私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年の秋に大学を中退し、
アルバイト、或いは契約社員をしたりして映画・文学青年の真似事をした。
やがてある年、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正を思案したが、
もとより社会人の脱落者として生活を過ごしてきた私は、
コンピュータの専門学校のソフトウェア科を一年ばかり学び、卒業した。
そしてこれを梃子(てこ)にした上、ある知人のご尽力もあり、
この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、何とか中途入社できたのは、1970(昭和45)年の春であった。
この後、まもなくしてこの会社の一部が、外資系のレコード会社として独立し、
私もこの新たに創業された外資系のレコード会社に転籍させられて、
本社に30年ばかり私なりに奮闘して務めた後、
音楽業界のリストラ烈風の中、私も出向を5年ばかり体験して、
定年退職となったのは2004(平成16)年の晩秋であった。
このように私は、大学を卒業して、大企業で邁進されたサラリーマンのエリートの方たち、
或いは官公庁で栄達された方たちとは、遥かに遠い拙(つたな)い身なので、
もとより年収も退職金も程ほどに少なくなかった。
或いは金融資産が1億円以上あり、住宅も広々とした中でお住まいの悠々自適の方たちには及ぶことなく、
せめてその時代に流行(はや)った名曲と共に、時代を深く共有できたのが、
心の宝物のひとつかしら、と私は微苦笑している。
私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。
年金生活を始めて、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
このように自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの何かと多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
そして自宅の小庭の雑木の四季のうつろいを眺めたりし、
朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、ゆっくりと時を過ごし、
苦楽の激しかった過ぎ去った日々に愛惜を重ねながら、微苦笑したりしている。
日常の私は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
一昨年の3月の東日本大震災後、私たち夫婦はこれからの老後を配慮し、
本に関しては、5000冊前後あった本を大半処分した結果、
居間と書庫だけ本棚となった今、2000冊ぐらいかしら、と思ったりしている。
そして映画作品の場合は、処分後は専用棚にはVCT、DVDを専用棚に於いて1000本前後あり、
或いは音楽については、レコード、カセット、CD、DVDが、過日に処分もしたが、
やはり専用棚として1000枚ぐらい残し、
ステレオセットを定年7年前の頃に処分し、やむなくCDラジカセで聴いたりしている。
過ぎし日々に幾たびか友人、知人などに上げたりしてきたが、
若き青年時代に映画、文学青年の真似事をした時代もあり、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、レコード、そして映画を観たりしたので、
中々捨てきれなかったが、断腸の思いで処分した。
私たち夫婦は若き新婚の頃から幾たびか国内旅行をしてきたが、
年金生活を始めた翌年の2007〈平成17〉年5月下旬に、
知床半島のウトロから観光船で出港してオホーツク海を北上して、やがて半島の先端の知床岬で日の出を洋上から観る
早朝クルーズに瞬時に魅了されて、3泊4日で道東をめぐる観光団体観光ツアーに参加した。
この後、3日目の昼下り、阿寒湖の湖畔で1時間ばかり休憩した時であった。
私たち夫婦は団体周遊ツアー旅行で、私たちと同様にご夫婦の方も多くいるので、
私たち夫婦は40代の頃から、好感したご夫婦と旅行中で話し合ったりするタイプである。
この時も年配のご主人と湖畔の喫煙所で、私は談笑した・・。
『僕は70を過ぎているが・・あなたは60過ぎた頃でしょう?
僕も60代の頃は、家内と海外旅行など・・盛んに行ってたの・・
自分達が好きなことが一番できる時期なの・・
あなたたちのご夫婦を見ていたら・・思い出されたのよ・・』
と年配のご主人は私に微笑みながら私に言った。
『あの頃は、体力は少しは衰えは感じていたが・・何より気力はあった・・
あなた・・知っているでしょう・・
ゴールデン・イヤーズということ・・この人生で一番充実していた時・・』
と年配のご主人は言葉を重ねられた・・。
私は堺屋太一(さかいや・たいち)氏のご著書から《ゴールデン・イヤーズ》と名言は学んできたが、
このご主人から、改めて60代は人生の黄金期と学んだりした。
年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
このように私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。
そして日常生活で、ときには昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
何よりも私たち夫婦が、お互いに程ほどに好きなことを好きな時間に学び過ごせるのが、
年金生活の最大の恩恵かしら、と私は微笑んだりしている。
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私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年の秋に大学を中退し、
アルバイト、或いは契約社員をしたりして映画・文学青年の真似事をした。
やがてある年、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。
そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正を思案したが、
もとより社会人の脱落者として生活を過ごしてきた私は、
コンピュータの専門学校のソフトウェア科を一年ばかり学び、卒業した。
そしてこれを梃子(てこ)にした上、ある知人のご尽力もあり、
この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、何とか中途入社できたのは、1970(昭和45)年の春であった。
この後、まもなくしてこの会社の一部が、外資系のレコード会社として独立し、
私もこの新たに創業された外資系のレコード会社に転籍させられて、
本社に30年ばかり私なりに奮闘して務めた後、
音楽業界のリストラ烈風の中、私も出向を5年ばかり体験して、
定年退職となったのは2004(平成16)年の晩秋であった。
このように私は、大学を卒業して、大企業で邁進されたサラリーマンのエリートの方たち、
或いは官公庁で栄達された方たちとは、遥かに遠い拙(つたな)い身なので、
もとより年収も退職金も程ほどに少なくなかった。
或いは金融資産が1億円以上あり、住宅も広々とした中でお住まいの悠々自適の方たちには及ぶことなく、
せめてその時代に流行(はや)った名曲と共に、時代を深く共有できたのが、
心の宝物のひとつかしら、と私は微苦笑している。
私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。
年金生活を始めて、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
このように自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの何かと多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
そして自宅の小庭の雑木の四季のうつろいを眺めたりし、
朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、ゆっくりと時を過ごし、
苦楽の激しかった過ぎ去った日々に愛惜を重ねながら、微苦笑したりしている。
日常の私は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。
そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。
日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。
このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
一昨年の3月の東日本大震災後、私たち夫婦はこれからの老後を配慮し、
本に関しては、5000冊前後あった本を大半処分した結果、
居間と書庫だけ本棚となった今、2000冊ぐらいかしら、と思ったりしている。
そして映画作品の場合は、処分後は専用棚にはVCT、DVDを専用棚に於いて1000本前後あり、
或いは音楽については、レコード、カセット、CD、DVDが、過日に処分もしたが、
やはり専用棚として1000枚ぐらい残し、
ステレオセットを定年7年前の頃に処分し、やむなくCDラジカセで聴いたりしている。
過ぎし日々に幾たびか友人、知人などに上げたりしてきたが、
若き青年時代に映画、文学青年の真似事をした時代もあり、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、レコード、そして映画を観たりしたので、
中々捨てきれなかったが、断腸の思いで処分した。
私たち夫婦は若き新婚の頃から幾たびか国内旅行をしてきたが、
年金生活を始めた翌年の2007〈平成17〉年5月下旬に、
知床半島のウトロから観光船で出港してオホーツク海を北上して、やがて半島の先端の知床岬で日の出を洋上から観る
早朝クルーズに瞬時に魅了されて、3泊4日で道東をめぐる観光団体観光ツアーに参加した。
この後、3日目の昼下り、阿寒湖の湖畔で1時間ばかり休憩した時であった。
私たち夫婦は団体周遊ツアー旅行で、私たちと同様にご夫婦の方も多くいるので、
私たち夫婦は40代の頃から、好感したご夫婦と旅行中で話し合ったりするタイプである。
この時も年配のご主人と湖畔の喫煙所で、私は談笑した・・。
『僕は70を過ぎているが・・あなたは60過ぎた頃でしょう?
僕も60代の頃は、家内と海外旅行など・・盛んに行ってたの・・
自分達が好きなことが一番できる時期なの・・
あなたたちのご夫婦を見ていたら・・思い出されたのよ・・』
と年配のご主人は私に微笑みながら私に言った。
『あの頃は、体力は少しは衰えは感じていたが・・何より気力はあった・・
あなた・・知っているでしょう・・
ゴールデン・イヤーズということ・・この人生で一番充実していた時・・』
と年配のご主人は言葉を重ねられた・・。
私は堺屋太一(さかいや・たいち)氏のご著書から《ゴールデン・イヤーズ》と名言は学んできたが、
このご主人から、改めて60代は人生の黄金期と学んだりした。
年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。
そして、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
このように私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。
そして日常生活で、ときには昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。
何よりも私たち夫婦が、お互いに程ほどに好きなことを好きな時間に学び過ごせるのが、
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