人は立て前で生きるものだな…と、大森は思った。大森は立て前が嫌いな性分で、本音で生きてきた男だった。だから、公私ともに随分と損をしてきた。ここは抑えるところだ、と分かっていても、つい口に本音が出てしまうのだった。先だっても、こんなことがあった。
「お前は、よく間違えるな~! 同じところじゃないか! 予算科目も分からんのか! これは、細節だ。いい加減に進歩しろ! 大森の方は…これでいい」
区役所の課長補佐、田坂は部下の三崎と大森を前に小言を並べていた。係長のときは猫の声だったものが、つい最近、管理職に昇進したのをいいことに管理者風を吹かせていた。嫌な奴・・という思いが大森にはあった。この日も、横の三崎が小言をもらった。
「それは、ちょっと言い過ぎなんじゃないですか?!」
大森は黙ってりゃいいものを、つい口にしてしまった。直後、しまったと思ったが、もう遅かった。
「なにぃ! 君に言ってるんじゃない! さっさと席へ戻って仕事をしろ!」
顔を赤くして田坂が怒りだした。返って怒らせてしまった…と、大森をお粗末感が包んだ。俺はいつも、こうだ…なにかいい手立てはないものだろうかと、大森は机上のパソコンを操作しながら、そんなことを考えていた。そして、ある考えが大森の脳裡をふと翳(かす)めた。
━ そうだ! いつも自分をお粗末な男だと思えば、口が止まるかもな… ━
大森は、よし、それでいこう! と決意した。それには絶えず、俺はお粗末だ…と意識して思っていなければならない。いわば、お粗末感を抱き続ける集中力が必要なのだ。そして、大森がその決意を実行して、ひと月が経過した。
「あいつ、随分、大人しくなったな…。なにかあったか?」
「さあ…」
課の同僚達からそんな声と小笑いする声が大森に届いた。立て前で生きるくらいなら、人生やめちまえ! と、ふたたび大森の心に本音が浮かんだ。いや、いやいやいや…大森は慌(あわ)てて打ち消した。
そんなある日、企画会議の席で、ついに大森の鬱積した心が爆発した。
「馬鹿いっちゃいけない! あんたの方針だと、来年からこの課は、お手上げだ!!」
言われた田坂は立ち上がろうとした。それを課長の下瀬が押しとどめた。
「大森君の言うとおりじゃないか。田坂君、この案は再考だな、ははは…」
下瀬はそう言って立つと、横に座る田坂の肩を軽く一、二度、叩いて席を去った。
「今日は、これまで!」
苦虫を噛(か)み潰(つぶ)したような顔で田坂は、そう告げた。よし! 俺は俺だ! 大森の心から、お粗末感が消え失せていた。
THE END