今朝、私は洗面した後、玄関庭に下り立ち、襟を正して、西の空の長崎に向かって、
黙祷したのは朝の6時半過ぎであった。
やがて黙祷した後、『長崎の鐘』の歌が心の中で、思い馳せたりした・・。
私は1944年〈昭和19年)9月に、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。
そして敗戦時は私は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、
厳然たる事実である。
そして沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして56年目となっている・・。
こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
私は地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)4月の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕し、
そして祖父が所有していた田んぼの中で、小さな川が流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、
このような情景が、多かった・・。
私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心に勝手に感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、土蔵に叩き込まれ閉じ込まれたりした。
或いは夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、
と私は言ったりすると、父から母屋から放りだされ、
私は泣きながら母屋の暗い周囲を廻ったりした。
やがて母が裏木戸を開けてくれて、私は母屋に入れた。
この当時の母は、農家の嫁の立場であったので、多忙をきわめていた・・。
もとより田畑を手伝い、食事、洗濯、掃除、育児の責務があり、
昨今の共稼ぎの若き夫婦で幼児を育てられる方たちより、遥かに過酷だった。
食事を作る時は、竈(かまど)に枝葉、薪(まき)を燃やして、ご飯を炊いていたし、
洗濯も盥(たらい)に井戸水を入れて、洗濯用の石鹸を付けて、
洗濯板でゴシゴシと洗い清めていた。
掃除は、各部屋の埃(ほこり)をはたきで落とした後、
部屋専用のそれぞれの箒(ほうき)で、畳や板の間を掃(は)き清めていた。
そして風呂も、井戸水から運び入れて、
やがて薪(まき)を燃やして、沸(わ)かしていた。
このように当時の多くの主婦は、
ガス、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、瞬間湯沸かし器などはなく、
労苦の多い時代であった。
そして電話、テレビもない時代であった。
こうした中、1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』の歌がよく流れてきた・・。
こうした時、私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。
そして、♪こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が上映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が上映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。
私は母に連れられて、近くの寺院の境内で上映されたのは、
映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。
この映画は、生れて初めて観た作品であり、やがて小学4年生の頃から独りで映画館に通う映画少年となったりした。
この後、映画の脚本家になりたくて大学を中退し、
アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたので、
私は忘れない作品となっている。
この時の私が何よりも嬉しかったのは、
兄妹のいる中で、たった母と2人だけ外出したことは、
私の記憶では初めてことであった・・。
やがて帰路、母の手を握りながら、生家に向かう中、満天の星空が圧倒的に綺麗だった、
このような情景が今でも心の片隅に残っている。
無念ながら映画のストリーは忘れてしまったけれど、
こうした母恋きの心情を秘めた思い出も重なり、
私は幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、
私は涙ぐむ時が多い・・。
私は後年になると、『長崎の鐘』の歌は、
作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知ったりした。
しかしながら肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、
恥ずかしながら無知であった。
その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、
遅ればながら高校二年の時で1962年(昭和37年)であった。
そして、この御方の人生経路を少しばかり初めて知り、涙で曇ったりした。
やがて過ぎし2008年(平成18年)2月中旬に
初めて長崎の『原爆資料館』、『長崎市 永井隆記念館』に訪れ、
慟哭し、涙があふれた・・。
私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、この御方の稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。
せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
そして私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。
もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により、すぐには出版の許可が下りなかった・・。
やがてGHQ側から、
日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。
そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。
『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが、
広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。
それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ70数年、数多くの方に感動させ、感銘もさせる詞である。
このような『長崎の鐘』に関して、齢ばかり重ねた私でも、原作、歌、そして映画・・
ささやかながら想いを秘めたりしている。
黙祷したのは朝の6時半過ぎであった。
やがて黙祷した後、『長崎の鐘』の歌が心の中で、思い馳せたりした・・。
私は1944年〈昭和19年)9月に、今住んでいる近くで農家の三男坊として生を受け、
翌年の1945年〈昭和20年)8月15日に敗戦となった。
そして敗戦時は私は一歳未満の乳児であったので、戦争を知らない世代に属するが、
8月6日の午前8時15分に、
対戦中のアメリカが人類史上初めて広島市の市街に原子爆弾を投下され、
少なくとも15万人の人が即死し、数多くの方が被ばくされたことは学んできた。
このことは戦勝国となったアメリカの歴史をどのように描いても、
厳然たる事実である。
そして沖縄戦が事実上終結した6月23日の『沖縄慰霊の日』、
原爆という余りにも過酷で悲惨な8月6日の『広島被爆』、9日の『長崎被爆』、
そして15日の『終戦記念日』と称せられる『敗戦記念日』は、黙祷をして56年目となっている・・。
こうした根底には、かの大戦で、余りにも多くの方たちが亡くなわれて、
尊い犠牲の上で、今日の日本の心の平和の礎(いしずえ)である、と思いながら、
戦争を知らない私でも深い心の傷として、今日に至っている。
このような思いから、私は国民のひとりの責務として、
こうした日は、人々に哀悼の意を表して、黙祷をし、尊い命の冥福を祈っている。
私は地元の小学校に入学した1951年(昭和26年)4月の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの手助けを借りて、程ほど広い田畑を耕し、
そして祖父が所有していた田んぼの中で、小さな川が流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。
そして母屋の宅地のはずれに土蔵、納戸小屋が二つばかりあり、
この当時の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の地域の旧家は、
このような情景が、多かった・・。
私は長兄、次兄に続いて生まれた三男坊であり、
農家の跡取りは長兄であるが、この当時も幼児に病死することもあるが、
万一の場合は次兄がいたので万全となり、今度は女の子と祖父、父などは期待していたらしい。
私の後に生まれた妹の2人を溺愛していた状況を私はなりに感じ取り、
私は何かしら期待されていないように幼年心に勝手に感じながら、
いじけた可愛げのない屈折した幼年期を過ごした。
そして幾たびか悪戯(いたずら)をしたりするたびに、
私は父から叱咤され、土蔵に叩き込まれ閉じ込まれたりした。
或いは夕食のさなか、妹と同じようなスプーンである匙(さじ)をくれ、
と私は言ったりすると、父から母屋から放りだされ、
私は泣きながら母屋の暗い周囲を廻ったりした。
やがて母が裏木戸を開けてくれて、私は母屋に入れた。
この当時の母は、農家の嫁の立場であったので、多忙をきわめていた・・。
もとより田畑を手伝い、食事、洗濯、掃除、育児の責務があり、
昨今の共稼ぎの若き夫婦で幼児を育てられる方たちより、遥かに過酷だった。
食事を作る時は、竈(かまど)に枝葉、薪(まき)を燃やして、ご飯を炊いていたし、
洗濯も盥(たらい)に井戸水を入れて、洗濯用の石鹸を付けて、
洗濯板でゴシゴシと洗い清めていた。
掃除は、各部屋の埃(ほこり)をはたきで落とした後、
部屋専用のそれぞれの箒(ほうき)で、畳や板の間を掃(は)き清めていた。
そして風呂も、井戸水から運び入れて、
やがて薪(まき)を燃やして、沸(わ)かしていた。
このように当時の多くの主婦は、
ガス、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、瞬間湯沸かし器などはなく、
労苦の多い時代であった。
そして電話、テレビもない時代であった。
こうした中、1950年(昭和25年)の頃に、生家のラジオから『長崎の鐘』の歌がよく流れてきた・・。
こうした時、私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。
そして、♪こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の・・、
ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。
確か翌年の夏だったと思われるが、近くの寺院の境内で、映画が上映された。
この当時は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が上映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。
私は母に連れられて、近くの寺院の境内で上映されたのは、
映画の『長崎の鐘』(松竹、昭和25年、監督・大庭秀雄)であった。
この映画は、生れて初めて観た作品であり、やがて小学4年生の頃から独りで映画館に通う映画少年となったりした。
この後、映画の脚本家になりたくて大学を中退し、
アルバイトをしながら映画青年の真似事をしたので、
私は忘れない作品となっている。
この時の私が何よりも嬉しかったのは、
兄妹のいる中で、たった母と2人だけ外出したことは、
私の記憶では初めてことであった・・。
やがて帰路、母の手を握りながら、生家に向かう中、満天の星空が圧倒的に綺麗だった、
このような情景が今でも心の片隅に残っている。
無念ながら映画のストリーは忘れてしまったけれど、
こうした母恋きの心情を秘めた思い出も重なり、
私は幾つになっても、亡き藤山一郎さんの歌声を聴くと、
私は涙ぐむ時が多い・・。
私は後年になると、『長崎の鐘』の歌は、
作詞はサトウハチロー氏、作曲は古関祐而(こせき・ゆうじ)氏と知ったりした。
しかしながら肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆(ながい・たかし)氏は、
恥ずかしながら無知であった。
その後、私は永井隆(ながい・たかし)氏の名を知ったのは、
遅ればながら高校二年の時で1962年(昭和37年)であった。
そして、この御方の人生経路を少しばかり初めて知り、涙で曇ったりした。
やがて過ぎし2008年(平成18年)2月中旬に
初めて長崎の『原爆資料館』、『長崎市 永井隆記念館』に訪れ、
慟哭し、涙があふれた・・。
私は、ときおり今でも永井隆(ながい・たかし)氏の遺(のこ)された『長崎の鐘』、『この子を残して』などを、
読み改めたり、この御方の稀な言動に圧倒的に感銘させられている・・。
せめて私は平和を祈念する時、原点として『長崎の鐘』の歌を、
ときおり心の中で唄ったり、或いはかぼそい声で唄ったりすることもある・・。
そして私は永井隆(ながい・たかし)・著作の『長崎の鐘』は、
随筆の分野に於いて、近代文学史上の突出した優れた作品と評価している。
もとよりこの作品は、1946年(昭和21年)8月には書き上げられていたが、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲により、すぐには出版の許可が下りなかった・・。
やがてGHQ側から、
日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、
1949年1月に日比谷出版社から出版されたことは、周知の通りである。
そして当時は紙不足の中でも、当時としては空前のベストセラーとなり、
同書をモチーフとした歌謡曲はヒットしたり、或いは松竹により映画化され、版を重ねることになった、
と伝えられている。
『長崎の鐘』の歌の作詞は、サトウ・ハチロー氏であるが、
氏は作詞を依頼された当初は辞退された、と私は何かの本で読んだりした。
私は後年になって、サトウ・ハチロー氏の弟さんが、
広島の原爆の犠牲者となっていた、と学び、
こうした氏の思いから、当初は辞退された、と私は推測したりした。
それにしてもサトウ・ハチロー氏の優れた詩心は、
単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌である上、
打ちひしがれた人々のために再起を願った格調高い詞であり、
ここ70数年、数多くの方に感動させ、感銘もさせる詞である。
このような『長崎の鐘』に関して、齢ばかり重ねた私でも、原作、歌、そして映画・・
ささやかながら想いを秘めたりしている。