夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

「冷えたビール、涼しい部屋」が血圧に危ないワケ、78歳の私は多々学び・・。

2023-08-16 14:51:49 | 喜寿の頃からの思い
先程、ヤフージャパンが配信されている記事を見ている中で、
『「冷えたビール、涼しい部屋」が血圧に危ないワケ 
               ミスター血圧に聞く「夏にやってはいけない事」
』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の満78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

 

「冷えたビール、涼しい部屋」が血圧に危ないワケ ミスター血圧に聞く「夏にやってはいけない事」(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース

「冷えたビール、涼しい部屋」が血圧に危ないワケ ミスター血圧に聞く「夏にやってはいけない事」(東洋経済オンライン) - Yahoo!ニュース

暑い夏、血圧は下がりやすくなると言われています。暑くなると、体は体温を下げるために体内の熱を発散しようとします。すると血管が広がって、血圧が下がるからです。実際...

Yahoo!ニュース

 

 

 
今回、自身も36年間24時間測り続ける「ミスター血圧」こと渡辺 尚彦 ・医学博士より、
夏だからこそ気をつけるポイント、
と多々学んだりした。

そして具体的に記載されていたが、
物覚えの悪い78歳の私は、学んだことを忘れないために、
要点だけ再整理したりした。
 
 

このように熱い季節に過ごす中、「冷えたビール、涼しい部屋」が血圧に危ないワケ、
多々学んだりした。

そして私は、《・・暑いからといって、冷たいビールの飲み過ぎ・・
氷の食べ過ぎは、絶対に避けてください。・・》、
我が身の為、忠告を素直に守ります、と微苦笑したりした・・。

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『終戦の日』を迎え、国民のひとりとして哀悼の意を表し、黙祷を重ねて・・。

2023-08-15 12:52:23 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住むまもなく78歳の年金生活の身であるが、
朝の7時少し前に洗面した後、少し陽射しがある中、
玄関の軒下に立ち、襟を正して、
都心の皇居に向かって黙祷した・・。

私は1944年〈昭和19年)9月下旬、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に日本は連合国に降伏し、敗戦となった時、
1歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代のひとりとなっている。

後年になると敗戦する数年前の状況に関して、祖父、父、母、叔母の同居する人たちから、
或いは親戚の叔父、叔母からも、この当時のことを教えて貰ったりしてきた・・。

         

この当時、住んでいた北の方面には軍事戦闘機を製造する中島飛行機の工場があり、
西の方面には軍事物資を生産する軍需工場とされた東京重機が数キロ先にあった為、
ときおり近くに爆弾が落ち、空襲警報のたびに、
宅地から少し離れた生家の崖の雑木林にある防空壕に避難した、と話しを聞いたりした。

祖父と父か中心となって、程ほどの広さの田畑を耕し、
小作人の人々の手も、お借りたりしていた時代でもあった。

そして空襲警報が発令されると、何をおいてもとりあえず防空壕に避難したので、
慌しい恐怖の時代でもあった。

少しばかり遠方にあった軍事物資を製造する場所、軍用機を生産している場所を目標に、
米軍の爆撃機が幾たびか飛来し、爆弾を大量に落としたのであるが、
ときには付近の田畑、雑木林に落下した、 と後年に親戚の叔父さんに私は教えて貰ったりした。

そして250キロの爆弾と言われても私は定かでないので、
更に教えを乞うと、今で言うと大きなプロパンガスぐらいょ、と叔父さんは私に教えてくけたりした。

やがて私は大きなプロパンガスのような爆弾が、空から大量に降ってくる状況を想像すると、
身も心も身震いをしたのは、高校生の頃であった。

そして後年に、1944年(昭和19年)11月24日、アメリカ軍は、
大型長距離爆撃機の『B29』がマリアナ諸島を飛びだった111機が東京に初空襲し、
目標は中島飛行機の工場だった、と学んだりした。

        

その後、幾たびか東京の都心にも空襲し遭い、決定的な東京の大惨事は、
1945年(昭和20年)3月10日、『B29』が320機以上が、
1600~2200メートルの超低高度で、夜間に焼夷弾攻撃という新戦術が、
本格的に導入された初めての空襲であった。

その目的は、市民の生活の場である木造家屋が多数密集する下町の市街地を、
そこに散在する町工場もろとも焼き払うことにあった。

結果として、大きくの街は焼かれ、焼け焦げた遺体の山となり、死者・行方不明者は10万人だった、
と記載されたいた。


私の生家は、戦時中の頃は、玄関の中は農家の特徴である広い土間となり、
その一角の壁面に、各自の綿入れの布地の防空頭巾をつるしていた。

そして空襲警報が発令されると、祖父、父、母、叔母の人々に導かれて、
私が生まれてまもない頃の時は、長兄は5歳、次兄は2歳であったので、
防空頭巾をかぶしてもらい、手をひかれながら、防空壕に避難された・・。

私は乳児であり、おしめの取れない時期であったので、
母たちは何かと大変だっただろう、と思い返したりしている。

後年になると、叔母たちが話されたので聞いたりすると、
この当時は、防空壕の内部の土の上に藁(わら)を敷いた上に、莚(むしろ)か茣蓙(ござ)に座り、
家族全員で互いの安否を確認した上で過ごした、と教えられたりした。

        

私が小学3年生の頃になると、図画の授業で先生に我ら学童は引率されて、
学校の近辺の丘陵の雑木林に行った時、
コンクリートできた高射砲の台の跡が数多く見受けられた。

もとより戦時中、アメリカ軍の飛行機の来襲に備えて、高射砲で向かい撃つ態勢で、
造られた形跡であった。
そして上空から見えにくいようにコールタールの黒色に塗られていた。

この頃までは、小学校の帰路に寄り道をすると、数多くの防空壕が見受けられたり、
生家の防空壕も小学の後年の頃までは遊んだりした。

生家の雑木林の崖の一角に、縦横1.8メートルぐらいの入り口に木戸があり、
少し入ってまもなくすると、横に掘られ横幅が広くなり、奥は8メートルぐらいと感じたりした。
わずかに湿度を感じたりしたが、広間のようにゆったりとしていた。

後年の成人になった私は、
防空壕は入り口からまもなく角度が横になったのは、万一の爆風を避けることであろう、
そして幾分広めの内部は、平素の農作物の保存場所に併用していた、
とおぼろげに思ったりした。

この私の生家の防空壕は、私が中学に入学してまもない時、
都道が新設されることとなり、跡形もなく付近の田畑、雑木林も含め、

住宅街に大きく変貌したのであった。

このように戦争を知らない私は、防空頭巾、防空壕、高射砲台の跡、
後年の後づけとして知ったりした程度である。

       

このようなことを思い馳せたりしていたが、
もとより防空頭巾は、アメリカ軍の爆撃機が飛来して空から爆弾を落としたり、焼夷弾で焼き尽くしたり、
軍事生産地、住宅街などに大打撃を与え、住民も殺傷する目的を防ぐ目的であるので、
地上にいる人たちは余りにも残酷で、戦争は悲惨である。

敗戦となった日本は、数多くの方は家族を亡くされ、住まいも焼かれ、財産も失くしたが、
国からの賠償もなく、国民ひとり独りが立ち上がり、敗戦後の日々を歩みだしたことに、
私はただ項垂(うなだ)れるばかりで、当時の人々に思いを馳せると、胸が熱くなる。

私は小学校の高学年の時、一葉の写真を見た時は、
その夜は子供ながら、浅い眠りとなった。

この写真は、天皇陛下の横で悠然とたたずむマッカーサー元帥の姿であった。
そして私の生を受けた日の一年後であったので、なおさら後年に印象深く、私の心に残った。

1945年(昭和20年)9月27日、
昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館に、マッカーサー元帥を訪問した写真が、
2日後に新聞各紙に掲載された写真であった。

モーニング姿で直立する陛下の隣で、開襟シャツの元帥が腰に両の手を当てて悠然とたたずむ、
まさに勝者と敗者の違いを伝えている一葉であった。

             
☆たまたま2015年の5月に、福永文夫・著作の『日本占領史 1945-1952 東京・ワシントン・沖縄』(中公新書)を購読したが、
この本の帯に、昭和天皇が東京・赤坂の米国大使館にマッカーサー元帥を訪問した情景の写真があり、今回あえて掲載した☆
 
私は都心にある高校に入学した1960年(昭和35年の)春、特に日本史、世界史が好きとなり、
こうした中で、まもなく週刊誌『朝日ジャーナル』、そして近代史の書物も乱読してきた。

やがて22歳の頃から、沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、そして9日の『長崎被爆』、
まもなく15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして50数年は過ぎている・・。

こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。 

そして私はいつも感じることは、若き10、20代の諸兄諸姉に対して、
少なくとも日本の過去には、こうした現実があった、と認識して欲しい、固く願っているひとりである。

          

私は、皇居に向って黙祷をする真情は、 かの大戦の当時の国民風潮として、
『天皇陛下の御為と国の為に死ぬ事が日本人の美徳と教えられ、
戦死したら靖国神社に神として祀(まつ)られ、
崇(あが)められると信じて疑わない殆どの国民がいた・・』
と当時の時代の風潮の中で生き、亡くなわれた人々に哀悼の意を表しているに他ならない。

いずれにしても、戦争は多くの場合は外交の破綻から発生し、
最悪の場合は戦争となるが、勝戦国となる国民も敗戦国となる国民も余りにも過酷で悲惨である。


私はここ17年、この15日に於いては、
都心の千代田区の千鳥ケ淵戦没者墓苑の碑に刻まれた両陛下の詠まれた歌に、思いを重ねたりしている。

   国のため いのちささげし
      人々の ことを思えば 胸せまりくる         
                       昭和天皇

   戦なき 世を歩みきて
      思ひ出づ かの難き日を 生きし人々
                       平成天皇

私はこの歌を深く拝読するたびに、思わず胸が熱くし、
その時代を少し学んできた歳月に思いを馳せ、まぎれない鎮魂曲のように感じている。

          

この昭和天皇の歌の思いは、
靖国神社から程近い所にある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、
訪れる人も少なく、この季節は蝉時雨が響き渡る情景の中、 詠まれた伝えられている。

平成天皇の歌は、戦後60年の年の歌会始の儀で詠まれた、と報じられていた。

そして昭和天皇の御製の碑と向き合う形で、
2005年(平成17年)9月に平成天皇の御製の碑が完成した、
と確か読売新聞で読んだりし、私はつたない身ながら学び、思いを深めている・・。

          

本日、
78回目の終戦の日を迎え、政府主催の全国戦没者追悼式が、
都心にある日本武道館で開かれる。

そして参列される遺族のほか、天皇、皇后両陛下、岸田総理大臣らが出席され、
正午に黙禱された後、天皇陛下が「おことば」を述べられ、総理大臣や遺族らが献花をされる・・。

私はテレビで実況中継をするに伴い、例年のように黙祷をして、
国民のひとりとして哀悼の意をささげたりした・・。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑には、第2次世界大戦で海外の戦地などで戦死し、
名前が分からないため、遺族に引き渡すことのできない遺骨が納められています。


「終戦の日」の15日、岸田総理大臣は政府主催の「全国戦没者追悼式」に出席するのに先立って、
午前11時すぎに、戦没者墓苑を訪れました。


そして、花束をささげて深々と頭を下げ、戦争で亡くなった人たちの霊を慰めました、
と報じられていた。

このような時の総理大臣が献花されたことは、良き責務と思いを深めたりした・・。

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年金・医療・介護…このまま少子化が進めば、日本の社会保障制度は崩壊、私は学び、悲嘆して・・。

2023-08-14 19:35:58 | 喜寿の頃からの思い

【人口動態は嘘をつかない】年金・医療・介護…このまま少子化が進めば日本の社会保障制度は崩壊する

日本の社会保障制度も限界か(イメージ)

日本の社会保障制度も限界か(イメージ)


《・・ 今年6月2日、厚生労働省が発表した、
2022年の日本人の人口動態統計は各方面に衝撃を与えた。

「合計特殊出生率」が1947年以降で最低の「1.26」を記録したからである。
2022年の出生数に関しても77万747人と、1899年の統計開始以来はじめて80万人を下回り、
いま日本で過去最悪レベルで少子化が進行していることが浮き彫りになった。

社会を支える世代の減少は、年金をはじめとする日本の社会保障制度にも、
大きな影響を与える。

「年金博士」こと社会保険労務士の北村庄吾氏は、
「このままでは、年金制度は崩壊するのは必至」と危機感をあらわにする。



今の日本では、本当の意味での異次元の少子化対策が必要になってきています。
どうにかして手を打たないと、年金、医療、介護など、あらゆる制度が事実上崩壊してしまうでしょう。

2022年、一人の女性が生涯で出産する子どもの数を示す「合計特殊出生率」は「1.26」となり、
過去最低を記録しました。
合計特殊出生率は7年連続で減少し、2005年と並び過去最低の数字です。

2022年に生まれた子どもの数は、前年から4万人余り減少し、77万747人。
合計特殊出生率だけでなく出生数も過去最低です。

去年1年間で死亡した人の数は、156万8961人となり過去最多です。
亡くなった人から生まれた子どもの数を差し引いた人口減少幅は、
79万8214人となり過去最大です。
急激な人口減少社会になっていることがよくわかります。

年金制度の仕組みは「世代間扶養」です。
1960年(昭和35年)では、現役世代11.2人で一人の高齢者を支えていたのに、
2015年(平成27年)では、2.3人で一人、
2050年では、1.3人で一人の高齢者を支えなければなりません。

当然、年金の受給額も減るでしょう。
厚生労働省による「モデル世帯」の夫婦の年金額は、
2019年(令和元年)で約22万円/月です。

それが、2043年には、約18万円/月になると予想されています。
昭和61年3月までの旧法時代の人たちは、約28万円/月もらえていたことを考えると、
年金制度がどんどん頼りなくなってきていることがよく分かります。

少子化が止まらないと日本の社会保障制度は大きく揺らぐ

年金額が減少すると、私たちの生活はどうなるでしょう。
老後の家計支出のトップ3は、食費、交通・通信費、交際費です。

年金が半分になっても、誰とも遊ばない、携帯も持たない、食費も月1万円くらいで、
我慢すれば生きては行けるでしょう。
しかし、そんな生活で老後を過ごしたいでしょうか。当然、嫌ですよね。

年金額が減少すると私たちの生活はどうなる?

年金額が減少すると私たちの生活はどうなる?

年金が少なければ、生活保護に頼ればいいという意見を言う人もいます。
しかしそれも含めて、少子高齢化で保険料を納める現役世代がどんどん減っていけば、
現在の水準が守れるか、どうかが怪しくなってきます。

医療保険や介護保険なども同じです。

人口動態は、嘘をつきません。
昨年生まれた子供の人数は、増えることはなく、(移民を受け入れでもしない限り)
20年後の20歳の人口は、確実に予測できるのです。

岸田政権が進める「異次元の少子化対策」の効果も疑問視されていますが、
今すぐに少子化が止まらないと日本の社会保障制度は、大きく揺らぐことになるでしょう。

もはや、国や会社が守ってくれる時代は、
終わったと考えるほうがいいのかもしれません。

確定拠出年金や個人年金保険、小規模企業共済、国民年金基金などさまざまな制度があります。
これは国から「老後のお金は自分で作ってください」というメッセージです。
備えをした人だけが、老後に苦しまなくて済む時代になるでしょう。

ぜひ私のYouTubeチャンネルなどで一緒に勉強をしてしっかり準備し、
賢い老後生活を送りましょう。

【プロフィール】
北村庄吾(きたむら・しょうご)/1961年生まれ、熊本県出身。
中央大学卒業。社会保険労務士、行政書士、ファイナンシャルプランナー。
ブレイン社会保険労務士法人 代表社員。YouTube「週刊人事労務チャンネル」で暮らしの役立つお金の知識を配信中。
本記事に関する詳しい動画解説はhttps://youtu.be/O4rZrDUFAfEで配信中。

厚生労働省による「モデル世帯」の夫婦の年金額は2019年(令和元年)で約22万円/月。それが、2043年には約18万円/月になると予想される

厚生労働省による「モデル世帯」の夫婦の年金額は2019年(令和元年)で約22万円/月。それが、2043年には約18万円/月になると予想される


 
 
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熱中症を引き起こす「暑さ負債」、78歳の私は学び、対策を思案して・・。

2023-08-13 14:30:43 | 喜寿の頃からの思い
『 熱中症を引き起こす「暑さ負債」って何だ? 
                     記録的な猛暑が体にダメージを与える 
』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。

こうした中で、ここ数週間、私の住む地域でも、
平年よりも熱い日が圧倒的に多く、私は戸惑ってる・・。


殆ど毎日のように自宅の3キロ範囲にある遊歩道、公園を歩いているが、
猛暑の日には、熱中症で倒れたら困苦するので、自粛してきたのは、
昨年までの実態であったりした。



そして3日に1回、我が家の平素の買い物をする程度で、
出来る限り我が家のエアコンの冷気に甘えて、過ごそうと思ったが、
外出して、散策などしなければ、体調が悪化してしまう・・と危惧したりした。



このような心情のある私は、
《・・熱中症を引き起こす「暑さ負債」・・
 記録的な猛暑が体にダメージを与える ・・》、学びたく、記事を読んでしまった・・。



《・・この暑さは、いつまで続くのか。

11日も日本列島は、全国的に厳しい暑さとなった。
都心は今年18回目の猛暑日となり、年間の過去最多記録を更新した。

熱中症患者も続出している。

いま注目されているのが、「暑さ負債」というフレーズだ。

時事通信は10日、
<「暑さ負債」が熱中症の引き金に>という記事を配信している。

<これまでの暑さによる疲労や不眠による体調不良、

慢性的な脱水状態が蓄積した「暑さ負債」が、
危険水位に達して熱中症になってしまうことで・・・>
という専門家の解説も載せている。

「睡眠負債」ならぬ「暑さ負債」が、

熱中症を発症させる危険があるということだ。

熱中症の怖さは、一時的な体調不良だけでなく、

深刻な後遺症を残す場合がある。

少し前のデータだが、昭和大医学部の研究によると、

重い熱中症を発症した1441人の患者のうち、
死亡せず後遺症も残らなかった人は286人と、
わずか19.8%だったという。

つい最近は、「熱中症になると白内障のリスクが4倍になる」
という研究結果がニュースになった。

ネットには<昨年、重症熱中症で10日入院しました。
体調不良が半年以上続き、めまいや頭痛でほとんど寝込んだまま・・・
という深刻な声も投稿されている。



医療ガバナンス研究所の上昌広理事長(内科医)はこう言う。

「今年は、世界各地で記録的な猛暑が続き、世界的に亡くなる人が続出しています。

人類が経験したことのない暑さに見舞われている状況です。

『暑さ負債』という概念も、最近出てきたものです。
これまでは体温が下がれば、リセットされると考えられてきました。

記録的な暑さが、体にダメージを与えているのは、間違いありません。

高齢者の場合、重い熱中症じゃなくても、
後遺症として、1週間程度、熱やだるさが続くケースがあります」

この暑さは、しばらく収まりそうにない。

お盆の最中の週明けも、台風7号の影響もあり、
うだるような暑さになるという。

蒸し暑く、場所によっては40度に迫りそうだ。
熱中症対策は万全にしたほうが、よさそうである。・・》



今回、《・・高齢者の場合、重い熱中症じゃなくても、
後遺症として、1週間程度、熱やだるさが続くケースがあります・・》、

このような記事を読んで、困苦したりした・・。

この後、78歳の私は、対策として、
高齢者は、脱水を起こしやすい要素をいくつも持っていて、
放置すると、寝たきりや認知症を招く結果になりかねない、
と学んだりしてきたので、水分補給を充分しながら、散策する。

そして時折、木陰で休息する。

もとより食事は、ゆっくりと3食を頂き、
睡眠も少なくとも5時間以上熟睡して、前後2時間うつらうつら過ごせば、
体力の衰えた私でも、疲れが回復する。



このように初秋の風が吹くまで過ごせば、
私の9月下旬の誕生日が到来する、と微笑んだりしている。
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将来の寝たきりリスクが激増する「ロコモ」、「7つのチェックリスト」、私は多々学び・・。

2023-08-12 14:50:14 | 喜寿の頃からの思い
先程、家内が愛読している
年を重ねることが楽しくなる大人女性のためのWebメディアの【8760】、
たまたま私が見ると、『 将来の寝たきりリスクが激増する「ロコモ」 
     1つでも当てはまれば要注意
「7つのチェックリスト」を整形外科医が解説』、

と題された見出しを見たりした。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、私より5歳若い家内と2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭の中で、古ぼけた戸建て住んでいる。

そして私たち夫婦は、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

こうした中、私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
『働らなくても、何とか生活ができるので助かるわ・・』、
と家内がときおり、 呟(つぶや)くように私に言ったりする。

『そうだよねぇ・・』
私は苦笑しながら応じたりしている。




こうした中、私たち夫婦にとって難題は、
やはり晩秋期の不安は、いつの日にか、介護・要となり、
介護施設にお世話になる時と思われる。

そして私たち夫婦は、いつの日にか『要支援』までであったら、

何とか自宅で過ごせると思われるが、
やはり『要介護』になってしまったら、やむなく介護施設に入居すると思案したりしてきた。

しかしながら介護施設の多くは、共同生活に伴い、
何かと制約が多いと思われ、できる限り《・・自分の家で過したい・・》、
と思ったりしている。

たが、『要介護』になってしまったら、やむなく介護施設に入居する場合も、

思案している・・。

このようなこと深情を秘めている私は、

今回の《・・将来の寝たきりリスクが激増する「ロコモ」・・
1つでも当てはまれば要注意・・》学びたく、記事を読んでしまった。

今回、『長生き足腰のつくり方』(アスコム)の著者で、
スポーツ整形外科医の渡會公治さんより、

歳を重ねるとともに生じる「ひざ」や「腰」など関節の痛み、
我慢できないほどではないからと、そのまま放っておくと、
やがては要介護や、最悪の場合は寝たきりになることもあります。

そして簡単なセルフチェックで知ることができる「ロコモ」。
そのリスクについて渡會さんよりアドバイス、
多々学んだりした。

そして具体的に記載されていたが、
物覚えの悪い78歳の私は、学んだことを忘れないために、
要点だけ再整理したりした。


《・・
☆ロコモはこんなに怖い

加齢に伴う足腰の衰えがロコモにつながる理由について、
「誰でも年をとると体力の衰えを感じ、あまり動かなくなり、
座っている時間が増え、移動にも車やエレベーターなどを多用します。
そうして使わなくなった運動機能はさらに衰えます。
それがロコモになる理由です」


☆ロコモとは

「ロコモとは、ロコモティブシンドロームの通称です。

加齢に伴う筋力の低下や、関節や脊椎の病気、骨粗しょう症などにより運動機能が衰えて、
要介護や寝たきりになるリスクが高くなる状態をいいます」

あまり動かないだけなく、痛みをかばおうとして
「間違った体の使い方」を続けていても、「ロコモ」は進行するそうです。




☆寝たきりリスクが激増する

「ロコモになると、小さな段差でもつまずくようになり、
転倒して、骨折する危険が高まります。

骨まで弱っている人は、
とくに太ももの付け根(大腿骨頸部)が骨折しやすくなっています。

こうなると入院・手術が必要になり、加齢に伴い回復力が衰えている人は、
安静期間が続くと筋力がさらに衰え、
回復するまでに多くの時間がかかります」

状況によっては、回復できないまま病院のベッドで、
寝たきりになる。



☆「ロコモ」簡単セルフチェック

ロコモになっているかどうかの見極めは、
日本整形外科学会が定めた次の7つの項目をチェックすることで簡単にできます。

【1】家の中でつまづいたり、滑ったりする

【2】片足立ちで靴下がはけない

【3】階段を上るのに手すりが必要

【4】横断歩道を青信号で渡り切れない

【5】15分続けて歩けない

【6】2kgくらいの買い物を持って帰るのがつらい

【7】布団の上げ下ろしや掃除機を使うのがつらい

上記の7項目のうち1つでも該当する人は、
すでにロコモの可能性があります。

ロコモ対策の第一歩として、
ご自身の身体の状況を確かめることから始めましょう。・・ 》




このようなことを多々学んだりした。

そして私は、ロコモになっているかどうかの見極めの7つの項目、
こっそりとチェックしたりした。

恥ずかしながら、【2】片足立ちで靴下がはけない、該当してしまった。

昨今、外出する前、靴下を履(は)く時、ときおり躓(つまず)くので、
椅子に座って履(は)いたりしている。

これ以外の項目は、大丈夫であるが、これから衰えるので、
注意一秒、寝たきりは死去するまで、
自身を叱咤激励をしたりしている。
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脳の老化を防ぐ注目の食材、運動、78歳の私は学び、多々学び・・。

2023-08-11 16:18:40 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【プレジデントオンライン】を見ている中で、
『 週1回食べるだけで効果がある…
   普通にしていると「40歳から縮んでいく脳」の老化を防ぐ注目の食材
       カカオフラバノールは認知機能の老化を食い止める 』、
と題された見出しを見たりした。


私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


☆今回、掲載した写真すべて、本日の散策、曇り一時晴れの中『神代植物公園』で撮った☆

こうした中で、私は確か8年前の70歳の頃から、
齢を重ねるたびに、物忘れが多くなった、と改めて気付き、
独り微苦笑する時もある・・。

たとえば家内とテレビの旅番組を共に視聴したりしている時など、
あそこも行ったよねぇ、と私は家内に言ったりした時、

その地の情景などは鮮やかに重ねることができても、
肝心の地域名が言葉に出来ないことが、もどかしさを感じることがある。





こうした中、ときおり家内より『今からボケたら、困るわょ・・』、
と私は叱咤激励をされる時もある。  

このような時の私は、『人生は気合いだ・・』と心の中で呟(つぶや)きながら、
自身を叱咤激励をしながら、鼓舞したりしている。


このような状況のある私は、今回《・・脳の老化を防ぐ注目の食材・・》って、
どのような食べ物なの・・と思いながら記事を読んでしまった。



週1回食べるだけで効果がある…普通にしていると「40歳から縮んでいく脳」の老化を防ぐ注目の食材【2023上半期BEST5】 カカオフラバノールは認知機能の老化を食い止める | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

今回、どうすれば脳を健康に保つことができるのか、関して、
健康・科学専門のジャーナリストであるマックス・ルガヴェア氏と
医師のポール・グレワル氏は
「認知機能を維持するには、脳の血流を増やすことが有効だと考えられている。
そのために食事や運動に気をつけたほうがいい」、

多々学んだりした。

そして具体的に記載されていたが、
物覚えの悪い78歳の私は、学んだことを忘れないために、
要点だけ再整理したりした。




《・・
☆脳の血流を増やす食事

脳は、大量の酸素を消費している。
あなたが1回呼吸するごとに、
その25パーセントが脳に直行して、代謝のニーズに応える。

脳血管疾患のリスクを高める血中脂質(中性脂肪やコレステロール)を正常に保つことが、
脳の認知機能を何の妨害もなく保つための1つの方法だ。

そしてありがたいことに、次に挙げる方法によっても、
脳の血流を増やすことができる。

ダーク・チョコレートを食べる。
   ダーク・チョコレートに含まれる成分(ポリフェノール)は、
   灌流かんりゅう、つまり脳の血流量を増やすことがわかっている。
   カカオの含有量が80パーセントを超えるもの

   チョコレートは自然発酵食品で、
   ポリフェノールの一種のフラバノールが豊富なため、
   食べればさまざまな恩恵がある。

   カカオフラバノールは認知機能の老化を食い止め、
   インスリンの感受性や血管機能、脳の血流、
   さらには運動能力まで改善するといわれている。



穀物、糖質、デンプン質を摂らない、あるいは減らす。
   脳が脂肪――具体的にはケトンを燃料にすると、
   送り込まれる血流量が39パーセントも増える。

カリウムをもっと摂る。
   カリウムが多く含まれる食品は、
   アボカド、ホウレンソウ、ケール、ビーツの若葉、
   スイスチャード、キノコ、
   そして、まさかと思うだろうが、サケだ。

硝酸塩の豊富な食品を食べる。
   一酸化窒素は血管を拡げ、血流を促進する。
   同じグラム数なら、ルッコラが、
   ほかの野菜よりも多く一酸化窒素を含んでいる。

   その次にビーツ、サラダ菜、ホウレンソウ、ビーツの若葉、
   ブロッコリー、スイスチャードだ。

   一酸化窒素が豊富な食事1回で、認知機能がぐんと高まるかもしれない。



☆脳の血流を増やす運動

食べ物だけでなく、運動によっても、脳の血流を増やすことができる。
あなたが鍛えられるエネルギーの供給システムは、主に2つある。
有酸素と無酸素だ。

大まかにいうと、
有酸素運動は、長距離のサイクリングやハイキングなどで、
無酸素運動はウエイトリフティングや短距離走などだ。

有酸素運動は、酸素を使って脂肪をエネルギーに変え、
無酸素運動は、糖をエネルギーに変えると考えよう。・・ 》


このような記事を学び、食事の大切さを改めて学んだりした。

そして
脳の血流を増やす運動に伴い、ハイキング、サイクリングなども良いと学び、
私は殆ど毎日のように遊歩道、公園などを散策しているので、
同じかしらと微笑んだりしている。



いずれにしても私は、あと1年少しで念願の80歳の誕生日、
健康な状態で迎えたい、と念願している。
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私たち夫婦は、ささやかな年金生活を過ごすことが継続でき、 この世に感謝して・・。

2023-08-10 17:32:30 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


こうした中、過ぎし2019年の4月、家内は初期の膵臓がんに遭遇して、
私たち夫婦なりの安楽な年金生活は激変した・・。

そして
家内は2泊3日で検査入院した後、
5月12日より摘出する手術で入院をして、この後の経過状況、
やがて回復状況も医師より順調と診断され、19泊20日間を得て退院となり、
我が家に生還してきた。



もとより、この間の私たち夫婦は、最悪の場合を想定することもあったりして、
震撼しながら揺れ動いたりした・・。

そして転移などで死去する確率も高く、家内は身の回りを整理し、
やがて私たち夫婦は、再入院、葬儀、お墓、ひとり住まいなどを、
人生の晩年期の終活を話し合ったりした。

やがて手術後、丸4年3カ月近く過ぎた本日の8月10日、

血液検査の基づいて、手術して下さった担当医師より家内は受診して、
結果として幸運にも転移がなく、私たち夫婦は安堵をしたりした・・。


そして家内は受診した担当医師より
最適と思われる幾種類かの指定された薬を3カ月を頂き、
毎日服用している・・。

この間、半年ごとのCTスキャンの精密検査をし、
この検査結果に基づいて、手術して下さった担当医師より家内は受診している。





家内が手術して通院している病院は、都下では有数な都立の大きな総合病院の為か、
やはり通院されている御方が多いので、血液検査なども時間を要する。

この後の予約している担当医師との診察時間も、
ともすれば待機時間が多くなってしまう・・。

そして服用する薬の専門処でも、多くの通院されている御方が多いので、
やはり待機時間が多くなってしまった・・。

今回、総合病院に受付を8時半にする為には、
私たち夫婦は我が家で5時半に起床して、総合病院で会計が完了したのは、
12時近くであったりした。

結果として、帰宅したのは1時半過ぎであったりした。



やがて遅い昼食後、お互いに少し昼寝をしたりした。

私たち夫婦は、お互いに少し疲れた表情を感じるが、
幸運にも家内の身体に
転移することなく、
丸4年3カ月の歳月が過ぎて、今日に至っている。

何よりも私たち夫婦は、ささやかな年金生活を過ごすことが出来き、
この世に感謝している。
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『長崎の鐘』、齢ばかり重ねた私でも、原作、歌、そして映画、ささやかな想いを秘めて・・。

2023-08-09 13:07:15 | 喜寿の頃からの思い
今朝、私は洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して、西の空の長崎に向かって、
黙祷したのは朝の6時半過ぎであった。

やがて黙祷した後、『長崎の鐘』の歌が心の中で、思い馳せたりした・・。




私は1944年〈昭和19年)9月に、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は私は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
          
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、

厳然たる事実である。

そして沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして56
年目となっている・・。

こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。

            
            
       
私は地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)4月の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕し、
そして祖父が所有していた田んぼの中で、小さな川が流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに土蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、

このような情景が、多かった・・。

私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。

私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心に勝手に感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。

そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、土蔵に叩き込まれ閉じ込まれたりした。


或いは夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、

と私は言ったりすると、父から母屋から放りだされ、
私は泣きながら母屋の暗い周囲を廻ったりした。

やがて母が裏木戸を開けてくれて、私は母屋に入れた。

                     

この当時の母は、農家の嫁の立場であったので、多忙をきわめていた・・。
もとより田畑を手伝い、食事、洗濯、掃除、育児の責務があり、
昨今の共稼ぎの若き夫婦で幼児を育てられる方たちより、遥かに過酷だった。

食事を作る時は、竈(かまど)に枝葉、薪(まき)を燃やして、ご飯を炊いていたし、
洗濯も盥(たらい)に井戸水を入れて、洗濯用の石鹸を付けて、

洗濯板でゴシゴシと洗い清めていた。

掃除は、各部屋の埃(ほこり)をはたきで落とした後、

部屋専用のそれぞれの箒(ほうき)で、畳や板の間を掃(は)き清めていた。
そして風呂も、井戸水から運び入れて、

やがて薪(まき)を燃やして、沸(わ)かしていた。

このように当時の多くの主婦は、

ガス、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、瞬間湯沸かし器などはなく、
労苦の多い時代であった。

そして電話、テレビもない時代であった。

こうした中、1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』の歌がよく流れてきた・・。 

こうした時、私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。 

そして、♪こよなく晴れた 青空を

     悲しと思う せつなさよ
     うねりの波の 人の世に
     はかなく生きる 野の花よ
     なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

          

          

確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が上映された。 
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が上映されていた。 
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、

このような催しが行われた時代でもあった。 

私は母に連れられて、近くの寺院の境内で上映されたのは、
映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。

この映画は、生れて初めて観た作品であり、やがて小学4年生の頃から独りで映画館に通う映画少年となったりした。


この後、映画の脚本家になりたくて大学を中退し、

アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたので、
私は忘れない作品となっている。 

この時の私が何よりも嬉しかったのは、

兄妹のいる中で、たった母と2人だけ外出したことは、
私の記憶では初めてことであった・・。

やがて帰路、母の手を握りながら、生家に向かう中、満天の星空が圧倒的に綺麗だった、
このような情景が今でも心の片隅に残っている。 

無念ながら映画のストリーは忘れてしまったけれど、

こうした母恋きの心情を秘めた思い出も重なり、
私は幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、
私は涙ぐむ時が多い・・。

         
          

私は後年になると、『長崎の鐘』の歌は、
作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知ったりした。
 
しかしながら肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、
恥ずかしながら無知であった。 

その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、
遅ればながら高校二年の時で1962年(昭和37年)であった。

 
そして、この御方の人生経路を少しばかり初めて知り、涙で曇ったりした。 

やがて過ぎし2008年(平成18年)2月中旬に
初めて長崎の『原爆資料館』、『長崎市 永井隆記念館』に訪れ、

慟哭し、涙があふれた・・。

私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、この御方の稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。

せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
             
     

そして私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。

もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により、すぐには出版の許可が下りなかった・・。


やがてGHQ側から、

日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。

そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。

         

        
『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。

私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが、

広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。

それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ70数年、数多くの方に感動させ、感銘もさせる詞である。

このような『長崎の鐘』に関して、齢ばかり重ねた私でも、原作、歌、そして映画・・
ささやかながら想いを
秘めたりしている。
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生命維持に不可欠な肝臓、長生きしたけりゃ肝機能を高めなさい、78歳の私は多々学び・・。

2023-08-08 13:35:29 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【プレジデントオンライン】を見ている中で、
『   
長生きしたけりゃ肝機能を高めなさい
      生命維持に不可欠な超重要臓器なのに…
             肝臓が「痛みを感じない沈黙の臓器」である本当の理由   』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


今住んでいる近く実家があり、農家の三男坊として、
1944年(昭和19年)の秋に生を受けたりした。

祖父と父が中心に、程ほど広い田畑を使用人、小作人だった人たちの手をお借りて耕し、
雑木林、竹林などがある家であった。




やがて1953年(昭和28年)の3月になると、父は前の年から肝臓(かんぞう)を悪化させ、
近くの内科専門医院に生家に幾たびか来宅して頂き、
生家で治療を受けながら寝たり起きたりした父は、やがて42歳の若さで亡くなった。

そして祖父は、跡継ぎの肝心な父が亡くなり、
落胆の度合いも進み、最寄りの大学病院に入院している中、
胃癌が発覚して、やがて翌年の1954年(昭和29年)の5月に、亡くなった。 


この当時、どの農家も同じと思われるが、一家の大黒柱が農作物のノウハウを把握しているので、 
母と父の妹である二十歳前後の未婚の叔母ふたり、
そして長兄は中学1年で一番下の妹6歳の5人兄妹が残されたので、
家は急速に没落し、生活は困窮となった。


このようなことを私なりに体験し、
父が肝臓(かんぞう)を悪化させて病死したので、
やはり健康診断などで肝臓の状態を気にすることもあったりした。

しかしながら具体的に肝臓に関しても、無知なことが多く、
今回の《・・生命維持に不可欠な超重要臓器・・
長生きしたけりゃ肝機能を高めなさい・・》、
恥ずかしながら78歳の私は学びたく、記事を読んでしまった・・。



今回、生命維持に不可欠な肝臓、
長生きしたけりゃ肝機能を高めなさい、多々教示させられたりした。

物覚えの悪い78歳の私は、学んだことを忘れないために、
再整理したりした。

《・・
☆肝臓は「生命の最後の砦」である

肝臓の働きは、大きく分けると、次の3つです。
・代謝・・・体内で起きている「代謝」の大半は、肝臓が担っている

・解毒・・・いわゆる「デトックス」「毒出し」も、
      ほぼ肝臓だけが担っている

・胆汁の製造・・・「胆汁」を作る機能は、肝臓にしかない


肝臓が弱ると、これらの機能が麻痺してしまいます。
こうなると、もはや肝臓だけの問題ではありません。
生命の維持に直結するレベルの大問題です。

肝臓は、実にしぶとい臓器です。
腎臓も心臓も血管も、歳をとればどんどん弱っていきますが、
肝臓は違います。

ほかの臓器の老化が進んでも、そう簡単にはダメにならないのが、肝臓です。
さらに、肝臓の特徴のひとつに、
「再生しやすい」ということが挙げられます。
肝臓の細胞は、壊れても再生する力が強いのです。

このように、肝臓は重要な機能をいくつも担っています。
ほかの臓器に比べると、非常にタフにできていますが、
いったん悪くなると、その重要さゆえに、命にかかわります。

まさに、生命の最後の砦のような臓器なのです。




☆私たちは肝臓の不調を自分で感じ取ることができない

肝臓は丈夫です。
細胞のひとつやふたつに何かあっても、強い再生力で元に戻ります。
 でも、だからといって安心しないでください。

ぜひ知っておいてほしいのは、
肝臓は「悪くなっても、症状が出にくい」ということです。

体調を崩したとき、「胃の調子が悪くて」、「のどが少しヘンな感じ」、
「なんだかダルい」などと言いますが、
「今日は肝臓の調子がイマイチだ」と言う人はいません。

たとえ肝臓に問題があっても、
それを自覚することが、ほとんどないからです。

肝臓は、とても重要な臓器です。
にもかかわらず、私たちは肝臓の調子を、体で感じることができません。
また、健康診断の数値を見ても、診断しにくいのが肝臓の厄介なところです。

さらに、肝臓の病気にもいろいろありますが、
どれも初期には、症状がほとんど出ません。

肝臓は、胃や腸や心臓などと違って、痛みが出ることもまれなので、 
 よく「沈黙の臓器」と呼ばれます。




☆なぜ、肝臓が悪くなっても痛みを感じないのか。

それは、肝臓の中には「自律神経」は走っているものの、
痛みを伝える「知覚神経」が肝臓の表面にしかなく、
肝臓の中まで来ていないからです。

ですから、たとえ「脂肪肝」や「肝炎」のような病気が潜んでいても、
痛みを感じません。

「痛くないから」、「なんともないから」といって安心しているうちに、
徐々に悪くなっていき、かなり悪くなってから初めて症状を自覚するのが、
肝臓という臓器の特徴です。

肝臓が「沈黙の臓器」と呼ばれるゆえんです。



☆「酒飲み」、「食べすぎ」、「運動不足」は最恐の3点セット

肝臓といえば「お酒」と結びつける人が多いと思いますが、
それだけでは誤ったイメージです。

病院で「お酒を飲みすぎてなんだか調子が悪いから、肝臓の数値が悪いはず」
と訴える人もいますが、これは思い込みにすぎません。

飲みすぎて調子が悪いと感じるときでも、
実際は肝臓の機能が極端に落ちているのではなく、
ほかのところがダメージを受けている可能性のほうが高いのです。

ただし、大量のお酒をずっと飲み続けている人は、要注意。
「肝炎」という状態になっている可能性があります。

それは「昨日飲みすぎたから、今日の肝臓の調子が悪い」のではなく、
すでに肝臓が病気にかかっているということです。

肝機能が低下したり、肝臓の病気になりやすいのは、
お酒を飲む人よりも、むしろ「太っていて、運動をしない人」のほうです。

実際、お酒が原因ではない肝臓病になる人のほうが、
お酒が原因で肝臓病になる人よりも多く、
特に「運動をしない、肥満気味の人」は、肝臓病になりやすい。

ですから、お酒をよく飲み、肥満気味で、運動不足の人は、
かなりマズいと思ってください。

肝臓が悪くなっていても自覚症状が出にくいことは、
先ほどお話ししました。

もしも「食欲がない」、「お腹が張る」などの症状が、
本当に肝臓からきているとしたら、すでに深刻な状況です。

肝臓がかなりのダメージを受けていて、肝炎や肝硬変になってしまっています。

肝臓は「沈黙の臓器」です。
自覚症状が出てから病院に行くのでは、「遅い」ということを、
ぜひ覚えておいてください。



このような基本を学んだあと、肝臓の一つひとつの細胞(肝細胞)に、
水滴のような脂肪がたまるのが、脂肪肝など、

多岐に及び、教示させられたりした。

総合的な要点として、「酒飲み、食べすぎ、運動不足が、脂肪肝を引き起こす。
脂肪肝を放置すると、知らないうちに肝炎、肝硬変、肝臓がんになり、
命を落とす危険性がある。
自覚症状が出てから病院に行っても手遅れになる」

重要な機能をいくつも担う肝臓を大切にケアすることで、
全身の健康状態もよくなります。



このようなことを学びながら、程々に自制しながら過ごし、
あと1年少しで念願の80歳の誕生日、健康な状態で迎えたい、
と空を見上げながら、こっそりと祈願したりした。
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シニア層に急増する「首下がり症」、専門家が教える予防・改善のセルフケア、78歳の私は多々学び・・。

2023-08-07 16:12:08 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【サライ.jp】を見ている中で、
『 シニア層に急増する「首下がり症」
    専門家が教える予防・改善のセルフケア 』、
と題する見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、雑木の多い小庭の中で、
古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。




こうした中、私は午前中のひととき、殆ど毎日のように散策しているが、
こうした時は首廻りからカメラをネクタイのようにぶら下げている・・。

カメラ本体は一眼レフで572グラム、レンズはズームで780グラムで、
 前所有していたカメラより2倍の重さで、
ときおり重いなぁ、と感じる時がある。

午後の大半は、パソコンでブログの投稿文を書いたり、
そして好感している御方の投稿文を読ませて頂いたりしている。
或いは、近現代史、随筆、月刊誌などの読書をしたりしている。



このような日常生活をしていると、首が前かがみとなってしまい、
今回の《・・首下がり症・・》かしらと思いながら、
予防・改善のセルフケアを学びたく、記事を読んでしまった。

シニア層に急増する「首下がり症」|専門家が教える予防・改善のセルフケア | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト (serai.jp)


今回、首下がり症に伴う専門家が教える予防・改善のセルフケアを学び、
多々教示させられたりした。

そして掲載している「首下がり症」を予防する『姿勢体操』、
初めて学び、何かと不器用な私でも、こっそり始めたりした・・。

そして少し首廻りが軽くなったかしら、と微笑んだりしている。



このような状態なので、毎日少しづづ我が身の為、実践だ、
と微笑みを重ねたりしている。

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「かかと着地」と「大股歩き」は絶対NG、 "誤解だらけの歩き方"、78歳の私は多々学び・・。

2023-08-07 12:46:13 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【プレジデントオンライン】を見ている中で、
『   「かかと着地」と「大股歩き」は絶対NG…
    通勤するだけでヘトヘトになる人の"誤解だらけの歩き方"
                      理想のイメージは忍者のような「抜き足、差し足」   』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


こうした中で、

       

 
こうした中で、1キロ15分前後で歩いたりしているが、
「大股歩き」で歩くと、心身に良いと教示されてきたので、
ときおり意識的に「大股歩き」で歩いたりしている・・。

今回、《・・「かかと着地」と「大股歩き」は絶対NG・・
"誤解だらけの歩き方"・・》って、どのような理由なの、
と思いながら記事を読んでしまった・・。

「かかと着地」と「大股歩き」は絶対NG…通勤するだけでヘトヘトになる人の"誤解だらけの歩き方"【2023上半期BEST5】 理想のイメージは忍者のような「抜き足、差し足」 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)


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『 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 』、私は学んで、16年が過ぎて・・。

2023-08-06 10:07:31 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
今朝6時半過ぎに洗面した後、玄関の軒下に立ち、

西の広島に向かって、黙祷をしたりした・・。

この後、広島に原爆が投下されて78年の歳月が過ぎた・・、
と心の中で呟(つぶや)いたりした。

まもなく、ひとつの命言が脳裏から舞い降りてきた・・。

発露すれば『 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 』、
と思い出すように、心の片隅に秘めたりした・・。

私が『 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 』、と遅ればせながら知ったのは、
確か16年前であった。



私の父は、私が小学2年の三学期に、肝臓を悪化されて亡くなり、
母は、私が53歳の時に、婦人系の癌で死去した。

家内の父は、私が民間会社のサラリーマンの定年退職の2004年(平成16年)の秋の直前に、
腎臓を悪化されて亡くなり、私たち夫婦のお互いの両親は、無念ながら家内の母だけとなっている。

そして家内の母は、我が家から電車・バスなどを乗り継いて2時間ばかりの千葉県のある市で、
戸建てに独り住まいの生活をされている。

私より14歳ばかり齢上の高齢者である家内の母は、
独り住まいの生活をされて、まもなく19年となるが、
ここ4年は、近くに住む家内の妹に見守りされながら、介護施設にお世話になっている。




過ぎし家内の母が独り住まいの生活をされた当初の頃からも、
私たち夫婦は、家内の母を誘い、5年間ぐらいは、
幾たびか温泉滞在旅行などの旅を重ねたりしていた・・。
        
こうした中で、『生きているうちに・・一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ・・』、
と家内に要望されたので、 私たち夫婦と家内の母と3人で、
過ぎし2008年(平成18年)2月中旬の時に長崎を訪れた。


家内の母の深淵には、戦時中の時は、新潟の高田町(現在・上越市)で青春期の女学校の時代、
多くの同級生と共に、学徒動員により軍事工場で労働にした身であったりした。

この当時の日本は、敗戦にたどる時期、殆どの国民はそれぞれの地域で、

幾たびか空襲の中、悲惨で過酷な時期であった。

こうした家内の母の体験もあったので、特に独り住まいとなった頃から、

家内の母は慰霊の心情を深めてきた・・。

そして私たち夫婦は、家内の母と共に沖縄の『ひめゆりの塔』や『平和記念館』など、
その後は鹿児島の『知覧 特攻平和会館』などの旅を重ねてきた。



          

そして長崎を訪れている間、私は家内たちとは別行動で、

独りで長崎の各所を拝観したりした。

こうした中で、私は何かしら後ろめたいような心情で、

長崎の『原爆資料館』に初めて訪れた。

そして、改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思い馳せたりすると、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれた・・。

私は旅立つ前に、永井 隆(ながい・たかし)氏の略歴を学んだりしていたので、
未知の長崎医学大学の前を歩いたりした。


そして 初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
氏の人生の歩みに圧倒される思いを馳せたりし、

2月にしては暖かい陽射しの中を独り歩いたりした。

               

やがて『永井 隆記念館』で拝見した後、館内の売店で買い求めた本が、
永井 隆・著作の『長崎の鐘』(1946年)、そして『この子を残して』(1948年)で、
私は旅先のホテルで、遅ればせなから初めて読んだりした・・。

この本の中に栞(しおり)があり、
《 日本の夏・八月は   六と九で十五だ  

忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
と明記されていた。

ながいまこと氏は、永井 隆氏の御子息であり、
長崎市立の『永井隆記念館』の館長をされている永井誠一氏である。

私は氏の《 日本の夏・八月は 六と九で十五だ 》のフレーズは、
 確かな日本の夏の命言、と深く教示され、

今でもこの栞(しおり)を大切にしている。

           

こうした中で私は年金生活をしている中、たとえば読書に関しては、
 この8月の時節になると、原民喜・著作の『夏の花』(1947年)、阿川弘之・著作の『春の城』(1953年)、
竹西寛子・著作の『管絃祭』(1963年)、井伏鱒二 ・著作の『黒い雨』(1966年)、
福永武彦・著作の『死の島』(1966年)などを再読してきたので、

これらの作品を思い馳せたりしている・・。

そして永井 隆・著作の『長崎の鐘』を再読し、『長崎』に思いを馳せたりしている・・。

或いは6月23日の『沖縄慰霊の日』を始めとする『沖縄』の関係する本と、
8月15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』に関連する昭和近代史に関しては、
数多く乱読している・・。

このような私の深情から、永井隆氏の御子息の永井誠一氏の至言、
《 日本の夏・八月は  六と九で十五だ  忘れない広島・長崎・終戦の貴重な体験  ながいまこと 》
確かにそうですよねぇ、と私は深く思い重ねながら、早や16年が過ぎている。

           


私は1944年〈昭和19年)9月下旬に、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。

そして敗戦時は、私は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日のこの日は、 対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。

このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、

厳然たる事実である。

そして沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、

そして9日の『長崎被爆』、
この後の15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、
私としては黙祷をして56年目となっている・・。



こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも、深い心の傷として、今日に至っている。

このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
少なくともこうした日は、哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
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「クーラー効きすぎて寒い」は寿命が縮む、夏こそ「血流」を重視すべきワケ、私は多々学び・・。

2023-08-05 14:38:36 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【東洋経済オンライン】を見ている中で、
『 「クーラー効きすぎて寒い」は寿命が縮むNG環境危険な冷え…

    夏こそ「血流」を重視すべきワケ 』、
と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。      

          


この熱き夏の時節、我が家では、簾〈すだれ〉を各部屋に掛けている。
洋間であったら、雨戸、網戸、ガラス戸、そしてカーテンを外して簾〈すだれ〉とする。


                   

和室も同様に、雨戸、網戸、障子、簾〈すだれ〉としている。

そして陽射しを更に遮断する為に、簾〈すだれ〉の上に薄い布地を下ろしたりしている。


          

朝涼(あさすず)が残る朝の9時が過ぎる頃まで、
網戸と簾〈すだれ〉にして、風を通したりしている。             

私は午前中のひととき、健康維持の為に、

殆ど毎日のように自宅より3キロ範囲にある公園、遊歩道などを散策している。

帰宅後、居間の冷気の中で私たち夫婦は、それぞれ昼食を頂いた後、
私はブログの投稿文を綴った後、愛読している数多くの方の投稿文を読ませて頂くことが多い。

やがて私は居間の片隅に簡易ベットに敷いて、夏掛けの布団を掛けて横たわりながら、
好きな本を読み、ときには昼寝をしたりしている。

やがて目覚めれば、冷茶かアイス・コーヒーを飲んだりしている。

そして簾(すだれ)越しのほのかな暗さを通して、小庭の樹木、草花を眺めたり、
ときおり元気のある蝉(セミ)の鳴き声を聴こえたりする。
           
家内はこの季節は早朝の4時過ぎから洗濯を開始し、

やがて日の出と共に外干すの竿に干したりしている。
その後も掃除をしたり、料理に孤軍奮闘している。




昼下がり、居間のソファに座りテレビを視聴したり、雑誌を読んだりすることが多いが、
さすがに疲れ、居間の片隅で毛布を2枚敷いて、

夏掛けの布団を掛けて床に横たわっている。

午後の5時過ぎに、お互いに起き上がり、整理したりしている。


このように私たち夫婦の夏の季節の最良の避夏地は、

エアコンの冷気のある居間となっているのが実情となっている。



今回、《・・「クーラー効きすぎて寒い」は寿命が縮む・・
夏こそ「血流」を重視すべきワケ・・》を学びたく、記事を読んでしまった・・。

今回、「クーラー効きすぎて寒い」は寿命が縮む、
夏こそ「血流」を重視すべきワケ多々教示させられたりした。

物覚えの悪い78歳の私は、学んだことを忘れないために、
再整理したりした。


《・・ 猛烈な暑さが続く日々。
夏バテなのか、体がだるい、眠れない、足腰が痛い・・・
そんな悩みを持っている方も多いのではないでしょうか。

麻酔科医として2万人以上の全身の循環をコントロールしてきた
富永喜代医師の最新刊『血流がすべて』から、
夏におすすめの血流改善法を一部引用・再編集してご紹介します。

みなさんは、暑さ対策、どうされていますか?

帽子をかぶる、水分をとる、などあるかと思いますが、
暑すぎて「なるべく屋内にいる」という方も多いのではないでしょうか。
そんなとき心配なのが、血流の悪化。

暑い外からキンキンに冷えた室内に入ると、すっと汗がひいて気持ちがいいですよね。

ですが、そのまま冷房を弱めずに、その部屋にとどまっていると、
だんだんと手足が冷たくなって、
頭がぼーっとしたり、だるくなったりしませんか? 

いっそ屋外に戻りたいと思ってしまうことも・・・。
実はこれ、血流が悪くなっている証拠です。

ほうっておくと、指先や足先の毛細血管の血液が入れ替わらなくなり、
実質、「死んだ血管」になってしまうおそれが。
そして、一度死んだ血管は、元には戻りません。

こうした問題をそのままにしておくと、
血液が行き届かない細胞に毒がたまり、
あるとき一気に怖い病気が押し寄せてくるおそれがあります。



☆手足の冷えは体からの深刻なSOS

たったそれだけのことで病気になるなんて、
大げさだな、と思われたでしょうか。

ではそもそも、血流とは何なのでしょう。
日本人の五大死因は、「がん、心臓病、老衰、脳卒中、肺炎」
(厚生労働省/令和3年人口動態統計月報年計より)。

これを見ると、病気を予防したり、
特定の臓器だけをケアしておけばいいと思われるかもしれません。
でも、そうではないんです。

麻酔科医として2万人以上の全身の循環をコントロールしてきた私ですが、
「健康の源は、血流である」と断言できます。


なぜなら、血流こそが全身37兆個の細胞一つひとつに栄養と酸素を送り届け、
老廃物を洗い流す役割を担っているからです。

私たち麻酔科医の頭には、つねに「1分間」という数字があります。

これは、心臓から動脈に送り出された血液が、
全身をめぐって、再び心臓に戻ってくるまでの循環時間。

手術で体のどこが傷つけられたとしても、
この1分間のめぐりを止めない、ということを意識して患者さんの体を守っています。

この1分のめぐりがスムーズにいってこそ、
血液が「栄養と酸素を届ける」、
「老廃物を回収する」という役割を全うできるようになります。

それだけ、毎分、新鮮な血液がめぐるということは、
全身にとって欠かせないことなのです。

生きていくために重要な臓器、たとえば心臓や、肺、腎臓なども、
元をたどればひとつの細胞からできています。
そして、それらの細胞に栄養を送ることができるのは、
血流だけなんです。


病気とまでいかなくとも、冷えやしびれ、
むくみや痛みに悩まされる人が増えるのも、すべて血流が理由です。

手足の冷えやしびれは、
毛細血管の先の先まで十分な血液が届いていないことを示す症状。

かんたんに言えば、細胞に本来必要な酸素と栄養が、
足りないことへのSOSです。

こうした症状を緩和するには、血流を改善し、
1分間で体内をめぐる血液を体のすみずみまで届けきること。

そうすれば、細胞が求めている酸素と栄養を絶え間なく運び、
老廃物をためずに、運び出すことができます。

人間が長生きする、若返る、元気でいることの基礎は、
「細胞」にあります。
体にある37兆個の細胞一つひとつが元気なら、あなたも元気。

血流がよくなれば、細胞が元気になり、私たちは健康に長生きできます。



☆「熱めのお湯に肩まで」が心臓に負担をかける

ではいよいよ、おすすめの血流改善法をご紹介していきます。
まずピックアップしたいのが、入浴。

睡眠の質を高めるため、夏でも湯船につかるのがおすすめですが、
必ず気をつけてほしいのが、お湯の量と温度です。

クーラーの効いた部屋から浴室に入り、ヨシっと気合いを入れて、
 熱々のお湯に肩までつかっているという方は、今すぐやめてください。

なぜなら、心臓よりも高い位置まで湯につかってしまうと、
血管が水圧によってギューッと押さえつけられてしまうからです。

水圧がかかることで、手足や内臓の静脈が圧迫され、
血液が心臓に向かって一気に移動します
(この状態を、医学的には「心臓への静脈還流が増える」と言います)。
すると、心臓が血液を送り出すのに無理をしなければならなくなります。

だから、肩までつかって「いい湯だな」と思っていても、
体内では、心臓に負担がかかるという「緊急事態」への対応に、
大わらわとなっているわけです。



☆ぬるめのお湯で半身浴がおすすめ

おすすめは、みぞおちまでつかる半身浴。
これを守るためにも「湯量は腰まで」をルールにしましょう。

さらに気をつけたいのが、お湯の温度です。
高齢者になればなるほど、熱いお風呂を好む傾向がありますが、
これは皮膚の「温熱感受性」の劣化によるもの。

皮膚の表面には、温点・冷点と呼ばれる温度を感じとるセンサーがあり、
この数は年齢を重ねるごとに減っていきます。

なかでも、湯船に入るとき、最初にお湯に触れる足先の温点・冷点は、
20代に比べ、70代では3分の1ほどに。

その結果、熱い、冷たい、の識別が鈍くなり、
子どもなら「絶対ムリ!」と飛び出すような湯温でも、
おじいちゃんおばあちゃんは「ほぉう」と吐息をもらしながら
肩までつかることができるわけです。

夏場、ちょうどこの時期、本人には「暑い」という自覚がさほどないのに、
熱中症で倒れる高齢者が多いのもこのためです。


しかも、長時間クーラーにあたって、手先、足先が冷えている状態から、
長風呂することは、疲労、脱水、血管虚脱
(血管がひろがりすぎて、血流が落ち、脳へ必要な酸素や栄養素が届かなくなる)
といった症状を引き起こす可能性があり、かなり危険な状態。

湯温は、自分の肌感覚だけではなく、「数値」で見て把握しておくべきです。

温度は、ぬるめのほうがリラックス効果が、
高まるということがわかっていますので、ぬるめがおすすめです。

ぬるめの湯温とは、夏なら38℃、冬なら40℃。
一方、41℃以上が熱めになります。



ぜひ、夏バテで体が疲れたときは、ぬるめのお湯につかりましょう。

お湯の量は、先ほどお伝えしたように、みぞおちまで、です。
これで副交感神経が働き、末梢血管が拡張。

5分の入浴で、白血球、リンパ球、
がんを倒すNK細胞などの免疫細胞が増えることがわかっています。・・ 》



今回、特に遅ればせながら、血流の大切さを学んだりした。
そして入浴する際の注意点も学び、たまたま我が家の夏場の湯温は、
39度設定にしているので、適温かしら、と微笑んだりしている。
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汗を大量にかく人、かかない人の違いなど、私は多々学び・・。

2023-08-04 15:00:43 | 喜寿の頃からの思い
先程、ときおり愛読している【AERA dot. (アエラドット) 】を見ている中で、
『 汗を大量にかく人とかかない人の違いは? 
     発汗機能は2歳までに決まる説も 多汗症チェックリスト 』、

と題された見出しを見たりした。

私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
私より5歳若い家内と共に、古ぼけた戸建てに住み、ささやかに過ごしている。


こうした中で、
       

 
こうした中で、私の夏模様の容姿は、
制服のようになった半袖のスポーツシャツ、或いはアロハシャツ、
長ズボン、そして夏の帽子を深くかぶり、サングラスを掛け、ウォーキング・シューズで足元を固め、
そして紳士バックを園児のように斜め掛けにして、颯爽と歩いたりしてきた。

 
しかしながら陽射しが燦燦と照らす青空の中、歩いたりすると汗ばみ、
ハンドタオルで顔をふいたりし、ときおり扇子を取りだして扇(あお)いだりしているが、
汗がひたたり落り、微苦笑したりしてきた。
 
やむなくハンドタオルで顔などを拭いながら、できる限り樹の下にある歩道を歩いているが、
炎天下の道もあるので、高齢者の私でも、人生は気合いだ、と自身を叱咤激励をしたり、
或いは冬の寒さを思い浮かべて、 足早に歩いているのが実情である。
 

 
       
このような熱い季節の中を過ごしているが、
今回、《・・汗を大量にかく人とかかない人の違いは?・・》を学びたく、
記事を読んでしまった・・。

今回、汗を大量にかく人とかかない人の違いは?
そして発汗機能は2歳までに決まる?、
或いは多汗症かどうかを見極める方法とは?
多岐に及び、多々教示させられたりした。

物覚えの悪い78歳の私は、学んだことを忘れないために、 再整理したりした。




《・・外に出ると、じっとしているだけでも、汗が流れるこの時季。

発汗は、体温を調節するために重要な機能ですが、
日常生活に支障があるほどの大量の汗に悩まされる人もいます。

汗をたくさんかく人とかかない人の違いや、
「多汗症」と診断される基準について、専門の医師に聞きました。

この記事は、週刊朝日ムック「手術数でわかるいい病院」編集チームが、
取材する連載企画「名医に聞く 病気の予防と治し方」からお届けします。



私たちの体は、暑いときや運動時に体温が上がると、

汗を出すことで、皮膚表面を冷やし、体温を下げます。

体温が上昇すると、脳の視床下部という部位から、
全身の皮膚にある汗腺(かんせん)に汗を出すように指令が出て、
発汗するという仕組みです。

汗をかけないと、体の中の熱を外に逃がすことができず、
熱中症の危険が高まります。

つまり、汗を出すことは、健康を維持するために重要なことです。



しかし同じ環境下にいても、汗をかきやすい人とかきにくい人がいます。

この違いはどこからくるのでしょうか。

発汗異常症を専門とする愛知医科大学病院皮膚科教授(特任)の大嶋雄一郎医師はこう話します。

「一般的に男性のほうが、女性よりも汗をかきやすい傾向があります。
男性ホルモンは発汗を促す働きがあり、
女性ホルモンは発汗を抑える働きがあることが一因です。

また、汗腺の働きは加齢によって低下していくので、
高齢になると汗をかきにくくなります」



そのほか、日ごろの生活習慣も影響するといいます。
汗腺は全身に存在していますが、そのすべてが機能しているわけではありません。

「運動や入浴などによって、汗をかく習慣がある人は、
働く汗腺の割合が多く、汗をかきやすいと考えられています。

6月くらいの暑い日に熱中症になりやすくなるのは、
気温が低かった時季に汗をかいていなかったことで、
汗腺が働きにくくなっていることが一因です」(大嶋医師)



☆発汗機能は2歳までに決まる?

一方で、汗のかきやすさは2歳くらいまでに、
ある程度は決まるという説もあります。

汗の病気や小児皮膚科に詳しい池袋西口ふくろう皮膚科クリニック院長の藤本智子医師はこう話します。

乳幼児期に汗をかく環境で過ごしたほうが、
その後も汗をかきやすくなる可能性があると言われています」

しかし現代の子どもは、温暖化による気温の上昇もあり、
冷房が利いた涼しい部屋で汗をかかずに過ごすことが多くなりました。
「短時間でもいいので、毎日外遊びをするなど、
乳幼児のうちに無理のない範囲で汗をかけるような環境をつくることは大事です」(藤本医師)



☆多汗症かどうかを見極める方法とは?

暑いときや運動したときだけではなく、
緊張したとき、驚いたときなど精神的な刺激によって汗が出ることもあります。

体温調節のための発汗は「温熱性発汗」、
精神的な刺激による発汗は「精神性発汗」と呼ばれます。

緊張などによって交感神経の働きが活発になると、
アセチルコリンという神経伝達物質が放出され、
それが汗腺にある受容体に結合して、発汗が促されると考えられています。

温熱性発汗と精神性発汗は、汗をかく部位にも違いがあります。
「精神性発汗の特徴は、手のひら、足の裏に汗をかくことです。

一般的に手足は、温熱性発汗はありません。
わきの下や頭、顔は温熱性と精神性、両方に関わります」(大嶋医師)

前述したように温熱性発汗は、生命維持に不可欠ですが、
精神性発汗の場合、暑くもないのに日常生活に支障をきたすほど大量に汗をかくことがあります。

この場合「多汗症」という病気の可能性があります。
約6万人を対象とした調査(2020年)では、1割の人に多汗症がみられました。・・》

注)記事の原文に対し、あえて改行など多くした。



私は熱中症なども怖くて、この熱い季節には、冷やした煎茶などを飲み、
外出した時は、コンビニなどで冷たい煎茶のペツトボトルを買い求めて、
水分補給をしている。

こうしたことが原因と思われ、汗をかいだり、
ときには汗まみれになってしまうこともある。



我が家にいた時は、洗面所で水で顔を洗ったりしている。

外出先の場合は、ときには公園のトイレにある洗面所で、
顔を洗い、気分一新して、やがて歩き出す・・、
このように猛暑の季節を過ごしたりしている。
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真夏の夢のような情景の中、78歳の私は、散策して、気分爽快・・。

2023-08-03 15:51:43 | 喜寿の頃からの思い
私は東京の調布市に住む年金生活の78歳の身であるが、
今朝、ぼんやりと地元の天気情報をテレビで視聴していたら、
朝の6時は24度、昼下がりは35度前後、夕方の6時は30度前後、
晴ときおり曇りとなります。

そして、都内で「熱中症警戒アラート」が発表されています。

いつも以上に熱中症予防に努めましょう! 

このように報じられていたが、散策しなければ、
ますます体力が衰えるので、相変わらず一日一回は外出してきた・・。

しかしながらお墓参りだったり、駅前に買い物だったりすることが多かったので、
10日ぶりに本日の散策コースは、近くの都立の『植物多様性センター』、
そして『神代植物公園』を散策しょうと思ったりした。



いつものように最寄り駅のひとつの京王線の『つつじが丘』の駅前より、
路線バスで調布市の『総合体育館前』で下車した後、

体育館前のゆったりとした広場を通り過ぎたりした。





やがて『植物多様性センター』に入ると、私は心のふるさとのような情景に、
心を寄せたりしている・・。

私は父、祖父が亡くなる小学3年生まで農家の児として育てられてきたが、
小学5年生の頃から急激に住宅街に変貌し、失われた情景を求めるように、
この『植物多様性センター』を散策している・・。







やがて最近建設された東屋のような休息所で、水分補給を兼ねて休憩とした。




まもなく数分歩くと、『神代植物公園』に入園した。

そして入園して正面には、この時節に相応しい活けられていた。



この後、いつものように園内を散策した・・。



















今年も6月、7月、そして今日まで長らく美麗な蓮(ハス)を鑑賞してきたが、
お別れと思ったりした・・。

そして近くにあるムクゲも長らく彩ってくれたが、
やはり今年は・・愛惜を重ねたりした。









この後、モミジ園に向かい、散策した。






このような情景の中を一時間半ばかり園内を散策した後、
隣接している深大寺の横を通り過ぎたりした・・。







このように私は、真夏の情景の中を散策して、夢のようなひととき体験したりした。

散策すれば、汗まみれになったりしたが、
ときには心も身体も良いよねぇ・・心身溌剌として、帰宅に向かったりした・・。
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