水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

春の風景 特別編(上) 麗らか

2009年08月03日 00時00分00秒 | #小説


        春の風景       水本爽涼

    特別編(上) 麗らか     


 雪解け水がポタッ・・ポタッと屋根から伝って落ちる。オウバイは黄色い蕾を開け始め、紅梅も負けまいと、両者は競っていい勝負だ。今年は珍しく名残りの雪が遅く降ったのだが、そうは云っても、今日からは、もう三月だ。すぐに姿を消すであろう所々に薄く残る雪の敷布に、黄緑色の蕗の薹(とう)が顔を出している。今日は催し事があった関係で学校が半ドンとなり、僕は今、家に帰り着いたところだ。中途半端な雪で、長靴がすっかり泥んこになりサッパリだった。しかし、この程度の雪が景観としては一番、情緒があるようにも思え、僕は好きだ。要は一勝一敗なのである。僕に好かれても雪は困ってしまうだろうし、雪女となって肩を揉みに来られても、ちと困ってしまうのだが…。
「おお…正也、お帰り。ど~れ、蕗の薹でも取って、未知子さんに味噌にして貰おう…。美味いぞぉ~」
 そう云うと、じいちゃんは僕の顔を見て、ワハハハ…と豪快に笑った。確かに、この時期の蕗の薹味噌は、熱い御飯の上へ乗せて食べると絶妙の味を醸し出すのである。しかし、このじいちゃんのワハハハ…は、後日、湿っぽい顔になった。と云うのは、次の日曜の朝のことである。
 僕は日曜なので当然、家にいた。朝、起きると、いつもの早朝稽古でじいちゃんと一汗、掻いた。いつからだったか、師匠に入門してお世話になっている僕は、何かにつけて師匠のお手伝いをする破目に陥っていた。まあ、これも剣道を教えて戴いている授業料だと考えれば致し方なし、とは思うのだが…。さて、稽古を終え、シャワーで汗を流すと、上手い具合に母さんの朝食が出来上がっている。結構な運動量だから腹も減り、大層、御飯が美味しい。じいちゃんも僕と同じで、お茶碗に大盛りの御飯を、がっつり食べていた。そして、事件は勃発した。そうは云っても、きな臭い話などではない。じいちゃんが俄かに顔を顰(しか)めた。
「お義父さま、どうかされました?」
「えっ? …いや、なに…、大したこっちゃありません…」
 そうは云ったが、じいちゃんの咀嚼(そしゃく)はピタリと止まった。そして、徐(おもむろ)に箸とお茶碗をテーブルへ置くと、手を口へと運んだ。次の瞬間、口から指に摘まんだ一本の歯を取り出した。決してマジックなどではない。じいちゃんの入れ歯の一本が離脱したのだった。二年ばかり前の正月にも、そんなことがあったように記憶しているのだが、そのことは以前、お話ししたと思う。同じことが、ふたたび起きた訳だが、じいちゃんは前回の餅の時で懲りたのか、歯医者へは行かない日がその後、続いた。僕も、まあ一本くらい抜けたって入れ歯だし不都合もないだろう…と、軽く踏んでいた。しかし、物事は、しっかりと帳尻を合わせておかないと、偉い事になるようだ。僕はそのことを、じいちゃんの入れ歯から思い知らされた格好だ。
 三日後、ふたたび不吉な出来事が、じいちゃんの入れ歯を襲った。僕は三学期の期末テストが済んだ直後で、幾らか心は安らいでいてテンションが高かった。だが、この日の朝の御飯時に、じいちゃんの入れ歯は脆(もろ)くも三本ほどが纏(まと)めて抜け落ちた。ボロボロッという感じである。こうなっては流石のじいちゃんも放ってはおけない。仕方なく歯医者で入れ歯を修理することにして出かけた。帰ってきたじいちゃんは、僕とは真逆に、滅法、テンションを下げていた。
「フガフガフガ…(一本で行きゃよかった…)。フガガガフガガ…(これだけ抜けると暫くかかるそうだ…)。フガガフガフガ(それに金もな)」
 僕が訊くと、じいちゃんは抜け歯語でそう語った。通訳すれば、粗方(あらかた)、そのようなことを云ったようである。
「ふぅ~ん」
 僕は、つれない返事を返した。ここは余り出しゃばらない方が得策のように思えたのだ。
 それからというもの、じいちゃんの身には春だというのに辛くて冷たい口元の日々が続くことになったのである。剣道の猛者(もさ)も、怪談・牡丹燈籠のお武家のように、すっかり元気がなくなってしまった。そうは云っても、僕には何故、このお武家が元気をなくしたのか…というその辺りのことは、よく分からないのだが…。
 まあ、そんな中にも、春の息吹きを感じさせる恒例の蕨(わらび)採りが近づいていた。秋のキノコ採りと同じくする二大イベントの一つで、この春の蕨採りは、勿論、じいちゃんなしでは語れないのである。兎も角、蕨を食べる迄の間は、ひとまず、じいちゃんのテンション低下は防げそうだった。というのも、じいちゃん自身にもイベントの主役が自分であるという自負心が芽生えている為か、俄かにアグレッシブになったのだ。勿論、蕨を採って持ち帰り、灰に浸けてアク抜きをする迄である。その後は母さんの手に委ねられて調理されるから、じいちゃんの出番は終了となるからだった。
「フガガ! フガガガ(よしっ! 正也)、フガガッ!(行くぞっ!)」
 じいちゃんの号令のもと、僕はじいちゃんの後方に従った。師匠は達人で、瞬く間に腰の籠は一杯に溢れた。僕は…といえば、まあ、それなりに採った…と報告しておこう。その後、下山して次の作業にかかった。木枝を燃して灰を作ったのだ。ここで母さんの出番となる。出来た灰は水に溶かされ、その中へ採ってきた蕨は浸けられ湯がかれた。暫くして水に晒(さら)された蕨は、すっかり萎えて柔らかくなり、アクは抜け出たようだった。
 上手くしたもので、じいちゃんの入れ歯の修理が終わった旨の電話が歯医者から掛かったのは、その晩のことである。また下がるのか…と懸念されたじいちゃんのテンションは、すぐに持ち直し、無事、事無きを得たのである。めでたし、めでたしだ。
 そして次の日の夜には、いつものじいちゃんの笑顔が戻っていた。じいちゃんとすれば、母さんお手製の蕨の煮物が安心して食べられるから、その喜びでうち震えた笑顔だったのだろう。某メーカーの洗剤で磨いたような光沢を放つ例の禿げ頭も、心なしか、いつも以上に輝いて見えた。
「どうです? お義父さま、お味は?」
「いやあ・・いつもながら絶品です、未知子さん」
 確かに、その蕨の煮物は美味しかった。
「なかなかの味だ…」
 父さんがひと声、発した。だが、それは徒花(あだばな)どころか、返って起爆剤になってしまった。
 「やかましい! 部外者がっ!」
 じいちゃんの雷が父さんを直撃した。父さんは、そのまま凍結して氷になった。まあ、そんなことが起こるのは滅多とない訳で、我が家には麗らかな春の平和な日々が続いている。

                                            春の風景 特別編(上) 完


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