いや、間にあわないことも考えられる…と、寝床で藤木は時刻表を睨(にら)みながら思った。とりあえず、そうなる失敗を避けるためにも一本前の6時の列車に乗ろう…と、決めた。そうすれば心に余裕も生まれ、ゆったりとした快適な旅の始まりが約束されるはずだ。時間はもう深夜域に入ろうという午後10時である。藤木は目覚ましを5時にセットし直し、両目を閉ざした。そのとき、また雑念が浮かんだ。鞄(かばん)に詰めた忘れものはないだろうか…もう一度、確かめておこう、と。布団を撥(は)ね退(の)け、藤木は枕元に置いた鞄を開けた。下着類、靴下…と確認し直す。まあ、ひと通りは間違いなく入っているようだ。藤木はそのときまた、おやっ? と思った。財布はどこだ? 確か…出がけに背広の上着に入れようと、とりあえず鞄に収納したつもりだった。いや、確かに収納した…と藤木は思った。その財布が見つからないのだ。これは偉いことになったぞ…と、藤木は些(いささ)か慌(あわ)てた。財布の中には前もって買い求めておいた切符やカードも入れていたから、事は重大だった。見つからないと、いくら早く目覚めても完璧(かんぺき)にアウトだ。藤木は、はて? と思いあぐねた。あれこれとそのときの状況を思い浮かべ、しぱらくして漸(ようや)く藤木は閃(ひらめ)いた。あっ! そうだ…鞄に入れたことを忘れるといけない、と思い直して、とりあえず上着へ戻したのだった。藤木はホッ! と安心し、溜息をついた。そして布団へ、ふたたび潜(もぐ)り込んだ。目覚ましは11時近くになっていた。もうこれで熟睡できるだろう…と、藤木は目を閉ざした。夜泣き蕎麦屋のチャルメラの音が遠くに聞こえた。藤木は俄かに腹が減っていることに気づいた。そうなると、もう寝つける訳がない。チャルメラの音がやけに喧(やかま)しく腹立たしかった。藤木は起き上がると、とりあえず何か食べようと台所の戸棚からカップ麺を出した。保温ポットの湯は、まだ十分にあった。湯をカップ麺に注ぎ、しばらくして食べたが、まだ硬かった。それでも食べ終えると、少しほっこりした。もうこれで眠れるだろう…と藤木は思った。食べ終えたカップをゴミ箱へ捨て、藤木は口を漱(すす)ぎに洗面台へ行った。洗面台で口を漱いでいると、髭(ひげ)を剃っていなかったことに気づいた。出がけにバタバタするのは嫌だから、とりあえず剃っておこう…と藤木は髭を剃った。洗面台の掛け時計の針が11時半を指していた。藤木は少し慌(あわ)てた。剃り急いだ藤木は頬を切った。血が滲(にじ)み出て、頬を伝った。藤木はいっそう慌て、ティッシュを取りに小走りした。小走りしたのがいけなかった。敷居で躓(つまづ)き、しこたま腰を打った。大丈夫だろうと立ち上がると片足が痛かった。捻挫(ねんざ)していたのだ。まあ、シップすれば、とりあえず、なんとかなるだろうと藤木は思った。幸い、薬箱にはシップ用の貼り薬があった。頬をティッシュで拭(ぬぐ)うと、血はもう止まっていた。藤木はもう何もしないで大人しく寝よう…と思った。とりあえず、これで心配事はなくなったんだ…と思えた。藤木は再々度、布団へ潜り込んだ。ようやく眠気が訪れ、藤木は寝入ることができた。
5時になった。目覚ましが、けたたましく鳴り響いた。藤木は飛び起きた。そのとき、昨夜、シップした足に激痛が走った。見ると赤くはれ上がっていた。軽い捻挫ではないようだった。藤木は旅することを断念し、とりあえず病院へ行くことにした。歩かないと痛まないから、もう少し寝よう…と、藤木は、とりあえず布団へ潜り込んだ。そのとき、枕元の鞄が、ははは…と笑ったような気がした。藤木が見上げると、枕元は静まり返っていた。気のせいか…と藤木は思い、とりあえず目を閉ざした。だが確かに、鞄はクスクスと声を潜(ひそ)めて笑っていたのだった。
THE END