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ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき

活動日記ほど堅くなく、日々の思いをつぶやきます

『エコロジカル デモクラシー』を読んで その2

2024-04-19 08:24:31 | 本・映画など


 地域にとっての 神聖さ 特別さ  糀谷八幡湿地保存会 田んぼの稲刈り 
備忘録として 


以下は
著書の中で具体的に記しておきたいもの(自分勝手なピックアップ)

・社交(交流=人が人と出逢う)が生まれるデザインを配置せよ。
 社交が生まれる空間は内部への志向性と円形の特徴を持つ。
 ベンチを並行しても、そこからは何も生まれない。

・まちの中のちょっとした角、こぶ、出っ張り、交差点が社交(交流)の場となることも
 多
い。


・コミュニティについて話し合う場合、半径7,5mのを超えない円の中ですべし。
 そうでないとアイコンタクトが効かない。参加者から一体感が失せる。

・自ら不便さを選ぶことも、コミュニティの力を強めるためには許容されるべきだ。

とっくに時代遅れになっている道路幅員、駐車場面積、低密度、分離する土地利用など
 
の厳格な基準がエコロジカルデモクラシーのためのデザインへの障壁になることも多い
 (p71)

・エコロジカルデモクラシーの実現には、今までそれが違法とされてきた規則や基準を変える  ことも必要になる。(p199)
 ゾーニング、セットバック、建築基準なども一律の適用でなく、土地にあった変更をすべき

・自らそこに住むことをしない不動産投機家はすべてを破壊する

・半径400mの区域内には5000~6000人が住むべきである。(都市の密度)

・密度を達成すれば、高さへのボーナス、公共交通利用へのインセンティブ、減免をする
 などの特典を付けるもあり。


・開発にあたっては、公園、駐車場、広域生活道路などが義務付けられるが、
 この要件が 密度を低くし、公共交通を成立しなくし、ダメにしている場合もある。
 ボンエルフ、クルドサック(袋小路)X交差点を活用する(p227)


・道や駐車場は町の半分の面積を占める。
 あえて道を狭めて家や農地を増やすことも検討すべき(p236)

・生態系も断片化してはダメ、つなげること。オープンスペース債権の活用も。
 これはオープンスペースを設ける資金調達のための市債発行のことか!?


・ロサンゼルスでは、近隣地区に高速道路が通る計画を阻止し、
 クルマを通り抜けさせない障害物や装置を付けた。

・東京では平均気温が2、9度上昇、これは地球全体の5倍のペース。
 それを抑制するため、1000m2以上の敷地の建物は屋上緑化を義務化した。


・シカゴでは面積の半分以上が屋根か道路である。そこで屋根と道の緑化をした。(p290)

・オープンスペースを設ける場合、その中に隠れる場を組み込むとよい。

・富、技術、過度の専門化、専門家への依存、グローバリゼーション、農作業の消滅、
  標準化、移動社会への変化が、私たち自身が都市を考えることを疎遠にさせてしまった。

・永橋為介「間違った情報を持つ善良な人は、間違った人である。」

・都市農園をそこここに配置し、食を育む場をつくるべし。
 何かを発見し、何かを教育し、何かを研究する機会をつくって、何かを耕す場をつくる。
 そして、時々論争を呼ぶ体験をさせる。そんなランドスケープをつくるべし。

・4歳の妹「もしも世界がもっとゆっくり動いていたら、いつもお休みの日みたいなのにね ぇ。」
 ーーーではもっと速く動いていたら?ーーー
・6歳のお姉さん「世界は気を失っちゃうわ。」

・速度が人を殺す。速度が都市を支配してきた。
 アンダンテ(歩くような速さで)やアダージョ(ゆっくりと)が必要。

・街に走る車の量を2割減らすと、喘息発作の救急が41,6%減った。

・歩くためのマチづくりへ
 土地利用とゾーニングの変更(駐車場と車道からオープンスペースと駐輪場へ転換を)
 オープンスペースにつながる遊歩道は、より多くの人が行きかう道から優先的に。
 クルマの速度を抑えよ(道を狭くし、緑地帯や樹木を植える)

・X交差点を設け、クルドサック、一方通行、バンプ、ボンエルフを活用、
 行き止まりにしたりして、歩く人のためのマチをつくれ。
 自転車道と歩道は別々に作るよりは、同じ空間に備えた方がよい(p423)
 ベビーカー、障害者にももちろん配慮
 距離を示す表示板を掲げたり、ウォーキングクラブを結成したりする。

・私たちの課題は、再び自然とつながり、壊れかけたコミュニティを新たに形成すること。

以上、自分が気になったことの列挙でした。


   桜の季節が終わると、木々の新緑の出番だ
  
以下は、著書の構成に合わせた、まとめ です。

・私たちは、いつのまにか支えあい助け合える「コミュニティの力」を衰退させてしまった。便利だがバラバラで孤立した無責任な社会、助け合う力を持てない社会になってしまった。
いま、その状況を打破し、コミュニティの力を復活、再生する鍵を握るのが、エコロジカルな(広義の生態系=人と人、人と自然、生物たちとのつながり を考慮した)直接参加型の民主主義(デモクラシー)によるマチづくりである。
エコロジカルデモクラシーを進めることが、支えあい助け合える「コミュニティの力」を呼び起こす。
 都市は従来とは異なった方法、つまり、エコロジーに十分考慮した市民参加型で作るべし。 
 と同時に、
都市の作られ方、ランドスケープ次第で、人々の参加や社交も影響を受ける。
つまり、都市の形態が、エコロジカルデモクラシーの成否を決める一面もある。

それほど、マチづくり(デザイン)は力を持つものなのだ。

そこで、都市をデザインするにあたっては、


A.エコロジカルデモクラシーをもっと可能にするデザインを。

B.エコロジカルデモクラシーをもっと回復し持続可能にするデザインを。

C.エコロジカルデモクラシーをもっと推進するデザインを。

追求していくべきである。


そのために①から⑮までの指針を留意する必要がある。


A.エコロジカルデモクラシーをもっと可能にするデザインを
 隣人とつながる場をつくろう!(お金がなくてもより長く、不必要な技術に頼らなくても)


①センターを強める。分散はダメ

徒歩で行けるように、半径400mの範囲に1つくらいセンターはあってよい。場所もそうだが、経験を共有することが大事。それがシビックプライドを高める。椅子やベンチの置き方一つでも、社会性を高められる。円形が特徴。半径7,5mを超えない円内に設定する。イベント準備もセンターでやれば人が興味持って助けてくれる。
所沢駅前の車両工場跡地開発に対しては、青年会議者がセントラルパークづくりを提言したことがあった。市の土地ではないので難しかったが、それも一つのセンターづくり、オープンスペースづくりなんだろう。もちろん商業施設もセンターである。この4月、商業施設に出店する具体のお店も決まったようだ。活動できる広場も入る。建物は駅から出たら「森のように見える」ようなものにと市は要望してきた。果たしてどうなるか。
新所沢パルコと小手指西友の撤退は、センターづくりの失敗である。市は駅を中心に(センターとして)徒歩や公共交通で集まることを考えていたが、スーパーマーケットは各地にできて、分散、拡張しすぎてしまい、センターが失われた。ただ、各地の出店を阻止することは既存の法律ではできなかった。
三ヶ島地区では、各区の神社がセンターであろう。村の鎮守はそういう役目を果たしてきた。
(私の感想)

 
②つながりを意識し、多くの人とつながる。
広い道路はまちと人々を分断する。排水路も暗渠化でダメになる。
食べ物も都市内で生産する。野生生物の棲み家も配慮。つなげる、あえて藪をつくる。
コミュニティガーデンも有効。対立した時は、パワーマップを作ってみるとよい。(金の動き、だれが得するのか?)
確かに463バイパスで商店街は分断し、地域も分かれた。広い道路は川と同じ。横断歩道は橋と同じ。マチづくり協議会や自治会の行うイベント、清掃活動、古紙回収などすべてこれ。学校農園を用意したり、学校ビオトープも市民農園も。もし鎖国したら農村は一気に見直される。都市を養うのは農村だけ。
まちなかみどり保全制度もセンターづくり。

③公正に
市民参画が進むと公正さが焦点に。情報への平等なアクセス権を。誰もが近くで利用でき、排除されないこと。(値段、距離)
広場や公園などは排除されないが、ディズニーランドはお金がないとは入れない。

④賢明な地位の追求
隣の芝生をうらやむところから発してはダメ。身の程知らずの承認欲求は道を誤る。自分たちのマチの特長をのばそう。概して、異種混交がよく、泥、汚さが面白い。焦点を当て「見える化」して価値を高めよう。
流山や越ケ谷と人口増の観点だけで比較したり、横浜と同じような観光地化を求めたり、それらは不賢明な地位の追求だと想起した。調整区域の下水道を求める声も、実際には(下水が入ったのに)浄化槽のままのお宅もある。真に望んでいるわけではないが、市街化区域との比較だけで望まれている場合があるのではないか・・・。

⑤聖性を持つように
スピリット、神話、物語、聖なる場所を地図に落とそう。そのマチ独自の聖性がみんなの知るところとなれば、今度はそれがコミュニティを強くしてくれる。
松井地区や小手指地区や山口地区が、地元の文化財を顕彰して、地図化したり道標を立てたり冊子や広報誌にしたりするのも聖性化だ。柳瀬では新たに「滝の城」が、歴史発掘から特別さの演出がされるようになった。滝の城まつりである。

B.エコロジカルデモクラシーをもっと回復し持続できるデザインを

⑥特別さの発見、演出、創造
地形と水循環により「流域」ができている。また、その土地ならではの文化や特色がある。手と足を使い、瞑想(心で感じ取って)して、デザインを。きっとそれは廃棄物、消費エネルギー、再生不能エネルギーに依存しない安価で持続可能な都市となる。
里山保全に加えて水田保全を合わせたのはこれか。富岡地区の活動においては、ウォークラリーがその役目を演じているかも。

⑦選択的多様性
生物多様性と文化的多様性がある方がよい(野放図ではいけないが)。
野生生物の棲み家も、文化の維持も企図せよ。時にはアクセスしにくくし、保全する。

⑧密度と小ささこそ鍵
密度がないとセンターもできない。1haあたり30~37戸ないとだめ。スーパーマーケットも多すぎては自滅する。抑える。1haあたり17戸だったのを40戸にすると公共交通の利用はぐんと増える。
少なくとも路線バスには25戸、路面電車には34戸が必要。クルマこそ低密度の共犯者。
密度を増やすことでスペースをつくり、緑をつくり、センターを維持する。
パルコや西友の撤退の原因の一つに、(ネット販売の利用やロピアの進出などもあげられるが)
新所沢小手指地域のスパーマーケットの多さもきっとあげられる。
あっという間にたくさん出店されてしまった。本当はそれほどなくても十分なのにと思っていた。
企業は企業で商圏制圧のために無理をする。コンビニの前にコンビニが建ち、山田うどんの向かいに山田うどんができたのも、他店の出店を抑えるためのものだ。消費者とは違うレベルでの戦いがある。
企業は撤退できるが、消費者は取り残される。都市計画の出番はこんなところにもあるのだと思う。
(ちなみに遅ればせながら葬祭センターの進出は都市計画によって一定の制限は課しましたが・・・)

⑨都市の範囲を区切る(限定する)
都市と農村(森林)を区別すべし。都市と都市は農村や森林で分けるべし。近隣地区同士でも30m~400mくらいグリーンベルトが欲しい。都市は大きくなりすぎてもコミュニティがダメになる。
人口は25万人以下、できれば10万人以下がよい。顔見知り、声の届く範囲というのはあるもので、
プラトンは5040人が市民参加できる限界とみた。
これがかの前明石市長が所沢を狙ったポイントであった。政治に関心はあるが地元のことはあまり知らない、顔の見えない、コミュニティに根付いていない一定の人々の層が存在することだ。
10万都市でもなく(みんな顔見知りで付け入るスキがない)50万都市でもなく(大きすぎて手に負えない)、30万都市がねらい目だ、と指摘していた。

⑩多くの用途に使える設計をせよ
多くの用途に使える、その最たるものは「空」である。オープンスペースは強い。
建物の場合は「構造」こそ大切。
何を大切に肝腎とするか、都市の「フレームワーク」を決めたら、それに権限を与えよ。
普段の法を抑えてでも。
航空公園の魅力は「空」にある。
「東町を考える会」の主たるフレームワークは、「今住んでいる人が健全に住み続けられること」にある。 道路を通し、道幅を広げることは、マンション建設を許し、24時間日陰住まいの人を増やすことにつながってしまう。既存の規定の道路幅員、基準でいったら阻止できない。だから、みんなで考えて合意をつくろうとしている。市としても道路をかぎ型に通した際には、普段は車を侵入させないようにした。それは都市計画職員の大殊勲だ。  他方、消防車がゆとりで消火活動できる幅を求めることは、主ではなく「従」なるフレームワークだと思うのだが。
「こぶし団地を考える会」の趣旨も然り。既存の法を当てはめているだけでは達成できない。だから、市が乗り出して応援を始めたのだ。

C.エコロジカルデモクラシーをもっと推進するデザインを!
 (まちが人々の心に触れるようにしなさい)

⑪未来の都市像は日常の中にある
排除、分離、禁止するのではなく、みんなできるようにしたい。

もつれたとデザインの話し合いのもつれも、よく調べ、聴き、観察し、共感するだけでなく、ともに懐古し、歴史を刻み、昇華させないと人々はその変化を受け入れようとはしない。
航空公園では、犬の散歩もスケボーの練習も子どもの遊びもお年寄りの散歩も求められていた。
犬はドッグランで何とかしたが、スケボーはうまく同居させてやれなかった。
県議時代の苦い思い出である。


⑫自然に生きる
自然は人間を健康にし、長生きさせてくれる。人はなぜ草原ででんぐり返ししてしまうのか、なぜ雪を見ると幸宥だるまをつくってしまうのか、なぜ砂浜に出あうと人をうずめてみたくなるのか、夕立ちの後の水たまりをなぜ人は飛び跳ねたくなってしまうのだろうか。
これが私がずっと求めてきた自然との共生だ。自然は私たちを癒し、元気にしてくれる。
思索を成就させてくれる。こども時代に自然の中で経験したことは、大きくなってからも生きている。野生生物も含めて共に生きるようにしていきたい。教育委員の清水国明さんが、「人間は自然の中で何クソっと生きていく力をたくさん持っているが、それを使わないでいられることでストレスを感じてしまう。
自然の中で生きていくと、細胞がありがとうって言って、疲れても喜んでいる」と言われたことはとても印象深い。


⑬科学を使うこと
生態学は自然ばかりを相手にしてきたが、これからは都市の生態学が必要だ。
長く住まうことで得られる土地の知恵、科学による生態系への理解を一緒にして、人々がともに考え、汗して、参加していこう。
学者や知識ある人が加わって、活動を進めている。
例えば中心市街地周辺グランドデザイン、プレイスメイキング、環境保全団体の各種活動。
自分は菩提樹池のかいぼり作業で、池の真ん中の日向には全く生き物がいないことを知った。
水温が上がりすぎで住めないのだ。言われてみてはそうなのだが、日が当たるとはそういうことなのか。

⑭お互い奉仕すること
海外では、裏庭の使い方から始まり、空き地やか各家をつなげ、野性生物の回廊を育てていることも多い。奉仕の心だけが利己主義、商業主義に打ち勝てる。
選挙での公約「オオムラサキの回廊」がそれだったんだけどなぁ・・・
奉仕(献身的な活動)は、地域のあちこちで行われている。街路樹や公園清掃などもそうなればいいなぁ。


⑮歩くこと(そのゆったりとしたペースを取り戻すこと)
都市デザインはスペースだけを相手にしてきたが、ペースも考えるべき。速度は都市の魅力の1つだが、制御されないそれは急かし、競争させ、浅はかにし、短期にして無謀にさせる。
歩く旅は自己変革を導く。地面のデザインがペースをコントロールする。
直線にするか、曲げるか、狭めるか、広くするか、土で行くか草むらかアスファルトか、これらでペースは変わってくる。市のトコトコ健幸マイレージも、まさに地についてきた。ウォーキングコースも設定され、道標も進められ、ベンチも遊歩道も進行中だ。木かげづくりも樹冠を広げる剪定を心がけている。
京都にある「哲学の道」がアスファルトになってしまったらきっと意味をなさないんだと思う。


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わが意を得たり!『エコロジカル デモクラシー』 を読み切る。その1

2024-04-18 17:28:36 | 本・映画など

『エコロジカル・デモクラシー』を読み終えた!

この本の訳者 土肥真人先生に市役所でご講演いただいたとき、推薦された本であった。

購入したものの、イントロダクションと第1章まで読んで、そのままにしていた。

もっと早くに読み切っていればよかった。

というのも、この本こそ私の市政運営の柱「人を中心にしたマチづくり」の意味と方法を

指南してくれていたからだ。



この本は、都市計画家や建築家、デザイナーのための指南書であろう。

筆者のランドルフ・T・へスターは言う。

今までのマチづくり(デザイン、建築、都市計画、景観デザイン)

人間のため、というよりむしろクルマのための都市づくりであった。
大きな道路は近隣街区を分断し、人々のつながりを断った。
都市デザインは、土地の地形や水の流れを十分には配慮せず、
自然を破壊し、生物多様性を少なくし野生生物を絶滅に追い込んでしまった。
また、用途地域などのゾーニングは職住を分離してしまい、混在による良さをなくし、
クルマがあることで街は外へと分散し拡張し、核を失わせた。
つまり、人が集まって買い物したり,出逢っておしゃべりしたり、思考したり憩ったりするセンター(中心)を
衰退させてしまった。
また、技術の進歩は専門化を進め、それが土地らしさを無視したデザインを広め、
都市はどこも同じ顔になってしまった(標準化)。
さらに、いつも、もっと速くもっと速く、と生きるリズムが急かされていく。

そうやって、いつしか生態系と人々のコミュニティ(そして支えあう力)をも壊してしまったのだ、と。


でもそれでは、人間の本当の幸せは得られないのだ、と。

だから、これからのマチづくりは今までの傾向を改めて、

エコロジー(環境・自然・生態系)とデモクラシー(民主主義)を同時に果たすデザイン

を追求していくべきなのだ、と。

・土地の特長、成り立ち、歴史を重んじ、水の流れを尊重し、
また、職住を混在させ、多様性を増やし、
人々の集まる中心を確保し、分散させず、密度を大切にして、その分、緑やスペースも街中に設け、街の範囲を明確にし、科学も動員して、一方で人間を疎外せず、
スペースを扱うだけでなくペースも意識し、歩くペースを大切に、
自然を保全し、創造し、野生生物が移動できるほどの自然の連なりを実現し、
生物や生態系の中の一員としての人間のためのマチづくり(デザイン)を成し遂げよう。
・その際には、必ず人々を参加させ、情報を公正に開示し、議論し、汗かいて、住民がこの街を誇り、特別なものだと思えるように、そして、ゆくゆくは責任ある担い手となるように市民参画で進めていこう。そうやってコミュニティ(人々が絆を感じ、支えう 力と場)を復活しよう。 それが、民主主義を育む、ということなのだ。


そう主張しているのである。


また、どんなデザイン、建築、都市計画、景観デザインのマチなのかによって、

人々がエコロジーとデモクラシーを推進するかしないかを左右してしまう、

そんな力もマチづくりにはあ
るのだ! と鼓舞しているのである。


           ごちゃまぜ の 持つ魅力
 
全体として500ページ。翻訳の難解さはあるものの

エコロジーとデモクラシーを推進するマチをつくるための15の指針が示されていて、

市民参画によるマチづくりの具体例がたくさん挙げられて、ワクワクして読めた。


理想の都市像については、混在とごちゃまぜを良しとし、さらに、その都市圏で自給自足できるような地域づくりを良しとしている点で、私の好きなジェイン・ジェイコブズにも似ていた。
マチに自然を、憩いを公共交通を、クルマのためのマチづくりから人のためのミチ、マチづくりへ、は私の気持ちそのものだった。

また、頻繁に紹介される具体例の1つ、野生生物が移動できる自然の回廊をつくる、などは、

私の選挙公約の1つ「オオムラサキの回廊づくり」そのままだった。


        市内にいた オオムラサキ


ふりかえってみれば 私の市政運営の柱は

「動け!所沢」「紡ごう! 絆」=「人と人の絆」「自然との調和・共生」

「健幸長寿 思わず歩きたくなるステキなマチ」

「善きふるさと所沢 を未来の子どもたちに」

「脱炭素」「人を中心にしたマチづくり」

そして、

「あなたが主役! 輝くマチへ」

と変遷してきた。

「善きふるさと」とは何か? の質問に対しても

困った人がいれば手を差し伸べる、大人たちが人間力を発揮して自由な中にも支え合い
子どもたちは緑豊かな自然の中でそれを知らず知らずに感じている、そんな善きふるさとになればいい」

と述べてきた。

市政運営の念頭には、

常に自然があり、支えあいがあり、継承を意識して、

最終的には、みんなの大切なモノ・コト(コモンズ)を守るには

もっと言うと私たちのマチや幸せを守るには市民参画(お客様カラ主体ヘ)が必要だ

と考えるに至ったのであった。公約 - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき (goo.ne.jp)

だから、近年は様々な機会にあえて市民参画の機会を組み込むように企図してきた。

(マチごとゼロカーボン市民会議、脱炭素 経営ネットワーク会議、カルチャーパークを考える未来会議、Uー29な所沢人との会議、東町を考える会、こぶし団地を考える会・・・)



今こそ市民参画、今こそ民主主義。

そうやってコミュニティを復活し、主体となって考え動く人々、支えあいのマチをつくっていこう。

自然やみどりはそのために有効である。 マチづくりを通してそれができる。

マチづくりの出番である。

そんな筆者の考えが、

市政運営を通して私が思うようになったこととそのまま一致していたのでありました。

わが意を得たり! 『エコロジカルデモクラシー』













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これまた遅ればせながら…『論語と算盤』

2024-04-05 15:19:48 | 本・映画など

『論語と算盤』(渋沢栄一)

これも今更ながらですが、読んでみました。

渋沢が70を過ぎたころの、日清日露戦争の後のころの講演を集めたもの。


・渋沢らしく経済活動(実業)を是とし、
しかし、そこには仁義(信)がなくてはならないと繰り返しくりかえし説いていた。
「利殖と仁義の道は一致」


・金はよく集めてよくつかうべし。
「よく」とはしっかりとという意味だけでなく「善く」であり、「善用」が肝心なのだ。


・また、仕事をするにあたっては、理想や夢が伴いたいもの(趣味の極致)であり、
人の成敗(勝ち負け)は、死んだあと(蓋棺の後)に決まるもの、とも語っている。

時代は100年を経ても、歴史は繰り返す。 または、変わらないものなのか。
市場原理主義とグローバリズムの弊害顕著になって、
じつはアダムスミスも「倫理」を備えた経済を主張しているのだと、
殊更に言われる現代であるが、
そして、渋沢栄一もまた然りなのであった。


そのほか個人的に面白いと感じたことに次のことがありました。

渋沢いわく、

昔は武士(士)は儒教(武士道)をもって生き方を身に着けたが、稼ぐことを蔑視しすぎた嫌いがあり、一方、今の商人(農工商)は、稼げばいいとだけしか思っていない。
そして、日本の実業者は信がない(信用できない)と西欧の実業家から指摘されたと指摘している。

私:
江戸時代、武士は精神だけを重んじたのか?! 
また、初期の日本経済はまるで信用に欠ける、とはまるで現今の中国評のようではないか?
(貧困から経済振興する過程というのは、どこの国民もみなそういうものか?)


また、中国自体も(儒教の聖地であるのに)儒教を忘れ、中産階級が廃れて、徳がないと指摘。第一次世界大戦のころ、中国進出は日本の好機であると指摘。
そのうえで、日本は、合資会社をつくって中国とともに力を合わせて共栄すべきだ、と主張している。

私:
中国進出は世界の流れであり、仕方なかったのか?
中産階級が廃れるのがそれほど悪影響を及ぼすのなら、今の日本もまた危ういではないか?!

また、形式の踏襲が古い組織にははびこりがちで、公務もその傾向大いにいあり、
実業も何もそれをやっていると自壊に至ると指摘している。
「六国を亡ぼすものは六国なり。秦に非ざるなり。」

中国戦国時代の約250年間の間、最後は秦がほかの六国(楚斉燕韓魏趙)より抜きんでて
他の6国を滅ぼして秦の時代を立てた(BC221~BC206)。

また、すべてのことは因果応報であり諸行無常であるとも指摘している。

「まことに日に新たなり、日に日に新たにして、また、日に新たなり」

以上、その当時の世界の流れも=「時代」もうかがい知れて、面白いと感じました。





 


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『後世への最大遺物』内村鑑三 から

2024-03-15 16:31:50 | 本・映画など

内村鑑三が箱根の基督教青年会夏期学校にて講演した講演録、それが『後世への最大遺物』であった。

時は1894年、日清戦争が開戦の1か月前のことだ。


内村鑑三は若者に向かって言う。

歴史に名をとどめたい、世の中に何かを遺したい、と願うことはキリスト者として恥ずかしいことではない。

むしろ大切なことだ。

では、後世に何を遺せばよいのか。

内村鑑三は、まず「金」をあげる。金をもって世の中をよくしていくことができるからだ。

次に、「事業」だと指摘する。灌漑のため山の中から隧道(トンネル)を掘って田畑に水を入れた兄弟の話などが披歴される。

でも、「金」を遺す才も「事業」を遺す才もないものはどうするか?

それならば「思想」を遺すことだ。「新約聖書」や頼山陽の思想、そして、ロックの哲学が巡り巡って世界に影響を与えたのだ。

そして、その手法として、「文学」「教育」の重要性を説くのであった。

しかし、それも誰にでもできるものでもない。

誰にでもできる、益あって害のない最大遺物、それは、「勇ましい高尚なる生涯」だというのだった。

この人にできたのなら自分にもできないことはない、やってみよう、と後世の人が思うような生きざま、

それを遺すことが最大の価値あること「後世への最大遺物」だと内村鑑三は言うのであった。

そして、来年、またここに集まるときに、それを語れるように我々は生きようではないか、

邪魔があればあるだけ、価値ある遺物となれる、と聴衆に語るのでありました。

そして最後に、

われわれの生涯はそれで終わりというものでなく次代に引き継がれるもの
(水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じていくもの)である、

と指摘して、講演をこのように結ぶのでありました。

これを称して真面目なる信徒と申すのです。われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを、後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采)

3月、区切りを迎える仕事も多いことと思う。 

すべての区切りを迎える人々に贈る言葉になるのかもしれない、そして、自分にも。




※例え話の中に、いいなあ、というものがあったのでそのまま記しておきたい。


『後世の最大遺物』『デンマルク国の話』(岩波新書)p71、72

子供の二群が戦をしておった、石撃(いしぶち)をしておった。
家康はこれを見て彼の家来に命じて人数の少い方を手伝ってやれといった。多い方はよろしいから少い方へ行って助けてやれといった。これが徳川家康のエライところであります。それでいつでも正義のために立つ者は少数である。それで我々のなすべきことはいつでも少数の正義の方に立って、そうしてその正義のために多数の不義の徒に向って石撃をやらなければなりません。もちろんかならずしも負ける方を助けるというのではない。私の望むのは少数とともに戦うの意地です。その精神です。それはわれわれのなかにみな欲しい。今日われわれが正義の味方に立つときに、われわれ少数の人が正義のために立つときに、少くともこの夏期学校にきている者くらいはともにその方に起ってもらいたい。それでドウゾ後世の人がわれわれについてこの人たちは力もなかった、富もなかった、学問もなかった人であったけれども、己の一生涯をめいめい持っておった主義のために送ってたといわれたいではありませんか。


この辺が、いいなあ、と感じました。少数派は最先端を行くことが多く、ゆえに先端は少数派になる。
しかし、のちの世から振り返れば、それこそが正しき奔流へ導くわずかな決壊のごとき水の溢れなのかもしれません。


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新たな環境保全型農業で行こう!『土・牛・微生物』ディビッド・モンゴメリー著

2024-02-14 17:18:36 | 本・映画など

多くの文明は、土を失うことで滅んでいった。

植物を養う力、つまり、豊かな表土を失って、だ。

今の農業のやり方(=慣行農業)も、その道を進んでいる。

化学肥料と化学農薬を利用し、機械と燃料を使って耕し、単一の作物をより大規模に行っていく農法だ。

化学農薬は土の微生物を殺し、肥料は流れて水(川)を汚染し、耕しては風に飛ばされ、結局、表土が奪われる。

化学の力は栄養剤とカンフル剤のようなもの。

土の力は衰え、枯渇していく。

化学製品(肥料、農薬)を注ぎ続けねば回らなくなり、機械の借金も重なって費用が掛かり、収量は減り、収益は上がらなくなる。

それでは農業の未来はない、環境保全型農法に変わらねばならない、と著者は言う。


実は、植物は、養分を直接ではなく、その一部は微生物の助けを借りて吸収している。

だから、土壌微生物が豊かな土こそ農業の基本、最も留意すべきことなのだ。


「土壌微生物」の豊富な土に戻すには、次のことが肝要と著者は言う。

1.耕さない農法(不耕起)作物残渣を残す・・・表土が流れない、微生物を養う
2.被覆作物(マルチ)の活用・・・・・・・・雑草を抑える、土に養分が返る、益虫が増える
3.多様な作物を輪作する・・・・・・害虫と病原菌を抑える

を同時にすべて行うことだ。

それにより、

(面積当たりの単一でなく総生産量)収穫量の増加、化学肥料・農薬使用の減少、労力の節減、費用の節減

ができ、結果として収益があがる、というのだ。

ただ、それは単純なことではなく、

より効果を上げるには、輪作と被覆作物の組み合わせを多様化することが必要らしい。

雑草と害虫と病原体を(真っ向からではなく)搦め手から防いでいく工夫だ。

それは、単純に昔の農法に戻る、のではなく、

新たな知見に基づく新たな手法を取り入れた昔の農法 とでもいうべきか。

しかし、環境保全型のこの農法は、まだまだ広がりを見せてはいない。

採用するのは新規就農者が多く、まじめな篤農家ほどこの農法に抵抗をしめす。



「新たな三学期制」と同じだな と自分は思った。

ただ昔のやり方に戻ることには、人は抵抗感を持つ。 

単純に戻るのではなく、新たな知見も取り入れられた、そして、儲かる農法なんだと

皆が得心できるよう実績が積まれていけば、と願わずにはいられない。
(そのための方法も著者は提案している。)



また、著者は、持続可能性は言わずもがな、コストを減らすことに重点を置いて「収益」を論じている。

収益を上げるというと、すぐ大規模化とつなげてしまう私たちであったが、

売り上げが増えてもコストも増えていたら、収益は少ないのだ。

市が活き活き
した街づくりで指導を仰いでいる東京芸大の藤村先生の言葉を 私は思い出した。

商業も大規模化、多店舗化で売り上げを高めようとするが、小さなお店の方が効率的なこともあるんです。

地域のことも考えると、2階に住んで1階は店舗、そういう小店舗の展開の方が街にとっていいし、

お店も収益はあがるんですよ、と。



そのほか備忘録)長い、羅列にすぎません。

・農業における4つの革命 
1,犂と畜力の導入・・・村が合併し都市国家が大きくなることができた 
2,土壌管理(輪作、間作、堆肥の投入)・・・借地制度が変化し、農地の集約化
3,機械化と工業化・・・農場に資本が必要に、大規模農場の拡大と都市への人の流入
4,緑の革命とバイオテクノロジーの活用・・・知的財産権付きの種など食料システムの企業支配
そして、今、第5の革命へ(環境保全型、土壌の健康を農法の中心に据えた農法)

・多様な輪作で、収量は高く、窒素肥料は1/5~1/7,除草剤は1/6~1/10に。(アイオワ大の圃場試験)

・放牧で地力を上げ、畜産効果も上げるなら、過放牧で短期間で移動させる・・・草をえり好みしない、寄生虫が伝染しない
・土壌微生物は見えない家畜である。微生物が有機物などを食べ、植物が吸収できる形に変える。

・菌根菌は重要な働き。植物のえさをつくり、植物から餌をもらう。共生関係。これは腸内細菌と人間の関係と同じ。

・温室効果ガスの15%は農業から。土壌有機物(作物残渣、被覆作物、堆肥など)を増やせば、微生物が養われ、収量も増える。そして、炭素も土中に固定化される。

・耕すことは土壌有機物の分解を速め、炭素を放出させる。土壌には空気の2倍の炭素が保持されている。

・環境保全型農法で、年0,4%土中炭素を増やせ、世界でやれば炭素放出の1/3を相殺できる。
   フランスの農業大臣フォルはそれをパリ協定に提案した。

・リンの供給は有限だ。中国が半分を供給、モロッコに3/4の埋蔵がある。同時に農場や下水処理場から流れる  リンで海の生態系はダメージを受けている。人糞や家畜の糞を活用する。
アメリカのすべての家畜糞を活用すれば作物が奪ったリンの85%は回収できる。

・農業に関する利益のほとんどは、農家以外の人が受けている。農家は肥料、燃料、資材の値段を決められなしい、作物の値段も決められない。設けているのは、農家に物を売る人間なのだ。

・企業が自分の製品が必要なくなるような農法を推進するわけがない。

著者の提案:
・作物保険制度と補助金を土の健康を増やすように変える。移行期間は国が支える。土壌肥沃度改善した農家に報奨金を出す。
・土壌炭素を増やすことに、炭素排出権を与える。1%土壌炭素を失うと、1エーカー当たり平均66ドルの自然資本を失うことに相当する。
・公的なランドバンクをつくって、労務で支払うことで抵当権流れの農地などを若い人が買えるようにする。

・家畜をどの農家も飼って、作物残渣や刈り株を食べさせる。村に小さな肉加工工場を配置する。
・有機農法というより不耕起も含めた「土壌にやさしい」ブランドをつくり、広く消費者も活用できるようにする。
・技術と農業化学製品は役に立つ。が、これも道具に過ぎない。農家をその気にさせるには、実例を見せるしかない。その方が儲かることが分かればよい。実験農場を各地に設けること。実践者のネットワークを活用する。

・HUMUS(腐植)とHUMAN(人間)はラテン語の同じ語根を持つ。

同じくディビッド・モンゴメリーの本『土の文明史』
『土の文明史』を読む - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき (goo.ne.jp)





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映画「月」

2024-01-26 11:45:57 | 本・映画など


             (1月25日朝日新聞朝刊より)

朝刊を開くと角川会長の笑顔の写真が飛び込んできた。


新藤兼人賞のプロデューサー賞の受賞についての記事だった。

よかった! 久々の会長の笑顔を見て自分は心から嬉しくなった。


そして、池袋に「月」を観に行った。

津久井やまゆり園の事件をモチーフに描かれた辺見庸「月」が原作の、この映画は大変に重い映画だった。

意思、感ずること。

その疎通がなければ不完全なのか!?

また一方では、それだけが真実であり、そのうえで考えたことはもう偽(にせ)なのか?!

どちらも違う。無理に極論してはいけないのであって、

人間は感じ、思い、考え、それらの総体が揺れ動きながら形を保っているものなんだと、私は考えた。


障害者自身も出演していて生々しい描写もあり、登場する支援員もデフォルメされていて、

あえて考えさせるように演出されているので、


賛否がたくさんでるであろう映画であった。

批評したり、言葉にするのも難しい・・・。

 




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ザ・キルスコア を読んで

2023-08-16 15:56:28 | 本・映画など



お盆中は、午後は役所に出勤。


読みかけだった本がここで読み終えた。

『ザ・キルスコア 資本主義と サステナビリティの ジレンマ』 ヤコブ・トーメ 著

資本主義の進行によって、実は間接的に多くの人間が死に追いやられている。

それを科学によって分析し、可視化して数値に表したのがキルスコア。

例えば、

・気候変動によって21世紀末までに少なくも8000万人弱の人間が死に追いやられる。


・廃棄物(プラ汚染・大気汚染)によって、年間4,500万人が死んでいる。
           2100年までには少なくも3億2000万人が死に追いやられる。


・グローバル化した労働(過労)によっても、職場で35万人、それ以外の場所で230万人。
           2100年までに累計1億6000万人が亡くなるとみられている。


・匿名消費(対面なしでの経済活動)が孤立、孤独を加速して、早死にのリスクを26%高めている。
 これは肥満より悪く、喫煙と同じ効果をもつ。
 オンライン消費が進み、今世紀初頭の10年間で、ハンブルクのパブは1割減った。


そして、

今の人間がCO2を1000t 排出することで、熱を起因とする諸変化で未来の人間を1人殺すことにつながるらしい。

先進国のイギリス人は一生で1000tを排出するので、生活しているだけで未来の人間を1人死に追いやっていることになる。

では、誰が責任を負うべきか!?      個人か企業か投資・金融か?
また、何が変わらなければならないのか?  個人の消費か政治か投資なのか?

ここにおいて筆者は舌鋒を緩め、もう鋭さを見せない。

小さなことから実行すること、そうやって世の中や政治(これが効果は一番でかいらしい)を変えることなのだと。



以下、気になったこと備忘録


・私たちは、未来人のことを現代人ほど大切に思っていない。

・生産された食品の3割は廃棄されている。

・ネットフリックスを見るとき、高画質より標準画質にするとカーボンフットプリントは8割以上減らせる。
同じく、我々の食事のカーボンフットプリントの3~4割は牛肉とラムで占められている。
食事をビーガンや菜食主義にしたり、自動車をEVに換えるだけで、
年間約1tCO2を削減できる。
消費電力をグリーンに帰るだけでも500kg削減できる。


・海洋プラスチックの汚染でいえば、最も有害なのが、紙おむつによる汚染である。


・石油は85%は燃やして動力か燃料に使われているが、15%はプラスチックなどの化学製品になっている。

・絶対主義・原理主義ですすめてはいけない 博愛主義で寛容に

・「善はどこにも存在しない 実行しない限り」  ケストナー(ドイツの児童文学者・詩人

「マイ・フェアマネー」
著者が作った 投資の目安(どれだけサステナビリティに貢献しているかの指標でみる投資先格付け)







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マルクス を解説する本を読んで

2023-04-24 17:46:19 | 本・映画など

「藤本君はいわゆる自民党ではないね。」

県議会時代、同期にして弁護士の荒川岩雄県議に言われたことがあった。

さて、自分は保守の右なのか、それとも保守の左なのか。

それとも、コミュニタリアンに属するのか。
(藤本さんはコミュニタリアンなんだ、と言われたことがある。)


はたまた、社会主義者なのだろうか?(民社主義だと言われたこともあった。)

(少なくも自民党のうちのアメリカ追随・礼賛派ではないと思っているが)


マルクスは指摘する。

資本主義は、全てを商品化する果てなき運動である、と。

商品化とは、お金で買うべきもの、こと、になってしまうということ。

確かに、昔の人がお金と関係なく維持してきた家族の行為(育児も老いた親のお世話も子育ても掃除も勉学も)ことごとく商品化されてしまった。

また、金融自体も商品になり、会社も商品(M&A)になり、なんと納税行為まで商品(ふるさと納税)になってしまった。

そして、市場を求めて彷徨する資本は、ついに公務にも目をつけた。

今や公務員の公的仕事をも商品化(市場化)され、「委託、指定管理者」はいわずもがな、

流行りのSIB(ソーシャルインパクトボンド)や「公民連携」なんかも、

下手をすれば単なる民間企業への市場提供、になってしまう面もある。


    コモンズを再生する取り組み 糀谷八幡湿地保存会

コモンズ(みんなのもの。みんなのこと。お金に換えてはならないもの、だれかだけの所有にしてはいけないもの、こと)の大切さを、このところの施政方針では常に訴えて来た。


社会の商品化、市場化が進めば、市民は順応して、いつの間にかお客様になってしまう。

お金を払うものは偉い人、もらう立場はいうこと聞け、と。

SNSがその風潮に輪をかける。

市民が消費者(お客様)に成り下がってはいけない、と 常に感じても来た。


市民はお客様ではなく、主体であり、

自ら話し合い、知恵を出し合い、社会を作っていくものなのだ。 

このところつくづく感じ、そう訴えている。

人を中心にしたマチづくり、にはそんな意味合いも込められている。


    ケヤキ並木もみんなの大切なもの
(落ち葉をなくせと要求だけしていたらなくなってしまう)

    みんなの足となる公共交通もコモンズ
   (みんなで支えないと失ってしまいそうです)

以上、「マルクス」を読んでの感想であります。





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映画ができた「飛行場のまち 所沢から始まる物語」 5月1日よりDVD貸出開始!

2023-04-24 13:22:07 | 本・映画など


3月25日のことであるが、 書きかけていた原稿を完成させた。アップしたい。


所沢市で作った映画が完成し、その完成発表会があった。(3月25日)


観てみてつくづく「これはよかったのかもしれない」と思い直した。

「飛行場のまち 所沢から始まる物語」 である。


ライト兄弟が世界で初めて空を飛んでからちょうど8年目、

1911年に日本でも初めての飛行場が 
ここ所沢に造られた。

さらに8年がたち、フォール大佐率いるフランス航空教育団が日本に招聘(しょうへい)されて、教育訓練が行われた。

そこから日本の航空史は始まっている。


そんな所沢の歴史を後世に伝えるために映画を作りたい、と商業観光課が映画製作を企画をしたのは、

きっと令和3年の秋だったのだろうか?

そののち、(令和4年度予算に採用してほしいと)企画案の形で私の目に飛び込んできたのは、令和4年の1月のことであった。
(そういうのを市長査定と呼ぶ。予算は3月議会に提出されるまでに、各部内で、その後は財務部によって査定され、ある案は採用され、またある案は削られ、または否定されて姿を消し、最後に残った案が市長・副市長の前に出てくる。それを最後に査定して最終議案になる。)


だが、それにかかる製作費原案は1748万円。

もちろん財政をつかさどる財務部が良しというわけもなく、私のところに来た時には「やるならば500万以内で」

と財務部による但し書きがついてきた。

それを見て、私も、それでよい、と思った。

時代はさかのぼって・・・・・・・・・

所澤を知るイベント part2 - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき (goo.ne.jp)

日本の飛行技術はフランスに習った! フォール大佐はじめフランス航空教育団来日100周年! - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき (goo.ne.jp)
今から4年前の令和元年、本市はフランス教育団来日100周年を記念して、4月の文化フェアに重ねて記念祭を開いたのだった。

国の後押しもあってフランスからも教育団の子孫を招き、日本側の子孫にもお越しいただいて、

(松本零士さんもそのお一人だった)

自衛隊も記念飛行をしてくれ盛り上げてくれた。

その年度の後半には、今度はフランスから招かれる形で実行委員会が渡仏して歓迎を受けたり、

私も在日フランス大使館に招かれたり、所沢で行う闘茶会に大使館員を招いたり・・やり取りは続いていった。
(これらの経費は国だったりフランス側だったりが出してくれて、市としてはお金を出さないでも事が進んだ)

そこで、令和4年度には、集大成として、映画を作成して後世に伝えていきたい、

そう言う趣旨でずっと担当してきた商業観光課から議案が上がってきたのだった。

だが、関係者にとっては大切だが、一般にはそうでもない、という物事もある。

また、市が映画を作るなんて大それたことをしてよいのか、そういう考えもあった。


500万円では不可能、俳優も使ってフランスのロケもいれて、500万では到底できない。

そんな趣旨の嘆きが、提案してきた商業観光課からは聴こえてきた。

しかし、ふつうは「じゃあ、それで」とこちらも終ってしまうのだが、 今回はどうも気になって、

予算編成があらかた終わったころ、担当の気持ちをもう一度確かめてみた。

すると担当も粘ってくる。(何とかしてやりたい! 大切なことだ。この関係を無にしたくない。必ずいい結果を出すから・・・)

結局、1500万円でよいものを作ってみろ、ということにした。 令和4年度予算 最終調整の1月末のことであった。


かくして、映画制作費用は令和4年度予算として正式に採用されて、予算書に載り、議決を経て、

令和5年3月、ついに完成したのであった。


そして、いま、制作された映画を見て、もしかしたらこういう税のかけ方もありなのかもしれない、そう感じたのだ。

それだけ良い映画に仕上げられている、と感じるのだ。


文化や歴史は努力をしないと継承はされない。努力しても難しいときもある。

学校の授業一回分の短さに仕上がったこの良質な映画作品は、

後世の子どもたちが学校の授業を通して観続けてくれることで、その役割を果たしてくれるのではないか。

観れば必ず、所沢を見直すことになると思う。

DVDをお貸しできますので、皆様、ぜひお申込みくださいね。
(YOUTUBE公開もJCOMテレビ公開もできないらしいので)

所沢市ホームページ 短編映画『飛行場のまち 所沢からはじまる物語』DVD・ブルーレイディスクの貸出を行います (city.tokorozawa.saitama.jp)


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選挙に行こう! 最近読んだ本も

2023-04-09 16:35:39 | 本・映画など

今日は、県議会議員選挙投票日

所沢市は4人当選のところに5人が出馬。

私もこれから投票に行きます。

県は2兆円2111億円もの一般会計予算規模を持ち、予算も面積も所沢市の21倍くらい。

福祉も、保健も環境も教育も、それぞれ分担するところが決まっていて、

あるときは県だけで、または市だけで、またある時は県と市で、それぞれ市民のために仕事をしています。

さて、今回の選挙、

自分としては、特に18歳以上の若い世代の投票、政治参加がきちんと確保されるかに注目しています。



テレビをつけるとトランプさんの批判をしていて、


自国主義(自分)、刹那主義(今だけ)ポピュリズム(こっちの水は甘いぞ)を揶揄している。

だけど、それはアメリカだけの現象ではないと思う。


日本だって、選挙はみんなそういう傾向で、今の人相手に、おいしいことばかり言っている気がする。

50年後にはどうなっていたら良いと思うか、せめてそのくらいのスパンで考えていきたい。

※ただし、それどころでもない人もいる。これは労働政策を変えていくべきなんだと思っている。


最近読んだ本から・・・・・・・・・・・・・・・・・


  晩年のマルクスは何を考えていたのか?

  村上春樹らしい読後感だった。

物に追われ、金に換算され・・・自由を失ってはいないだろうか?

狩猟採集民の言語研究者が、狩猟採集民の言葉を話し生活し、
いつしか、同じ生き方をするようになっていくドキュメント


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本を読む 

2023-03-11 21:53:30 | 本・映画など

読もうと思っている本がたまっている。

積ん読(どく)が増えてきた。

今週も議会中であるが、その合間、夜に読んでいる。

一般質問になれば、答弁書きと審査が連続し、夜遅くまで終わらない。

『光の とこに いてね』 一穂ミチ 作

3週間前、音まちコンサートの時、パルコに寄ったので買ってきた本だった。

二人の女の子の物語。 

「木綿のハンカチーフ」の歌のように、それぞれが順番に語って、物語は進展していく。

小学生の頃の部分が、こどもの感覚らしく描かれていて興味をもって、買った本だった。

女性のそれぞれを想う繊細な感覚が描かれていた。 

淡い気持ちになる。

最終盤は、えっ、そうなるの? といった感じで、


心の機微に自分は疎いのかもしれない、と思った。

『センス・オブ・ワンダー』 レイチェル・カーソン 上遠恵子訳

有名な本だ。 すごく短編である。

まっさらな心の時に、子どもには五感でもって自然を感じさせてあげよう。

その経験を経てこそ人間は成長していくのだ。 

私も昨年のCOP27のとき、そのようなことを述べてきたことを思い出した。

西田幾多郎のいう「純粋経験」も想起した。


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『ホモ・デウス』 ユバル・ノア・ハラリ著

2023-01-15 04:30:17 | 本・映画など



1月15日(日)

昨夜は眠かったので、夕食を食べてすぐ、なんと夜7時に寝てしまった。


そうしたら深夜0時半に目が覚め、もったいないのでブログの土日版を下書きし、

風呂に入って本を読み、終えた。

ユバル・ノア・ハラリ著 『ホモ・デウス』

有名な『サピエンス全史』の著者による警告の書だ。

凄い本だ。 わくわくし、恐れながら読み終えた。


20世紀を経て人類は、長年の目標「飢饉、疫病、戦争」を乗り越えた。

生命科学やテクノロジー、IOTを駆使して、そこに意識や自己に価値を置く「人間至上主義」が重なると、

21世紀の人間は「不死、至福、神の力」を獲得しようとする。

そして、自己をアップデート(遺伝子操作など)して神に近づこうとする=ホモ・デウス(神)になろうとする。

だが、その時人間は今のように地上の最高の地位、にいられるのか?

人間の意志も無機的な化学反応(アルゴリズム)で説明しようとする考え方=データ至上主義が、

全ての分野で広まった時、

人間の存在自体が、データやアルゴリズムやAIに、地位をとって換わられるのではないか。

人間自体も情報処理(アルゴリズム)の連続で説明され、

すべての世界から処理しきれないほどの情報を集め、

データこそがよりどころであり、データで全てが説明されるのなら、

そして、AIが進歩し、ほとんどの分野で人間にとって代わり、人間について、本人よりも知るようになるのなら、

人間の自己や意識、人生と経験など無用の存在になってしまう。

人間の存在が無用になる。


狩猟時代は自然の一部でしかなかった人間は、

農業革命を経て神とともに地上で君臨し(他の存在を下位に位置づけ)、

20世紀には、科学技術を発達させ、人間至上主義を極めて、神をも黙らせ(神はいない、人間と科学があるのみだ)、

人間を頂点に君臨させた。

その過程で、人間自身も、かつて馬に頼っていたのにクルマの発明で馬が車に取って代わり

馬を無用な存在に貶めてきたではないか。

だから人間もまた貶められ、存在を失うことがあり得るのだ。

ホモサピエンスが、ほかの動物より繁栄できたのは、協力、団結ができたから。

そして、虚構(共同の意志)を信じることによってだ、とハラリ氏は言う。

その虚構がデータ至上主義に移りつつある今、私たちは長い視野をもち、慎重にものを考えて、

歩んで行くべきなのだ。

さもなくば、(一部の裕福でアップデートされた人を除いて)人間は無用の存在になる。


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『ブルシット・ジョブの謎 クソどうでもいい仕事はなぜ増えるのか』 酒井隆史著

2022-12-11 19:02:02 | 本・映画など

世の中の99%の富と権力は、1%の人々によって所持されている。

それでよいのか!

2011年、ウォール街を占拠した運動にかかわったデビッド・グレーバーが、

その時の対話を背景に、『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』を記した。

その翻訳を
手がけた酒井隆史氏が、

グレーバーが言いたかったこと、を解き明かしたのがこの『ブルシット・ジョブの謎』である。

以下、自分なりの理解であり誤解も多いと思うのだが、記録しておきたい。


ネオリベラリズムは、ついに「ブルシット・ジョブ」を生みだすようになってしまった。

ブルシットジョブとは、

働く人が自分でも、
「完璧に無意味で、不必要で、有害でさえある」と感じている(実際にそうである)仕事


でも、そうではないように取り繕わなくてはならないような、 クソどうでもよい仕事

である。

そして、グレーバーはそれを5つに分類した。

1. 取り巻き(flunkies)
だれかを偉そうにみせたり、偉そうな気分を味わわせたりするためだけに存在している仕事
2. 脅し屋(goons)
雇用主のために他人を脅したり欺いたりする要素をもち、そのことに意味が感じられない仕事
3. 尻ぬぐい(duct tapers)
組織のなかの存在してはならない欠陥を取り繕うためだけに存在している仕事
4. 書類穴埋め人(box tickers)
組織が実際にはやっていないことを、やっていると主張するために存在している仕事
5. タスクマスター(taskmasters)
他人に仕事を割り当てるためだけに存在し、ブルシット・ジョブをつくりだす仕事


さて、グレーバーによれば、ブルシットジョブは管理側の側面から増えているのだという。

それは、資本家にとっては管理こそが関心事となり、ネオリベラリズムは競争を基盤とするからだ。

競争させ比較するには、そして、それを把握(管理)するには、数値化や指標やマニュアル化する必要があるのだ。

一方、非ブルシット・ジョブ、つまり、人間社会に必要不可欠な仕事とは、きっとエッセンシャルワークと呼ばれるようなものであり、

それらは人間や社会をケアする仕事であった。
(そして、このエッセンシャルワークこそコロナ禍にあっても稼働し続け、経済が止まったはずなのに、社会は恐れられたほど破壊されなかった。つまり、不必要に肥大化してきたのは管理部門(ブルシット・ジョブの巣くうところ)であり、停止したのも管理部門だったのかもしれない。)

だが、ネオリベラリズムのもとにあっては、そういう仕事こそ低賃金で、休めない。
(これをエッセンシャルワークの逆説と言う。)

ここであきらめてよいのか?! グレーバーは訴える。

そして、グレーバーは、ベーシックインカムの導入を想起する。(具体的にではないが) 

そうやって、等価交換の自縛(働いただけしか報われるべきではない=だから、働け)から逃れられる社会を模索する。

また、一方では、
市場価値とかお金で推し量る見方から解放されて、モノでもコトでも、

ケア(慮る=おもいはかる)を大切にして生きていく社会になることをあきらめないで願い、

想起していこう、と訴えているのだ。

酒井隆史さんはそう書いていた。(と私は解釈しました。誤解もたくさんありそうです・・・・)


さて、自分としても、確かに、この20年以上、こんな作業しなくていいのに、と思うことがよくあった。

アカウンタビリティに関係する、

数値化(誰にでも見える化)する作業、目標設定して公表して、自己評価して、

説明責任のもとに作業を記録し、説明できるようにして・・・の一連の作業。


(自分は幸いそういう作業に携わらないで済んでいるが)

学校でもシラバス(指導計画)を求められ、学校評価をし、意見を求め、それに応えて対策していく作業が必須だ。

また、仕事が分業化する中で、「謝るだけの仕事」なども出現している。

これでいいのか? それで社会も働く人も、幸せに近づくのか とよく思う。

マルクスはその発展において最終的には「各人はその能力に応じて(働き)、各人にはその必要に応じて(報いられる)」の社会になると言い、
ケインズも、同じように、それほど働かなくてもよい豊かな社会になる、と同じような指摘をしたそうだ。(と書いてあった)

もう等価交換の原理を作動させなくてよい社会=相互扶助の社会が来る、と言っているのだ。

人々はずっと、労働時間が短くなって余暇が増える豊かな社会=「最小の労働で最大の余暇がある社会」を求めてきたのだった・・・。

そうだったのだ。 これも私にとっては驚きの指摘だった。(でも、そりゃそうだった!とも思う。) 

また、ネオリベラリズムは統治の技術であって、公務労働ととても親和的なのだそうだ。
(公務労働は統治=管理、記録の仕事がおおいから)

つまり、ブルシットジョブは管理や記録の仕事で増えていく面があるということ。

ネオリベラリズムといえば、民間(グローバル)企業の専売特許、
公の仕事を浸食する、つまり、「官から民へ」で代表されるように、
公の仕事を民間企業がどんどん肩代わりしていく面はよく報じられてきたが、
(例えば、清掃事業の委託、給食調理部門の委託、窓口業務の委託、福祉業務の指定管理化、
・・・・公園運営の委託・・・よその自治体では水道の委託・・・と)

だが、実は、公務(事務仕事の面)の中でこそ影響を受け、自己培養してしてきたのだ?!

確かに、同じことをする際にも、手続きが細かくマニュアル化され規定されて仕事は肥大化している。
(公務労働も上記の例を挙げたようにまず手足を(民間に)切り売り(委託)し、
次に、神経伝達物質(システム)も委託し・・・、頭脳だけはと思っていたが、
無意識のうちに腹が膨れ(不可欠でもない事務仕事の増大)ていて、最後は、頭脳も委託なんてことにならないとは限らない。でも、計画づくりではコンサル委託がすごく多いし・・・末は、○○総研が企画部門を丸ごと受託するなんてことも・・・。)

気をつけなきゃ。 改めて、仕事を見直してみたい。




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本を読む

2022-12-08 16:50:06 | 本・映画など

最近読んだ本の中から

平川 克美 著『共有地をつくる』


共有地とはコモンズである。そして、社会的共通資本である。

私たちを取り巻くすべての事物が、みんな値段がついて商品にされてしまっているし(消費する対象)、
私たちの側も単なる消費者と化してしまっている。
成長し続けることを余儀なくされているのが、資本主義だとすれば、それを排除した場、空間、関係ができないか!?

社会も環境も傷んでいる。
資本主義(成長主義)はそこから脱せないのだから、我々のほうから資本主義を脱しようというのは「人新世の資本論」(斎藤幸平)
経済の目的はみんなが働くことで、みんなが幸せになること。お金がない時代の労働はみんなそれだった。
お金は、回すことで働きがつながりみんなの幸せが増えていくための手段である。お金を中心に経済をとらえず、「人」を中心にとらえなおしてみよう、というのは「お金の向こうに人がいる」(田中学)

そして、平川克美は、
贈与交換のほうが等価交換より社会の本質であり、
また、資源が足りないのなら分け合うしかないのに、(等価交換の果てにある)所有への欲が格差と不平等を生んだ、
そして、心安らぐ家族とはそもそも一緒に食べる人々のことだった、
と指摘したうえで、
私有を少し離れて、共有する場=共有地を作るため『隣町珈琲』を作る実践に踏み切る。

「コミュニティは自分で作らなくちゃだめだ。コミュニティが自分を救ってくれると期待しているのは、お金が助けてくれると思っているのと同じ。(=コミュニティは買うもんじゃない、自分で創るものだ)」

自分はずっとそういう考え方にシンパシーを感じてきた。

この数年は、地球温暖化に対しても、コロナ禍の状況に際しても、西武S.Cの開店の時も、パルコの撤退に際しても、また、ふるさと納税に対しても、常に同じことを訴え、同じ気持ちでいる。

万城目 学 著『 あの子とQ 』
久々の万城目学。

やっぱり楽しくさわやかな青春小説。

万城目学はいいですね。  京都が場面だともっといいんだけど、ね。

熊倉 潤 著『新疆ウイグル自治区 中国共産党支配の70年』

戦後、清、国民党、共産党へと移るときが ウィグル族や少数民族の人たちの独立にとっての分かれ目だった。

同じイスラムを信奉する民(モスリム)でも、

ソ連側にあった共和国は、タジキスタン、カザフスタン、タジキスタン、キルギスタン、ウズベキスタンと独立したが、

中国にあったウィグル族は、それがかなわなかった。

その時々の、中国、ソ連の思惑にも左右された。

この本を読んで、新疆(あらたな辺鄙な土地)ウィグル自治区の人々の歴史がよく分かった。

共産党の同化政策が、

経済発展、格差是正路線 から 分離主義排撃、監視と同化教育、強制労働、親戚制度、

と移っていく中、ウィグル人は、馴(な)らされてしまうのか?

筆者の立場はあくまで中立的だが、文化的ジェノサイト(民族文化抹殺)ではある、と記された。











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休日をとる 映画を観て 裸のムラ オレの記念日

2022-11-05 00:38:48 | 本・映画など

久しぶりの休日を得た

朝も9時まで眠り、そうだ、映画行こう! と東中野にて2本の映画を観た。

五百鬼頭幸男監督 『裸のムラ』

金聖雄監督の 『オレの記念日』 である。

『裸のムラ』では、批判的にも描かれていた政治の姿も含め、

いろんな生き方がある、しかし、それぞれに大真面目で一所懸命なのだ、

と私は感じた。

『オレの記念日』では、

布川事件で冤罪と闘ってきた桜井さんの姿は、あかるく前向きだった。

だから、29年も獄中で無罪を訴え続け、仮釈放後も取り組んで、

国家賠償にも勝利し、

袴田事件、狭山事件、東住吉事件の冤罪事件の伴奏者となり、

かつガンをも乗り越えようとしている姿は、そこに底流するテーマに比して

「人間」存在のもつ希望、というようなものが感じられてくるのであった。

上映後には監督と編集者の対談があった。

曰く
(一連の映画を取るようになったのは)なんで理不尽な冤罪受けてこんなに真っ直ぐ生きているのか?

狭山事件を含めそう感じたことがきっかけ。 

冤罪は我々にとって遠い存在になりがちだが、癌をも乗り越えていく櫻井さんの姿に考えた。

by金監督

 
冤罪を扱いながら人間の暖かさを描く、金監督はそうなるが、

真犯人は何をしているのか? というのが最初の動機。

本当のことは正面きっては桜井さんは言ってくれない 

甲南大学での法曹界を目指す学生による模擬裁判後のシーン

「裁判官検察のひとは、体制の中で考えるようになりがち

司法を目指す人は常識と(人情?)を身につけてくれ」 

と語ったことが桜井さんの真っ直ぐな吐露だった。

自分がしたかったことは、真実を編集によって表に出したかったのだ。 

by野村編集者

いい映画を見られた。



普通なら東中野で飲んで余韻に浸るが、今日は、お通夜で平間さん(すだれや)がある、

平間さんはとてもまっすぐで有難い人、お世話になった人である。

大切な人の喪失、悲しく残念至極。

その後は、上下水道局の取材もある。

すぐに所沢に向かった。

感謝。

なお『オレの記念日』は、田端でも上映中、ならびに上映延長が決まったとか。 以上、お知らせも兼ねて。
 

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