幸せを感じられない、格差が開いている、不公平で公正でない、自然や環境も危ない、民主主義すら危ない・・・
これらはきっと、市場原理主義、グローバル経済、いや、資本主義の行き詰まりを表しているのではないか?!
(資本主義に代わる)もう一つの(オルタナティブな)道 はないものか?!
そう模索する人が増えている。(と思う)
しかし、もっととっくに、
人間の幸せとは何か を見つめ、新たな道 を模索していた人々がいた。
そして、彼らは その結論を正面切って主張していた。
自分は、そのことに驚いた。
「脱成長の道」
・ヨーロッパの方では、欧州評議会が作った指標を使い、各地で「豊かさ」と「生活の充足度」を調査し、
その過程で、人々を巻き込み、みんなで意見を出し合い、社会参加させ、一員として行動していく、
(民主主義を地で行く)作業をしているという。
指標に基づく質問事項は3つ。
1.あなたが充足感を得られる生活状況はどんなものですか?
2.あなたが不満を感じる生活状況はどんなものですか?
3.現状を改善するためには、あなたは何を行うことができますか?
地域や集団(アソシエーションと呼ぶ)ごとに調査し、集計し、皆で意見を出し合い、みんなにとっての「共通善」のようなものを発見していく。
この作業を通じ、「共通善」、「みんなにとっての幸せ」を見つけ、作業を通じて「共同体」が再構成され、「責任の分かち合い」(主体化)が行われるようになる、という。
幸せの指標と言えば、ブータンのGNH(2008年作成)、タイの足るを知る経済(2002~?)、荒川区のGAH(2007)があるが、
資本主義につきものの「成長と拡大=大量生産・大量消費・大量廃棄、」からは、格差と(自然・社会の)破壊が生まれるので、
そうではない道を探ろう、と幸せの指標を作ったのだ。それらはみな同じ頃にできたようだ。
日本では、ずっと1人当たりのGDPが上がってきたが、生活の満足度は1981年以降ずっと下がり続けている。(一応2005までの調査で)
この傾向はどの先進国も同じであり、一定のものの豊かさを獲得したのちは、幸せは得られなくなるようだ。
この本で著者たちは、次のように提言していた。
幸せを測る指標(ものさし)を「成長・拡大・蓄積」から「社会参加・分かち合い・つながり・基本的人権・生命の尊厳・生態系・自然・多様性」におこう。
そのために、もっと我々は簡素に生きよう。
より少なく生産し、より少なく消費し、より少なく廃棄する、
「節度」を持って、
自然や生態系や生物多様性や土地の文化など私たちの生きる生存基盤(サブシスタンス)を守る態度で、
1人1人の生命の尊厳を大切にした社会を目指そうではないか! と。
このブログをまとめるうちに、自分は、ある出来事を思い出した。
2011年、市長就任後 エアコンの問題が起きた時、和ケ原商店街で「なぜ狭山ヶ丘中のエアコンを断ったのか」を市民に説明した時、
自分はこの著書と同じような趣旨のことを集まられた市民の皆さんにお話ししたのだった。
会が終わってのち、残られた一人の女性の方が、「そんな社会じゃ、ぜんぜん面白くないじゃないか!」とおっしゃったのを、私は今思い出したのだ。
そう言われて、私はその時、何も言い返さなかった、気がする。
というのも、確かにダイナミックでなく面白さに欠ける、と自分でも感じていたからだ。
自分では「市民の 新たな幸せのために・・・力を尽くしてまいります!」と様々な挨拶の締めに申し上げていたにもかかわらず、である。
さて、考えてみれば、政治の言葉は、いまだ威勢がよく、成長と拡大に満ちている。
「・・・ますますのご発展をお祈り申し上げます」は政治家の挨拶の常とう句である。
自分は、任期途中から、その言葉を使わなくなった。 「発展」を「成熟」に換えたりもしてしゃべっていた。
夏祭りの時なんかは、成熟 だと歯切れ悪く、ピシッと終われず、けっこうそれが違和感だった。
そんなことも思い出した。
でも、学問の世界においては、簡素に生きよう、より少なく作り、より少なく使い、より少なく・・・と正面切っての主張が存在したのだ。
その主張が、いつか学問の世界から政治の世界に躍り出て 経済の世界までに受け入れられていくのは、いったいいつの日なのであろうか。