内田樹氏の本。
いつ読んでもそうだそうだと納得する。3点に絞って感想を述べたい。
1.日本にある「人口減の今、都市集中で対処するしかない」という言説は、
資本主義ゆえの帰結なんだという。
本当は「一極集中」か「地方分散」か、対処策は二つあるのだけれど、
資本主義は前者しか採用しないのだ、という。
資本主義は、経済の成長を求め、効率的に生産性高く、拡大しようとする。
とすれば、人口が減る局面では、人も物も資源を(都市に)集中させたほうがよい、となってしまうのだ。
日本より人口減のスピードが速い韓国では、すでに人口の45、5%がソウル近郊に集中し、
15ある釜山の大学のうち14の大学で定員割れが起きているという。
内田氏は、都市一極集中を目指す、とはつまり「シンガポール化」を意味するのだ、という。
シンガポールには地方はない。
私たち日本人、
地方が無住地化し、山河が壊れ、国民に帰るべき田園がない未来を、良しとするのか否か、
資本主義の呪縛を離れて我々国民は考えていくときにある、と内田氏は語りかけた。
2.この世ならざる者(霊的な存在など、あちらの世界とこちらの世界を行き来しはし渡すもの)を大切にしてきたのが、日本の在り方なのだと内田氏はいう。
村上春樹の小説もそうであり、江戸時代の上田秋成よりそれを体現してきた。
子どもという存在も、7つまでは神のうち、とみなされ、日本では昔から大事にされてきた。
だから、「学校は、この子どもの持つ危うさ、はかなさ、聖なるイノセントなものをできる限り傷つけずに、
『あちらの世』から『こちらの世』(大人の世界)にそっと送り出してやることだと心得ねばならない。」
と内田氏は言うのだ。
そして、あの世とこの世をはし渡す、この世ならざる者には、古来、こどもの童名がつけられた、という。
酒呑童子然り、牛飼い然り、京童然り、船の名前然り、刀剣の名しかり、
みな「〇〇丸」と「子ども枠」に入っていた。
そういう「こども観」を見失ってはいけないという。
大学生時代、自分もそう感じていたことを読んで思い出した。
3.母語というのは、そこに人が住み言葉が生まれ、そこで起きた諸々のことが蓄積されて成立しているものだ。
日本人ならば、そのアーカイブの表面の上澄みが現代日本語に当たるのだ。
日本人ならばその蓄積が知らずと体にしみこんで体得されている。
「新語」というのは、初めて聞いた人もその意味が感覚で分かってしまう「新しく作られた言葉」のことだが、
だから、「新語」は母語でしか生まれない、のだそうだ。
「やばい~」(とってもいいという意味での)も聞けば大人もなんとなく理解してしまう。
とすれば、タイムマシンで徒然草の時代に我々が行ったとしても、
ひと月もそこで暮らせばネイティブスピーカーのように古語を話せのではないか、と内田氏は言うのであった。
そうなんだなあと首肯した。