水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

短編小説集(13) 解毒<最終回>

2013年11月20日 00時00分00秒 | #小説

「課長! …係長!」
 二人は眠たげに身体を起こした。
「工藤、戻(もど)ったようだな」
「そうみたいですね…」
 両腕を伸ばし身体を解(ほぐ)しながら、工藤は軽く言った。
「どういうことです?」
 由香は怪訝(けげん)な表情で二人を見た。
「いや、なんでもないさ、ははは…。有難う、席へ戻りなさい」
 由香は自席へ戻った。時間は始業開始前辺りらしかった。少しずつ課員達が出勤してきていた。
「工藤、この分だと、今日は平凡に過ぎ、明日は平林にエントランスで社長と言われるだろうな」
「はい! 僕は専務ですか?」
「ああ、私が言ったサイクルならな」
「ずっと、この繰り返しが続くんでしょうか?」
「それは分からんが…。まあ、運命と諦(あきら)めて気長にいこう」
「僕達二人だけが、なぜなんです?! よりにもよって!」
「興奮するな、工藤。どうにもならんことだ…」
 篠口は工藤を宥(なだ)めた。
「そうですね。どうでもいいんですよね…」
 その思いに至った途端、篠口も工藤もスゥ~っと胸のつかえがとれたように楽になった。神秘な力によって二人は解毒されたのである。それ以降、篠口と工藤を襲った不思議な現象は鳴りを潜(ひそ)めた。

                             THE END


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短編小説集(13) 解毒<19>

2013年11月19日 00時00分00秒 | #小説

「そういうな。この世界から抜け出せる手立てが何かあるはずだ」
「だといいんですが…」
 工藤は小さな声で返した。
「そろそろ時間だ。総理役も結構、肩が凝(こ)るな。北方領土とガスのパイプライン共同開発の両天秤でロシアと会談らしい。海洋資源や漁業権は国境なしという話にして欲しいそうだ」
「なるほど…。しかし課長がロシア相手に交渉とは? 」
「ははは…そう言うな。だいぶ慣れてきたからな。アメリカもシェールガスの採掘技術が完成したから、2017年にはロシアを抜いて生産で世界一位の資源大国になるらしい。その点では、我が国への輸入可能が、いつになるかが鍵だろう。要は東西冷戦時ではないから、上手く日本の国益を守りながらやるしかない。詳細は外務大臣がやってくれるそうだが…。しかし妙なもので、別世界の話だと思えば、総理も緊張しないな。君だって、そうだろ?」
「ええ、それはまあ…。どこかで現実じゃないっていう意識が働いてるんですかね」
「それはいえるな。ただ、いつ会社へ戻るか分からんのが怖いな」
「ですね。この前は突然、視界が歪み意識がなくなりました。気づけば会社の係長席でした」
 工藤がそこまで言ったとき、藤堂が近づいてきた。
「総理、そろそろご準備を…」
「ああ、分かった。今、行く」
 藤堂が去り、篠口と工藤は中庭で別れた。
 篠口は会談を軽く終え、あとの外交を外務大臣に任せたとき、急に立ちくらみがした。
「総理! いかがなされました?!」
 篠口の視界は歪み、外務大臣の声も次第に遠退いて意識が途絶えた。
 気づけば篠口は机に前屈みになり課長席で眠っていた。起こされたのは、いつやらと同じ女性事務員の安藤由香だった。篠口と工藤の肩を由香は交互に揺すって起こした。


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短編小説集(13) 解毒<18>

2013年11月18日 00時00分00秒 | #小説

「ははは…確かに。だが工藤、この現象には一定のサイクルがあるぞ」
「どういうことです」
「いや、詳しくは閣議のあと、話そう。秘書官がすぐ呼びにくるだろう」
 篠口の予想どおり、その数分後、藤堂秘書官がふたたび現れた。
「総理、お時間です。官邸へお送りいたします…」
 篠口は席を立った。工藤も篠口に続いた。いつの間にか工藤の後ろには秘書官らしき男が数名、着き従っていた。
 官邸へ到着後、エレベーターで昇った篠口は、閣議応接室へと入った。工藤は藤堂に促され、ひと足早く閣議応接室へ入っていた。閣僚全員で総理を迎え入れるという慣例があるようだった。テレビニュースでよく映る光景である。
 閣議の内容は藤堂から歩きながら事前に概要を聞かされていたから、当たり障(さわ)りなく適当に流した。終わったとき、これじゃ日本はだめだぞ…と、篠口は自責の念に駆られていた。ただ一つ、これは別世界の出来事だ…という救いはあった。
「少し歩こうか…」
 閣議終了後、しばらく時間をくれと藤堂に言い、工藤とともに孟宗竹が素晴らしい二階の中庭を歩いた。人払いを告げたから、篠口の傍には工藤しかいない。遠目に見られても、総理と官房長官が歩いているのだから、なんの違和感もなかった。
「さっきの話だが…」
 篠口は穏やかに切りだした。
「一定のサイクルがあるって言われましたが…」
「そうなんだよ。私は課長から社長、社長から総理、そして総理からまた元の課長と循環しているんだよ。工藤、君だって同じだ」
「…そういや、そうですね。僕の場合だと、係長から専務、専務から官房長官。で、官房長官からまた元の係長ですか…」
「そういうことだ。ただ、原因がわからん。未知の見えない力・・としか言いようがない。しかも、なぜそれが私と君だけに起きるのか、ということもな」
「もう、僕はどうでもいいです。どちらにしろ、自分の力じゃどうにもならないみたいですし…」
 工藤は半ば諦(あき)めたように言った。


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短編小説集(13) 解毒<17>

2013年11月17日 00時00分00秒 | #小説

 次の日の朝七時、篠口は玄関チャイムで起こされた。ドアレンズを覗(のぞ)くと、屈強なSP(セキュリティポリス)風の男が2名と手提げの黒カバンを持った背広服の若者が一人、立っていた。
「総理、お迎えに参りました」
「あっ! ああ…、しばらく待ってくれたまえ」
 篠口の口からスムースに言葉が出た。これはあの日の朝と同じだ。だとすれば、俺は総理か? と、篠口はネクタイを締めながら巡った。そのとき、待てよ! このサイクルは繰り返されてるぞ、と篠口は気づいた。確かに、出来ごとはその時々で変化したが、一定のサイクルで課長→社長→総理→課長と循環していると気づかされたのである。迎えの男が総理秘書官の藤堂だとは、すでに分かっているから、篠口としては少し落ち着けた。
「待たせたね…」
 篠口は前回とは違う余裕の言葉も自然と言えた。マンション前に止められた高級車はその数分後、滑らかに総理公邸を目指し発進した。
 総理公邸へ着くと、篠口はすぐ工藤を呼んでくれるよう、さっそく藤堂に命じた。多少、厚かましさも増していた。篠口の心中では、工藤が官房長官であることはすでに確定できていたからだ。
「かしこまりました…」
 藤堂は携帯を手にすると、すぐに指示を出した。篠口には分からなかったが、他にも数人の秘書官がいるようで、その者達に連絡を入れて指示したようだった。
 しばらくして工藤が公邸へ到着した。
「君、すまないが二人だけにしてくれ」
 工藤が現れると、篠口は藤堂を遠ざけた。藤堂は軽く黙礼し、退席した。
「課長!」
「おい! 総理だぞ、今の俺は」
 篠口の顔に少し余裕の笑みが零(こぼ)れた。
「そうでした、つい、うっかり…。どうも、ややこしくていけませんね」
 工藤はボリボリと頭を掻いた。


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短編小説集(13) 解毒<16>

2013年11月16日 00時00分00秒 | #小説

「口にしたことが現実になる、っことですか? それって、僕と課長だけなんでしょうか?」
「それは分からんが、誰かに聞こえてんのか?」
「だとすれば怖い話ですよ。それに、どうすりゃ元に戻れるのかが分かりません」
 工藤は、次第に怖(おそ)ろしくなっていた。このとき、二人は自分達が未知の見えない力で解毒されていることを、まだ理解していなかった。未知の見えない力・・それは、地球に秘められた科学では解き明かせない宇宙神秘の解毒作用だった。なぜその現象が、篠口と工藤にだけ生じたのか…それが不思議だった。訳が分からないまま、二人は別の世界に存在していた。
「とにかく平静を装って、この世界で生きるしかない。今の君は係長じゃなく専務だからな」
「分かってます。こちらの方がポスト的には有難いんですけどね」
「それに、仕事も楽だしな」
 篠口がそう返したとき、秘書室長の山崎茉莉が社長室へ入ってきた。
「社長、鈴木会長がご都合をお訊(き)きでございますが。いかがいたしましょう?」
「えっ? 何の都合だい?」
「ご冗談を。もちろんゴルフの懇親会でございます。この前、体調が悪いとお断りになったじゃございませんか」
 茉莉は怪訝(けげん)な表情で篠口を窺(うかが)った。
「あっ! そういや、そうだったね。…腰痛で当分、無理だと言っておいてくれ」
「かしこまりました…」
 茉莉は社長室を出ていった。ゴルフをやったことがない篠口は危なかった…と、ほっと胸を撫で下ろした。
「いやぁ~、前言取り消しです。楽そうでもないですね。僕も気をつけないと…」
 工藤がポツリと言った。
「ああ、そうみたいだ。ゴルフか…、やっときゃよかったよ」
 その日は前回の馴れもあり、篠口も工藤も、少し楽に社長と専務を演じて終えた。


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短編小説集(13) 解毒<15>

2013年11月15日 00時00分00秒 | #小説

 社長室へ工藤が入ったのは、その五分後である。
「また、ですね…」
「工藤、えらく落ち着いてるな」
「いやあ、そうでもないんですが…。昨日(きのう)、寝ずに考えたんです。それで、やっと少し分かってきました」
「なにが?」
「僕が課長に言ったことがありましたよね」
「俺に何か言ったか?」
 篠口は思い当たらなかったのか、訊(たず)ねた。
「いつでしたか…もう、随分前になりますが、課長が俺達、死ぬまで今のままか? ってお訊(たず)ねになって、僕が、一度、社長の椅子(いす)へ座ってみたいと言ったことがあったじゃないですか」
「そんなこと、あったかなあ?」
「ありましたよ。この不思議な出来事が起こる以前でした。僕は、その回転椅子のクッションは心地よさそうだって言いました」
 工藤は篠口が座る社長席の椅子を指さした。
「ああ…そういや、そんなことを聞いたような。だが、それが原因だと?」
「いや、はっきりとはしないんですが。どうもそれくらいしか考えつくことがないんですよ」
「君が思ったことが、現実になったってことか? それじゃ、二度目の今朝は、どうなんだ?」
「いや、僕は思い当たらないんですが、課長は? いや、社長は?」
「課長でいいんだよ、課長で。だいたい、この世界がおかしい!」
 篠口は少し怒りぎみに断言した。
「はあ、すみません」
「いや、謝(あやま)る必要はないが…。ああ、そういや、俺もこの世界へ来る前、決裁を押しながら椅子でふんずり返っていたい、と思ったことがあったな」
 篠口にも思い当たる節(ふし)はあった。


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短編小説集(13) 解毒<14>

2013年11月14日 00時00分00秒 | #小説

「ははは…。今日は一人で出たい気分になってね、遠慮してもらったんだ。もう、車は着いてるだろ?」
 篠口は方便を使った。
「あっ! そうなんですか…、失礼しました!」
 平林はそれ以上返せず、立ち去った。篠口としては、やれやれである。しかし、この先の展開がたちまち気になった。またこの世界へ紛(まぎ)れ込んだ以上、一刻も早く工藤に会って今後の方策を探るしかないな…と篠口は昇るエレベーターの中で巡った。もちろん、向かう先は営業第一課ではなく社長室である。
「おはようございます…」
 篠口が社長室のドアを開けると、秘書室長に違いない山崎茉莉がすでに出勤していて、篠口を一礼して出迎えた。
「おはよう!」
 ここは訊(たず)ねず、素直にいこう…と篠口は瞬間、判断した。
「ああ君、専務を呼んでくれないか」
「かしこまりました。専務室へそのように、ご連絡いたします…」
 山崎が隣の秘書室へ退出した。篠口は我ながら社長の語り口調が板についてきたな・・と感じた。決して偉ぶっている訳ではなく、ただ、この状況に従って素直なだけだ、と自らに言い聞かせながら…。
 江藤から連絡が入ったのは、その直後だった。このとき江藤は出勤したところで、エントランスを歩いていた。そのときタイミングよくエントランスの受付に専務室から内線が入り、受付嬢に呼び止められたのである。もちろん、社長秘書で秘書室長の山崎から専務秘書に内線が入れられ、専務秘書からエントランスの受付へ、工藤が出勤したら呼び止めてくれと内線が入ったということである。そうした経緯があり、受付の工藤は慌てて社長室へ内線を入れたのだった。
「課長…じゃないですね。社長、工藤です。おおよその流れは飲み込めました。僕、専務なんですよね?」
「ああ、そういうこった。すぐ、社長室へ上がって来てくれ」
「分かりました…」
 受付嬢が傍(そば)にいる手前、工藤は多くを語らず受話器を置いた。


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短編小説集(13) 解毒<13>

2013年11月13日 00時00分00秒 | #小説

 一時間後、二人はフリーズにいた。
「課長、僕達は大丈夫なんでしょうか?」
「そんなこたぁ~、私が訊(き)きたいよ。今の流れで生きてくしかないじゃないか」
「それはそうなんですが、いつあの世界に戻らされるか、と考えると、僕は不安なんです」
「それは私だって同(おんな)じさ」
「いったい、なぜ僕達だけがこうなったんでしょうね?」
 工藤は空(から)になったコーヒーカップを啜(すす)りながら言った。
「分かりゃ苦労しないよ…。まあ、平凡に毎日を送るしかないか」
「…ですね。当たり障(さわ)りなく…」
「無事に元へ戻ったんだから、今のところ何もなかったときと同じだ」
「そうでしょうか? なんか、課員達が洗練されたように僕には映るんですが…」
「洗練された?」
「ええ、毒が抜けたというか…。仕事もノルマ制が消え、テキパキと熟(こな)しますしね。なんか、今までのダラつき感が全然、ないんですよ」
「毒が抜けたか、ははは…。いや、そういや、そうだなあ。俺達を苦しめた、あのノルマ制がない。いつ消えたんだ? そうか…別世界にいた間にか」
 篠口は思い当たる節(ふし)があった。だが結局、自分達が別世界へ紛(まぎ)れ込んだことと課員達が解毒され洗練されたこと、そして仕事のノルマ制が廃止されていたことの三つの謎(なぞ)は拭(ぬぐ)えなかった。コーヒー一杯で散々、語り合った挙句、結論が出ないまま二人は別れた。
 次の日は何事もなく、一日が終わった。そしてまた次の日が巡った。
「おはようございます、社長! お早いですね? お車は?」
 出勤した篠口がエントランスへ入ると課員の平林羊一が声をかけた。状況は数日前の朝とまったく同じだった。篠口は呆然(ぼうぜん)とし、心が真っ白になった。


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短編小説集(13) 解毒<12>

2013年11月12日 00時00分00秒 | #小説

「以前、どこかでお会いしませんでしたか?」
「はて? …どうでしたか。お出会いしたような、しなかったような…。ははは…世間は広いようで狭いですからな。どこかでお会いしたかも知れませんが…」
 藤堂は語尾を濁した。
「ははは…そうですな。もう、うちの上層部には?」
「はあ、さきほど顔つなぎだけはしました。なにせ、この会社は私の融資部が調査した結果、あなたの課が営業利益のすべてを担っていると見ましたからね」
「それで、態々(わざわざ)…」
「そういうことです。会社上層部はどうでもいいのです。私の方針は、利益ある直接取引ですから」
 そう言って、藤堂はニンマリと笑った。少なくとも今は秘書官の藤堂じゃない…と篠口は思った。秘書室長だった山崎茉莉が現実の世界では今年入社の新人秘書だったことを思えば、将来の展開として藤堂が政界へうって出て首相秘書官になることも十分予想された。だから、少なくとも今は、なのである。二人がしばらく話していると、係長の工藤が特別応接室へ入ってきた。そのとき、藤堂は不思議なものをみるようにジッ! と工藤の顔を見た。
「あなたは、もしや工藤さん?」
「はい、部下の工藤謀と申します。以後、ご昵懇(じっこん)に…」
 工藤は内ポケットに入れた名刺を取り出し、藤堂に手渡した。
「どっかでお会いしたような…。不思議な感覚です」
 藤堂は工藤の名刺を受取って自分の名刺を返し、首を捻った。
「ははは…まあ、世間は広いようで狭いですから」
 篠口は取り繕うように話へ割って入った。その後は、何事もなく、しばらく話をすると藤堂は席を立った。
「今後ともよろしく! では、いずれまた…」
「いえ、こちらこそ…」
 篠口はドアを出る藤堂に軽く頭を下げ、工藤も従った。
 退社時間となり、篠口と工藤は時間差で会社を出た。工藤とは駅前のフリーズで落ち合う約束だった。


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短編小説集(13) 解毒<11>

2013年11月11日 00時00分00秒 | #小説

「軽率だったな。だが、これで判明するぞ、現実離れした世界のすべてが…」
 篠口はトーンを下げて、前に座る係長の工藤に言った。
「はい…」
 工藤は机の書類に目を通しながらの姿勢で、そう返した。
「ただいま、秘書室の山崎から特別応接室の方へ藤堂専務をお通しした、とのことでございます」
 ふたたび、平林が課長席へ近づいて言った。山崎? …聞きおぼえがある名だ、と篠口は思った。
「秘書室長の山崎茉莉君か?」
「えっ? 山崎は今年の入社でございますが…」
 平林は訝(いぶか)しげに篠口を見た。秘書の山崎は存在するか・・ただ、秘書室長ではなく新入りの秘書として…。篠口は頭が混乱しそうだった。
「課長、お待たせしては…」
 考え込む篠口に工藤が忠言した。
「分かってる…」
 篠口は課長席を立つと特別応接室へと向かった。
 篠口が特別応接室のドアを開けると、応接セットのソファーに座る藤堂の後ろ姿が見えた。
「いや、どうも…。お待たせしました!」
 篠口は早足で藤堂の正面へ回った。その顔は、やはり秘書官の藤堂だった。一瞬、躊躇(ちゅうちょ)した篠口は、冷静になろうと自(みずか)らに言い聞かせながら藤堂の対面の椅子へ腰を下ろした。
「お初にお目にかかります。私、このたび着任いたしました開成銀行の藤堂です…」
 そう言いながら藤堂は、背広から名刺入れを取り出し、その一枚を篠口に手渡そうとした。篠口も背広から名刺入れを取り出し、二人は同時に名刺を交換した。おいおい、お前は首相秘書官じゃなかったのか? とは思ったが言えず、篠口は[開成銀行・専務取締役]と印字された名刺を見た。


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