先だっての飲み会の席で、私がいつも“元気”であることが話題となった。
元々飲兵衛の私であるが、相も変わらず以前と同じ早いピッチで私が大酒を食らっているのを見て、呆れ半分の周囲の皆さんの感想なのであろう。
人間は年齢を重ねてくると、誰しも大抵は体のどこかに不調を抱えるようになるのが通常だ。そして、不調を感じた大抵の人は病院を訪れてその不調を医師に訴える。そうすると必ずや種々の検査を行い、その症状に応じた何らかの薬を処方するという現在の検査漬け、薬漬けの医療システムの下、皆さんは医師よりその処方された薬を素直に飲んでいるのが現状なのであろう。
この私とて決して完全無欠な健康体と言うには程遠く、私なりに体の随所に違和感を憶えることはしょっちゅうである。
ところが、当ブログのバックナンバー「私は病院へ行かない」で既述した通り、私は滅多な事では病院へ行かない。従って薬を処方される事もないため薬も飲まない。付け加えると私は健康診断も受けない主義であるため、検査結果の「異常値」を押し付けられて不必要に落ち込むこともない。
病院も行かず、薬も飲まず、健診も受けずにそこそこ普通に生きて、大酒を食らって尚かつ心身共にへこたれない私は、周囲から見ると至って“元気”そうに映るのであろうと察する。
健康診断に関して詳述すると、最後に受けたのが今から6年前のことである。職場に所属している場合健診は強制受診であるため、それまではほぼ毎年やむを得ず受診していた。職場を去った後は現在に至るまで一切受診していない。
(善良な市民の皆さんには決して真似はしないでいただきたいのだが。)
私が病院受診、投薬、健診等の医療行為を一貫して避けて生きている理由の詳細については、バックナンバー「私は病院へ行かない」をご参照いただきたい。
ここで再度簡単にまとめるならば、私の場合、医学関係の仕事に携わっていた経験があるため、ある程度(あくまでも“ある程度”の範囲内だが)の医学的知識があることが第一の理由である。 また、医療行為が人体にもたらす弊害(例えば薬の副作用等)や、診断名や検査結果の異常値を患者に明示することにより患者に与える精神的苦痛の弊害、等々を重々承知していることも理由のひとつである。
自然治癒で完治する病気であるならば、それに越した事はないと考えている。
確かに最近の記事で綴った通り「“痛み”は痛い」ものであるため、病気による“痛み”を和らげることは現代医療の重要課題ではあろう。ところが、投薬とは悲しいかな必ずや副作用という危険性を伴う。検査とて苦痛や体の犠牲を伴う。
それを承知の上で、医療行為なくして生命がつながらないような難病の場合は、その恩恵を受けるしかない。この私でさえも、癌に罹患したと直感した際には医療機関を受診し、その摘出手術を受けた事については当ブログで幾度か既述している。
ところが私が周囲を観察して感じるのは、相当賢明そうな人物にして安易に医療に頼り過ぎている世間の実態である。 私の観察によると、少し安静にしていれば解決しそうな場合でも、体の少しの違和感で直ぐに病院を受診している人が数多い現実のようだ。自分の健康を守っていくことは人間としての義務ではあるのだが、あまりにも安直に病院受診していることに首をかしげざるを得ない現状である。
その結果として薬や検査の副作用に苦しみ、それらの副作用が作り出した新たな病気から脱出できずに長年苦しみ、生活の質を低下させている人々が多い世の実態も目の当たりにしている。
安直な医療機関受診の背景には、個々人の死生観の課題もあろう。
「死生観」と言うほどの大袈裟な哲学は、現在子育て真っ最中の私にはまだ縁のない話ではある。 だが、もしも我が身が不治の病で死を迎えるならば、延命治療などに頼らずにそれを自然な形で受け入れたい程度の思いはこの私にも既にあるのだ。そういった観点から私は下手にみっともない“命乞い”などしたいとは決して思わない。こういう思いが源泉となり、私は病院にも行かず投薬も避け、健診さえも敬遠するという行為につながっている訳である。
子育て中の母親とは、子どものために生き抜く覚悟が必要である。我が子の場合、前回と前々回の記事で綴った通りの特殊な事情を抱えていることもあり、私は我が子の自立を見届けるまでは生き抜かねばならないことも、重々承知しているつもりだ。
このような私を取り巻く現実の厳しさが、医療機関の受診を敬遠している私に確かな生命力を与えてくれて、周囲から“元気者”とのうれしい評判をいただけるものと確信するのである。
人間とは安泰な人生を送るよりも、苦難な状況にあってその中で希望を抱くべく対処する生き方を貫く方が、むしろ長く充実した人生をもたらしてくれるような実感が私には既にあるのだ。
元々飲兵衛の私であるが、相も変わらず以前と同じ早いピッチで私が大酒を食らっているのを見て、呆れ半分の周囲の皆さんの感想なのであろう。
人間は年齢を重ねてくると、誰しも大抵は体のどこかに不調を抱えるようになるのが通常だ。そして、不調を感じた大抵の人は病院を訪れてその不調を医師に訴える。そうすると必ずや種々の検査を行い、その症状に応じた何らかの薬を処方するという現在の検査漬け、薬漬けの医療システムの下、皆さんは医師よりその処方された薬を素直に飲んでいるのが現状なのであろう。
この私とて決して完全無欠な健康体と言うには程遠く、私なりに体の随所に違和感を憶えることはしょっちゅうである。
ところが、当ブログのバックナンバー「私は病院へ行かない」で既述した通り、私は滅多な事では病院へ行かない。従って薬を処方される事もないため薬も飲まない。付け加えると私は健康診断も受けない主義であるため、検査結果の「異常値」を押し付けられて不必要に落ち込むこともない。
病院も行かず、薬も飲まず、健診も受けずにそこそこ普通に生きて、大酒を食らって尚かつ心身共にへこたれない私は、周囲から見ると至って“元気”そうに映るのであろうと察する。
健康診断に関して詳述すると、最後に受けたのが今から6年前のことである。職場に所属している場合健診は強制受診であるため、それまではほぼ毎年やむを得ず受診していた。職場を去った後は現在に至るまで一切受診していない。
(善良な市民の皆さんには決して真似はしないでいただきたいのだが。)
私が病院受診、投薬、健診等の医療行為を一貫して避けて生きている理由の詳細については、バックナンバー「私は病院へ行かない」をご参照いただきたい。
ここで再度簡単にまとめるならば、私の場合、医学関係の仕事に携わっていた経験があるため、ある程度(あくまでも“ある程度”の範囲内だが)の医学的知識があることが第一の理由である。 また、医療行為が人体にもたらす弊害(例えば薬の副作用等)や、診断名や検査結果の異常値を患者に明示することにより患者に与える精神的苦痛の弊害、等々を重々承知していることも理由のひとつである。
自然治癒で完治する病気であるならば、それに越した事はないと考えている。
確かに最近の記事で綴った通り「“痛み”は痛い」ものであるため、病気による“痛み”を和らげることは現代医療の重要課題ではあろう。ところが、投薬とは悲しいかな必ずや副作用という危険性を伴う。検査とて苦痛や体の犠牲を伴う。
それを承知の上で、医療行為なくして生命がつながらないような難病の場合は、その恩恵を受けるしかない。この私でさえも、癌に罹患したと直感した際には医療機関を受診し、その摘出手術を受けた事については当ブログで幾度か既述している。
ところが私が周囲を観察して感じるのは、相当賢明そうな人物にして安易に医療に頼り過ぎている世間の実態である。 私の観察によると、少し安静にしていれば解決しそうな場合でも、体の少しの違和感で直ぐに病院を受診している人が数多い現実のようだ。自分の健康を守っていくことは人間としての義務ではあるのだが、あまりにも安直に病院受診していることに首をかしげざるを得ない現状である。
その結果として薬や検査の副作用に苦しみ、それらの副作用が作り出した新たな病気から脱出できずに長年苦しみ、生活の質を低下させている人々が多い世の実態も目の当たりにしている。
安直な医療機関受診の背景には、個々人の死生観の課題もあろう。
「死生観」と言うほどの大袈裟な哲学は、現在子育て真っ最中の私にはまだ縁のない話ではある。 だが、もしも我が身が不治の病で死を迎えるならば、延命治療などに頼らずにそれを自然な形で受け入れたい程度の思いはこの私にも既にあるのだ。そういった観点から私は下手にみっともない“命乞い”などしたいとは決して思わない。こういう思いが源泉となり、私は病院にも行かず投薬も避け、健診さえも敬遠するという行為につながっている訳である。
子育て中の母親とは、子どものために生き抜く覚悟が必要である。我が子の場合、前回と前々回の記事で綴った通りの特殊な事情を抱えていることもあり、私は我が子の自立を見届けるまでは生き抜かねばならないことも、重々承知しているつもりだ。
このような私を取り巻く現実の厳しさが、医療機関の受診を敬遠している私に確かな生命力を与えてくれて、周囲から“元気者”とのうれしい評判をいただけるものと確信するのである。
人間とは安泰な人生を送るよりも、苦難な状況にあってその中で希望を抱くべく対処する生き方を貫く方が、むしろ長く充実した人生をもたらしてくれるような実感が私には既にあるのだ。