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5月4日から6日まで 熊本に行ってまいりました。
4月14日、自分が市長になって初めての後援会主催市政報告会。
自分が市長を志した原点は、大震災と原発事故であった、と言って報告会をした、その直後に熊本の地震は起こりました。
だから、そのままではいけない、と思っていたのです。
3日の行事をこなしたあと、4日から休みをいただき熊本に直行しました。
益城町、西原村、熊本市と訪ねましたが、ボランティア活動は熊本市内で行いました。
崩壊している家もあれば、全く大丈夫な家もあり、古いお宅が比較的被害が大きく、
益城町や西原村では、地域によって大変な地域が集中していました。(一方で、家自体は大丈夫なお宅もたくさんありました。)
4日、
新宿を前日の夜9時に発った夜行バスで博多へ4日の昼12時到着。レンタカーを借りて熊本県益城町、西原村へ。西原村へ着いたのは午後4時頃か?
村の道は、ボランティア関係の車で渋滞し、街道沿いの家々は古い家ほど完全に倒壊というか、潰されていました。
西原村役場にて知人にお会いしました。
実家は大丈夫だったのだけど、益城町のご親戚の家々は倒壊してしまい、ご実家に寄り合って、今過ごしている、と伺いました。
その方のご親戚の西原村職員にも会わせていただきました。
やはり、被害はひどいのでした。 また、埼玉県から派遣されている職員にも遭遇しました。
ボランティアの受付は、朝9時ころから始まり、援助を求む人と援助する人を結びあわせて(マッチング作業)、それで出発です。
既に5時半すぎなので、その日はようやく取れた福岡県大牟田市にある宿泊施設に3時間かけて戻りました。
そこでも、観光客に混じって、多くの救援隊(和歌山市、北九州市、東京都の水道部から派遣された100名以上の職員)がおりました。
5日、
同行の1人が仕事の関係上、熊本を発って5日中には所沢に帰らなければいけないので、活動地を熊本市に決め、
朝7時半には、ボランティアが集まる辛島公園に到着。9時からの受付を列を作って待ちました。
(西原村だと熊本駅まで1時間半くらいかかる。作業終了が3時すぎなので電車に間に合わない。)
9時時点で、もう1000人位の長蛇の列。私たちは200番目くらいでしょうか?
(辛島公園から9時になると移動開始。 受付まで地下の通路を経由して向かう。)
(受付前に、ボランティアとして身元を書く。また、名前、携帯番号を2枚の付箋紙にそれぞれ記入。
その付箋紙は2枚のA4版のニーズ(派遣要請)票にそれぞれ貼って、1枚は本部保管用、もう1枚は派遣者が避難者宅についたときそれを示す。)
(そのあとは適当な集団にまとめられ、注意事項を聞く。
「○○地区、家の中清掃して欲しいというニーズ、要請者の住所、氏名。男性1人女性2人を希望」
など書かれた票に従い、それに合った人々やグループがチームを組まされ派遣される。 派遣を待っている人々。)
10時半、やっと行く先が決まり、レンタカーにて市内北区のお宅に伺いました。ご夫婦ふたり住まいのお宅では、地震でずれてしまった茶ダンスや洋服タンスをもとの位置に戻すことをいたしました。 1時間少しの作業で終了。
そこで、辛島公園に戻って本部に報告をしたあと、そのまま、次の求めが来るのを待ちました。待つこと1時間、午後1時半ころ、求めが出ましたので、今度は中央区のお宅に向けて出発しました。
そこでは、倒れてしまった洋服ダンスを元の位置に戻す作業を行いました。 作業は1時間もかからず終了。
感謝していただきながらも、辛島公園に帰る道みち、あまりに軽易な作業ですんでしまったので申し訳ない気分になりました。
というのも、私も、同行のIさん親子も、東日本大震災時に石巻で活動した記憶があるので、それに比べてしまうのです。
「これでいいんだろうか?」
そう言葉を発したところ、もうひとりの同行者Aさんが、
「もしかしたら、今回の依頼は、普段でも同じことが言えたのかもしれませんね。」 そう返してきました。
つまり、ご高齢のお家族は、人手さえあれば・・・とか若い者が家にいれば・・・ということが普段から実はあるのだが、諦めて生活しているのではないか、という発見でした。
腑に落ちました。
だから、今回は震災をきっかけにご縁をいただき、私たちとそのお宅が結ばれた、と感謝すればよいし、私たちからすれば、普段からそういう御家族や市民はいないか、気にしていかなければいけないのだよ、と今回被災されたご家族から教えていただいたのかもしれないのでした。
辛島公園に戻り、ボランティア受付広場に戻ると、「おつかれさまでしたぁ~」と、これまた、全国から集まるボランティアたちを差配する役目のボランティアさん達(多くは熊本の学生さん立ち、女の子が多い)が声をかけてくれます。市電やバスで移動した他のボランティアのチームもそこそこ帰ってきました。皆、さわやかな顔をして帰ってきます。その日に即席に作られたチームですが、作業を通して仲間になり、同志になったのだと思います。
そんな人々の姿を見ていると、今回はご縁を頂いたご家族の一日も早くお元気にもとの状況になられることをひたすらお祈りすることだ、そして、ご縁に感謝することだ、と思いました。また、ボランティア会場の運営を注意して見させていただきました。
その日は、熊本市内に宿が取れ、泊まりました。
熊本市内の繁華街も、壁が崩れたり、未だ休業中のお店がある一方、大方は以前どおり、元気に再開して、観光客や地元の若者で、昼も夜も溢れておりました。新宿歌舞伎町のよう、といえば語弊がありますが、夜11台のプロペ通りくらいの雰囲気はありました。
BARに寄って、店主のお兄さんに聞くと、
まさか地震が来るとは思わなかった。1回目の揺れでは、棚に並べた全てのボトルが落ちて、床が酒とガラスでめちゃくちゃになった。 なんとか片付け、翌日の営業に備えたが、翌日も地震が来た。また、すべての瓶が崩れ落ちて、停電になり、お客さんとすぐ外に避難した。それから、水道も出ず、1週間は休業するしかなかった。市内は今、やっともとの元気を取り戻しつつある。お客さん、来てくれてありがとうございます。
そうか、自分が見ているのは、1週間耐えて、その間に皆が必死に復活して、そのあとの姿なのだ。店によっては、まだ休業中のお店もある。立ち入り禁止の建物もある。そうした中にたまたま入っていた店舗はもう死活問題だろう。地震で倒産したお茶やさん(茶商)もあった、と所沢の茶業の方が言っていたそうだ。今日伺ったお宅も、どうしても元に戻せない最後の最後のタンスであったのだ。時の経過に敏感でなければならない。
(これは被災直後の熊本市繁華街のビルの写真。5月でも壁が剥がれた古いビルは確かにたくさんあった。)
そう気がつくと、被害が少なく既に活動を開始した人々の元気な姿にエールを送らねばいけないし、大変な被害を受けた方々には、しっかりと支援の継続が行われなければいけないのだ、と感じられました。 被害は個別的なものとして存在するのでしだ。
また、今回は避難所に行っていないので、被害が深刻な方々の声や雰囲気を自分が比較的感じずに滞在したということなのかもしれません。
(再開できるところから再開して元気になっていく。 がんばろう! 熊本。)
6日、
雨のため、予定していた西原村は早めにボランティア受付なしの決定を下していました。 前日から予報で「あすは大雨。雷も。」と言われてしまい、もうだめだと活動を諦めて、5日の夜に(1人で)飲んで、遅く起きたら、なんと小降りであり、熊本市内のボランティアは200名限定で受け付けたそうでしたが、それには間に合いませんでした。西原村は「活動なし」とやはり電話確認しても言われてしまいました。
地震から3週間あまり、これからは家が倒壊したり、避難所生活の方々の支援に絞られてくるでしょう。
そうした時、公務員の出番なのかもしれません。
村や町では水道の復旧も待たれます。
近くお自治体が駆けつけるのが一番だと思いますが、所沢市も現在30名以上の職員が派遣に応ずる手を挙げています。
職員派遣は全国市長会が差配しておりますが、その求めに従って、対応してまいります。 (5月7日記す)
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