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ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき

活動日記ほど堅くなく、日々の思いをつぶやきます

環境・農・食

2024-11-22 14:02:56 | 本・映画など







三冊を読んだ。3冊とも共通しているものを持つ。

『農は輝ける』(山下惣一 星寛治 対談集)

『北の農民 南の農民』の発刊後、約30年たって企画された対談。

2011年、東日本大震災直前とその年の暮れと2回行われた対談の収録。

司会進行は新潟県阿賀野市笹神地域で有機農業をやっている石塚美津夫さん。

・TPP問題だけでなく一連の制度改革を「民(企業)へ」の構造改革としてとらえ、その是非から論じていく。
また、話は脱原発や生き方論へと広範に発展していく。
農業も漁業も(企業がのっとってもかまわないが、)
我々はそこに住んで暮らしと生産が一体だから大事に守り続けるが、
企業はどうか? 生産だけしかしない人が、守るわけないじゃないか。
私としては、よく砂川議員が言っていたことを思い出す

・若い人にも魅力がある、収入も高い農業にするためにどうしたらよいか?! という会場からの問いに
山下さん、
「今のままでいいじゃないか、堆肥をつくって循環農業をやっているではないか。変えなければ、という発想に立つのが間違え。親が死ねば子は戻ってくる。」


星さん
「人間のつながり、自然と人間のつながり、生産者と市民のつながりの豊かさに焦点を絞る。経済成長しないと幸せは得られないという先入観から抜け出してみること。フランスやイギリスでは脱成長「経済成長無き発展とは何か」に向けて探求が始まっている。オバマの提唱するグリーンニューディールも、前提としては経済成長しないと幸せではない、からきている。それを追求したら結局は環境破壊に行きつく。
もっと別のライフスタイルを考えていくことが大事。」

『はじめて学ぶ 環境倫理」吉永明弘著

環境倫理とは、自分は日々の生活で個人がどう工夫するか、というような類のものではなく、
もっと国や世界に問うものだ。
つまり、「システム」「制度」をどうすべきかと考えるものである。

環境倫理には次の3つの考え方がある。 
1、自然の生存権 人間も動物も植物も…生態系も景観も生存権を持っている。
2,世代間倫理  今の世代は未来の世代に責任を持つ
3,地球全体主義  地球の生態系は互いに影響しあい、閉じていている。

これらを、わかりやすく紐解いて問うた本がこの本ともいえよう。

・世代間倫理においては、資源よりごみの方が影響がある。
「耐用期間 > 使用期間」

ごみは使われる時間より、使える時間が長い。レジ袋は1時間くらい使われるだけだが、何十年と分解されずにもつ。
だから、長く使うものをつくる、という発想も環境倫理に叶う。100年住宅も一例。
1軒の家を解体すると1人の一生分の量と同じごみがでる、らしい。それまでいくら努力してても、それで元の木阿弥。長く保つ家を。
最悪が核のゴミ。核廃棄物はサ終始末10万年間影響が残る。フィンランドではオンカロという施設で地中深くに埋設したが、文字とともに記号などで「掘るな」と記しているという。文字は永久ではない。だが、後世の人が発掘したら終わりだし、隕石が当たっても終わりだ。

・CO2削減ももっと生産側の責任を負うべき。個人消費とは規模が違う。企
業もグリーンウォッシュしがち。
昔、衆議院環境委員会に呼ばれた時、2人の識者が 投資と税制に切り込むべき、と主張していたのを思い出す。
お二人の主張は、世界の投資家は環境への貢献度合い(効果)を見て投資先を決めるのが今の主流だから、
その客観的指標をはやく日本でも作って投資家に示さないと資本が逃げる。環境税なども早く導入すべき。
というものだった。

・「保全」と「保存」の違いは、前者は人間が手を入れながらも守っていくことを含むが、後者は人間が手を付けないままを意味する。アメリカの環境主義者は「保存」派が多い。日本は「保全」。

・「都市」は地球の持続可能性に貢献できる。だって、「都市」こそ資源、エネルギーが節約できるからだ。
そのカギは「集住」と「公共交通」にある。豊かな住環境(アメニティ)を実感しつつ住み続けるために「アメニティマップ」を作ることも効果ある。良いところと改善したいところを町を歩いてみんなで地図上に掲げ、みなでより善いマチを作っていく。参加して創る。きっと緑も増える、魅力も増す。
市で行ってきた「音楽のあるマチづくり」「農のあるマチづくり」「まちなかみどり保全制度」そして、所沢グランドデザインからTDW(所沢 デザイン ウォーク)への試みがそれであろう。

・『アメリカ大都市の死と生』を著したジェイン・ジェイコブズにも話が及ぶ。
ジェイコブズ(彼女)は
当時主流の「輝く都市」コルビュジエと「田園都市」ハワードの2つの思想を批判する。都市には都市の魅力がある、それは「多様性」である。魅力ある街にはどうも4つの原則があって、1,混在、2、小さな街区、3.密集、4、古い建物 だという。たとえば道は「効果的にT字路を設けよ」とも彼女は主張した。街を分断する広い街路には、彼女は猛反対した。
それはクルマのための街・道づくりであり、マチを分断し人を分断するからだ。
また、著者(吉永先生)は、古い建物が善いのは、ノスタルジーだけでなく、若い人が住めるから、と説く。
賃料が安ければ若い人が店を出せ、変化が起き、魅力が増すからだ。
市が進めてきた「人を中心にしたマチづくり」の心もそこにある。
職住混在もあえて作るべきで、そうしないと今の世の中、昼間は老人だけになる。幼児は保育園、子どもは学校という施設に収容され、大人は東京で働いている。市の市道認定も「通り抜け」が大前提だが、これも再考の時期。それはクルマのための発想だ。
プロぺより一本はずれの通り、また、最近の西所界隈の隆盛は、古い建物=若い人々の進出による。
人は狭い小路があれば吸い寄せられる。クルマが来なければ道を花畑にしても機能は保てる。人が出逢い、憩う場ができる。エミテラスで大渋滞を恐れたが、実際は、人々がクルマで来るのを控えたので渋滞しないで済んだ。
32m都市計画道路も時代遅れ。今後はこれが街づくりを捻じ曲げる原因になる。不作為の罪にならねばよいが・・・。

自然から街づくりまで、すべてが環境であり、生態系を成し、多様性は維持すべきであり、その生態系は今だけでなく遠い未来まで続いている、という考え方を教えてくれる本でした。

参考となる映画  ・「100000年後の安全」 ・「ジェイン・ジェイコブズ ニューヨーク都市計画革命」
例にとられた町  鞆の浦(確かに風光明媚で道が狭く=人しか通れない幅=曲がりくねっていたことを思い出す)
福祉医療保健常任委員会視察開始 - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき
(もっと詳しい視察報告などは市議、県議時代のホームページに掲載していましたが、
維持費がきついので昨年廃止してしまい、今は見られません。悔しい)

真鶴町「真鶴町まちづくり条例(美の条例)」美は変わらない、真鶴の良さを変えない

『生物多様性』本川達雄著


たとえば、自分の名前はもちろんのこと、生きてきた証や歴史も無視され、衣服もはがれ、人間の尊厳をはく奪された人間は、

崩壊してしまうという。アウシュビッツの人々の例は『夜と霧』に描かれている。

そう考えると「私」とは、単なる個体として確立しているものではなく、それを成り立たしめる多くの存在、関係性、つながりによって成り立っているものなのではないか。それはすなわち取り巻くもの=SURRAUNDINGS(環境)ともいえる。生物多様性とは「私」を成り立たしめるもの。私の一部である。

父と母の遺伝子を組み合わせて子ができるが、そもそも父と母の遺伝子も遺伝子の塩基配列はほとんど同じ。チンパンジーと人間だって遺伝子で15%、塩基配列レベルでは1%の違いしかない。子も「私」孫も「私」、親も「私」だし祖父母も「私」なのだ。生物は「私」を渡していくものなのだ。

私は、時間的にも空間的にも周りと切れてはおらず、次世代や環境という時間空間的周りを取り込んだ「私」観を持とう。

子どもや「孫」も「私」だとは誰もが感じるが、実は、「友」も私だし、家も私、ペットも私、近所も私、街も私・・・と空間の広がりも持つものだ。そう考えたとき、生物多様性は時間的にも空間的にも私を成り立たしめるすべてのものであり、必要なものなのだ。



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満島ひかり 岡田将生 主演 映画『ラストマイル』 

2024-10-29 08:11:34 | 本・映画など

働く人は幸せなのだろうか?

資本家の一人勝ちで、働く者が部品(駒)に成り下げられていないか。

消費の在り方はそれでいいのか?!

システムはそれでいいのか?

善い社会ではないのではないか?!

自分はこのところ、そう感じているのだ。

この映画は、ずばりそれを指摘してくれていた。



この映画の舞台は、巨大物流システム。(AMAZONのような・・・)

ラストマイル、とは、そのシステムの最終面を担う、運送業の部分を指したものだ。

しわ寄せも帳尻合わせも、ラストマイルが背負い込む。

でも、それだけではない。

そのシステムの中で働くすべての者のが、実はラストマイルの一員なのだ。

全てはカスタマーの欲するままに、

企業間ではクライアントの欲するままに、

企業間も労働者間もそれぞれ階層化して、

より下の者が抑圧される。

その人らしさや人間性など埒外(らちがい)で、生産性だけ求められる。


使っている側だと思っていたら、いつの間にか使われている。

そして、すべての者が交換可能な存在なのだ。

自分もこのところ、同様な仕事も随分としており、まさにこの映画の指摘する通りのことを感じてきた。

そして、だから今こそ働く側の団結が必要なのだと思う。

しかし、労働者こそが幾層にも分断され、資本家の思うがままに統治されてしまっている。

消費の意味を問い、仕事の意味を問い、労働の意味を問う。

そうやってシステムを変えていかなければいけないのではないか。


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『ベーシックサービス 「貯蓄ゼロでも不安ゼロ」の社会』井手英策著

2024-10-06 20:14:13 | 本・映画など

きっとこれなんだ と自分は思った。



市場原理とグローバリズムの資本主義も残念ながら行き詰っている。

今のまま突き進んでも、社会をよい方向には変えることはできないように私には思える。

今後ますます少子高齢化は進み、市場は縮小を余儀なくされている。

それなのに、今も日本は成長と拡大、そして蓄積を求め、

生産性向上の名のもと、安い労働者として外国人、高齢者、女性に頼ろうとしている。

そして、格差だけが開いていく。

著者によれば、平成の30年間、所得格差はどんどん開き、

雇用形態も多様化し、平成末で、15歳から24歳の労働者では、正規:非正規の数は100:104。
また、45~54歳の場合、でも正規:非正規の数は100:47なのだそうだ。

また、世帯収入も全体の3割の世帯が、額面300万円未満(手取りなら約250万)なのだそうだ。

少なくも男女2人とも非正規ならば、生活を営むのも大変だ・・・。

うっ憤は社会にたまり続け、はけ口を求めて蠢き、社会は刹那主義に陥っている。

爆発してもいいから変わればいい・・・。

そんな雰囲気が漂っている。

そいなると民主主義も育たない。 


私はこのところ、ずっとそう感じているのだ。


著者 井手英策氏 は 著書の中でこう言っている。

(高齢者をめぐる家族関係を見て)

生きていれば悪魔に見え、亡くなれば天使に見える。
生きているだけでその人は「費用」とみなされ、それが「負担」に感じてしまう。
大人の健やかな命が、子どもの苦しみを生む。
そんな社会は終わらせなければならない、と。

また、こうも指摘するのだ。

なぜ大学を出ろ、と親が言うのか?
それは、老後まで安定した生活を保障するためである、と。

私たちは今、勉強したくなくても強制され、会社に入れば長時間労働に耐え、疲れ切り、
家族や子供と過ごす時間を失い、趣味や社会参加する機会ももてず、
老後に備えて貯蓄確保に躍起となって人生を送っていないか。

もし、老後まで安定が約束されるのならば、私たちの生活はどう変わるのだろうか、と。

さらに、

人は人の中にあって人でいられる。幸せを感じるものだ。
自己責任で孤立させるのではなく、「共にある」領域 をもっと作っていこう。
それは連帯であり、自治である、と。

そして、提案するのだ。

子育て、教育、医療、介護・・・基本的なサービスが保障されるとしたらどうだろう?

人はもっと豊かに生きていくことができるのではないか、と。


僕はこの点について、はたと気づかされ、そうなのかもしれない、と思うのだった。


著者によれば、

消費税を今より6%上げ、累進課税も強化することで
子育て、教育、医療、介護、障害、生活保護の基本サービス、すべて賄うことができるのだそうだ。

全ての人が受益者となり、人同士のねたみ、嫉み、対立は減り、
自分らしい働き方、生き方に近づくことができ、
社会参加の機会も増え、信頼と支えあいの社会ができやすくなるのではないか、

と提起するのである。


消費税の増税、それは世界各地、特に北欧の国々で実践済みだ。


資本主義が行くところまで行き、社会が変質する中で、

そちらの方がより人々は幸せを感じるのではないだろうか、 

自分はそう感じるのである。



なお、ベーシックインカムとは違うのであって、このベーシックサービス論では

サービスが必要になった時に必要な人に保障するのであって、

皆にお金を配るのとは違う。(ベーシックインカムは財源の用立てが不可能)

財源はより少なくて済み、だれでも必要になったら受給できるので嫉妬、対立は生みにくい。

(病気になる人に嫉妬する人は普通はいない)

また、ベーシックインカムだと、金をもらったんだからもう甘えるな、という自己責任論、

対立が社会に温存されてしまう。

が、ベーシックサービスならば、信頼しあえる社会に転換していくはずだ。

政治家にとって消費税アップは保身のために避けてきた話題であるが、

今の社会状況下ではこれが正解なのではないか! と著書を読んで、そう思った。



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『気候リバイアサン』を読んで

2024-09-29 16:47:54 | 本・映画など


『気候リバイアサン』 新聞の書評で紹介されていたので、図書館で借りて読んでみた。


所沢市にはなくて、他市から取り寄せで, 読めた。有難い。

daga,

哲学の素養がないと難解で、分からないことが多かった。

そこで、自分の言葉で要点だけ、書いてみたい。

あってなかったらごめんなさい。

・・・・・・・・・・・・・

資本主義社会のまま気候変動、気候危機を乗り越えようとしても、それは無理だ。
また、世界共通危機だからといって惑星規模で対処しようとしてもちゃんとはできない。
みんなやったふりか、中途半端で終わってしまう。
やってみたけど間に合わなかったねぇ・・・って。
いまの世界はそれである、と。

気候危機に本気で対処するのなら、資本主義を捨て、マルクス主義に基づき社会を分析し、
国家や世界全体で対処をしようとするのではなく、
被抑圧者、原住民の抵抗運動のように、土地や自然を商品(もの)として扱わず、
矩(のり)を超えない精神で、
その現場その時の課題に対しピンポイントで抵抗運動し、
それを燎原の火のごとく広めていく、
そういう運動手法を取らなければならない、と訴えているのだ。

まず、なぜ資本主義ではだめなのか?

それは、資本主義経済の原理は、成長と蓄積を求めることだから。(拡大再生産は必須)
その根源は、地球から化石燃料を掘り出し使うこと、から始まるからだ。
資本主義経済は、自然や地球から奪う、地球の中に貯った炭素を出して使う、のが宿命なのだ。
そして、不平等の格差を広げていく。

また、なぜ惑星規模で共通の物事を決め、実行できないのか。
(著者はこれを「惑星規模の主権=気候リバイアサン」を設定する、と表現している)

気候危機に対処するため、国家を超えた惑星規模の何かに力を持たせ、行動しようとしても、
結局は、エリート、富裕層、強者が決断するのであって、
その人たちに都合のよい決定しか、所詮、採用することができないからである。
民主主義だって同様で、人それぞれの主張を全て汲み取ることなどできない。
気候変動で被害を多く被っているのは貧しい人々、被抑圧者、グローバルサウスの人々なのに、
その人たち(の主権)は置き去りにされるのだ。

だから、資本主義を捨て、ラディカルなマルクス主義に立ち返り、気候危機の現状をありのままに感じとり、各地の原住民の発想(人間は自然の一部であり、自然、土地にに生かされている=地球から貪らない)という発想で、その場その時に応じて行動を起こし広げていくしかないのだ。

と著者はいうのである。



パリ協定で産業革命以降の気温上昇を1,5度に抑える目標も決まった。

そのパリ協定も、資本主義を前提に、惑星的主権を作ろうとする試みだ。
だが、それもグローバルノース的発想の枠は出ない。
グリーンニューディールも、所詮、どう儲けるかが根底にある。
グローバルノースが今まで尊重してきたリベラリズムも、また、大切にしてきた精神(「自由」「進歩」「民主主義」)も、残念ながら、人間だけしか眼中にない。
自然はどうなるのか、他の生物はどうなるのか、は発想の外なのだ。
だから、人間が「進歩」しながら「適応」しようとしてしまう。

「緩和と適応」(Mitigation & Adaptation)のうち「適応」は、
みんなでどうするか? で決まる政治的な題材だが、
より高価な水害保険をつくるとか、熱中症を避けるためエアコンをつけるとか、
所詮、グローバルノースのための適応策でしかない。
炭素排出量取引も電気自動車を普及するとか、断熱効果の高い家に換えるとかLEDに換えましょうとか・・・所詮、儲け話の延長でしかない。
気候変動を抑える、地球を守り、子孫を守る、抜本策にはなっていない。
自分もそこにいつも違和感を感じてきた。

気候変動はもう地球いずこでも進行している段階だ。
全大陸で気温上昇、あまりに高い絶滅率、種やエコシステムが必死に適応しようとしても、
進化が追い付かずサンゴなど移動できない種は死滅している。
海水面は上昇し、森林火災が頻発し、氷河は激減し、大規模な嵐が発生し、

ゲリラ豪雨、洪水、干ばつがおこっている。
そういうなか、弱い立場の人々、人以外の生物種ほど大きな被害を被っている。

先日は、こういうニュースもあった。
気象庁によると、東京都心で最高気温が35度以上の「猛暑日となった日数は、2014~22年は平均で8・3日だったが、23年は22日。今年も8月末時点で19日に上った。連動するように日本近海の海面水温も上昇傾向にあり、昨年は平年より1・1度高く、過去10年間で最も高い数字となった。


儲けながら、進歩しながら、という欲望をあきらめ、

地球から炭素を取り出し放出する、そのことをやめるためにどうするか、に行動を集中せよ。

著者のジェフ・マンとジョエル・ウェイン・ライトは、そう訴えているのだ。
自分も全く同感である。それを自治体単位で追究してきたつもりであった。


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『日本農業への正しい絶望法』神門善久著 を読む

2024-09-21 19:10:37 | 本・映画など

神門(ごどう)教授による 日本農業の課題分析と対策 である。

結論から言えば、

よい農家とは、(農薬使用不使用、堆肥の有機、化学関係なく
その土地の土と天候に合わせて、元気で栄養価の高い動植物を常に育てることができる農家のこと。

技能を持った農家が減少しているのこそ 今 1番の問題である。

貿易の自由化を考えると、アジアの小農、米豪州の大規模農に対しても、
(=大規模化で、また、労働力の安さで勝負してくることに対して)

技能集約型農業が一番強い。日本はそれを進めるべき。

日本は今までそれをないがしろにしすぎた。

特に最大の欠点は、農地利用が無秩序でずさんだったことである。
それが、土づくりを大切にし技能を持った農家がやる気をなくすのを助長した。


今後は、
・農地基本台帳をしっかり正確に作り直し、情報を公開し、
・農作物ニーズの実情と農地の必要度を考慮して、市民も含めて話し合って、
                「農地利用規定」をつくって、筆ごとの利用規定を定め、

・必要なら農外転用も計画的に行い、農地利用も技能を持ったやる気ある農家に集め、進めていくべきである。

また、消費者も、
・一家で食事したり、新鮮なうちにおひたしや煮しめにするなど保存がきく料理法も駆使し、食品ロスも少なくし、嗜好性食品を我慢するなどしていくことが大切である。

そうやって、技能を持った、やる気のある農家を元気にし、
            技能を継承していけるようにすることが肝要、


というのが著者の主張だ。

 

著書の随所で神門さんは、
農業保護派(ノスタルジー派)にも大規模やハイテク農業にも、消費者にも、国やマスコミに対しても
すべてに対して手厳しい。



ダイコン100円の場合、農家の取り分は30円くらいである。これは、前出の山下惣一さんと同じ認識。神門さんは、でも同世代で比較すれば農家の平均所得の方が上、と指摘する。農家を弱者扱いは決してしない。

また、有機農業がもてはやされているが、偽物の有機もたくさん出回っている、と指摘。
写真や宣伝文句にだまされている。消費者の舌も真贋を見抜けなくなっている、という。


※本当の元気な作物はうまく栄養があり、もちもよい。
例)コメを水につけてほっておく。名ばかりの有機米は微生物もいるが窒素過多などで細胞が弱く、一番早く腐る。慣行農業のコメは微生物がいないからやはり腐る。一番腐るのが遅いのはよい有機米。微生物もいるし細胞壁も強いので腐敗が遅い。

最も大切なことは、元気で強い動植物を育成できるか否か、と指摘する。

大規模化を進めるにあたり、マニュアル依存型農業を国は推進してきたが、
技能の伝達がおろそかになる傾向がある。それだけではだめで、日本の強みは技能集約型にあり、双方が補完されていることが必要なのだ。
(技能集約型もマニュアル依存型もそれぞれ大事。でも基本は技能集約型。)

国が農地利用を農業委員会に丸投げして、放置したので、
耕作放棄地が把握できなくなり、農外転用もなし崩し的に進んでしまった
また、国は新規就農者ばかりに補助を当てている。

土づくりを大切にしてきた技能集約農家は馬鹿を見るように感じている。

ハイテク農業、その対極の粗放(自然)農業。6次産業化と農商工連携、農地の自由化。
そして一方ではJA悪玉論。 

国もマスコミも大はしゃぎでもてはやすが、それは幻想のようなものだ。
昭和初期、経済が停滞した時、やたら満州に新天地を求め、国全体が浮足立ったが、その頃と同じであり、経済が行き詰まり、新天地に逃避しているようなもの。最後は戦争に進んでしまった。
・ハイテク農業も粗放農業も、万万歳ではない。・6次産業などは昔からやってきた。・農地法も抜け道があって、農地転用でぼろもうけを狙う人も多い。まじめな農家のやる気を削ぐ傾向。・JAも力があった時は、農家集団をまとめる力を持っていてよい面で機能していたが、今は無力。金融ばかりで、金融には厳しさがない。組合員に非農家も多く、組合員の再定義と金融の分離が必要。

マスコミも識者も、島国ゆえの閉鎖性で上のような不都合な真実から眼をそらす。
それでは、また惨事を招いてしまうだけだ。

藤本感想)

有機ならば本物の有機。慣行でも本物の慣行。
神門さんは、技能の伝達、その維持に注目し、まじめにじっくりと技能が習得されていく環境を作っていくべき、と訴えておられた。
それを阻む問題を特に「農地利用の転用問題」いい加減さに認め、そこから整え進んでいこう、
とおっしゃっていた。  しかし、実行するには多くの障害が待ち受ける。
農家自身をも敵にする。消費者は無関心である。だから、「正しい絶望法」と題したのであろう。

ここ所沢、東京近郊では同様の傾向が非常にある。
農業では儲からない。それは、我が後援会のTさんもKさんも常におっしゃっていた。
土地を持つ人は道幅を少しでも広げようと要望する。そうすれば、沿道の活用が格段に広がっていく。
農業委員会の集まりに出ると、いつの間にか不動産屋さんの集まりに来たような錯覚にとらわれる。
それらも厳しい現実だ。

それでも、農業は大切だ。すべての産業の必須なのが農業(食べ物をつくること)だ。
数年前、農業ジャーナリストの大野和興さんは
「じゃあ、最後はどうすればいいんでしょうか?」との私の質問に対し、
「国民がそれぞれ土を耕すようになること、作る人になることだ」と答えてくれた。
あの時、ずいぶんと回り道な答えだなぁ、と感じたが、輸入を絶たれたロシアが予想外に食糧事情が悪化しないのも今更ながら想起される。大昔、そもそも農業は産業ではなく、自給のためのものだった。

「農のあるマチづくり」これも就任一年目から進めてきたが、指導者がついてくれる農園の拡大や市民農園の増設、これも一進一退あるが進めてきた。
農業自体にも支援をして、強く儲かるようにと、4期目の選挙では、ブランド化を狙って有機農業の推進と学校給食の有機化、無償化を公約に掲げもした。その前段階としては、「武蔵野の落ち葉堆肥農法」を世界農業遺産になるよう働きかけ、実現もした。また、農家にも掛け合って有機農業に対する導入の可能性のお願いや意見などを聞いた。一方では、食の安全の面についての講演を市職員の研修に組み入れて、市職員の理解と機運を高めてきたし、何度も職員とともに勉強会に通って有機給食への道を探ってきた。「オーガニックビレッジ宣言」ももうすぐ実現する。

この2か月くらい、農業関連の本を読んで、農業ではもうからない、のは事実のようだ。
農産品は自然相手で、工業製品と一緒には語れない。大規模化にもリスクが大きい。そして、日本人誰もが毎日必要とする食ゆえに、価格は安く抑えらことを国民みんなが求めてきた。生活にかかわるエッセンシャルなものほど、賃金も安い、とはコロナ禍に露呈したことだが、同じことが第一次産業にも言えるのだ。
昔、市議のとき、砂川議員が「農業はそれなりには暮らせるけど、儲けようと思ったら朝から晩まで、日曜関係なくやらないとだめだ。働きづめなくてもそれなりに儲かる農業があったらと思う。」と語っておられたが、そうなんだなぁ、と今更ながら思う。

労賃が安いアジアにも、大規模化で安い米豪に対しても、日本は普通だったら負けてしまう。
だから、貿易の自由化は限度をわきまえるべきである。また、国内の農産物もそれなりにコストが反映される値段で安定させ、そのうえで、国が所得補償の補助金を当てて、手の届く水準に価格をとどめるべきだろう。
気候変動対策として「みどりの食料システム戦略』は世界に歩調を合わせて決定され、2050年までに農地の25%は有機、と決まった。拙速は巧遅に勝る、とは言ったものだ。先にやるものほどもうかるものだと自分は思う。そして、そういう農業の方が気候変動、地球温暖化などを抑える効力がある。
まずはトライしてみることから、きっと進むべき道は明らかになってくる。

明日を見つめ、今を動く。
未来の子どもたちのために、今の大人がどう動くか、がやはり問われているのだ。







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山下惣一さん関連の本『振り返れば未来』『北の農民 南の農民』『井上ひさしと考える日本の農業』『タマネギ畑で涙して』『身土不二の探求』

2024-08-24 17:33:12 | 本・映画など

山下惣一さんも令和5年に亡くなってしまった。

私も何かのイベントでお話は聞いたことがあると思う。

もっといろんな話を聞いて、質問もしてみたかった。

それにしても、今、米が手に入らないと騒いでいる。

昨年夏の猛暑とインバウンドと、能登地震で買われた影響だというが、

30年前から「農民に減反させて外国から輸入するなんて本末転倒」と

疑義を呈してきた山下さん、井上ひさしさんほかの指摘は

やはり正しかったのだと思う。


そういえば、今朝は松岡正剛さん(編集工学、知の巨人そして角川武蔵野ミュージアム館長)の訃報が新聞に載っていた。

悲しいばかりである。

以下、5冊の備忘録を書いてみる。

・・・・・・・・・

農産物は市場に出ると繊細=工業の目線で語ってはいけない
農業は生産量が1割増えると値段が大暴落し、1割足りなければパニックになる。
山下さんの話では、前年比3%増で値が70%下がったとか。(ミカンの話)

また、当時東北で、缶詰用の桃が、冷夏と長雨で落果がひどく、
品質低下を見越した製造業者が5円/kgといってきた。
生産費を考えると1haあたり200万円の赤字になった。

農業では食えない・・・
山下さんの地域(佐賀県)の農家も、農業では生活できず、父親が農閑期に出稼ぎ(賃稼ぎ)に行かざるを得なかったという。
東北の農家も冬は酒造りや建設や出稼ぎに行っている。
出稼ぎでなければ、兼業農家として しのいでいる。

大規模化は危うい
農業の近代化とは、より大規模に単一で機械化して、儲かる作物を
より多く生産することを目指すのだが、そうすると安くなってしまう。
生産を調整して価格維持しようとしても、

所詮、アメリカの農業や安い労働力の途上国にも太刀打ちできない。
うまくいっても、相手国が補助金で支えて安く輸出(ダンピング)してくれば、かなわない。

大規模化したら、天候不順など何かがあったら、借金が返せなくなり倒産してしまう農家も多い。


そもそも農業は、気温が1度上がっても、雨が少し降らなくても、雹(ひょう)が降っても、霜が降りても・・・今までの苦労が水の泡となる。
そういう点で工業製品と同じ土俵で論じられない・・・。

近代化の裏には、農産物貿易自由化が
昔は大豆5畝、サトイモ五畝(せ)、あずき五畝、ナタネ五畝と少しずつ作ってきた。それを五畝五畝(ごせごせ)百姓と揶揄してきた。昭和36年農業基本法ができ、農業の近代化を目指す。機械化、大規模化、単一化で生産性を上げた。儲かるものを作れ! 選択的拡大だ! と指導された。余った次男、三男は工業に吸収された。工業輸出のいけにえとして農業があった。その先に、農産物貿易の自由化があった。アメリカが輸出する農産物以外をつくる、それが選択的拡大の裏の意味だったのではないか。

近代化以前は日本の食料自給率は73%あった。それから30年後、自給率は42%に(1996)小豆はあずきは28%→7%に、豆類は25%→5%に。そして、2011年には食料自給率は39%、穀物自給率は28%になってしまった。世界人口の2,3%の日本のために、世界の農畜産貿易の1割が対日本、国内のうちの2倍以上1200haの農地が、使われている。そして一方では、減反政策で日本の農地が余っている。これって、なんだ!?

農は成長でなく循環
政治は改革改革というが、日本人のあいさつは、「お変わりありませんか?」である。
不易と流行の不易を地で行くのが農業である。
商家は2代で老舗と呼ぶが、農家は2代では新家でしかない。
農家は移転しない。持続可能を旨とするのだ。

農を経営しようとすると・・・破綻する
儲かる農業とは、儲かる作物を儲かる時期にしか作らない農業。
商品作物に特化しても消費者に飽きられたら終わり。
株式会社化したら、経営が行き詰まったら放棄するか、
もっと大きな外資が来るが、投資家に買収されてしまう。
南米の農業は大規模化したのち、乗っ取られ、破綻した

資本の論理で企業経営に乗り出した養鶏も、外国のえさ、外国の品種と行き詰まり、商社に乗っ取られることが多かった。

農と文化はつながっている
井上ひさしはコメの自由化に反対した。それは、農業を捨て、文化を失うことだから。
日本は稲作、コメを食べる生活が作る文化だ。
ドイツならジャガイモ、スイスなら乳製品、フランスならブドウである。
どの国でも文化直結の農産品は輸入させない。

GATTは輸出国側に都合の良いルールである。
自分の都合で輸出しなくてもよい。補助金を当てて安く輸出してもよい。
自由化しなくてもよい。これらは輸出側の権利である。
さらに、アメリカにはスーパー301条の発動権もある。
1993年、日本はGATT合意をし、2008年時点では、ミニマムアクセス米は年に77万t輸入され、さらにその管理費用が200億円かかっている。TPPでは「例外なき関税撤廃」されようとしている。
余っているのに輸入しなければいけないって何なんだ?!

貿易の自由化は、グローバリズム。アメリカの戦略だ。
戦後の給食に対する小麦(パン)文化の輸入も、一環だ。

なお、麦に比べても、コメは優秀な作物。
コメは1haあたり5tとれるが、麦は3t。
栄養価、バランスも良いが麦はたんぱく質がない。
だから、麦文化は肉食を伴う。
コメは粒のまま食べられるが、麦は粉にするしかない。
そして、コメは連作が効くが麦はダメだ。
水田はダムの働きをし、土を守り、環境を守る。
雨にも負けずでは、一日4合といっていたが、今は1合しか食べない。
年間60キログラム。水田の4割は休耕田か放棄地になり、小麦の自給率も14%、大豆は3%だ。
稲作農家の平均時給は256円である。

目に見えない価値
「農」の生産以外の公益的価値、側面を認め、それに対し直接支払することをデカップリングという。
西欧はそれをする。スイスなどは国境の保全という意味もある。日本も中山間地域への補助が始まった。(2000~)
環境クロスコンプライアンス制度もオーガニックビレッジに対して開始。(2024~)
韓国では有機農業に対して環境の側面も評価して進めている。(親環境農業育成法1998)

日本は農作物を自給自足するには1100万ha必要だが、538万haしかない(1989)。農業は、地元にあってよかったねと地域住民が思うようになるべきだ地域を離れると市民も無関心にならざるを得ない
日本人なら日本で作った農作物で生きることが大切で、そのために、日本の食の伝統を取り戻したい。
最近は遺伝子組み換えイネがモンサント社からつくられ、種もモンサント社、それを使った耕地面積は5年前の30倍に。
(当時)(モンサント社は2018バイエルに買収された)

井上ひさしは「遅れたものが勝ちになる。」主義だと述べる。
15年くらいで価値観は一巡りする、という。
私も「一周遅れのトップランナーっていうけど、そういう流れが来ている」とよく講演会で話してきた

「食」と「農」と「環境」は「不易」でなければならない。
成長ではなく循環でなくてはならない。

農産物の貿易自由化は輸出国輸入国どちらの農業をもだめにする。
輸出国の農業は、大規模化、機械化、化学肥料農薬の使用、水の枯渇などで土がだめになり、
借金がかさんで土地を追われることにもなる。
輸入国にとっては、とってかわられ、農業は成り立たなくなるし、窒素をためることにもなる。
農作物の自由化で、食糧が飢餓国に届く、必要としているところに届くというがそうではない。
そうではなくて、最も高く売れるところに届くだけだ。


規模とコストを問題にするのは農業をつぶすためか?!
アメリカなどは1戸当たり200ha、日本は1haだ。 それでも頑張って、生産量を増やせば価格が下がる。


『タマネギ畑で涙して』は山下さんほかが、タイの農民を訪ねていく紀行文だが、
農業の近代化を通して農民がむさぼられていくのは日本と同じ過程をたどっている。
タイでも近代化がすすめられたが、大規模化、機械化してひとたび天候不順などで失敗すると土地を奪われ、小作になったり、米を作っているのに自分ではコメが食えない、という状況が起きている。利をむさぼるのは、金貸し、機械設備、卸しなどを牛耳る「ミドルマン」だ。(華僑)
タイでも北と南では天候も土も違い、北の貧農は土地を追われ、娘は身売りされ、ということもままある。
(タマネギ畑で涙して)

域産域消 四里四方で
山下さんは、「農業の地域離れ」を何とかしたいと思っている。が、農協の共販システムは、指定地制度につながっていて、それで補助を受けられたりもする。「野菜生産出荷安定法(1066)はトマトやキュウリなどは10ha以上、キャベツやレタス、大根などは25ha以上の生産があれば指定産地となる。しかし、指定産地になると中央卸売市場に半分以上は持っていかなくてはならない。さらに、そのランク付けもあり、地元では出回らなくなっている。
しかし、近年、農業を取り巻く環境が変化してきた。

市場もセリより相対に。消費者も地元志向が強くなってきた。
一方、生産者の取り分は減少傾向だ。今、(1998)生産者の取り分は、ダイコン27%、白菜15%、キュウリ30%、ミカン29%だ。消費者が払っているのは大半が、輸送、包装、卸し費用なのだ。
だから、(それらを省いて)地元の野菜は地元で食べるようにしたい。
自治体ごとに自給率を調べ、露天市を復活利用し、農協とコープの連携例もあるのだから、それも進め、
各自が地元の農を守っていくようにできないか。

農家、あるいは地域が、自給品目、自給率を高め、自ら食べるだけでなく地域の供給し仲間を増やしていく。

これが大切なのだ。商品作物、特産物は、やるならばその土台の上だ。


ある村で起きていることは、日本中で起きている。
日本で起きていることは世界中の村で起きている。
これがグローバリゼーションの特徴だ。
結局、
各自(消費者も農家も)が身の回りの「環境」と「食」と「農」を守っていくしかない。
自分(身)が変われば世の中(土)が変わる。
自分(身)が変わらなければ、世の中(土)は変わらない。
それが身土不二なのだ。(身土不二の探求)


世界の工業国は農業国でもあり、農産品の保護はしっかり譲らない。
核保有国も同じ。つまり、経済も農も食も戦力も整えているのが、
所謂、普通の国なのだ。 藤本の感想
また、輸出する場合、補助金で安くしダンピングしてくることもある。

身土不二とは
身土不二は(しんどふじ)と読むが、仏教では、(しんどふに)と呼ぶ。
明治30年代、陸軍薬剤監をしていた石塚左玄の起こした「食養道運動」
のスローガンとして『身土不二』は唱えられた。自分の住む四里四方でできた旬のものを正しく食べることを目標とする。
人の命を支えているものは食べ物であり、海産物含めてすべて土が育んだものだ。ゆえに、人間は土そのもの。『身土不二』ということだ。

一方、宗教界でも同じ言葉が使われて、こちらは、土を世の中に見立て
人間の在り方が世の姿となる、という意味。『身土不二』は1305年、中国の仏教書『廬山蓮宗寶鑑』の中にでてくる廬山蓮宗の教義の大綱書。廬山蓮宗は中国浄土教であり、紀元400年頃に起こる念仏を唱える仏教。それを善導大師が日本に持ち返り、時代を経て、法然が受け継いで、親鸞へと続く。

身土不二は韓国で盛ん
韓国でも『身土不二』運動が盛ん。こちらはGATTに対抗し、国産を農産物を食べよう、しかも、有機で、という運動。韓国農協中央会の会長ハン・ホソン氏が日本の(有機農業の草分けとして知られている)荷見武敏氏の著書『協同組合地域社会への道(1984)』に感動して始めた。この本には、「土を基盤とする物質循環の理法を尊重し、生態系のバランスを崩さない自然な農法を目指しているのが有機農業の生産者であり・・・『身土不二』の哲学を身に着けており、『土健やかにして食健やか、食健やかにして民健やか』・・・自給率を高め、域産域消を広めていくべき…」という提言が書かれている。
なお、GATTに対抗しているときは、韓国もバブル景気であり、農業へのバッシングが強かったという。農業だけ補助され保護されて胡坐をかいている、という批判である。その後、韓国では、経済が破綻し、輸入飼料、輸入肥料、輸入燃料の高騰で大規模化した農家は借金の返済で首が回らなくなった。それも日本と同じ。
 経済発展の過程で、農業を放棄し、食を失い、金も失った韓国は、外国産農産物を買う金もない。そうしたなか今まで傍流であった自然農業に光が当たり始める。韓国自然農業協会会長の趙漢珪さんに大きな影響を与えたのは3人の日本人でヤマギシズムの山岸己代蔵、『酸素法の本意』の著者、柴田欣志、巨峰を生み出した大井上康の三氏。(ヤマギシズムについては自分は大学生のころ興味があって、本気で三重県に尋ねてみようと考えていた。が、親に止められたことを懐かしく思い出した。自然農業では脱化学農薬、飼料、肥料をはじめ、画一農業から地域農業へ、設備の大規模化、先端化から簡素化へ、小規模多品目の有畜複合農家の育成と近距離産直システムの構築などを目指している
今、ソウル市など大きな都市でも有機給食が実現している背景がそこにあるのだと私もわかった。
なお、身土不二っていうと砂川育雄議員を思い出す。市議だったころ、つまり、2000年頃、砂川さんは身土不二のことを言っていた。

星寛治さん
さいごに、『北の農民 南の農民』における北の人、山形県高畠町で有機農業を提唱し、それを 社会づくりにまで発展させた星寛治さんには会ってみたかった。星さんは早くに有機小農複合自給こそが百姓の基本に立ち返ると唱え、有機産直運動を展開、それを村づくり、文化づくりに昇華させ「高畠町基本構想」において「家々の庭先には家庭菜園があり、新鮮で安全な食べ物を自給できること、田園の中につちかわれた人と人とのつながりによって困難な問題に対し、相互扶助で対応できること・・・」とマチの基本構想の前文に理想像を書かしめた人である。有機農業と産直運動、これを通して人々が話し合い、課題を解決し、つながっていくこと。これが街づくりであり、文化(Culture)が耕されるのだ。耕す=Cultivate←agriculture(農業)

なんと所沢が!
そして、もうひとつ、その偉大な星寛治さんと、先日受けた講座で講義された谷口吉光教授(秋田大学)(急な展開でスミマセン、わたし有機農業の関連の勉強会に参加シテマシテ)のどちらもが、その中で指摘されていた人物、運動が「所沢生活村」白根節子さんの有機産直運動であったのだ! 星さんは白根さんに励まされ、谷口先生は白根山の講演を聞いて、それぞれ有機農業を実践され、研究を始めたのだった!
思い出すのは昨年と一昨年、市内某所で「所沢生活村」なるブースを見つけたときのことだ。
有機農業を推進しているらしいのだが、ブースにいる女性のかたが、生協やコープとちがって、華やかさやオシャレ感が感じられないので、きっと本質的なんだろうけど数人の方の細々とした運動なんだろうと私は勝手に判断していた。
昨年には私も有機給食を採用する覚悟を決めていたので、市の取り組みを滔々とお話ししたのだが、
「所沢生活村」がこの世界でそれほど根源的な存在だったとはつゆ知らなかった。
帰り際に、リンゴを買っていけと言われしぶしぶ買ったが、
あのリンゴは今思うと山形の高畠町、星さんたちの有機リンゴだったに違いない。
なんという失態。石清水八幡宮を訪ねて本尊を拝まなかった、あの仁和寺の法師のようではないか!?

以上長々と羅列したが、備忘録としてご容赦を。

※ また、読んだ本全て今から10年以上前に刊行されたものですから、その後、変わっていることもあることだと思います。私も詳しくないこともあり、お許しを。


山下惣一さんと星寛治さんの書信によるやりとり


井上さんは、コメは文化 自由化に絶対反対を主張した


タイ農民と日本の農民 タイでも同じことが日本以上に起きている


身土不二 私たちと土は一体          人間と世のありようも


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『振り返れば未来』

2024-08-22 14:08:59 | 本・映画など

柳瀬地区の私の後援会役員さんは、篤農家(とくのうか)の方ばかりである。

「ウクライナの戦争があって一気に値上がりするのからもわかるように、食糧輸入と石油に頼るのは危険です。日本は自給率38%、食糧安全保障という意味でも環境保全の意味でも、農業に光を当てて地産地消を進め、自給率も高くし、あわせて有機農法を広げていきたいんです。
国も『みどりの食料戦略システム』を出しました。武蔵野の落ち葉堆肥農法も世界遺産になりました。巨大消費地に一番近い所沢です。今がチャンス。
農業に力を入れていきたいです!」

私がそういうと、その中のTさんが、いつもこういわれるのだ。

農業はやっても損するばかり、他の収入で賄って何とか続けられるだけ。
農業はそういうもんなんだよ。」

また、Kさんもこういうのだった。

農業を支援するより、農家を支援してほしいんだよね。」と。

そんなに農業は農家にとって負の遺産なのか?!

それじゃあ、国なんて もたないじゃないか?! 

農業ではなくて、奉仕じゃないか!(それでも、ご先祖様からの土地を守るために、農作物は作るが、生計は他から得るしかない。)

全ての人間にとって、不可欠な「食」の仕事がそんなことってあるものか!?

それでは亡国のシステムではないか?!・・・

これが私にとって、ずっとひっかかっている疑問であった。


が、農民作家の山下惣一さんの本を読むと、どうもそうらしいのである。

それも、日本だけでなく、どこの世界の農民も、である。(例外もあるが)


山下さんは指摘する。

全農家の平均年収は全産業の1/3しかない。(1990年頃)
(平均を100とすると、500人以上の製造業世帯年収の平均が125、あとは平均以下で100人~499人規模のそれが90,30人~99人規模のそれが74,5人~29人規模のそれが60,農業に至っては3ha以上耕す農家のそれが55,2ha以上だと45なのだそうだ。それは、農業は一軒当たり労働者数は2,5人。他の産業は1,6人での比較である。また、専業農家は農家の15%しかいず、85%が兼業であり、かつ、その内訳は、農外収入中心が70%、農業中心は14%しかないんだそうだ。)

だから、農業は割に合わない。だから、兼業で補うしかないのだ、と。

う~ん、たしかに、

東北の農家は冬に出稼ぎに行く、とはよく聞いていた。

酒蔵の杜氏さんもみなそういう立場だ。

〇〇さん家は専業だからきついよ、とは所沢の農家でよく聞く話である。

そして、必要度が高い職種だからといって、給料が高いわけではない、というのも事実である。(コロナで福祉、介護関係に対し痛感したことである)

逆に、絶対に必要だからこそ、安く抑えられている。

それが、さらに安くを追求されて、成り立たなくなろうとしている。

また、化学の力に頼るしかなくなって、機械化で借金もかさみ、環境も破壊するようになった。

つぶれない農業、を 百姓としてどう見出すか?!

これが、山下さんの課題であった。

山下さんは、最後にこう解を導く。

百姓は定住民。持続を旨とするしかない。
市場経済3:地域経済3:自給経済4ぐらいでちょうどよい。
そもそも、農業は工業と同じ土俵で考えてはいけないもの。

だから、「大規模化せず、有畜小農複合経営で行こう。と。

『振り返れば未来』

それは、土を大切にする農の原点に返ること。

昔から大切にしてきた営み(有畜小農複合)にこそ(持続可能な)未来の姿があった、ということなのであった。

次回は、この際、読んだ山下惣一さんがかかわる4つの本『振り返れば未来』『北の農民 南の農民』『井上ひさしと考える日本の農業』『タマネギ畑で涙して』『身土不二の探求』について、備忘録を書きたい。







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雨月物語 癇癖談(くせものがたり) 上田秋成 を読む

2024-07-20 14:43:40 | 本・映画など

このところ、肉体を使うこと多く、疲労感がある。

指がまた強張んでいる・・・


さて、

内田樹さんが、

聖なるもの、霊性を重んじることに、日本の特色があり、


小説におけるその祖は上田秋成ではないか? 

というようなことを言っておられたので、


新潮古典集成 『雨月物語 癇癖談(くせものがたり)』を読んでみた。


「雨月物語」は哀切、信義、愛欲、怨念、憤怒を含んだ怪異譚、

でも、どのお話も読んだあとに切なさが残る。 


「癇癖談」は、当世の人々を表した随筆とも言うべきか。

雨月物語は、有名な「浅茅が宿」がやはり一番 切なく悲しい。

「蛇性の婬」は蛇の化身に見初められ、とり殺されそうになる話。

逃げても逃げても逃げられない。恐ろしい話だ。


「夢応の鯉魚」は、ある僧が、夢の中で経験したことが、実は現実に起きていたことだった、という話。

夢で、大魚となって遊ぶうちに漁師に釣られてしまい、調理人に殺されそうになったところで目が覚める。覚めて確かめると、今しも現実にそういうことが起きていた。不思議な話。

「菊花の約」は、命を賭してまで約束を重んじた武士の話。

そのほかのお話は、どちらかというとおどろおどろしい恨み、怨念の話か。

「癇癖物語」は、男と女の色話、好色の男、遊女もたくさん登場する。

伊勢物語をまねて、昔をとこありけり、のような感じで書いてあった。


上田秋成は中国・日本の様々な古典を縦横無尽に利用し、下敷きにして、

物語をつくっているのだそうだ。

 「夢応の鯉魚」 まな板の上 すんでのところで魂がのがれるところ 挿絵


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『だからあれほど言ったのに』 内田樹 著

2024-07-13 21:26:59 | 本・映画など


内田樹氏の本。

いつ読んでもそうだそうだと納得する。3点に絞って感想を述べたい。

.日本にある「人口減の今、都市集中で対処するしかない」という言説は、

資本主義ゆえの帰結なんだという。

本当は「一極集中」か「地方分散」か、対処策は二つあるのだけれど、

資本主義は前者しか採用しないのだ、という。


資本主義は、経済の成長を求め、効率的に生産性高く、拡大しようとする。

とすれば、人口が減る局面では、人も物も資源を(都市に)集中させたほうがよい、となってしまうのだ。

日本より人口減のスピードが速い韓国では、すでに人口の45、5%がソウル近郊に集中し、

15ある釜山の大学のうち14の大学で定員割れが起きているという。

内田氏は、都市一極集中を目指す、とはつまり「シンガポール化」を意味するのだ、という。

シンガポールには地方はない。

私たち日本人、

地方が無住地化し、山河が壊れ、国民に帰るべき田園がない未来を、良しとするのか否か、

資本主義の呪縛を離れて我々国民は考えていくときにある、と内田氏は語りかけた。


2.この世ならざる者(霊的な存在など、あちらの世界とこちらの世界を行き来しはし渡すもの)を大切にしてきたのが、日本の在り方なのだと内田氏はいう。

村上春樹の小説もそうであり、江戸時代の上田秋成よりそれを体現してきた。

子どもという存在も、7つまでは神のうち、とみなされ、日本では昔から大事にされてきた。

だから、「学校は、この子どもの持つ危うさ、はかなさ、聖なるイノセントなものをできる限り傷つけずに、

『あちらの世』から『こちらの世』(大人の世界)にそっと送り出してやることだと心得ねばならない。」

と内田氏は言うのだ。

そして、あの世とこの世をはし渡す、この世ならざる者には、古来、こどもの童名がつけられた、という。

酒呑童子然り、牛飼い然り、京童然り、船の名前然り、刀剣の名しかり、

みな「〇〇丸」と「子ども枠」に入っていた。

そういう「こども観」を見失ってはいけないという。

大学生時代、自分もそう感じていたことを読んで思い出した。


3.母語というのは、そこに人が住み言葉が生まれ、そこで起きた諸々のことが蓄積されて成立しているものだ。

日本人ならば、そのアーカイブの表面の上澄みが現代日本語に当たるのだ。

日本人ならばその蓄積が知らずと体にしみこんで体得されている。

「新語」というのは、初めて聞いた人もその意味が感覚で分かってしまう「新しく作られた言葉」のことだが、

だから、「新語」は母語でしか生まれない、のだそうだ。

「やばい~」(とってもいいという意味での)も聞けば大人もなんとなく理解してしまう。


とすれば、タイムマシンで徒然草の時代に我々が行ったとしても、

ひと月もそこで暮らせばネイティブスピーカーのように古語を話せのではないか、と内田氏は言うのであった。

そうなんだなあと首肯した。


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『だめ連の 資本主義より たのしく生きる』を読んで その3

2024-07-10 12:19:25 | 本・映画など


 所沢の若き農業者たち 所沢の夏野菜 旬ですよ (記事とは関係ありません)

学生時代までは
効率や能力を基準にして人と接するわけではない。

しかし、
社会に出ると 仕事は成果とか効率(費用対効果)を求めるので、人間を使える奴使えない奴に分けてしまう。

そして その価値基準がわたしたちの社会を埋め尽くす。

たまたま「使えない奴」「だめな奴」側に入れられた人間が、

「だめ」に思われないようあくせく働く のではなく、

その構造から「いち抜けた!」をして抗議する、
資本主義に与(くみ)しない (楽しくやっている姿を見せつけてやる)

それがだめ連のやり方だ。(ここまでは前回のまとめ)


自分も「だめ連」の気持ちがよくわかる。

自分も、仕事上ではきっと「ダメ」な方にくくられるだろう。

意義とか理由とかにこだわって 納得しないと動かない。

めんどくさいやつ は だめ側だ。 

気持ちがわかる。 だから「あいつ 使えねぇなぁ」なんて言葉は 

自分は一生涯使ったことがない。 (使えと言われても使えねぇ。)

また、

その構図の中で戦っても相手を利するだけだから、そこから降りる、

という手法も、よくわかる

納税行為に競争と損得(損益)を持ち込んだ「ふるさと納税」に抗議するため、その競争から降りた 

のと同じなのだから。(う~ん、正のシンパシーすぎる。)

資本主義には与(くみ)しない。

だから、だめ連の人たちは、お金から離れる。

野菜は自分で育てたり、野草を食べたり、家も友の家に居候したり・・・

お金をかけずに たのしく生きる。

幸せとは何か に焦点を当て、

週に何日か働いて、時間と心にゆとりを持ち、物々交換(贈与)したり、

お金をかけずに遊んで生きる。

遊ぶことは幸せなんだ。

そして、その遊びとは、

1.交流・トーク(みんなで路上や人の家に集まってだべる、議論する)
2.歌う・踊る(どんな国の人も歌い踊ると楽しいらしい)
3.自然の中で遊ぶ(ハイキング、キャンプ、川あそびなど)
4.旅と合宿

なのである。

それらは考えてみれば、若い頃のノリであった。
(お金がなかった時代の)


そして、僕は、本文中の神長氏の言葉にハッとする

「今は遊びも消費になってる。飼いならされてる。踊らされている。

梁塵秘抄にもあったでしょ、
『遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声きけば 我が身さへこそ揺るがるれ』 って。」

まったくその通りだ

お金がなくては遊びもできない。いや、できないと思い込んでいる。
(でも実際、お金がないと居場所までなくなってしまう現代ではある。)

この考え方も、自分が施政方針演説などでよく訴えていたこと
「現代はどこに行ってもプライベートな空間ばかりとなりお金がなくては居場所もない、そうではなくて、広場のような誰にでも開かれたパブリックな場、コモンズともいえる空間が必要だ」
会議録表示 (kaigiroku.net)
に通ずるのだ。

あまりにも共感しすぎて、そこで、その本で紹介されていた「なんとかBAR」に行ったりしてみたのが、二十日ほど前、それも金をかけずに。
なんとかBAR にシェアサイクル使って あわせて作文教室? - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき (goo.ne.jp)

そうだ! もう一度行こう! 遇(あ)って交流してみよう。 

そして、そののち 僕らの「あかね」にも行ってみよう。

だめ連に共感し、だめ連に励まされた  そんな読書体験となりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下は備忘録として

・寺山修司の言葉
「街は開かれた書物である。書くべき余白は無限にある。」

「別れは必然だが。出会いは偶然である。」


・消費とは労働なんだよ!
楽しいとき=消費しているときってなっちゃっていないか?(神長氏の言葉)

・今はさらに、承認問題というものがある。(承認中毒)
原発デモの場でも、ツイッターの中で誰と誰が口論してるみたいな話題になってしまう。どんなに楽しい時間でもどうアップしてどうコメントするかとまず先に考える。普通に感動したり深く味わう瞬間が消える。(神長氏の言葉)

・ツールとして便利に使いこなせばよい、と思っているが、そんな甘いもんじゃない。お金を便利に使いこなせていますか?!
使いこなすってできない、武器だってお金だって。
それはただ飲み込まれるだけだよ。(ぺぺ長谷川氏の言葉)

これも「なんとかリテラシー」と言っては、経済界に有利なように話を展開する現代だが、僕はそんなうまくはいかないと思っている。ペペ長谷川氏の言うとおりだ!


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『だめ連の 資本主義より たのしく生きる』その2

2024-07-09 16:27:07 | 本・映画など

負のシンパシーをもって挑んだこの本であったが、

自分には なんとも腑に落ちる中身であった。



この本は、「だめ連」神長恒一氏とペペ長谷川氏による対話をもって編まれている。

2人は、今の資本主義の世をこのように断じる。

資本主義は、経済というより統治のシステムである。

 仕事を通じて人間を競争させ、比較させ、

 「勝ち組」「負け組」

 などと分類し、

 だめなやつとは思われたくない(ダメなやつプレッシャー)によって

 さらに労働、そして、消費、ゆえにまた労働へ、

 と人を永遠に逃れられない不幸の循環の輪に閉じ込めていく。

 そういう統治のシステムなのだ、と。

そして、

・今日普通に受け入れている「自己責任」「能力主義」「生産性」「費用対効果」

 などの考え方も

 人をこのシステム下にとどめるための思考に過ぎない。

・大きいことはいいことだ、強いことはいいことだ、
 早いことはいいことだ、多いことはいいことだ・・・、

 本当にそうか!?

 人間の生き方、人間の価値はそれに尽きるのか?!  と。

そして、訴えるのだ。

・否!  そういう価値観から半歩降りて、

 第三の(オルタナティブな)生き方をしようじゃない


だめ に開き直って、 

だめ をポジティブに生きる 
というアナーキズムこそが

「だめ連」が目指し実践する生き方なのだ、と。

・・・・ここまでが本に書いてあったことのまとめ1・・・・

さて、

本当にその通りだと僕も思った。

1日中汗水たらして働く人より、マネーを右から左へ動かす投資家の方が何百倍も稼ぐことができる。

汗水たらして働いても、非正規等だとゆとりある生活はけっしてできない。

っておかしいじゃないか、と思ってきたからだ。

また、

1日8時間×週5日、労働するのが本当に普通なのか?
(たぶん江戸時代なんかは、人はそんなに働いていないと思う)

マルクスもケインズも、労働時間が少ない社会を目指したのではなかったか?

生産性をいくら上げても労働時間は減ることなく、さらに生産性向上に駆り立てられ人間性が疎外されるって約束違反ではないか!?

会社は人間のために、経済は人間のためにあるのではなかったのか?!


と、僕もずっと感じてきたからだ。  (つづく)


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だめ連の 資本主義より楽しく生きる その1

2024-07-08 09:50:33 | 本・映画など

『だめ連の 資本主義よりたのしく生きる』を読んだ。

この春 新聞紙評に紹介され、図書館で注文し、八潮図書館から富岡分館経由で読むことができた。



「だめ連 って人たちが占拠しちゃって、今はしょうがないんだよ~」

大学を卒業して数年の1990年頃 正実さんがぼそっと言ったのを僕は今でも覚えていた。

「今、早稲田の「あかね」は誰(バイト)がやってるんですか?」

と聞いたときの、正実さんの反応である。



「あかね」とは文学部正門前の喫茶店で、

学生時代、僕は「あかね」にたまる学生たちが作った軟式野球同好会「アカネッツ」に属していた。

僕らはもちろん、学校よりも長い時間を「あかね」で過ごした。

その日々は、汗と涙と練習と、議論と酒と失敗と、

そして振り返れば、友情と希望に満ち溢れていた。(テニスサークルではないので、愛はなかった)

正実さんはその「あかね」のマスターであり、その正実さんが、言ったのだ。

「だめ連 って人たちが占拠しちゃって、今はしょうがないんだよ~」


学生運動(たぶん中核派)もしていた闘士の正実さんなのに、何だこの歯切れの悪さは?

不可解ながらもそのままに、

それから30年以上の月日がたった。



「だめ連」に負のシンパシー(マイナスの共感=反感)をもっていた僕は、新聞紙評を読んで決意した。

『だめ連の 資本主義よりたのしく生きる』 

呆れた本だ。  読まねばならぬ。 (つづく)


いまの「あかね」
だめ連が占拠したのち、今はイベントスペース兼バーとして存在しているらしい。

あかねの字は、昔とは「ね」の字が違う 黒猫の絵もなくなっている



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バジュランギおじさんと、小さな迷子 を観る

2024-05-21 20:04:15 | 本・映画など


なんか、すごくいい映画でしたねぇ。

帰りのエレベーターで一緒になった人に思わず話しかけた。

そうですねぇ〜、ほんとに~。 

相手からも間髪入れず返ってくる。

誰かと共有せねばいられない、そこはかとなき感動の映画だった。

以下 映画の紹介文から転記)

底抜け正直者のインド青年と、声をなくしたパキスタンの迷子。ふたりの旅が、世界にステキな奇跡を巻き起こす!

カビール・カーン監督が贈る、正直者のインド青年と、声をなくしたパキスタンの迷子が織りなす国や宗教を超えた感動の物語。主演は『タイガー 伝説のスパイ』でも監督とタッグを組んだサルマン・カーン。パキスタンの小さな村に住む女の子シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は声が出せない障害を持っている。彼女を心配した母はインドのイスラム寺院へ願掛けに連れて行くが、シャヒーダーは帰り道で一人インドに取り残されてしまう。そんなシャヒーダーが出会ったのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神の熱烈な信者のパワン(サルマン・カーン)。バカ正直で、お人好しなパワンは、これも、ハヌマーンの思し召しと、母親とはぐれたシャヒーダーを預かることにしたが、ある日、彼女がパキスタンのイスラム教徒と分かって驚愕する。歴史、宗教、経済など様々な部分で激しく対立するインドとパキスタン。それでもパスポートもビザもなしに、国境を越えてシャヒーダーを家に送り届けることを決意したパワンの旅が始まる......。


久々にばか正直でお人善しの主人公に出会った。

数々の壁にぶち当たっても、その正直さと善人さが、周囲を感化し、変容させていく。

社会が善くなっていく。



こんな人になりたい! と自分は若い頃からずっと思ってきたのだった。

そして、教師になってからも、生徒たちにそう語ってきたのでもあった。

「お人善したれ! できることなら実力あるお人善しに。」と。


自分の青春時代からの思いを思い出させてくれる感動の作品に逢って、

もう一度その願いを実践できるよう生きていこう、と誓ったのでありました。


 インド映画ゆえ、笑いあり踊りあり。でも、ラストシーンは泣けますよ~


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映画 『リトル エッラ』

2024-05-07 19:02:14 | 本・映画など

身体中の筋肉が痛い。体も重い。

今日はあいにく雨なので、晴耕雨読、

何か良いことをと献血して、映画を観た。

『リトル エッラ』

なんと可愛く、なんと心地よい映画なんだろう。

子どもも大人も気持ちはみんな同じなんだな。

ただ表現の仕方が異なるだけだ。

主人公のエッラは子どもだから、

映画に出てくる場面も人物もそれほど多くない。

2時間しない作品だけど、観てよかった!

 

映画館を出ると、

いつのまにか雨もやみ、空も晴れやか

世界が新鮮に見えた。

なお、エッラの好きなトミー役の人が、

おおはら村整骨鍼灸院の原先生に見えてしまうのは、わたしだけではないと思う。

さあ、あしたもがんばろう。

 


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『環境と文明』湯浅赳男 著 を読む 早稲田の佐土原先生に勧められた本

2024-05-01 19:39:04 | 本・映画など

やっと読むことができた。 今から30年前、早稲田大学教授の佐土原先生が、勧めてくださった本

『環境と文明 (湯浅赳男 著)』である。

佐土原先生の生物の授業はとても楽しかった。4年間で2回もとった、気がする。(単位を落としたという意味ではなく)

それから10年たった平成7年、市議会に出馬するにあたり私は先生にごあいさつに伺った。

その時、先生は森林の重要性を語られ、それは草や芝生ではだめで、森林でなくてはいけない、と力説されたのだった。

そして、文明はみな森林(環境)破壊によって自滅していったことを教えてくださった。

約30年前ゆえ、環境とりわけ森林の重要性などピンとこなかった私だが、今ならわかる。

あの頃から問題は提起され、訴えられていたのだ!

1993年発行の『環境と文明(湯浅赳男 著)』 は、

文明の繁栄と崩壊への法則 を説いた本だった。

人間の数は、食糧の量に規定される。

文明が栄えれば人口は増え、足りなければ、移動するか、他人から奪うか(侵略・植民地)、生産力を上げるしかない。

それができなければ、人口は減少し、文明は滅んでいく。


その昔、食が安定したいくつかの地では、ため池や灌漑で水を制御し、三圃制農法などで地力維持に努め、

都市には上下水を備え、必要に応じ他地域から資源も調達し、より多くの人間が養われ文明が栄えた。

しかし、農地や牧草地は管理がうまくいかないと土の塩化表土の流出を起こし、最後は土地が砂漠化してしまう。

土地が荒れたり足りなくなれば、森林を開墾して、農地と放牧地にし、また、燃料や素材に使う木材を求めた。

が、いつしか森林は伐採しつくされ、土地は不毛の地となった。

そうやって、環境を食いつぶし、人間も文明も滅んでいった。

時に起こる干ばつや大雨、低温などの気候不順や疫病がそれに手を貸した。

これがすべての文明に共通する崩壊への道筋である。 

そういう道筋が示されていたのだった。



私はそこで思う。

日本は日本人を養うだけの農地を持っていない。農業は割に合わないといわれ、農家も農地も減りつづけている。

輸出入ができなくなったら、日本文明も崩壊だ。

森林も法律では規制は弱く、最近は用途が決まらないうち不動産業者に伐採されて、利用者募集の看板が立つ。

自然や環境は破壊したら、元には容易に戻らない。

日本を食えない国に追いやっていくこの風潮、農地と森林減少を前に、出生率が下がり人口減少するのは、自然の摂理なのかとも感じてしまう。(出生率が一番低い都道府県が東京であるのも当然だ。)

東京を養うのに一番の場所は、所沢である。

所沢市民を養う最後の砦も所沢の農家である、と。

さて、

以下は私の印象に残ったり、感じたことの列挙です。赤字は自分の感想

・文明の成熟から崩壊までのパターンも、人間(人口)と食糧、資源の過不足関係、それに、気候変動と疫病の関与が
    あって、環境が破壊されることで文明も滅びるというパターンで決まっている。

・それは、・オリエント文明(エジプト文明とメソポタミア文明)・グレコ ローマ文明(ポリス国家からローマ帝国
 まで)・中国文明(黄河文明から)・イスラム文明・ヨーロッパ文明(ローマ帝国滅亡後から16世紀ころ)に共通し
 た滅亡への道筋である。

・人間の数も文明も、食料の供給によって規定され、食糧の供給は環境に規定される、ということである。

・逆から見れば、農耕が持続できるよう、人間の数も調整される面もある、ということ。食べ物以上に人は増えない。

・中国文明は、黄河流域から漢族の南へ南へと移動の歴史。治水こそ権力の証。黄河は10年に1度氾濫するが、
   水害と干害の繰り返しがあり、それが政治的サイクルを呼び起こす。
 戦乱(人口減)⇒政権確立で租税軽減、治水灌漑、税制安定(人口増加)⇒皇帝が奢侈に走って対外戦争、増税、
 治水荒廃⇒不満がたまってその後反乱がおき、王朝が倒れ(人口減)⇒新たな政権・・・の繰り返し。
 政治はいつでも減税し人々から歓心を得て、油断して増税せざるを得なくなって、反乱されて滅びるパターンか!

・中世西ヨーロッパ文明は、グレコ ローマ文明由来ではなく、むしろ西アジア、イスラム文明由来。
 森林が多くあったので自然は克服できるもの、という価値観を持つ。拡大の尖兵役は修道院が果たした。

・中世西ヨーロッパ文明は11世紀から人口爆発を起こしたが、13世紀には気候が寒冷化し、
 14、15世紀には伝染病、戦争、社会混乱で人口減少した。死亡率の増加はもちろん、婚姻率と出生率が低下した。
    15歳~44歳の女性の2/5~3/5が結婚しなかった。
    この自己抑制が効いた。人口減で農地が余裕出来、農業が優位になった。
(気候不順が社会混乱、疫病、そして、人口抑制を招くのなら、今もまさにその時なのかも!?)

・人口の推移は 1300年 7300万人から 1400年 4500万人と減少し、1500年 6400万人そして 1650年 1億人と急上昇した。

・近代文明は西ヨーロッパ文明(16世紀~21世紀)であり 国民国家と資本主義 そして 貨幣の追求という特徴を
    持つ。その主役は16世紀ポルトガル、17世紀オランダ、18~19世紀イギリス、20世紀アメリカと変化する。
 森林が豊富だった点で特異であり、かつ、世界を股にかけて調達する征服と植民地の時代であった。

・人間は食べる(生きる)ために移動し、侵略し、植民地を設けてきた。 
 一気に加速したのは、16世紀の西ヨーロッパ発の近代文明であり、貨幣への追求欲も加わって、
 プランテーションは作られ、労働力として奴隷が貿易された。

 ポルトガル、スペインの時代に大きな船と銃でスペインはアステカ、インカの国を滅ぼしボリビアで銀を採掘し、
 ポルトガルはアフリカ西部ギニアの金山を取ってから東海岸、インド、日本まで交易し、
 オランダはバルト海貿易からブラジル、ハイチ、キューバに砂糖プランテーションをつくり最後は不毛の地に変え、
 イギリスは世界の工場として世界各国を植民地化して材料を求めた。綿花(インドとエジプト)
 米(ミャンマー・タイな ど)砂糖。綿花・小麦(アメリカ・アルゼンチン、ウクライナ)茶(セイロン)ゴム(スマト
 ラ・ブラジル)肉(アメリカ・オーストラリア・アルゼンチン)コーヒー(ブラジル)パームオイル(西アフリカ)

・この流れを見れば、日本だけ非難されヨーロッパ諸国が批判されないのが思議でならなくなる。
 最後に負けた国は弱い。ルール(価値観)を決
める国は強い。今も西洋文明の価値観が世界に広がる過程である。
 日本は馴化されながら違和感を持ち、イスラムは真正面から抵抗し、中国は適当に流し、ロシアが対抗している。

・文明すら定期的に滅亡する。ならば、現在の西洋文明のもつ価値観もすでに500年経過。終わりが来てもよいのかも。

・近代文明下では、格差は拡大中。1935年、植民地時代、フォード1台はコーヒー袋20袋相当だったが、
   独立後の1959年、200袋でも
買えなくなった。

・道路も森林の破壊に手を貸す。10%の森林伐採で35%の森林が減ってしまう。

・熱帯雨林について、当時は毎年1700万haの森林が消滅、600ha万が砂漠化していた。

・アメリカ型農業は、トラクターとコンバインの導入で、1830年、50ブッシェルの小麦生産を犂と鎌で144時間費やしたの
 を1930年には8,25時間 で耕してしまうようになった。

・近代文明は、エネルギーが自然に制約されない点で特徴づけられる。すなわち、今までは太陽光由来のエネルギー
(木、人、牛馬)であり限界があったが、化石燃料(石炭、石油)へと移った点である。
そして、産業革命期以降の
   人口、エネルギー消費量、すべてを一気に急騰させたのである。

・著者は エネルギーの化石燃料(石炭・石油)への転換で電気、化学肥料と農薬、除草剤、機械化、鉄道、自動車、
 大規模生産、効率化、農業人口の工業界へ移動、航空機など輸送力の発展を挙げ、一方ではそれに伴う土壌侵食、
 土壌劣化、毒の蓄積、地下水枯渇、温暖化、酸性雨、光化学スモッグ、フロンガスなどの排出、そして、格差の拡大
 など弊害にも言及し、このまま人口が増えてはいけない、インドや中国など子供を生活と老後のために産むきらいがある
 が、西洋のように自己抑制しなければいけない、と警告していた。
 また、エイズの存在にも留意していた。中世期のペストのように人類の超過人口を抑える役目を果たすのではないかと
 心配していた。

30年前の著書であるから、記述されている数字についても、その後、世界もうまく対処しているものもあり、予言通り進んでしっまているものもある。思い出せば、30年前、その当時は、ワールドウォッチ研究所のレスターブラウン博士も人口拡大を懸念していた。もし、中国人がアメリカ人と同じ生活をしたら・・・と。
しかし、全体の流れは予測通りに進んでいる。人口拡大とグローバルサウスの人々もそれなりに豊かな生活を求めるのは当然だ。日本国内に限定してもパソコン等の普及で電気使用量も1985年頃に比べ倍に増えてしまっているとも聞いたことがある。
 今の日本はあえて「経済を起こして豊かな日本を維持するために、人口減少を食い止める」ことばかり言われるようになっているが、世界全体、人類の課題としてみれば、人口拡大と環境破壊こそ今考えるべき課題なのであった。

 




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