商売には、損(そん)して得(とく)取れ・・と暗黙のうちに言われる隠れた訓(おし)えがある。まあ、訓えとまでは言わずとも、商売をするなら、それくらいの気構えでやれ! とでもいう名言だ。
樺山(かばやま)は新会社を設立して今年で三年目を迎えていた。会社の前身は小商いの商店で、従業員も数人で小さかった。それが、新会社を設立したときは早くも数十人規模にまで膨(ふく)れ上がっていた。取り立てて従業員を増やした訳ではなかったが、幾つかの部門別にしているうちに、まあ、そうなった・・というのが実情である。会社とはいっても、規模の小さい合名会社であり、会社とは名ばかり・・というのも事実だった。最初の頃は客寄せもあり、損を覚悟で安値販売をしていた樺山だったが、さすがに三年目ともなると、会社経営にも影響する事態となり、仕方なく世間並みの価格で販売をすることにした。むろん、三年間の安値で定着した客層もあったから、損ばかり・・ともいえない一面があることも確かだった。ただ、安値の信用だけで商売が上手(うま)くいかないというのも事実で、樺山は痛(いた)し痒(かゆ)しだな…と思っていた。
そんな会社が左前になり始めていたある日のことである。樺山の会社に一人の老人が訪ねてきた。
「ちと、ものを訊(たず)ねますがのう…。この辺(あた)りにバカヤマ商店というのはありませんかのう」
対応に出たのは新会社の店前でバケツで水打ちをしていた樺山だった。早朝のことでもあり、社員は、まだ一人として出勤していなかった。樺山はバカヤマと言われ、少しムカッ! としたが、そこはそれ、グッと我慢して聞き流した。
「ははは…バカヤマ商店は知りませんが、樺山商店はうちです…」
「おおっ! あなたがバカヤマ…いや、失礼! 樺山さんでしたかのう」
樺山は見識がなかったから、訝(いぶか)しげにその老人を見た。
「あの…どちらさまで?」
「ああ、これはこれは。お初にお目にかかります。私、賢井(かしこい)と申しましてのう」
「はあ…その賢井さんが何のご用で…」
「おたくの安値の一件ですがのう。私のとこの者(もん)から、かねがね聞かされておりましてのう。今どきのご時勢に、見上げたお方だと、実は関心をしておったようなことで…」
「はあ。それがなにか?」
「どうも最近、お商売が上手くいっていないような報告を聞かされましてのう。これは放ってはおけぬ・・と出てきたようなことでしてのう」
「はあ…それは態々(わざわざ)、どうも…。で?」
「私はこの会社の気構えが気に入りました。つきましては、勝手ながらこのバカヤマ商店に出資、いやご寄付をさせていただこうと決めましてのう」
「はあ、この樺山商店に、でございますか?」
「あっ! 失礼! 樺山商店に、でございます」
「ええっ! あなたさまは、どこのどなたで? …」
「先ほども申しましたように、賢井と申す不束者(ふつつかもの)ですがのう…。ああ、そうそう、こういう者ですわい」
賢井と名乗った老人は、そう言いながら徐(おもむろ)に羽織の奥から一枚の名刺を取り出し、樺山に手渡した。名刺は世界にその名を轟(とどろ)かす大手企業、KS物商のものだった。さらに、代表取締役会長 賢井品次郎 の名も見えた。その老人の隠れた威厳(いげん)に、樺山は昨日(きのう)見た水戸黄門を、ふと思い出しながら、確かに、損して得が取れたな…と思った。
完