所沢の若き農業者たち 所沢の夏野菜 旬ですよ (記事とは関係ありません)
学生時代までは、効率や能力を基準にして人と接するわけではない。
しかし、
社会に出ると 仕事は成果とか効率(費用対効果)を求めるので、人間を「使える奴」と「使えない奴」に分けてしまう。
そして その価値基準がわたしたちの社会を埋め尽くす。
たまたま「使えない奴」「だめな奴」側に入れられた人間が、
「だめ」に思われないようあくせく働く のではなく、
その構造から「いち抜けた!」をして抗議する、
資本主義に与(くみ)しない (楽しくやっている姿を見せつけてやる)
それがだめ連のやり方だ。(ここまでは前回のまとめ)
自分も「だめ連」の気持ちがよくわかる。
自分も、仕事上ではきっと「ダメ」な方にくくられるだろう。
意義とか理由とかにこだわって 納得しないと動かない。
めんどくさいやつ は だめ側だ。
気持ちがわかる。 だから「あいつ 使えねぇなぁ」なんて言葉は
自分は一生涯使ったことがない。 (使えと言われても使えねぇ。)
また、
その構図の中で戦っても相手を利するだけだから、そこから降りる、
という手法も、よくわかる。
納税行為に競争と損得(損益)を持ち込んだ「ふるさと納税」に抗議するため、その競争から降りた
のと同じなのだから。(う~ん、正のシンパシーすぎる。)
資本主義には与(くみ)しない。
だから、だめ連の人たちは、お金から離れる。
野菜は自分で育てたり、野草を食べたり、家も友の家に居候したり・・・
お金をかけずに たのしく生きる。
幸せとは何か に焦点を当て、
週に何日か働いて、時間と心にゆとりを持ち、物々交換(贈与)したり、
お金をかけずに遊んで生きる。
遊ぶことは幸せなんだ。
そして、その遊びとは、
1.交流・トーク(みんなで路上や人の家に集まってだべる、議論する)
2.歌う・踊る(どんな国の人も歌い踊ると楽しいらしい)
3.自然の中で遊ぶ(ハイキング、キャンプ、川あそびなど)
4.旅と合宿
なのである。
それらは考えてみれば、若い頃のノリであった。
(お金がなかった時代の)
そして、僕は、本文中の神長氏の言葉にハッとする。
「今は遊びも消費になってる。飼いならされてる。踊らされている。
梁塵秘抄にもあったでしょ、
『遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声きけば 我が身さへこそ揺るがるれ』 って。」
まったくその通りだ。
お金がなくては遊びもできない。いや、できないと思い込んでいる。
(でも実際、お金がないと居場所までなくなってしまう現代ではある。)
この考え方も、自分が施政方針演説などでよく訴えていたこと
「現代はどこに行ってもプライベートな空間ばかりとなりお金がなくては居場所もない、そうではなくて、広場のような誰にでも開かれたパブリックな場、コモンズともいえる空間が必要だ」
会議録表示 (kaigiroku.net)
に通ずるのだ。
あまりにも共感しすぎて、そこで、その本で紹介されていた「なんとかBAR」に行ったりしてみたのが、二十日ほど前、それも金をかけずに。
なんとかBAR にシェアサイクル使って あわせて作文教室? - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき (goo.ne.jp)
そうだ! もう一度行こう! 遇(あ)って交流してみよう。
そして、そののち 僕らの「あかね」にも行ってみよう。
だめ連に共感し、だめ連に励まされた そんな読書体験となりました。
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以下は備忘録として
・寺山修司の言葉
「街は開かれた書物である。書くべき余白は無限にある。」
「別れは必然だが。出会いは偶然である。」
・消費とは労働なんだよ!
楽しいとき=消費しているときってなっちゃっていないか?(神長氏の言葉)
・今はさらに、承認問題というものがある。(承認中毒)
原発デモの場でも、ツイッターの中で誰と誰が口論してるみたいな話題になってしまう。どんなに楽しい時間でもどうアップしてどうコメントするかとまず先に考える。普通に感動したり深く味わう瞬間が消える。(神長氏の言葉)
・ツールとして便利に使いこなせばよい、と思っているが、そんな甘いもんじゃない。お金を便利に使いこなせていますか?!
使いこなすってできない、武器だってお金だって。
それはただ飲み込まれるだけだよ。(ぺぺ長谷川氏の言葉)
これも「なんとかリテラシー」と言っては、経済界に有利なように話を展開する現代だが、僕はそんなうまくはいかないと思っている。ペペ長谷川氏の言うとおりだ!