ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき

活動日記ほど堅くなく、日々の思いをつぶやきます

『日本農業への正しい絶望法』神門善久著 を読む

2024-09-21 19:10:37 | 本・映画など

神門(ごどう)教授による 日本農業の課題分析と対策 である。

結論から言えば、

よい農家とは、(農薬使用不使用、堆肥の有機、化学関係なく
その土地の土と天候に合わせて、元気で栄養価の高い動植物を常に育てることができる農家のこと。

技能を持った農家が減少しているのこそ 今 1番の問題である。

貿易の自由化を考えると、アジアの小農、米豪州の大規模農に対しても、
(=大規模化で、また、労働力の安さで勝負してくることに対して)

技能集約型農業が一番強い。日本はそれを進めるべき。

日本は今までそれをないがしろにしすぎた。

特に最大の欠点は、農地利用が無秩序でずさんだったことである。
それが、土づくりを大切にし技能を持った農家がやる気をなくすのを助長した。


今後は、
・農地基本台帳をしっかり正確に作り直し、情報を公開し、
・農作物ニーズの実情と農地の必要度を考慮して、市民も含めて話し合って、
                「農地利用規定」をつくって、筆ごとの利用規定を定め、

・必要なら農外転用も計画的に行い、農地利用も技能を持ったやる気ある農家に集め、進めていくべきである。

また、消費者も、
・一家で食事したり、新鮮なうちにおひたしや煮しめにするなど保存がきく料理法も駆使し、食品ロスも少なくし、嗜好性食品を我慢するなどしていくことが大切である。

そうやって、技能を持った、やる気のある農家を元気にし、
            技能を継承していけるようにすることが肝要、


というのが著者の主張だ。

 

著書の随所で神門さんは、
農業保護派(ノスタルジー派)にも大規模やハイ的農業にも、消費者にも、国やマスコミに対しても
すべてに対して手厳しい。



ダイコン100円の場合、農家の取り分は30円くらいである。これは、前出の山下惣一さんと同じ認識。神門さんは、でも同世代で比較すれば農家の平均所得の方が上、と指摘する。農家を弱者扱いは決してしない。

また、有機農業がもてはやされているが、偽物の有機もたくさん出回っている、と指摘。
写真や宣伝文句にだまされている。消費者の舌も真贋を見抜けなくなっている、という。


※本当の元気な作物はうまく栄養があり、もちもよい。
例)コメを水につけてほっておく。名ばかりの有機米は微生物もいるが窒素過多などで細胞が弱く、一番早く腐る。慣行農業のコメは微生物がいないからやはり腐る。一番腐るのが遅いのはよい有機米。微生物もいるし細胞壁も強いので腐敗が遅い。

最も大切なことは、元気で強い動植物を育成できるか否か、と指摘する。

大規模化を進めるにあたり、マニュアル依存型農業を国は推進してきたが、
技能の伝達がおろそかになる傾向がある。それだけではだめで、日本の強みは技能集約型にあり、双方が補完されていることが必要なのだ。
(技能集約型もマニュアル依存型もそれぞれ大事。でも基本は技能集約型。)

国が農地利用を農業委員会に丸投げして、放置したので、
耕作放棄地が把握できなくなり、農外転用もなし崩し的に進んでしまった
また、国は新規就農者ばかりに補助を当てている。

土づくりを大切にしてきた技能集約農家は馬鹿を見るように感じている。

ハイテク農業、その対極の粗放(自然)農業。6次産業化と農商工連携、農地の自由化。
そして一方ではJA悪玉論。 

国もマスコミも大はしゃぎでもてはやすが、それは幻想のようなものだ。
昭和初期、経済が停滞した時、やたら満州に新天地を求め、国全体が浮足立ったが、その頃と同じであり、経済が行き詰まり、新天地に逃避しているようなもの。最後は戦争に進んでしまった。
・ハイテク農業も粗放農業も、万万歳ではない。・6次産業などは昔からやってきた。・農地法も抜け道があって、農地転用でぼろもうけを狙う人も多い。まじめな農家のやる気を削ぐ傾向。・JAも力があった時は、農家集団をまとめる力を持っていてよい面で機能していたが、今は無力。金融ばかりで、金融には厳しさがない。組合員に非農家も多く、組合員の再定義と金融の分離が必要。

マスコミも識者も、島国ゆえの閉鎖性で上のような不都合な真実から眼をそらす。
それでは、また惨事を招いてしまうだけだ。

藤本感想)

有機ならば本物の有機。慣行でも本物の慣行。
神門さんは、技能の伝達、その維持に注目し、まじめにじっくりと技能が習得されていく環境を作っていくべき、と訴えておられた。
それを阻む問題を特に「農地利用の転用問題」いい加減さに認め、そこから整え進んでいこう、
とおっしゃっていた。  しかし、実行するには多くの障害が待ち受ける。
農家自身をも敵にする。消費者は無関心である。だから、「正しい絶望法」と題したのであろう。

ここ所沢、東京近郊では同様の傾向が非常にある。
農業では儲からない。それは、我が後援会のTさんもKさんも常におっしゃっていた。
土地を持つ人は道幅を少しでも広げようと要望する。そうすれば、沿道の活用が格段に広がっていく。
農業委員会の集まりに出ると、いつの間にか不動産屋さんの集まりに来たような錯覚にとらわれる。
それらも厳しい現実だ。

それでも、農業は大切だ。すべての産業の必須なのが農業(食べ物をつくること)だ。
農業ジャーナリストの大野和興さんは
「じゃあ、最後はどうすればいいんでしょうか?」との私の質問に対し、
「国民がそれぞれ土を耕すようになること、作る人になることだ」と答えてくれた。
あの時、ずいぶんと回り道な答えだなぁ、と感じたが、輸入を絶たれたロシアが予想外に食糧事情が悪化しないのも今更ながら想起される。大昔、そもそも農業は産業ではなく、自給のためのものだった。

「農のあるマチづくり」これも就任一年目から進めてきたが、指導者がついてくれる農園の拡大や市民農園の増設、これも一進一退あるが進めてきた。
農業自体にも支援をして、強く儲かるようにと、4期目の選挙では、ブランド化を狙って有機農業の推進と学校給食の有機化、無償化を公約に掲げもした。その前段階としては、「武蔵野の落ち葉堆肥農法」を世界農業遺産になるよう働きかけ、実現もした。また、農家にも掛け合って有機農業に対する導入の可能性のお願いや意見などを聞いた。一方では、食の安全の面についての講演を市職員の研修に組み入れて、市職員の理解と機運を高めてきたし、何度も職員とともに勉強会に通って有機給食への道を探ってきた。「オーガニックビレッジ宣言」ももうすぐ実現する。

この2か月くらい、農業関連の本を読んで、農業ではもうからない、のは事実のようだ。
農産品は自然相手で、工業製品と一緒には語れない。大規模化にもリスクが大きい。そして、日本人誰もが毎日必要とする食ゆえに、価格は安く抑えられている。生活にかかわるエッセンシャルなものほど、賃金も安い、とはコロナ禍に露呈したことだが、同じことが第一次産業にも言えるのだ。
昔、砂川議員が「農業はそれなりには暮らせるけど、儲けようと思ったら朝から晩まで、日曜関係なくやらないとだめだ。働きづめなくてもそれなりに儲かる農業があったらと思う。」と語っておられたが、そうなんだなぁ、と今更ながら思う。

労賃が安いアジアにも、大規模化で安い米豪に対しても、日本は普通だったら負けてしまう。
だから、貿易の自由化は限度をわきまえるべきである。また、国内の農産物もそれなりにコストが反映される値段で安定させ、そのうえで、国が所得補償の補助金を当てて、手の届く水準に価格をとどめるべきだろう。
気候変動対策として「みどりの食料システム戦略』は世界に歩調を合わせて決定され、2050年までに農地の25%は有機、と決まった。拙速は巧遅に勝る、とは言ったものだ。先にやるものほどもうかるものだと自分は思う。そして、そういう農業の方が気候変動、地球温暖化などを抑える効力がある。
まずはトライしてみることから、きっと進むべき道は明らかになってくる。

明日を見つめ、今を動く。
未来の子どもたちのために、今の大人がどう動くか、がやはり問われているのだ。







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山下惣一さん関連の本『振り返れば未来』『北の農民 南の農民』『井上ひさしと考える日本の農業』『タマネギ畑で涙して』『身土不二の探求』

2024-08-24 17:33:12 | 本・映画など

山下惣一さんも令和5年に亡くなってしまった。

私も何かのイベントでお話は聞いたことがあると思う。

もっといろんな話を聞いて、質問もしてみたかった。

それにしても、今、米が手に入らないと騒いでいる。

昨年夏の猛暑とインバウンドと、能登地震で買われた影響だというが、

30年前から「農民に減反させて外国から輸入するなんて本末転倒」と

疑義を呈してきた山下さん、井上ひさしさんほかの指摘は

やはり正しかったのだと思う。


そういえば、今朝は松岡正剛さん(編集工学、知の巨人そして角川武蔵野ミュージアム館長)の訃報が新聞に載っていた。

悲しいばかりである。

以下、5冊の備忘録を書いてみる。

・・・・・・・・・

農産物は市場に出ると繊細=工業の目線で語ってはいけない
農業は生産量が1割増えると値段が大暴落し、1割足りなければパニックになる。
山下さんの話では、前年比3%増で値が70%下がったとか。(ミカンの話)

また、当時東北で、缶詰用の桃が、冷夏と長雨で落果がひどく、
品質低下を見越した製造業者が5円/kgといってきた。
生産費を考えると1haあたり200万円の赤字になった。

農業では食えない・・・
山下さんの地域(佐賀県)の農家も、農業では生活できず、父親が農閑期に出稼ぎ(賃稼ぎ)に行かざるを得なかったという。
東北の農家も冬は酒造りや建設や出稼ぎに行っている。
出稼ぎでなければ、兼業農家として しのいでいる。

大規模化は危うい
農業の近代化とは、より大規模に単一で機械化して、儲かる作物を
より多く生産することを目指すのだが、そうすると安くなってしまう。
生産を調整して価格維持しようとしても、

所詮、アメリカの農業や安い労働力の途上国にも太刀打ちできない。
うまくいっても、相手国が補助金で支えて安く輸出(ダンピング)してくれば、かなわない。

大規模化したら、天候不順など何かがあったら、借金が返せなくなり倒産してしまう農家も多い。


そもそも農業は、気温が1度上がっても、雨が少し降らなくても、雹(ひょう)が降っても、霜が降りても・・・今までの苦労が水の泡となる。
そういう点で工業製品と同じ土俵で論じられない・・・。

近代化の裏には、農産物貿易自由化が
昔は大豆5畝、サトイモ五畝(せ)、あずき五畝、ナタネ五畝と少しずつ作ってきた。それを五畝五畝(ごせごせ)百姓と揶揄してきた。昭和36年農業基本法ができ、農業の近代化を目指す。機械化、大規模化、単一化で生産性を上げた。儲かるものを作れ! 選択的拡大だ! と指導された。余った次男、三男は工業に吸収された。工業輸出のいけにえとして農業があった。その先に、農産物貿易の自由化があった。アメリカが輸出する農産物以外をつくる、それが選択的拡大の裏の意味だったのではないか。

近代化以前は日本の食料自給率は73%あった。それから30年後、自給率は42%に(1996)小豆はあずきは28%→7%に、豆類は25%→5%に。そして、2011年には食料自給率は39%、穀物自給率は28%になってしまった。世界人口の2,3%の日本のために、世界の農畜産貿易の1割が対日本、国内のうちの2倍以上1200haの農地が、使われている。そして一方では、減反政策で日本の農地が余っている。これって、なんだ!?

農は成長でなく循環
政治は改革改革というが、日本人のあいさつは、「お変わりありませんか?」である。
不易と流行の不易を地で行くのが農業である。
商家は2代で老舗と呼ぶが、農家は2代では新家でしかない。
農家は移転しない。持続可能を旨とするのだ。

農を経営しようとすると・・・破綻する
儲かる農業とは、儲かる作物を儲かる時期にしか作らない農業。
商品作物に特化しても消費者に飽きられたら終わり。
株式会社化したら、経営が行き詰まったら放棄するか、
もっと大きな外資が来るが、投資家に買収されてしまう。
南米の農業は大規模化したのち、乗っ取られ、破綻した

資本の論理で企業経営に乗り出した養鶏も、外国のえさ、外国の品種と行き詰まり、商社に乗っ取られることが多かった。

農と文化はつながっている
井上ひさしはコメの自由化に反対した。それは、農業を捨て、文化を失うことだから。
日本は稲作、コメを食べる生活が作る文化だ。
ドイツならジャガイモ、スイスなら乳製品、フランスならブドウである。
どの国でも文化直結の農産品は輸入させない。

GATTは輸出国側に都合の良いルールである。
自分の都合で輸出しなくてもよい。補助金を当てて安く輸出してもよい。
自由化しなくてもよい。これらは輸出側の権利である。
さらに、アメリカにはスーパー301条の発動権もある。
1993年、日本はGATT合意をし、2008年時点では、ミニマムアクセス米は年に77万t輸入され、さらにその管理費用が200億円かかっている。TPPでは「例外なき関税撤廃」されようとしている。
余っているのに輸入しなければいけないって何なんだ?!

貿易の自由化は、グローバリズム。アメリカの戦略だ。
戦後の給食に対する小麦(パン)文化の輸入も、一環だ。

なお、麦に比べても、コメは優秀な作物。
コメは1haあたり5tとれるが、麦は3t。
栄養価、バランスも良いが麦はたんぱく質がない。
だから、麦文化は肉食を伴う。
コメは粒のまま食べられるが、麦は粉にするしかない。
そして、コメは連作が効くが麦はダメだ。
水田はダムの働きをし、土を守り、環境を守る。
雨にも負けずでは、一日4合といっていたが、今は1合しか食べない。
年間60キログラム。水田の4割は休耕田か放棄地になり、小麦の自給率も14%、大豆は3%だ。
稲作農家の平均時給は256円である。

目に見えない価値
「農」の生産以外の公益的価値、側面を認め、それに対し直接支払することをデカップリングという。
西欧はそれをする。スイスなどは国境の保全という意味もある。日本も中山間地域への補助が始まった。(2000~)
環境クロスコンプライアンス制度もオーガニックビレッジに対して開始。(2024~)
韓国では有機農業に対して環境の側面も評価して進めている。(親環境農業育成法1998)

日本は農作物を自給自足するには1100万ha必要だが、538万haしかない(1989)。農業は、地元にあってよかったねと地域住民が思うようになるべきだ地域を離れると市民も無関心にならざるを得ない
日本人なら日本で作った農作物で生きることが大切で、そのために、日本の食の伝統を取り戻したい。
最近は遺伝子組み換えイネがモンサント社からつくられ、種もモンサント社、それを使った耕地面積は5年前の30倍に。
(当時)(モンサント社は2018バイエルに買収された)

井上ひさしは「遅れたものが勝ちになる。」主義だと述べる。
15年くらいで価値観は一巡りする、という。
私も「一周遅れのトップランナーっていうけど、そういう流れが来ている」とよく講演会で話してきた

「食」と「農」と「環境」は「不易」でなければならない。
成長ではなく循環でなくてはならない。

農産物の貿易自由化は輸出国輸入国どちらの農業をもだめにする。
輸出国の農業は、大規模化、機械化、化学肥料農薬の使用、水の枯渇などで土がだめになり、
借金がかさんで土地を追われることにもなる。
輸入国にとっては、とってかわられ、農業は成り立たなくなるし、窒素をためることにもなる。
農作物の自由化で、食糧が飢餓国に届く、必要としているところに届くというがそうではない。
そうではなくて、最も高く売れるところに届くだけだ。


規模とコストを問題にするのは農業をつぶすためか?!
アメリカなどは1戸当たり200ha、日本は1haだ。 それでも頑張って、生産量を増やせば価格が下がる。


『タマネギ畑で涙して』は山下さんほかが、タイの農民を訪ねていく紀行文だが、
農業の近代化を通して農民がむさぼられていくのは日本と同じ過程をたどっている。
タイでも近代化がすすめられたが、大規模化、機械化してひとたび天候不順などで失敗すると土地を奪われ、小作になったり、米を作っているのに自分ではコメが食えない、という状況が起きている。利をむさぼるのは、金貸し、機械設備、卸しなどを牛耳る「ミドルマン」だ。(華僑)
タイでも北と南では天候も土も違い、北の貧農は土地を追われ、娘は身売りされ、ということもままある。
(タマネギ畑で涙して)

域産域消 四里四方で
山下さんは、「農業の地域離れ」を何とかしたいと思っている。が、農協の共販システムは、指定地制度につながっていて、それで補助を受けられたりもする。「野菜生産出荷安定法(1066)はトマトやキュウリなどは10ha以上、キャベツやレタス、大根などは25ha以上の生産があれば指定産地となる。しかし、指定産地になると中央卸売市場に半分以上は持っていかなくてはならない。さらに、そのランク付けもあり、地元では出回らなくなっている。
しかし、近年、農業を取り巻く環境が変化してきた。

市場もセリより相対に。消費者も地元志向が強くなってきた。
一方、生産者の取り分は減少傾向だ。今、(1998)生産者の取り分は、ダイコン27%、白菜15%、キュウリ30%、ミカン29%だ。消費者が払っているのは大半が、輸送、包装、卸し費用なのだ。
だから、(それらを省いて)地元の野菜は地元で食べるようにしたい。
自治体ごとに自給率を調べ、露天市を復活利用し、農協とコープの連携例もあるのだから、それも進め、
各自が地元の農を守っていくようにできないか。

農家、あるいは地域が、自給品目、自給率を高め、自ら食べるだけでなく地域の供給し仲間を増やしていく。

これが大切なのだ。商品作物、特産物は、やるならばその土台の上だ。


ある村で起きていることは、日本中で起きている。
日本で起きていることは世界中の村で起きている。
これがグローバリゼーションの特徴だ。
結局、
各自(消費者も農家も)が身の回りの「環境」と「食」と「農」を守っていくしかない。
自分(身)が変われば世の中(土)が変わる。
自分(身)が変わらなければ、世の中(土)は変わらない。
それが身土不二なのだ。(身土不二の探求)


世界の工業国は農業国でもあり、農産品の保護はしっかり譲らない。
核保有国も同じ。つまり、経済も農も食も戦力も整えているのが、
所謂、普通の国なのだ。 藤本の感想
また、輸出する場合、補助金で安くしダンピングしてくることもある。

身土不二とは
身土不二は(しんどふじ)と読むが、仏教では、(しんどふに)と呼ぶ。
明治30年代、陸軍薬剤監をしていた石塚左玄の起こした「食養道運動」
のスローガンとして『身土不二』は唱えられた。自分の住む四里四方でできた旬のものを正しく食べることを目標とする。
人の命を支えているものは食べ物であり、海産物含めてすべて土が育んだものだ。ゆえに、人間は土そのもの。『身土不二』ということだ。

一方、宗教界でも同じ言葉が使われて、こちらは、土を世の中に見立て
人間の在り方が世の姿となる、という意味。『身土不二』は1305年、中国の仏教書『廬山蓮宗寶鑑』の中にでてくる廬山蓮宗の教義の大綱書。廬山蓮宗は中国浄土教であり、紀元400年頃に起こる念仏を唱える仏教。それを善導大師が日本に持ち返り、時代を経て、法然が受け継いで、親鸞へと続く。

身土不二は韓国で盛ん
韓国でも『身土不二』運動が盛ん。こちらはGATTに対抗し、国産を農産物を食べよう、しかも、有機で、という運動。韓国農協中央会の会長ハン・ホソン氏が日本の(有機農業の草分けとして知られている)荷見武敏氏の著書『協同組合地域社会への道(1984)』に感動して始めた。この本には、「土を基盤とする物質循環の理法を尊重し、生態系のバランスを崩さない自然な農法を目指しているのが有機農業の生産者であり・・・『身土不二』の哲学を身に着けており、『土健やかにして食健やか、食健やかにして民健やか』・・・自給率を高め、域産域消を広めていくべき…」という提言が書かれている。
なお、GATTに対抗しているときは、韓国もバブル景気であり、農業へのバッシングが強かったという。農業だけ補助され保護されて胡坐をかいている、という批判である。その後、韓国では、経済が破綻し、輸入飼料、輸入肥料、輸入燃料の高騰で大規模化した農家は借金の返済で首が回らなくなった。それも日本と同じ。
 経済発展の過程で、農業を放棄し、食を失い、金も失った韓国は、外国産農産物を買う金もない。そうしたなか今まで傍流であった自然農業に光が当たり始める。韓国自然農業協会会長の趙漢珪さんに大きな影響を与えたのは3人の日本人でヤマギシズムの山岸己代蔵、『酸素法の本意』の著者、柴田欣志、巨峰を生み出した大井上康の三氏。(ヤマギシズムについては自分は大学生のころ興味があって、本気で三重県に尋ねてみようと考えていた。が、親に止められたことを懐かしく思い出した。自然農業では脱化学農薬、飼料、肥料をはじめ、画一農業から地域農業へ、設備の大規模化、先端化から簡素化へ、小規模多品目の有畜複合農家の育成と近距離産直システムの構築などを目指している
今、ソウル市など大きな都市でも有機給食が実現している背景がそこにあるのだと私もわかった。
なお、身土不二っていうと砂川育雄議員を思い出す。市議だったころ、つまり、2000年頃、砂川さんは身土不二のことを言っていた。

星寛治さん
さいごに、『北の農民 南の農民』における北の人、山形県高畠町で有機農業を提唱し、それを 社会づくりにまで発展させた星寛治さんには会ってみたかった。星さんは早くに有機小農複合自給こそが百姓の基本に立ち返ると唱え、有機産直運動を展開、それを村づくり、文化づくりに昇華させ「高畠町基本構想」において「家々の庭先には家庭菜園があり、新鮮で安全な食べ物を自給できること、田園の中につちかわれた人と人とのつながりによって困難な問題に対し、相互扶助で対応できること・・・」とマチの基本構想の前文に理想像を書かしめた人である。有機農業と産直運動、これを通して人々が話し合い、課題を解決し、つながっていくこと。これが街づくりであり、文化(Culture)が耕されるのだ。耕す=Cultivate←agriculture(農業)

なんと所沢が!
そして、もうひとつ、その偉大な星寛治さんと、先日受けた講座で講義された谷口吉光教授(秋田大学)(急な展開でスミマセン、わたし有機農業の関連の勉強会に参加シテマシテ)のどちらもが、その中で指摘されていた人物、運動が「所沢生活村」白根節子さんの有機産直運動であったのだ! 星さんは白根さんに励まされ、谷口先生は白根山の講演を聞いて、それぞれ有機農業を実践され、研究を始めたのだった!
思い出すのは昨年と一昨年、市内某所で「所沢生活村」なるブースを見つけたときのことだ。
有機農業を推進しているらしいのだが、ブースにいる女性のかたが、生協やコープとちがって、華やかさやオシャレ感が感じられないので、きっと本質的なんだろうけど数人の方の細々とした運動なんだろうと私は勝手に判断していた。
昨年には私も有機給食を採用する覚悟を決めていたので、市の取り組みを滔々とお話ししたのだが、
「所沢生活村」がこの世界でそれほど根源的な存在だったとはつゆ知らなかった。
帰り際に、リンゴを買っていけと言われしぶしぶ買ったが、
あのリンゴは今思うと山形の高畠町、星さんたちの有機リンゴだったに違いない。
なんという失態。石清水八幡宮を訪ねて本尊を拝まなかった、あの仁和寺の法師のようではないか!?

以上長々と羅列したが、備忘録としてご容赦を。

※ また、読んだ本全て今から10年以上前に刊行されたものですから、その後、変わっていることもあることだと思います。私も詳しくないこともあり、お許しを。


山下惣一さんと星寛治さんの書信によるやりとり


井上さんは、コメは文化 自由化に絶対反対を主張した


タイ農民と日本の農民 タイでも同じことが日本以上に起きている


身土不二 私たちと土は一体          人間と世のありようも


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『振り返れば未来』

2024-08-22 14:08:59 | 本・映画など

柳瀬地区の私の後援会役員さんは、篤農家(とくのうか)の方ばかりである。

「ウクライナの戦争があって一気に値上がりするのからもわかるように、食糧輸入と石油に頼るのは危険です。日本は自給率38%、食糧安全保障という意味でも環境保全の意味でも、農業に光を当てて地産地消を進め、自給率も高くし、あわせて有機農法を広げていきたいんです。
国も『みどりの食料戦略システム』を出しました。武蔵野の落ち葉堆肥農法も世界遺産になりました。巨大消費地に一番近い所沢です。今がチャンス。
農業に力を入れていきたいです!」

私がそういうと、その中のTさんが、いつもこういわれるのだ。

農業はやっても損するばかり、他の収入で賄って何とか続けられるだけ。
農業はそういうもんなんだよ。」

また、Kさんもこういうのだった。

農業を支援するより、農家を支援してほしいんだよね。」と。

そんなに農業は農家にとって負の遺産なのか?!

それじゃあ、国なんて もたないじゃないか?! 

農業ではなくて、奉仕じゃないか!(それでも、ご先祖様からの土地を守るために、農作物は作るが、生計は他から得るしかない。)

全ての人間にとって、不可欠な「食」の仕事がそんなことってあるものか!?

それでは亡国のシステムではないか?!・・・

これが私にとって、ずっとひっかかっている疑問であった。


が、農民作家の山下惣一さんの本を読むと、どうもそうらしいのである。

それも、日本だけでなく、どこの世界の農民も、である。(例外もあるが)


山下さんは指摘する。

全農家の平均年収は全産業の1/3しかない。(1990年頃)
(平均を100とすると、500人以上の製造業世帯年収の平均が125、あとは平均以下で100人~499人規模のそれが90,30人~99人規模のそれが74,5人~29人規模のそれが60,農業に至っては3ha以上耕す農家のそれが55,2ha以上だと45なのだそうだ。それは、農業は一軒当たり労働者数は2,5人。他の産業は1,6人での比較である。また、専業農家は農家の15%しかいず、85%が兼業であり、かつ、その内訳は、農外収入中心が70%、農業中心は14%しかないんだそうだ。)

だから、農業は割に合わない。だから、兼業で補うしかないのだ、と。

う~ん、たしかに、

東北の農家は冬に出稼ぎに行く、とはよく聞いていた。

酒蔵の杜氏さんもみなそういう立場だ。

〇〇さん家は専業だからきついよ、とは所沢の農家でよく聞く話である。

そして、必要度が高い職種だからといって、給料が高いわけではない、というのも事実である。(コロナで福祉、介護関係に対し痛感したことである)

逆に、絶対に必要だからこそ、安く抑えられている。

それが、さらに安くを追求されて、成り立たなくなろうとしている。

また、化学の力に頼るしかなくなって、機械化で借金もかさみ、環境も破壊するようになった。

つぶれない農業、を 百姓としてどう見出すか?!

これが、山下さんの課題であった。

山下さんは、最後にこう解を導く。

百姓は定住民。持続を旨とするしかない。
市場経済3:地域経済3:自給経済4ぐらいでちょうどよい。
そもそも、農業は工業と同じ土俵で考えてはいけないもの。

だから、「大規模化せず、有畜小農複合経営で行こう。と。

『振り返れば未来』

それは、土を大切にする農の原点に返ること。

昔から大切にしてきた営み(有畜小農複合)にこそ(持続可能な)未来の姿があった、ということなのであった。

次回は、この際、読んだ山下惣一さんがかかわる4つの本『振り返れば未来』『北の農民 南の農民』『井上ひさしと考える日本の農業』『タマネギ畑で涙して』『身土不二の探求』について、備忘録を書きたい。







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学校給食の有機化、無償化への道  

2024-08-11 12:03:10 | 実績・公約

東日本大震災と原発事故以降、私は人と自然の関係に着目し、考えを進めてきた。

自然との共生、健康、環境・・・そうやって追究していくと、食と農の在り方に行き当たったのであった。

農の根源は土の力であり、微生物の力(生物多様性の賜物)でもある。

人は土から成るものを食べている。人は土からできている、といってもよい。 そして、死ねば土に還っていく。

化学肥料と化学農薬に頼るということは生物を殺し、土の力を削ぐことだ。

土を枯らし、石油漬けにしていくことでもある。


農業の近代化は、より多くより速くより安く作るため、大規模化(単一化)と機械化を進め、

化学肥料と化学農薬の使用を余儀なくしたが、

それが 人にとって、より栄養豊かでより安全なのか、そして持続可能なのか? 

実は、温室効果ガスの1/3が食料システム由来(輸送含む)だったり、生物多様性喪失の8割が農業を原因とする。(世界)
また、EUで禁止している農薬を日本では許可したり、基準を緩めたりしている。
種子法を改変して種の自家栽培を禁止し、種を企業から買わねばならないように仕向けている。
グローバル企業は、農薬と種をセットにして売り、農業を支配し、知的所有権をもって儲けに走っている。

それでいいのか?

そのような諸々の問いがあって、4期目の選挙では満を持して
(これら課題については勉強会などで市議時代から25年学んできた、が財政を考慮すると踏み切れなかった)


有機農業の推進、有機学校給食の導入を掲げ、

それを公がしっかり支える証として無償化を掲げたのだった。

その思いは今も変わらない。

ただ、公約を説明するにあたって、まじめにやってきた農家こそ有機農業に懐疑的なのも事実であった。

それはなぜなんだろう?  それがいつも頭の中で引っかかってきたのだ。

それを解明するような 農家の本音が書いてある本を農家の方に勧められて、

まずは読んでみた。

山下惣一さん聞き書きの『振り返れば未来』である。

次回には、感想を述べてみたい。





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雨月物語 癇癖談(くせものがたり) 上田秋成 を読む

2024-07-20 14:43:40 | 本・映画など

このところ、肉体を使うこと多く、疲労感がある。

指がまた強張んでいる・・・


さて、

内田樹さんが、

聖なるもの、霊性を重んじることに、日本の特色があり、


小説におけるその祖は上田秋成ではないか? 

というようなことを言っておられたので、


新潮古典集成 『雨月物語 癇癖談(くせものがたり)』を読んでみた。


「雨月物語」は哀切、信義、愛欲、怨念、憤怒を含んだ怪異譚、

でも、どのお話も読んだあとに切なさが残る。 


「癇癖談」は、当世の人々を表した随筆とも言うべきか。

雨月物語は、有名な「浅茅が宿」がやはり一番 切なく悲しい。

「蛇性の婬」は蛇の化身に見初められ、とり殺されそうになる話。

逃げても逃げても逃げられない。恐ろしい話だ。


「夢応の鯉魚」は、ある僧が、夢の中で経験したことが、実は現実に起きていたことだった、という話。

夢で、大魚となって遊ぶうちに漁師に釣られてしまい、調理人に殺されそうになったところで目が覚める。覚めて確かめると、今しも現実にそういうことが起きていた。不思議な話。

「菊花の約」は、命を賭してまで約束を重んじた武士の話。

そのほかのお話は、どちらかというとおどろおどろしい恨み、怨念の話か。

「癇癖物語」は、男と女の色話、好色の男、遊女もたくさん登場する。

伊勢物語をまねて、昔をとこありけり、のような感じで書いてあった。


上田秋成は中国・日本の様々な古典を縦横無尽に利用し、下敷きにして、

物語をつくっているのだそうだ。

 「夢応の鯉魚」 まな板の上 すんでのところで魂がのがれるところ 挿絵


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『だからあれほど言ったのに』 内田樹 著

2024-07-13 21:26:59 | 本・映画など


内田樹氏の本。

いつ読んでもそうだそうだと納得する。3点に絞って感想を述べたい。

.日本にある「人口減の今、都市集中で対処するしかない」という言説は、

資本主義ゆえの帰結なんだという。

本当は「一極集中」か「地方分散」か、対処策は二つあるのだけれど、

資本主義は前者しか採用しないのだ、という。


資本主義は、経済の成長を求め、効率的に生産性高く、拡大しようとする。

とすれば、人口が減る局面では、人も物も資源を(都市に)集中させたほうがよい、となってしまうのだ。

日本より人口減のスピードが速い韓国では、すでに人口の45、5%がソウル近郊に集中し、

15ある釜山の大学のうち14の大学で定員割れが起きているという。

内田氏は、都市一極集中を目指す、とはつまり「シンガポール化」を意味するのだ、という。

シンガポールには地方はない。

私たち日本人、

地方が無住地化し、山河が壊れ、国民に帰るべき田園がない未来を、良しとするのか否か、

資本主義の呪縛を離れて我々国民は考えていくときにある、と内田氏は語りかけた。


2.この世ならざる者(霊的な存在など、あちらの世界とこちらの世界を行き来しはし渡すもの)を大切にしてきたのが、日本の在り方なのだと内田氏はいう。

村上春樹の小説もそうであり、江戸時代の上田秋成よりそれを体現してきた。

子どもという存在も、7つまでは神のうち、とみなされ、日本では昔から大事にされてきた。

だから、「学校は、この子どもの持つ危うさ、はかなさ、聖なるイノセントなものをできる限り傷つけずに、

『あちらの世』から『こちらの世』(大人の世界)にそっと送り出してやることだと心得ねばならない。」

と内田氏は言うのだ。

そして、あの世とこの世をはし渡す、この世ならざる者には、古来、こどもの童名がつけられた、という。

酒呑童子然り、牛飼い然り、京童然り、船の名前然り、刀剣の名しかり、

みな「〇〇丸」と「子ども枠」に入っていた。

そういう「こども観」を見失ってはいけないという。

大学生時代、自分もそう感じていたことを読んで思い出した。


3.母語というのは、そこに人が住み言葉が生まれ、そこで起きた諸々のことが蓄積されて成立しているものだ。

日本人ならば、そのアーカイブの表面の上澄みが現代日本語に当たるのだ。

日本人ならばその蓄積が知らずと体にしみこんで体得されている。

「新語」というのは、初めて聞いた人もその意味が感覚で分かってしまう「新しく作られた言葉」のことだが、

だから、「新語」は母語でしか生まれない、のだそうだ。

「やばい~」(とってもいいという意味での)も聞けば大人もなんとなく理解してしまう。


とすれば、タイムマシンで徒然草の時代に我々が行ったとしても、

ひと月もそこで暮らせばネイティブスピーカーのように古語を話せのではないか、と内田氏は言うのであった。

そうなんだなあと首肯した。


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『だめ連の 資本主義より たのしく生きる』を読んで その3

2024-07-10 12:19:25 | 本・映画など


 所沢の若き農業者たち 所沢の夏野菜 旬ですよ (記事とは関係ありません)

学生時代までは
効率や能力を基準にして人と接するわけではない。

しかし、
社会に出ると 仕事は成果とか効率(費用対効果)を求めるので、人間を使える奴使えない奴に分けてしまう。

そして その価値基準がわたしたちの社会を埋め尽くす。

たまたま「使えない奴」「だめな奴」側に入れられた人間が、

「だめ」に思われないようあくせく働く のではなく、

その構造から「いち抜けた!」をして抗議する、
資本主義に与(くみ)しない (楽しくやっている姿を見せつけてやる)

それがだめ連のやり方だ。(ここまでは前回のまとめ)


自分も「だめ連」の気持ちがよくわかる。

自分も、仕事上ではきっと「ダメ」な方にくくられるだろう。

意義とか理由とかにこだわって 納得しないと動かない。

めんどくさいやつ は だめ側だ。 

気持ちがわかる。 だから「あいつ 使えねぇなぁ」なんて言葉は 

自分は一生涯使ったことがない。 (使えと言われても使えねぇ。)

また、

その構図の中で戦っても相手を利するだけだから、そこから降りる、

という手法も、よくわかる

納税行為に競争と損得(損益)を持ち込んだ「ふるさと納税」に抗議するため、その競争から降りた 

のと同じなのだから。(う~ん、正のシンパシーすぎる。)

資本主義には与(くみ)しない。

だから、だめ連の人たちは、お金から離れる。

野菜は自分で育てたり、野草を食べたり、家も友の家に居候したり・・・

お金をかけずに たのしく生きる。

幸せとは何か に焦点を当て、

週に何日か働いて、時間と心にゆとりを持ち、物々交換(贈与)したり、

お金をかけずに遊んで生きる。

遊ぶことは幸せなんだ。

そして、その遊びとは、

1.交流・トーク(みんなで路上や人の家に集まってだべる、議論する)
2.歌う・踊る(どんな国の人も歌い踊ると楽しいらしい)
3.自然の中で遊ぶ(ハイキング、キャンプ、川あそびなど)
4.旅と合宿

なのである。

それらは考えてみれば、若い頃のノリであった。
(お金がなかった時代の)


そして、僕は、本文中の神長氏の言葉にハッとする

「今は遊びも消費になってる。飼いならされてる。踊らされている。

梁塵秘抄にもあったでしょ、
『遊びをせんとや生まれけん 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子どもの声きけば 我が身さへこそ揺るがるれ』 って。」

まったくその通りだ

お金がなくては遊びもできない。いや、できないと思い込んでいる。
(でも実際、お金がないと居場所までなくなってしまう現代ではある。)

この考え方も、自分が施政方針演説などでよく訴えていたこと
「現代はどこに行ってもプライベートな空間ばかりとなりお金がなくては居場所もない、そうではなくて、広場のような誰にでも開かれたパブリックな場、コモンズともいえる空間が必要だ」
会議録表示 (kaigiroku.net)
に通ずるのだ。

あまりにも共感しすぎて、そこで、その本で紹介されていた「なんとかBAR」に行ったりしてみたのが、二十日ほど前、それも金をかけずに。
なんとかBAR にシェアサイクル使って あわせて作文教室? - ガッツ藤本(藤本正人)のきょうのつぶやき (goo.ne.jp)

そうだ! もう一度行こう! 遇(あ)って交流してみよう。 

そして、そののち 僕らの「あかね」にも行ってみよう。

だめ連に共感し、だめ連に励まされた  そんな読書体験となりました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下は備忘録として

・寺山修司の言葉
「街は開かれた書物である。書くべき余白は無限にある。」

「別れは必然だが。出会いは偶然である。」


・消費とは労働なんだよ!
楽しいとき=消費しているときってなっちゃっていないか?(神長氏の言葉)

・今はさらに、承認問題というものがある。(承認中毒)
原発デモの場でも、ツイッターの中で誰と誰が口論してるみたいな話題になってしまう。どんなに楽しい時間でもどうアップしてどうコメントするかとまず先に考える。普通に感動したり深く味わう瞬間が消える。(神長氏の言葉)

・ツールとして便利に使いこなせばよい、と思っているが、そんな甘いもんじゃない。お金を便利に使いこなせていますか?!
使いこなすってできない、武器だってお金だって。
それはただ飲み込まれるだけだよ。(ぺぺ長谷川氏の言葉)

これも「なんとかリテラシー」と言っては、経済界に有利なように話を展開する現代だが、僕はそんなうまくはいかないと思っている。ペペ長谷川氏の言うとおりだ!


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『だめ連の 資本主義より たのしく生きる』その2

2024-07-09 16:27:07 | 本・映画など

負のシンパシーをもって挑んだこの本であったが、

自分には なんとも腑に落ちる中身であった。



この本は、「だめ連」神長恒一氏とペペ長谷川氏による対話をもって編まれている。

2人は、今の資本主義の世をこのように断じる。

資本主義は、経済というより統治のシステムである。

 仕事を通じて人間を競争させ、比較させ、

 「勝ち組」「負け組」

 などと分類し、

 だめなやつとは思われたくない(ダメなやつプレッシャー)によって

 さらに労働、そして、消費、ゆえにまた労働へ、

 と人を永遠に逃れられない不幸の循環の輪に閉じ込めていく。

 そういう統治のシステムなのだ、と。

そして、

・今日普通に受け入れている「自己責任」「能力主義」「生産性」「費用対効果」

 などの考え方も

 人をこのシステム下にとどめるための思考に過ぎない。

・大きいことはいいことだ、強いことはいいことだ、
 早いことはいいことだ、多いことはいいことだ・・・、

 本当にそうか!?

 人間の生き方、人間の価値はそれに尽きるのか?!  と。

そして、訴えるのだ。

・否!  そういう価値観から半歩降りて、

 第三の(オルタナティブな)生き方をしようじゃない


だめ に開き直って、 

だめ をポジティブに生きる 
というアナーキズムこそが

「だめ連」が目指し実践する生き方なのだ、と。

・・・・ここまでが本に書いてあったことのまとめ1・・・・

さて、

本当にその通りだと僕も思った。

1日中汗水たらして働く人より、マネーを右から左へ動かす投資家の方が何百倍も稼ぐことができる。

汗水たらして働いても、非正規等だとゆとりある生活はけっしてできない。

っておかしいじゃないか、と思ってきたからだ。

また、

1日8時間×週5日、労働するのが本当に普通なのか?
(たぶん江戸時代なんかは、人はそんなに働いていないと思う)

マルクスもケインズも、労働時間が少ない社会を目指したのではなかったか?

生産性をいくら上げても労働時間は減ることなく、さらに生産性向上に駆り立てられ人間性が疎外されるって約束違反ではないか!?

会社は人間のために、経済は人間のためにあるのではなかったのか?!


と、僕もずっと感じてきたからだ。  (つづく)


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だめ連の 資本主義より楽しく生きる その1

2024-07-08 09:50:33 | 本・映画など

『だめ連の 資本主義よりたのしく生きる』を読んだ。

この春 新聞紙評に紹介され、図書館で注文し、八潮図書館から富岡分館経由で読むことができた。



「だめ連 って人たちが占拠しちゃって、今はしょうがないんだよ~」

大学を卒業して数年の1990年頃 正実さんがぼそっと言ったのを僕は今でも覚えていた。

「今、早稲田の「あかね」は誰(バイト)がやってるんですか?」

と聞いたときの、正実さんの反応である。



「あかね」とは文学部正門前の喫茶店で、

学生時代、僕は「あかね」にたまる学生たちが作った軟式野球同好会「アカネッツ」に属していた。

僕らはもちろん、学校よりも長い時間を「あかね」で過ごした。

その日々は、汗と涙と練習と、議論と酒と失敗と、

そして振り返れば、友情と希望に満ち溢れていた。(テニスサークルではないので、愛はなかった)

正実さんはその「あかね」のマスターであり、その正実さんが、言ったのだ。

「だめ連 って人たちが占拠しちゃって、今はしょうがないんだよ~」


学生運動(たぶん中核派)もしていた闘士の正実さんなのに、何だこの歯切れの悪さは?

不可解ながらもそのままに、

それから30年以上の月日がたった。



「だめ連」に負のシンパシー(マイナスの共感=反感)をもっていた僕は、新聞紙評を読んで決意した。

『だめ連の 資本主義よりたのしく生きる』 

呆れた本だ。  読まねばならぬ。 (つづく)


いまの「あかね」
だめ連が占拠したのち、今はイベントスペース兼バーとして存在しているらしい。

あかねの字は、昔とは「ね」の字が違う 黒猫の絵もなくなっている



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狭山茶づくり に参加して

2024-07-04 17:04:31 | かんじたこと、つぶやき

実は、狭山市の有名な「宮岡園」で お茶づくりの仕事に参加させていただいていました!

昨日、7月3日をもって、二番茶の「あら茶」製造も終わり、ひと段落となりました。


ハローワークに通いながら偶然募集を目にしたのが3月末。

所沢市内ではいろいろ噂が立ちそうだし、でも、狭山市ならば同じ狭山茶の本場。

すぐに申し込んで、市長だったことは隠してもらい、(最後のころはバレてしまったよう・・・)

4月28日~5月15日まで一番茶、6月13日~昨日まで二番茶

茶園の皆さんと繁忙期にお手伝いに来るアルバイトの方々、私を含む今年新人2人

汗水たらして工夫して、会長、社長はじめベテランの方は知恵と経験を総動員して、

おいしい狭山茶づくりに携わることができました。

お世話になりました。


それにしても農業って本当にいいなあって思います。

それは、相手が自然、偉大な自然と折り合いつけて、祈りながら誰にも媚びずに作業するから。

また、無から有を育てる価値ある仕事だから。(私は育ててないけど)

収穫した生茶をどう製茶するかに秘訣があって、知識や経験や勘がその園の茶づくりに反映されるから。

そして、食の基本を司(つかさど)る営みは、いかなる世になっても最後まで残る営みだからです。

お茶の場合は、それに加えてお客さんの喜ぶ顔も見られるからかも。
(1次産業×2次産業×3次産業=6次産業)

その一端に参加できたことを自分は幸せに思います。


           二番茶を刈った後の茶畑

広大な茶園、柔らかな新葉が伸びた摘採期には、一気に刈って製茶するため、工場の作業は夜中にも至ります。

生茶を蒸す時間も秒単位で試みられ、何度もにおいをかいだり湯に入れて飲んだりして、

納得できるあら茶が作られていきます。

お茶は一年に一度の収穫、製造で勝負。 もっとこうすべきだ、ああすべきだ、会長と社長も譲りません。

その真剣勝負の緊迫が バイトのわれわれにも伝わってきます。


自分は、工場内では掃除をしたり、刈った茶葉をコンベアに流したり、

屋外の茶園では、色味を深くし成長を調整するためのシートを茶の木にかけたり、葉を刈るためにそれを外したり、

下準備に専心しました。

が、その間ずっと

おいしいお茶になってほしい多くの人が買いに来てほしいより高級に取り扱われてほしい

願わずにはいられませんでした。

        こちらが一番茶


身体は疲労でくたくたで(仕事で1日平均1万5千歩)、雨が降ると(休めると)ほっとしたり、汗でぐしゃぐしゃで一日4㎏の体重変動をしたり。

すべてはいい思い出です。

そして宮岡園の皆さん、そこに働く善き人々にであったことが、一番の思い出かもしれません。

ありがとうございました。


市民の皆さん、

狭山茶はこうやって、お茶農家の方々の1年をかけた優しい、熱い思いとともに生まれ

ています。

茶農家の皆さんが手塩にかけた狭山茶を、どうぞじっくりと堪能してください。


      2番茶あら茶終了 茶工場を掃除してほっとして
後列左から  高橋君(新人) 原さん 八千代社長  前列 私(新人) 藤井さん(社員)

会長はじめ他にもたくさんいらっしゃったのですが、この時にはおられなくて、すみません。









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都知事選 清水国明さん 

2024-07-01 17:30:48 | かんじたこと、つぶやき

所沢市の教育委員を務めていただいた 清水国明さん が 都知事に立候補しています。

清水さんは、「あのねのね」の芸能人として有名ですが、

私が市の教育委員にお願いしたのは


人間は 自然の中でこそ 活き活きと本来持っていた力を発揮する

という考え方に共鳴し、お願いしたのでありました。

3期10年間お願いしましたが、むしろ 先端産業の開拓者 人間教育の達人 防災対策の先達 として、

教育委員会の話し合いでは、縦横無尽にアドバイスをしてくださいました。

清水さんの活動の一端が分かる記事

・自然と人間 ありが島経営 アクティビティ | ありが島リゾート (arigatou-resort.com) 
・水素発電と起業 
・水素発電    THE FLINTSTONE (bayfm 78.0MHz) :清水国明・定点観測「今回は地球規模!?」 〜水素社会スマートシティ構想〜 (ゲスト:清水国明さん)

・島ごと10GIGAインキュベーションセンターで街おこし好評連載コラム|シニア・高齢者のための情報満載サイト|はいからonline (hi-carat.co.jp)

・災害が起きるとトレーラーハウス所有者に呼び掛けて全国規模で被災地でトレーラーハウスを避難所として設営。


・大震災の時は300人の子どやお年寄りを河口湖のキャンプ場に招いて生活支援。

・発達障害というのも、芸人はある意味ほとんどそれ。才能をどう生かすかで光らせる。それが芸能界。

都知事選に立候補されたので、本誌の教育委員は失職された。残念である。

が、ぜひ 
知事として力を発揮してほしい

もっと東京にみどりが増えるだろうし、東京の子どもたちは地方の自然と結びつくだろうし、

日本の産業は復活するかもしれないし、奇想天外な事業がニョキニョキ育ってくると思う。 

政見放送は民法版が一番清水さんらしい話になっています。
Bing 動画   



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なんとかBAR にシェアサイクル使って あわせて作文教室?

2024-06-21 22:11:20 | かんじたこと、つぶやき

先日、急に時間ができたので、映画を見てきた。

そして、そのあとは池袋から高円寺まで シェアサイクルで行ってみた。

資本主義抗いお金の奴隷にならず自由に生きていく系の人々が集まるお店に 急に行きたくなったからだ。

それも お金をかけずに!        ・・・・・・・・以上が(起)

向かったお店はその名もんとかBAR」 自由そうな人々が楽しそうに飲んで話していた。

~系(界隈)の人たちは、だれとでもかかわり、トークする系らしいのだが、

今日は自分は見学者に徹し、だれにも話しかけず30分ほど飲んで店を後にした。

今度はしっかり来て、ディープに交流してみたい!! ・・・・・(承)

ところが、その後、さらに安っぽい店が目に入り、暖簾(のれん)をくぐってしまった。                  

で、隣の人に話しかけたら、なんと所沢は和ケ原出身(狭山ヶ丘中)の人であった。

熊本さんという方で、今は杉並で住み、中野で働いているという。

なんとかBAR でなく、むしろこっちのお店で楽しく交流してしまった!  こっち=四文屋                                                                                                                                                    ・・・・・・(転)

う~ん、阿佐ヶ谷とか高円寺って、人間臭い店がごちゃごちゃあって、なんかいいなぁ。                                                                                                                                         ・・・・本来ならこれが 
(結)


    
ということで、
シェアサイクルもまた けっこう有効 なんでありました。
(なんだ? そっちか)              ・・・・少々強引な(結) 破調 


  高円寺 「なんとかBAR」

 なかも いい感じ である。いろんな檄文 ポスターはってある。


四文屋 キンミヤ焼酎の梅シロップたし と とんトロ冷製

立石「うち田」 北千住「おおはし」 吉祥寺「いせや」
 以来の登場  キンミヤ焼酎 






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人様の前でお話をする 6月15日(土)

2024-06-15 18:35:32 | 行事を見たり聴いたり活動

いや~、久しぶりに人前でお話をさせていただいた。

題名は「市政に託してきたこと」


なんか話してくれませんか? と頼まれてから 約1か月かけて

この12年間(以上を)振り返り、画像資料をつくった。

自分としての市政に懸ける「思いの変遷」を 省みる機会ともなった。

さて、家で資料作りに励みに励み、作りすぎて、

プロジェクター画像は90枚以上となった。

さすがに40分では無理。(40分間講演、20分間質疑のつもりだった)

で、そこから絞って73枚にした。

が、話し始めたら 

あれも言いたいこれも言おう、脱線したり・・・57枚目で時間いっぱい。

最大持ち時間1時間も 5分すぎてしまった。

まあ、こんなもんか? (すみません!!)

皆様、


つたない話 お付き合いありがとうございました!


   写真は「所沢のお米で日本酒をつくる会」での田植え
                これまた、とっても楽しい作業だ!!


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バジュランギおじさんと、小さな迷子 を観る

2024-05-21 20:04:15 | 本・映画など


なんか、すごくいい映画でしたねぇ。

帰りのエレベーターで一緒になった人に思わず話しかけた。

そうですねぇ〜、ほんとに~。 

相手からも間髪入れず返ってくる。

誰かと共有せねばいられない、そこはかとなき感動の映画だった。

以下 映画の紹介文から転記)

底抜け正直者のインド青年と、声をなくしたパキスタンの迷子。ふたりの旅が、世界にステキな奇跡を巻き起こす!

カビール・カーン監督が贈る、正直者のインド青年と、声をなくしたパキスタンの迷子が織りなす国や宗教を超えた感動の物語。主演は『タイガー 伝説のスパイ』でも監督とタッグを組んだサルマン・カーン。パキスタンの小さな村に住む女の子シャヒーダー(ハルシャーリー・マルホートラ)は声が出せない障害を持っている。彼女を心配した母はインドのイスラム寺院へ願掛けに連れて行くが、シャヒーダーは帰り道で一人インドに取り残されてしまう。そんなシャヒーダーが出会ったのは、ヒンドゥー教のハヌマーン神の熱烈な信者のパワン(サルマン・カーン)。バカ正直で、お人好しなパワンは、これも、ハヌマーンの思し召しと、母親とはぐれたシャヒーダーを預かることにしたが、ある日、彼女がパキスタンのイスラム教徒と分かって驚愕する。歴史、宗教、経済など様々な部分で激しく対立するインドとパキスタン。それでもパスポートもビザもなしに、国境を越えてシャヒーダーを家に送り届けることを決意したパワンの旅が始まる......。


久々にばか正直でお人善しの主人公に出会った。

数々の壁にぶち当たっても、その正直さと善人さが、周囲を感化し、変容させていく。

社会が善くなっていく。



こんな人になりたい! と自分は若い頃からずっと思ってきたのだった。

そして、教師になってからも、生徒たちにそう語ってきたのでもあった。

「お人善したれ! できることなら実力あるお人善しに。」と。


自分の青春時代からの思いを思い出させてくれる感動の作品に逢って、

もう一度その願いを実践できるよう生きていこう、と誓ったのでありました。


 インド映画ゆえ、笑いあり踊りあり。でも、ラストシーンは泣けますよ~


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映画 『リトル エッラ』

2024-05-07 19:02:14 | 本・映画など

身体中の筋肉が痛い。体も重い。

今日はあいにく雨なので、晴耕雨読、

何か良いことをと献血して、映画を観た。

『リトル エッラ』

なんと可愛く、なんと心地よい映画なんだろう。

子どもも大人も気持ちはみんな同じなんだな。

ただ表現の仕方が異なるだけだ。

主人公のエッラは子どもだから、

映画に出てくる場面も人物もそれほど多くない。

2時間しない作品だけど、観てよかった!

 

映画館を出ると、

いつのまにか雨もやみ、空も晴れやか

世界が新鮮に見えた。

なお、エッラの好きなトミー役の人が、

おおはら村整骨鍼灸院の原先生に見えてしまうのは、わたしだけではないと思う。

さあ、あしたもがんばろう。

 


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