り出す訳にも行かないのかとも推測するし、ご主人も奥方が宇宙飛行士であることをちゃっかりと利用しつつ収入を得ているようでもあるし、とにもかくにも山崎一家がうまく機能しているうちはそれでよしと考えるべきか…… )
話が変わって、この原左都子も「ママ」などという言葉に虫酸が走るタイプの人間である。
私も子どもを産んだ経験があることに揺るぎはなく、そして産んだ一人娘が若干の事情を抱えて産まれて来たが故に、我が職業経験を活かして「お抱え家庭教師」の役割も果たしつつ、母親として娘とおそらく人よりも数段濃厚な親子関係を築いてきていることも間違いない事実である。
ただ、私の場合は長い独身時代の多岐に渡る職業・学業経験を経て後の出産であったという経歴があるためかもしれないが、元々子育てに当たって一家庭内の“狭義”の「ママ」感覚で子どもに接するというよりも、もう少し“広義”の意味合いの社会的な子育て感覚で対応してきているように自己分析するのだ。 それ故に、そこには「ママ」の呼び名は到底相応しくないとの違和感を覚えてしまうのである。
それでも母親を取り巻く社会の現状とはこの期に及んで旧態依然とした有り様で、子どもを産んだ女性を“狭義”の「ママ」に陥れるべくまったく進化を遂げていない模様だ。
原左都子には上記のような“広義”の社会的意味合いでの子育てをしている自負が元々あるため、子どもにとっての初めての“社会”である幼稚園の頃より母親同士の会合において「○○(子どもの名)の“母”です」ではなく、「○○(私の姓)です」と自己紹介するのだが、周囲の反応は決まって「○○ちゃんのママ(あるいはお母様)ですね」である。 これには愕然とされられ続けたものだ。
話が飛ぶが、今回の政権交代においても民主党議員の中で「ママ(現役の母親)」である事“それだけ”を武器にして立候補して当選してしまった“素人”女性議員が何人か存在するようだ。 その種の議員などは選挙前から自ら「ママさん議員」であることを前面に出し、民主党がマニフェストで掲げた“子ども手当て”のバラ撒き”に迎合することが当選の条件だった様子である。
今回の通常国会においての「ママさん議員」の質疑とはやはり狭い「ママさん」範疇をまったく出ておらず、国政全般を如何に捉えて立候補したのかに及んではお粗末で寂しい限りであるのが、一小国民がテレビ映像を垣間見ての印象でしかない。 これでは、学校におけるPTA役員のノリと大差がないと思える(実際問題、地方議員など党派にかかわらずその経歴が“学校のPTA役員”のみで当選している女性が存在する実態なのであるが…)のは、国会議員にして家庭内の“狭義”の「ママ」の域を超えられない故であるのか…
今回の記事を綴るに際して参照させていただいたのが、少し古くなるが朝日新聞1月16日の「声」欄における40代の女性による投書である。
私論と一致する部分も多いため、この投書を要約して以下に紹介しよう。
山崎氏の「ママさん飛行士」をはじめ、「ママさん選手」「ママさん議員」など、子どもをもつ女性に「ママさん」とつけたがるメディアの風潮は今に始まったことではないが、ママさんとは「大変な子育てがあるにもかかわらず頑張っている女性」の意味合いでしかないのか? 伝える側には恐らく悪意はなく、むしろ応援する気持ちなのだろうが、余計なお世話だ。 「ママさん」の意味合いには「社会的」に“特別な存在”という意識が潜んでいるように思う。 一方で男性を「パパさん」とは呼ばない。 未だに子育ては「女性の仕事」との意識が働いているのだろう。 たかが呼び名であるが、そんなものは付けずに女性の職業が純粋に評価されることを願う。
最後に私論でまとめよう。
産んだ子どもの「ママ(母親)」である前に、社会的に貢献できる存在の一人間でありたい…。 一昔前にはそういう女性が我が国において“国賊”のごとく蔑まれた時代もあったのであろう。
既に時代が大きく移ろいでいるにもかかわらず、女性同士の会合において子どもを産んだ女性がそれぞれのシチュエーションにかかわらず未だに「ママ」であることを前面に演出しなければならないとするならば、厳しい見方をすれば、そこには女性側にこそ自立でき切れないでいる一面も内在するのかもしれない。 その証拠が、50年ぶりに政権交代したにもかかわらず、「ママさん議員」とやらの国会議員が今尚存在して“母親の視点でしか”物申せない現状が蔓延っていることである。 これは同性として何とも貧弱な現象とも捉えられるのだ。
一方で山崎直子宇宙飛行士にしても、ご主人に仕事を辞めさせて幼少の子どもを任せた挙句、一家をマスメディア報道にがんじがらめの仕打ちに耐えさせてまでも、自らの宇宙飛行士の仕事を全うしたいという強靭な意思の持ち主であろうかという疑問が私の心の片隅にもたげるのだ。 これでは、過去の日本男児が奥方に内助を強いて自分のみ自己実現してきた歴史とさして変わらない。 もちろん、一旦NASAに宇宙飛行士候補として選ばれた以上は仕事を全うするべきなのは当然であるとしても、奥方のまさかの夢に奇跡的に巻き込またが故に、自身の人生を翻弄されているご亭主や子どもさんの現実に同情する私でもある…
先輩女性飛行士であられる向井千秋氏の場合、名門大学教授のご亭主にこそ迷惑を及ぼそうとも、子どもを産んでいなかったが故に「ママ」どうのこうのの鬱陶しさに巻き込まれずに済んでいるのがまだしも救われた気もする私である…。
やはりそれ程「ママ」であることとは、プラスマイナス両面で“重い”現状でもあるのか???