夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『ゴールデン・イヤーズ』、つたない私でも、定年後の年金生活の中で日々享受し・・。

2013-04-15 15:06:54 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅みに住む年金生活の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭である。
そして雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

私は東京オリンピツクが開催された1964(昭和39)年の秋に大学を中退し、
アルバイト、或いは契約社員をしたりして映画・文学青年の真似事をした。

やがてある年、親戚の叔父さんから、
今は良いとしても、30歳を過ぎた時、妻子を養って家庭を持てるの、
と私は諭(さと)されて、
確固たる根拠もなく独創性があると自信ばかり強い私は、あえなく挫折した。

そして、やむなくサラリーマンに転職しょうと、軌道修正を思案したが、
もとより社会人の脱落者として生活を過ごしてきた私は、
コンピュータの専門学校のソフトウェア科を一年ばかり学び、卒業した。

そしてこれを梃子(てこ)にした上、ある知人のご尽力もあり、
この当時は大企業のある音響・映像メーカーに、何とか中途入社できたのは、1970(昭和45)年の春であった。
               
この後、まもなくしてこの会社の一部が、外資系のレコード会社として独立し、
私もこの新たに創業された外資系のレコード会社に転籍させられて、
本社に30年ばかり私なりに奮闘して務めた後、
音楽業界のリストラ烈風の中、私も出向を5年ばかり体験して、
定年退職となったのは2004(平成16)年の晩秋であった。
               
このように私は、大学を卒業して、大企業で邁進されたサラリーマンのエリートの方たち、
或いは官公庁で栄達された方たちとは、遥かに遠い拙(つたな)い身なので、
もとより年収も退職金も程ほどに少なくなかった。

或いは金融資産が1億円以上あり、住宅も広々とした中でお住まいの悠々自適の方たちには及ぶことなく、
せめてその時代に流行(はや)った名曲と共に、時代を深く共有できたのが、
心の宝物のひとつかしら、と私は微苦笑している。
                                       
私は定年退職後、その直後から年金生活をしているが、
私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりしているひとりである。

年金生活を始めて、独りで近所の遊歩道を散策したりすると、
このように自由に散歩できるなんて、許されても良いのかしら、
と定年直前までの何かと多忙期を思い重ねたりし、戸惑いながら甘受したりした。
                
そして自宅の小庭の雑木の四季のうつろいを眺めたりし、
朝の陽射し、昼下りのひととき、そして夕暮れ時に、ゆっくりと時を過ごし、
苦楽の激しかった過ぎ去った日々に愛惜を重ねながら、微苦笑したりしている。
                    

日常の私は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、何かと身過ぎ世過ぎの日常であるので、
日々に感じたこと、思考したことなどあふれる思いを心の発露の表現手段として、
このブログのサイトに綴り投稿するのが、生きがいのひとつとなっている。
                    

一昨年の3月の東日本大震災後、私たち夫婦はこれからの老後を配慮し、
本に関しては、5000冊前後あった本を大半処分した結果、
居間と書庫だけ本棚となった今、2000冊ぐらいかしら、と思ったりしている。

そして映画作品の場合は、処分後は専用棚にはVCT、DVDを専用棚に於いて1000本前後あり、
或いは音楽については、レコード、カセット、CD、DVDが、過日に処分もしたが、
やはり専用棚として1000枚ぐらい残し、
ステレオセットを定年7年前の頃に処分し、やむなくCDラジカセで聴いたりしている。

過ぎし日々に幾たびか友人、知人などに上げたりしてきたが、
若き青年時代に映画、文学青年の真似事をした時代もあり、
倹約したり、一食を抜いて購入した本、レコード、そして映画を観たりしたので、
中々捨てきれなかったが、断腸の思いで処分した。
                    

私たち夫婦は若き新婚の頃から幾たびか国内旅行をしてきたが、
年金生活を始めた翌年の2007〈平成17〉年5月下旬に、
知床半島のウトロから観光船で出港してオホーツク海を北上して、やがて半島の先端の知床岬で日の出を洋上から観る
早朝クルーズに瞬時に魅了されて、3泊4日で道東をめぐる観光団体観光ツアーに参加した。

この後、3日目の昼下り、阿寒湖の湖畔で1時間ばかり休憩した時であった。

私たち夫婦は団体周遊ツアー旅行で、私たちと同様にご夫婦の方も多くいるので、
私たち夫婦は40代の頃から、好感したご夫婦と旅行中で話し合ったりするタイプである。

この時も年配のご主人と湖畔の喫煙所で、私は談笑した・・。

『僕は70を過ぎているが・・あなたは60過ぎた頃でしょう?
僕も60代の頃は、家内と海外旅行など・・盛んに行ってたの・・
自分達が好きなことが一番できる時期なの・・
あなたたちのご夫婦を見ていたら・・思い出されたのよ・・』
と年配のご主人は私に微笑みながら私に言った。

『あの頃は、体力は少しは衰えは感じていたが・・何より気力はあった・・
あなた・・知っているでしょう・・
ゴールデン・イヤーズということ・・この人生で一番充実していた時・・』
と年配のご主人は言葉を重ねられた・・。

私は堺屋太一(さかいや・たいち)氏のご著書から《ゴールデン・イヤーズ》と名言は学んできたが、
このご主人から、改めて60代は人生の黄金期と学んだりした。
               

年金生活の私たち夫婦の基本は、厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭などの思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

そして、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としている。
従って、年金生活の身であるから、今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合っている。
               
このように私たち夫婦は経済的に贅沢な生活は出来ないが、
働らなくても何とか生活ができるので助かるわ、と家内がときおり、
呟(つぶや)くように私に言ったりするので、私は苦笑しながら聞いたりしている。

そして日常生活で、ときには昼下がりのひととき眠くなったら、
現役サラリーマン時代は、何かと睡眠不足も感じながら奮戦してきたので、
いつでも昼寝ができることは、年金生活の特権かしら、と享受する時もある。

何よりも私たち夫婦が、お互いに程ほどに好きなことを好きな時間に学び過ごせるのが、
年金生活の最大の恩恵かしら、と私は微笑んだりしている。

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年金生活の私、なぜかしら定年退職後は『ケチ』な性格に変貌して、我ながら苦笑し・・。

2013-04-14 13:08:27 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む高齢者4年生の68歳の身であるが、
定年退職後の年金生活の中で、平素の買物ぐらいは、私は自主的に担当している。

こうした買物をする前に、家内は新聞の折込みチラシのスーパー、ドラッグ・ストアーなどに、
家内は赤のサインペンで丸印し、これが我が家の当日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めてくるのが、我が家の鉄則となっている。

私は家内からチラシを渡されると、
インスタント・コーヒーなどが、『お一人さま、一点限り』、
そしてティシュ・ペーパーが12ロール入った1ケース『お一人さま、2点限り』、
或いはトイレット・ペーパーが5箱入った1ケース『お一人さま、2点限り』などを見たりすると、
なぜかしら私は微笑んでしまうのである。
               
そして買物の曳(ひ)き車と称される『キャリーカート』を私は曳(ひ)きずりながら、
路線バスなどには乗らず、最寄りの店は徒歩で10分前後、
そして駅前の店であったならば20分前後の道のりを歩き往復している。


或いは最寄駅の近くに、健康に良いとされている施設のフィトネス・クラブには加入することなく、
近くの遊歩道、公園、そして住宅街の小道をひたすら歩き、季節のうつろいを享受している。


そして我が家は住宅街のはずれに古ぼけた一軒家に住み、小庭の樹の剪定は、
ご近所のお宅の殆どは植木屋さんに年に数回依頼しているが、
我が家は私たち夫婦が自己流でしているのが定年後の実態である・・。
                   
私が定年前は、5年ごとに植木屋さんに依頼するたびに50万円前後を要してきたので、
この間は私が物真似て剪定してきた。
そして私が定年後まもなくして、ご近所より少し広い我が家は、
植木屋さんに年に数回依頼すれば、数10万円と教えられ、
定年後の我が家は、家内は3泊4日ぐらいの私たちの旅行でできるわ、
と言い、小庭の手入れは私の責務の範疇であったが、年に数回は家内の手助けを借りている。
          

私は民間会社に35年近く私なりに奮戦して2004〈平成16〉年の秋に定年退職なった身であるが、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

現役サラリーマン時代の時は、恥ずかしながらインスタント・コーヒーなどの日常品の価格は無知であった。

私は中小業の会社で月曜日から木曜日まで、時間無制限のように奮闘して、
金曜日ぐらいは早めに退社して、7時半過ぎから仲良しグループ、或いは親睦会、歓送迎会などで、
呑みながら、交流を深めることが多かった。
そして私の40代の頃は、血気盛んであったので、殆ど二次会は参加した後、
自宅の最寄駅で独りで居酒屋などで、週末の祝杯をして、タクシーで帰宅したりしていた。

私たち夫婦は子供に恵まれなかったことは人生の誤算であったが、
私たちの同世代の男性の多くは、一家の主(あるじ)として程ほどの収入を得て、家計の責務を負い、
妻は専業主婦で何かと後方支援に努めてもらう典型的なサラリーマン家庭であり、
私もこうした方たちと時代を共にしてきた。
                         

昨今の私は目指したスーパーなどで、家内の要望品を買い求めて帰宅した後、
なぜかしら『お一人さま、X点限り』が気になり、
もう一度、あのスーパーに行って買ってくる、
と私は家内に言った後、再び買い求めるために、スーパーに向うことが多くなっている。

我が家の家計の収入は、私たち夫婦の年金の厚生年金と企業年金であり、
もとより定額か五年毎に見直しで減少の傾向がある上、
この他の程ほどの国債、定期貯金の金利は、信じられないくらい低利であるので、収入は限度がある。
こうした心情のせいか、私は年金生活をしていると、
現役時代から大きく変貌して、気弱で小心者の私は『ケチ』の性格に変わり果てた、と苦笑したりしている。
               

そして帰宅後、我が家の片隅にはインスタント・コーヒー、ビールなどの趣向品や調味料など、
或いはティシュ・ペーパーなどの保管場所を見ながら、
これでしばらくは我が家の安全基準在庫だ、と私は微笑んだりする悪い癖となっている。

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我が家の愛車2台は、買物の曳(ひ)き車と称される『キャリーカート』となり・・。

2013-04-13 15:15:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の高齢者の68歳の身であり、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我家は家内とたった2人だけの家庭であり、
そして雑木の多い小庭に築後35年の古ぼけた一軒屋に住んでいる。

私は民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そして私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。

もとより家内は料理、洗濯、掃除などがあり、
私の現役時代は小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。
               

こうした中で、私が平素の買物をする前に、家内がスーパー、ドラッグ・ストアーなどのチラシに、
赤のサインペンで丸印したのが我が家の当日の必須の購入品とし、
あとは私が店頭の商品で魅了された品を買い求めているのが、原則としている。

そして食料品の野菜、果物、肉類などはもとより、
コーヒー、ビールなどの嗜好品、お醤油、ソースなどの調味品もあり、
衣服の洗剤の数々、台所の洗剤に加わったり、そしてティシュ・ペーパー、トイレット・ペーパー等もあり、
その上、時折お米5キロ入りなども加わるので、我家は2人だけの家庭でも、ある程度の量となる・・。
          

我家は世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域であり、
ご近所の多くは、殆ど乗用車を保有しているが、我家は無念ながら所有していない。

私は若い頃は、実家の自動車を盛んに運転をしていたが、
その後に結婚したり、定年前の30年間はペーパー・ドライバーであり、
定年退職後、車を購入して、ゆったりとドライブするのも、ひとつの楽しみと思ったりした。

しかし、齢を重ね感覚が衰えているので、自身の過ちで事故を起こした場合のことや、
何より人様に対して人身事故で傷つかせたりした場合を考慮すると、
単なる保険の賠償支払いで済まなくなるので、自制し、退職後まもない更新時に免許書を破棄することにした。

私は一時的な自動車の快適さより、
万一、私が加害者となった時、多大な賠償の上、何より被害者の心身の痛切な思いを想像したり、
或いは交通刑務所などに服役したりした場合のことを考えたりすると、
定年後の大切な生活が狂うのが、何よりも困るというのが本音でもある。

このような気弱で小心者の私は、私の住む地域は幸いにして公共交通のバス、電車の便に恵まれ、
ときたまタクシーを利用しても程々の費用で済んでいる。

               
買物を担当しはじめた頃から、私は根がケチなせいか、路線バスには乗らず、
ひたすら歩き、買い物をしてきている。
しかしながら買物をする時、多くの品を購入する時とか、
或いはビール24缶入り1ケース、お米5キロなどの重い品を買い求める時、
買物の曳(ひ)き車と称される『キャリーカート』を利用している。
               
何かしら以前に家内が買い物をしていた時、
この『キャリーカート』に大きなトートバックなどを載せてきた、と私は教えられた。
そして私は家内から譲り受けて、私としては段ボールを載せている。
その後、私は5年前に少し堅牢な『キャリーカート』の新車をホームセンターで買い求めたりした。

そして私が買い物する品が手で提げられないような場合は、
この『キャリーカート』を私は曳(ひ)きずりながら買物に行き、
スーパーなどの店内で買物をし、支払いが終った後、段ボールを頂き、
この中に購入品を入れたりしてきている。

これだったならば、たとえ特売品を多めに購入しても、負担がないので私は愛用している。


私は住宅街の歩道をこの『キャリーカート』に段ボールを載せて曳(ひ)いていた時、
ご近所の奥様方にお逢いし、最初の頃は少し驚かれたご様子であった。

私は家内と国内旅行に行く時は、
旅行バックのカートを曳(ひ)きずったりしているので、
               
                    たまたま今年の1月に買い改めた時の記念写真
これと同じと思いながら、平素のような明るく大きな声で挨拶をしたり、
ときおり奥様方、或いはご主人様と談笑したりしている。

そして、買物が多い時は、この『キャリーカート』は最良の友となり、
私の定年後の愛車となっている。


昨夕、家内から、明日ホームセンターで買いたい品がある、と私は告げられた。

私は何かと家事の大半は家内をしてもらっているので、
せめて家内のボディ・ガード、荷物持ちをして、お供をしなければ、
一家の主(あるじ)としての責務が果たせない、と私は瞬時に感じて、
『はい! 了解しました・・行きましょう!』
と私は高齢者4年生の身であり、ボケてはいけないと、
若き自衛官の諸兄に負けないように、明るく大きな声で応(こた)えた。

そして本日、10時過ぎにお互いに『キャリーカート』を曳〈ひ〉き、
徒歩15分ばかりのホームセンターで買い物をして、帰宅した。

そして私はたわむれに私が曳〈ひ〉いてきた『キャリーカート』の記念撮影をした。
          
今回の段ボールは平素より大きいが、宅配便で送付することがあるので、
たまたまホームセンターで買い求めた品である。
そして取手にあるのは、私か途中で買い求めた煎茶のペットボトルである。

このように我が家は、年に数回ぐらい『キャリーカート』2台フル活用して、
私たち夫婦は買い物をする時もある。

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ボケてきたと68歳の私は、42年間で初めての失態に、苦笑して・・。

2013-04-12 16:29:38 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた築後35年の一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

         
こうした中で、年金生活を始めて数か月を過ぎると、現役サラリーマン時代の緊張感も無(な)くなり、
ここ数年は体力の衰えも実感している。
          
一昨日の10日の朝、私は新聞を読みながら、月刊総合雑誌の『文藝春秋』、
そして『中央公論』の最新号の出版広告を見たりした。
『文藝春秋』は長らく購読してきたので当然ながら買い求めるのであるが、
『中央公論』に関しては、特集に魅了された時だけ購読するのが、ここ40年の習性となっている。

今回の『中央公論』5月号に於いては、
私が敬愛している山崎正和(やまざき・まさかず)氏が
『一億総中道化時代の到来』と題された寄稿文が掲載されていたので、
一億総中流化時代が過ぎた後、デフレ経済が余りにも長く続く中、政治は混迷、経済は低迷、社会は劣化し、
何とか政治は総中道化時代を迎えたのかしら、と私は心の中で呟(つぶや)いたりした。

しかしながら10日の日中は、家内の支援も受けて小庭の手入れもあり、
私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
最寄りのコンビニ、スーパーには『文藝春秋』はあるが、無念ながら『中央公論』はなく、
明日の11日に徒歩20分ばかりの駅前の本屋で買い求めよう、と決意したりした。
               

私は小庭の手入れで奮闘したので、腰、足は疲れていたが、迎え運動も兼ねて、
元気よく11日の午前中のひととき、平素の買い物専任者の私は最寄りのスーパーで責務を終えた後、
駅前の本屋に向った。

そして本屋の雑誌コーナーの表面に月刊総合雑誌の『文藝春秋』が山積みを視たりして、
この奥にある文芸雑誌棚で、読みたかった『中央公論』5月号を確認した後、
すぐ横にあった『文藝春秋』を手に取った。


この二冊を店内で持ち歩き、単行本のコーナーに行き、
オリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1』
(早川書房)の日本訳を探したが、結果として店頭在庫はなく、注文取り寄せの手続きをした。
この本は、10日の深夜 NHK-BS1に於いて、
ストーン監督によるテレビ・ドキュメンタリー(第一回目)を私は視聴して、
圧倒的に感銘させられ、本が出版されていると遅ればせながら学んだので購読したい、と思っていたのである。
               
私の脳裏はこの本と山崎正和氏の『一億総中道化時代の到来』を想像することで夢中で、
小さな脳みその私として満杯となっていた。


帰宅後、私は早速『中央公論』5月号を開き、
特集の『保守とリベラル』のひとつの山崎正和氏の『一億総中道化時代の到来』に教示された後、
残りの著名人の寄稿文を読んだりした。
               
夕方になると、買い求めてきた『文藝春秋』を開いた・・。
そして目次のページを見ると、なぜかしら読んだ記憶があるので、初めて表紙をじっくりと眺めると、
前月の4月号と気付いたのである。
どうしてなのょ、と動顚しながら思った。

私は東京オリンピックが開催された1964〈昭和45〉年に大学を中退し、
映画・文學青年の真似事をしたが、はかなくも敗退し、
1970〈昭和45〉年の春に、この当時、ある大手の企業に何とか中途入社した。

しかしながら社会人として、私は何かと一般常識が欠けていると思い、
せめて月刊総合雑誌の『文藝春秋』ぐらいは読んだ方が我が身の為と確信を深め、
これ以来、本屋で買い求めて読んできたので、42年間の愛読者のひとりとなっている。


私は図らずも読んできた前月号を買い求めたので、とりあえず洗面所に行き、顔を洗ったりした。
そしてこの本屋さんは、親切心に前月の4月号も本棚の前に平積みに置いてあったので、
私は『中央公論』5月号に注視し、横にあった『文藝春秋』の月号も確認せず、
何気なしに手に取り、この二冊を買い求めた、と気付いたのである。

この後、私は本屋に電話して、最新号の5月号と交換して欲しいと丁重にお詫びし、
交換して頂くことになった。
               
そして私は、前月号の『文藝春秋』を間違えて買い求めて、42年間で初めての失態に、
恥ずかしながらボケてきた、と苦笑したりした。


そして本日の午前中のひととき、駅前の本屋に行き、『文藝春秋』を最新号に交換して頂き、
注文取り寄せした本のオリバー・ストーン&ピーター・カズニックの著作『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史 1』
(早川書房)も到着直後だったので、買い求めたりした。

私は帰宅する途中で、何事も一に確認、二に確認、
今後の私のボケ対策の必須事項だ、と思ったりしながら歩いたりした。

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NHKテレビのBS編成責任者、どうしてこの番組の放送時間を決めたの、と戸惑い・・。

2013-04-11 16:02:39 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であり、
子供に恵まれなかったので、家内と2人だけの家庭となり、古惚けた一軒家に住んでいる。

日常は定年後から自主的に平素の買物担当となり、
独りで 毎日のようにスーパー、専門店に行ったりし、ときおり本屋に寄ったりしている。
その後は、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受している。

そして、ときたま小庭を手入れをしたり、
家内との共通趣味の国内旅行をして、その地の風土、文化などを学んだりしている。

日常の大半は、随筆、ノンフィクション、小説、現代史、総合月刊雑誌などの読書が多く、
或いは居間にある映画棚から、20世紀の私の愛してやまい映画を自宅で鑑賞したり、
ときには音楽棚から、聴きたい曲を取りだして聴くこともある。

このような年金生活を過ごしているが、テレビに関してはNHKのニュース、天気情報を視聴するぐらいで、
ときおりドキュメンタリー番組を視たりしているので、テレビっ子から程遠い。
               
しかしながらここ3日ばかりNHKのBS1に於いて、
世界のドキュメンタリー『オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史』を視聴している・・。

NHKの解説に寄れば、
《アメリカの映画監督オリバー・ストーン氏が、脚本を歴史学者のピーター・カズニック氏と組んで、
制作したドキュメンタリー・シリーズ》
何かしら10回に及び放送される、と私は4月8日の月曜日の午前中のひとときに知り、
この日から私は視聴してきた。

そして貴重な作品と感じ、同時にブルーディスク・レコーダーにセットして、録画した・・。


私はオリバー・ストーン氏の作品は余り鑑賞していないが、思い馳せれば、
監督としては『プラトーン』 (1986) 兼脚本
『ウォール街 』 (1987) 兼脚本
『7月4日に生まれて 』 (1989) 兼製作、脚本
脚本家としては『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』 (1985)、
『エビータ』 (1996)・・こうした作品は瞬時に思い浮かぶ程度であり、もとより愛好者の範疇にもならないが、
氏はアメリカ史をどのように描くか、私なりの学びたい、知りたいと真摯に思いながら視聴してきた。

4月8日は「第1回 第二次世界大戦の惨禍」、4月9日は「第2回 ルーズベルト、トルーマン、ウォレス」、
4月10日は「第3回 原爆投下」で、
3夜ばかり視聴してきたが、私は無知だったことも多々あり、教示されてきた。

しかしながら深夜の12時から50分の放送時間であり、
体力の衰えた高齢者の私は連夜視聴してきたが、働いて下さる諸兄諸姉は日中に勤務されている方も多く、
NHKの編成責任者はどのように、この番組の放送時間を決定したのが、私は理解できずにいる。

こうした番組こそ、多くの日本の国民に共通認識として共有して欲しく、
NHKテレビ(1チャンネル)の午前中、午後、夜のひとときに再放送時間として緊急に設定すべき、
と私は確信を深めているひとりである。

そして私は突然に、テレビっ子の深夜族となり、戸惑いながら微苦笑している。

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小庭の手入れ、姉さん被(かぶ)りの家内は強力な支援となり、私は微苦笑し・・。

2013-04-10 16:42:02 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の夕食時に、私は家内に、
『樹の枝葉も伸びてきているし・・明日庭の手入れをするよ・・』
と私は家内に言ったりした。
『そう・・私も手伝うから・・』
と家内は微笑みながら言ったりした。

我が家の小庭の手入れは、原則として私の責務の範疇であるが、年に数回ぐらい家内の支援がある。

清明(せいめい)時節が過ぎた今日、落葉樹は日増しに幼い葉を広げ伸び、常緑樹は新芽を伸ばし、
みずみずしい新緑の情景となっている。
そして地表の草まで元気よく伸び、2週間前に樹木の剪定、そして草むしりをしたが、
玄関庭、主庭の手入れは、体力を使い果たして程ほど残してしまったのである。
               
                 玄関庭の塀際に花梨(カリン)の樹を30年前頃から植えているが、
            
                 この時節、可愛らしいピンクの小花が咲き、私の秘かな恋人となっている。   


今朝、地元の天気情報を見たら、朝の6時は10度、昼下りは17度前後、夜の6時は15度前後、
晴れ時々曇り、と報じられ、平年並みの気候となり、
暑くも寒くもないので庭の手入れにベストだよなぁ、と私は微笑んだりした。

そして8時半過ぎに私は玄関庭の下り立ち、
いつものようにストレッチパンズの長ズボン、着古したスポーツシャツ、ウォーキング・シューズ、帽子、
滑り止めの軍手をして、そして剪定鋏(ハサミ)を腰の周りにした後、どの樹から剪定しょうかしら、
と思ったりした。

とりあえず垣根のカイズカイブキが伸びきたので短めに切っていると、
家内は、トレーナー姿にエプロンを身に着け、そしてタオルを姉さん被り、ウォーキング・シューズの万全な容姿で、
滑り止めの軍手をして、高枝鋏(たかえだばさみ)を薙刀〈なぎがた〉のように持ち、
私に近寄ってきた後、付近の樹木を高枝鋏(たかえだばさみ)で枝葉を切り落としたりした。
                   
この後私も剪定用の鋸(のこぎり)を右手に持ちながら、
樹木に登ったり、適度な台に乗り、枝葉を切り落としはじめた。

私は樹木の枝葉を切り落としたりしていると、ときおり地上から、
『その枝もっと短く切り落として・・』
               
我が家の歩道に面した垣根のカイズカイブキ、アカネモチ、ツバキなどを剪定したり、
玄関に近いナンテンなども短めにした。

こうした中で、私は玄関の前の石畳に簡易椅子を持ちこんで、
ほぼ30分ごとに5分休憩し、煎茶を飲みながら、煙草を喫ったりしていた。

この後、剪定した後の切り落とした枝葉を市の指定の『燃えるゴミ』袋に、
剪定鋏(ハサミ)で枝葉を袋が破けない程度に細かく切り分けたりした。
そして私は草むしりを始めたが、樹の下にもぐるように草取ったりしたので、
泥だらけと成ったりした。

家内は63歳の身であるが、何かしら心身溌剌としている。
私は5つばかり齢上であるが、定年退職後は現役時代の緊張感が失くしたせいか、
昨今は体力の衰えも実感している。

私の母、そして家内の母も更年期が過ぎてから、
新たに甦〈よみがえ〉る程に元気になっていた60代の時期もあったので、
女は良〈い〉いよなぁ、と私は家内を見つめたりしていた。
                 
そして昼食も抜きにして、お互いに奮闘したが、
2時過ぎに、『XXちゃんさぁ・・ボチボチ・・やめない?』
と私の方から家内に提案し、風呂を沸いた頃、家内に先に入ってもらい、
私は主庭のテラスに簡易椅子に座り、煎茶を飲みながら煙草を喫ったりした。

                          

私は若き40代の頃は、こうした時はお寿司屋さんから頂いた大きな湯呑茶碗で、
冷酒を二杯ぐらいは呑んで待機していたが、
その後の50代の時は、殆どビールを呑んだりしていたが、
今や煎茶を飲む身となり、やはり齢かしらと苦笑し、短くなった樹木を眺めたりしていた。

そして玄関庭、主庭の手入れは少し残してしまったが、
次回しょうと、と体力の衰えた私は、自身を心の中で叱咤激励をしたりした。


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花水木(ハナミズキ)、東京の郊外でも咲き始めて、高齢者の私は見惚れながら・・。

2013-04-09 13:29:35 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市の片隅みに住む年金生活の68歳の身であり、
子供に恵まれなかったので、家内と2人だけの家庭となり、古惚けた一軒家に住んでいる。

昨日の午前中、日常の買物の担当の私は、最寄りのスーパーのひとつで買い物を終えた後、
帰路は都道の路線バスも走る歩道を歩いた・・。

そして車道と歩道の間にある街緑樹のひとつには、花水木(ハナミズキ)が帯のように点々と植えられて、
過ぎし一週間前の頃に芽吹き始めて、やがて幼い葉を見せていたので、気になり眺めてきた・・。

私は今年はいつごろに咲くのかしら、花水木(ハナミズキ)を歩きながら眺めると、
小枝の先に白色の花弁状をした四つばかりの大きな総苞をつけ、
中心に緑黄色の小花が頭状にに集まって純白色、或いはピンクの花色となり、
葉色はまだ緑黄色は淡い色合いとなっていた・・。
               
そして、咲き始めてくれたんだぁ、と心の中で呟いたりした。
               
この後、帰宅してからデシカメを持ちながら、花水木(ハナミズキ)の清麗を撮ったりした。


私は民間会社の中小業に35年近く勤めて2004〈平成16〉年の秋に定年退職し、
その直後から年金生活をして早くも9年目を迎えている。

私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった歩みだった為か、
この花水木(ハナミズキ)の樹の純白の花に、心の濾過を託すように圧倒的に魅せられてきた。

そしてこの時節を迎えると、花が咲き、そして花も終わりを告げて、
あまたの枝葉を大きく広げ、秋には朱紅色に葉を染めて、陽射しを受け、やがて冬木立となり、     
来年の芽吹きの時期まで、お別れねぇ、と愛惜を重ねたりしてきた。


私は遅ればせながら、2004〈平成16〉年の秋に退職してまもない時、
偶然にラジオから、一 青窈ちゃんの『ハナミズキ』の歌が流れて瞬時に魅了されて、
そして確か7年前だったと思われるが、NHKテレビの音楽番組の『SONGS』中で、
一 青窈(ひとと・よう)さんと徳永英明(とくなが・ひであき)さんが、デュエットでこの歌を唄っていた。

一 青窈ちゃんは美麗ながら、心の深淵まで託したご自身の思いを唄い、
徳永英明さんは、透明感あるシルキー・ヴォイスで、圧倒的な歌唱力の声量で唄い、
この歌をお二人が唄うのを視聴したのであるが、
胸が熱くなり、やがて涙を浮かべそうなくらい圧倒的に感銘を受けたのである。

http://www.youtube.com/watch?v=vh_nZWhX3Es
【YouTube】☆『ハナミズキ』 作詞・一 青窈、作曲・マシコタツロウ、唄・一 青窈、徳永英明 ☆
留意・この曲はこの時の番組が放送されてまもなく、どなた様が【YouTube】に於いて掲載されたが、
          その後NHKテレビは著作権の侵害と判断し削除された後、
          やがて投稿された《akikoh1121》氏の勇意で復活したのを、敬意し付記する。


こうした思いも重なり、何かと花水木(ハナミズキ)の樹に心を寄せたりしてきた。
               

私たち夫婦は古びた一軒家に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている・・。

私が年金生活を始めて最初に配慮したことは、
家内の従来の専業主婦の日常のペース、ささやかな憩(いこ)いひとときなどの過ごし時を配慮して、
私は独りで外出して、自宅の周辺にある遊歩道、小公園などを散策して、季節のうつろいを享受し、
本屋、古本屋に寄ったりしている。

もとより家内は料理、洗濯、掃除などがあり、
私の現役時代は小庭の手入れをするぐらいであったので、
せめて退職後は日常の買物ぐらいと思い立ち、私は自主的に買物の担当となったりした。

それでも少し引け目を感じて、家内の茶坊主に専念したりした。

私は定年後の年金生活をし始め、日の出と共に起床するのをモットーとして、
殆ど起きだしている・・。
煎茶を飲みながら新聞の朝刊を読んだり、NHKのニュースを視聴したりしている。

そして家内が目覚める頃になれば、指定されたマグカップにコーヒーを淹れて、
2階の寝室まで運び、 布団の枕元に置いたりし、
『今日は良いお天気になりそう・・』
と私は朝の挨拶代わりに家内に言ったりしている。
そして日中のひととき、コーヒーを5回ぐらい淹れたりしている。
         
こうした中で、午前中のひととき、平素の買物の専任者となった私は、
殆ど毎日スーパー、専門店に買い物に行ったりしている・・。

家内は日頃の多くは、私のことを、
『あなた・・』
と呼ぶことが多いが、
ときには、たわむれで
『XXクン・・』
と苗字で呼ぶこともある。

しかしながら年金生活を始めてまもない頃、私が買物の購入品などで間違えたりすると、
『ボケチィンねぇ』
と家内は笑いながら、私に言った。

この日以降、私が何かで日常生活で失敗した時、
『ボケチィンねぇ・・』とか、ある時は『ダメオ(駄目夫)クンねぇ・・』
と家内は微苦笑しながら、私に言ったりしている。

このような私たち夫婦でも、命果てるまでの残された歳月は、もとより天上の神々の采配によるが、
この先いつまでも慎(つつ)ましながらも、年金生活の楽しい生活が続くわけでなく、
どちらがいずれ片割れになる・・。
                              
このようなことを時折思ったりすると、私は心の中で『ハナミズキ』の歌を唄たりすることもある。

或いは人影のない遊歩道で、私はかぼそい声で、唄ったりして、
早や7年の月日が流れている。


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ピカピカの小学一年生に遅れないように、ブログのテンプレートを新たにし・・。

2013-04-08 10:04:00 | 定年後の思い
過ぎし4月1日からは世の中は新年度の始まり、企業に於いては緊張感の中で新社会人となった人たちも多く、
小学生の入学するピカピカの一年生、新たに中学、高校、大学を入学されたり、
或いは進級される方が数多い。

こうした中で、5日には『清明(せいめい)』の時節を迎えて、
68歳の高齢者の私でも、これからの日々を心を新たにして過ごしましょう、と心に誓ったりしてきた。

こうした思いもあり、私はブログサイトは【gooブログ】に加入させて頂いているが、
昨日の深夜、テンプレートは黒の背景で白文字を表示する《ブラック》を長らく愛用しているが、
この際、衣替えのように陽春に相応しいテンプレートの改定を思案したりした・・。
                             
色々と迷ったりし、女性だったならば、《赤いカーネション》は精麗だし、いちごの《ストロベリー》は可愛らしく、
結果として選定したのは、《アモネス》のデザインであった。
しかしながら、少し華やかしら、と躊躇(ためら)ったりしたことは本音であったが、
何かとたじろいできた私の言動に、華やかなワッペンが欲しがり、
恥ずかしながら掲載することにした。

そしてシニア世代の方たちに読んで頂くには、表示する字の大きさのフォントサイズが小さいかしら、
と思いながら、初めて字の大きさを考えたりしたり、
写真は従来の《ブラック》より更に明晰が欠けるが、妥協も必要だ、と思ったりした。


この後、無念ながら私は、《アモネス》に関しては、花屋さんで少し見てきたぐらいなので、
こっそりとフリー百科辞典として名高い『ウィキベティア』に縋(すが)り、
読んだりした・・。
《・・アネモネ(学名:Anemone coronaria)はキンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。
   和名はボタンイチゲ(牡丹一華)、ハナイチゲ(花一華)、ベニバナオキナグサ(紅花翁草)。
   (略)
   特徴
   一般に春先に花を開くが、その花は一重のものから八重咲のもの、
   花色も桃、青、赤、白等。草丈も切花用の高性のものから矮性種まで、野生種のみではなく、
   現在では様々な園芸品種が栽培されている。
   種は長い毛を有し、風によって運ばれる。
   このため「風」が由来となっている名前が各地で見られる。(略)》

ここまで私は読んだ時、私のブログで2005〈平成17〉年から数年、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、発信名は『風と光』としてきたので、
私に風には縁がある、と微笑んだりした。
                
そして何かと気になる《花言葉》を読んで、長らく苦笑させられたのである。
《・・「はかない夢」、「薄れゆく希望」、「はかない恋」・・》などと明記され、
何かと気弱で小心者の私に相応しい、と深夜の12時半過ぎに決意し、
当面はこの《アモネス》と共に、ピカピカの小学一年生に遅れないように、
ブログを投稿しょう、と体力も衰えた高齢者の私は思ったりした。


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早くも東京の郊外は、薫風の中、風光る日を迎えて・・。

2013-04-07 12:13:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そして私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
古惚けた築後35年の一軒屋に住み、お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。
         
            過ぎし4日、遊歩道で『八重桜』を、見惚(みと)れて撮った。

こうした中で、一昨夜の5日の夕食時に、家内は、
明日の午前中に駅前のスーパー、専門店で食べ物と日常雑貨品を買い求めたい、
と私に言い、
『了解致しました。行きましょう!』
と私は若き自衛官の諸兄に負けないように明るく応(こた)えた。

家内が私を誘い、駅前で買い物をする場合は、
もとより家内のボディーガート兼荷物持ちのお供で、最寄駅のひとつの徒歩15分ばかり道を往還し、
この間に、駅前で買い物した後、食事処で昼食をしてきたコースであった。

昨日の朝は、どんよりとした曇り空で、気象庁の発令した天気情報は、
午後の3時過ぎから、雨が本降りとなる中で風も吹く春の嵐のような日となりますので、ご注意の程を、
と報じていた。

私たちはどんよりとした曇り空の中で、予定通り買い物を終えた頃、
なぜかしらパラパラの大粒の雨が降りだしてきたので、
昼食も中止し、帰路は異例であるが、やむなく路線バスに乗車して、帰宅したのは11時半過ぎであった。

その後、雨は止んだりしたので、私たちのどちらかが平素の行いが悪かったのかしら、
と私は微苦笑したりした。

しかしながら、午後3時過ぎに雨が降りだして、
気象庁の天気情報は正確だ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

その後は、雨は強さを増し、ときおり風も伴い春の嵐のような状況となった。


今朝の8時過ぎは、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
眩(まばゆ)い朝の陽射しの中、澄み切った青空の中に、
雲が二つばかり浮かんでゆったりとながれている台風一過のような情景となっていた。

我が家の小庭は、5本ばかりのモミジや花梨(カリン)、無花果(イチジク)などの雑木は芽吹きを終えて、
                   
日増しごとに成長し、幼き葉から葉を広げ、新た若葉となっている。
或いは常緑樹の金木犀(キンモクセイ)の新芽も伸びだし、
垣根がわりのアカネモチは、朱紅色の新芽が勢いよく伸び、
             
眩(まぱゆ)く朱紅色の若葉に変貌し、彩(いろど)りとなっている。

そして雨が激しく降った後の今朝は、
樹木の枝葉は雨粒をたたえて、清々しい潤(うるお)いのある情景となり、
眩(まばゆ)い陽射しを受けて、数多くの新緑の葉はキラキラと光り帯びたりしているので、
私は微笑んだりし、つたない私でも新緑に心まで染められている。

地元の天気情報を見ると、朝の6時は14度、昼下りは23度前後、夕方の6時は15度前後、
ときおり風は吹きますが、おだやかな5月下旬のような陽気になります、
とこのように私には聴こえたりした。

そして小庭に下り立つと、少し陽射しは強く感じられ、
ときおり風が吹くと、心地よく薫風かしらと感じたり、風光る情景に身も心も寄せたりした。

留意)添付した写真は、たわむれに11時過ぎ撮った写真てあり、
   無念ながら陽射しと風で雨粒は消え去っている。


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『染井吉野』、『山桜』に別れを告げた後、『八重桜』にめぐり逢えて・・。

2013-04-06 16:19:45 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
昨日の昼下がり、歯の治療の為に小田急線の『喜多見』駅の近くの歯科医院に予約していたので、
晴ときおり曇り空の中、私は出かけた。

そして自宅の近くに流れている野川の遊歩道を歩きだした・・。
               
そして川端の近くの路に、黄色い花の『菜の花』、薄紫の色した大根の花と思われる野花を見て、
私は遊歩道より川端の近くの路に下り立った。
      
この時節、この川端の近くの路に於いては、この黄色と薄紫色が、帯のように長い色合いを彩(いろど)っている。
               
私は幼年期に農家の児として育ったので、こうした野花に魅せられて、長らくみつめたりした。

この後、再び遊歩道を歩きだし、桜の樹の多い桜並木の中を足を進めた・・。

私の住む世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域は、
染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が4月の初旬に咲き始め、その後に山桜(ヤマザクラ)、
最後に4月下旬に八重桜(ヤエザクラ)が咲くのが、平年の慣(なわら)わしとなっている。


過ぎし3月22日過ぎには都心の多くは、染井吉野(ソメイヨシノ)の桜が満開となり、
統計開始以来2番目の早さとなり、桜の名所でイベントを予定されている関係者は対応に大わらわになっている、
とニュースを視聴したりして、私は思わず微苦笑したりした。

私は天上の気候の神々の采配に戸惑いながら、ときおり空を見上げたりして、
どうしてなのょ、と心の中で呟(つぶや)いたりし、
染井吉野、そして山桜の桜花に愛惜を重ねながら、愛(めで)てきた・・。
           

4月3日には、突然に雨が激しく降り、風も強く吹き春の嵐のような日となり、
花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散り、
ときおり微風が吹くと、花びらが枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
地上に落下する花衣(はなごろも)の風流な情景には、
無念ながら今年は夢の中で終わってしまった、このような思いを重ねてきた。

そして遊歩道を歩いていると、名残り花のように、残っている桜花を見上げたりした。
       
そして地上には桜花が錯乱し、今年も心まで彩ってくれた桜花に別れを告げた・・。

再び歩きだすと、ぽっかりと薄紅色の花にめぐり逢え、私は長らく眺めたりした。
      

平年より早く咲いた『八重桜(ヤエザクラ)』である。

もとより八重桜は、幼い葉と共に大きな花を咲かせて、かぐわしい芳香があり、
平安時代から歌題にも発露されてきた。

つたない私が新古今集の中に於いて、覚えているひとつに、
    つらき哉うつろふまで八重桜
         とへともいはで過ぐる心は
               詠み人・惟明親王
このように数多くの歌人から、詠まれている八重桜である。
               

私は桜花に関して、女性の言葉、しぐさなど風情を思い浮かべると、
八重桜は10、20代の若き女性の溌剌(はつらつ)とした華やかさ、
染井吉野の桜は30代の女性の香りたつ美麗、
山桜は40代以上の女性は妖艶を秘めながら凛とした女性かしら、
と40代の頃から思いを秘めたりしてきている。

恥ずかしながら私なりのつたない感性であり、
それなりに醸(かも)し出す言葉、しぐさなどの芳香、品性は断片は出来ないが、
このように思い浮かべいる。

そして私は二十歳以来、何故かしら最も好きな桜は、山桜である。

このようことも思い重ねて見たりしていたが、
美しさの桜花の前で、せんなきことだ、と気付き、駅前まで遊歩道を歩きだした。
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『清明(せいめい)』の時節を迎えて、つたない私でも心を新たにして散策を重ねて・・。

2013-04-05 18:33:17 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
今朝ぼんやりとカレンダーを眺めると、『清明(せいめい)』と明記され、思わず私は微笑んだりした。

落葉樹が芽吹き、やがて幼い葉を広げはじめる中、
草花も待ち焦(まちこ)がれたように花を咲かせ、
そして春の明るい陽射しの光につつまれて、清らかに生きている万物に恵みの時節かしら、
と私は解釈している・・。

私は過ぎしここ10日ばかり、桜花より梅の花が好きであるが、
平年より早く満開となった桜花に心を寄せ、見惚(みと)れてきた・・。
               
世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅の地域に於いては、
染井吉野の桜が咲き、やがて山桜、そしてフィナーレとして八重桜が咲くのが、
平年の習わしとなっている。

私は染井吉野、そして山桜の桜花を眺めて、ある日には、

   世中にたえてさくらのなかりせば
             春の心はのどけからまし
                         作者・在原業平朝臣

   久方のひかりのどけき春の日に
             しず心なく花のちるらむ
                         作者・きのとものり

   山里の春の夕暮きてみれば
             入相の鐘に花ぞ散りける
                         作者・能因法師

こうした遥か千年前の頃の古人が詠まれた歌を思い浮かべたりしている。


こうした中で、落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジ、ツツジなど雑木は芽吹き、
                
幼年期に農家の児として育った私は、見惚(みと)れてきた。

やがて木の芽時(このめどき)と称せられる落葉樹の数多く雑木の芽吹きが終わり、
幼いあまたの葉を広げて、新緑に時節に向っている昨今である。
               
私は定年後の年金生活で平素の買い物専任者となり、
殆ど毎日スーパー、専門店で買い物した責務を終えた後、
自宅の周辺の住宅街の路、近くの小公園、或いは近くに流れる野川の遊歩道を歩いて、
季節のうつろいを享受している。

本日は野川の遊歩道を上流に向かって歩き、小公園に立ち寄って、
欅(ケヤキ)は幼いあまたの葉を広げて、空に向かうように伸びはじめている。
               
こうした中で、クヌギ、コナラなどは芽吹きが始まり、
これから大きく育つからねぇ、見ていてねぇ、といったような風姿を見せてくれている。
               

このような心情を重ねた私は、世の中は新年度の始まる四月の初旬、
小学生の入学するピカピカの一年生、新たに中学、高校、大学を入学されたり、
或いは進級される方が数多い・・

そして企業に於いては、緊張感の中で新社会人となった人たちも多い。

こうしたことを思い馳せたりすると、齢ばかり重ねた私でも、
この清明の時節、心を新たにしてこれからの日々、と微笑みながら歩き廻っている。
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木の芽時(このめどき)が過ぎ、幼いあまたの葉を広げて、新緑を迎えて・・。

2013-04-04 15:16:57 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
午前中のひととき平素の買い物担当の責務を終えると、殆ど自宅の周辺の住宅街の路、
近くの小公園、或いは近くに流れる野川の遊歩道を歩いて、季節のうつろいを受容している。

過ぎし2月を終えた頃は、平年より寒いが多かったので、
3月を迎えると、我が家の小庭は遅ればせながら日本水仙、白梅、紅梅が仲良し恋しと彩(いろど)る中、
突然に幾たびか4月の中旬のような陽気に恵まれて、遊歩道を歩いたり小公園に寄ったりした時、
日本水仙から白梅、花桃、そして平年より早くも桜花まで3月にめぐり逢えるのは、
62年ばかりこの地域で過ごした記憶がある中で、初めてだ、と戸惑いながらも悦んだりしてきた。
      

こうした中で、落葉樹の欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジ、ツツジなど雑木は芽吹き、
幼年期に農家の児として育った私は、見惚(みと)れながらも何よりも愛惜を感じながら、
今年もしなやかに過ごしなさい、と何かと天上の両親、祖父などに励まされてきた。

そして木の芽時(このめどき)と称せられる落葉樹の数多く雑木の芽吹きが終わり、
幼いあまたの葉を広げて、新緑に時節に向っている。
               

私は過ぎし3月28日の昼下がり、満開となった桜花を愛(め)でようと、近くの小公園で心は充たされた後、
付近にあった大きな欅(ケヤキ)の樹に見惚(みと)れて、長らく眺めていた・・。
               
私は1944〈昭和19〉年に北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
私が地元の小学校に入学した1951〈昭和26〉年の4月当時は、
祖父、父が中心となって、小作人だった人たちの好意の手助けを借りて、
程ほど広い田畑を耕し、この田んぼの中には小さな川が流れ、湧き水もあり、
竹林、雑木林が母屋の周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあったりし、お稲荷さんもあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この当時は、徒歩15分ぐらいの京王線の最寄駅まで、
殆ど田畑が広がり、雑木林、竹林なども観られた田園風景であった。

こうした中で生家の母屋の中の一面は土間となり、この外れに竈(かまど)が三つばかり有り、
ご飯を炊いたり、煮炊きをしたり、或いは七輪の炭火を利用していた。

板敷きの居間は、囲炉裏であったが、殆ど炭火で、家族一同は暖をとっていた。
                              

雑木林は欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラなどを中核とした古来よりの武蔵野台地に見られる雑木であり、
特に欅(ケヤキ)は、生家は宅地の防風林として、畑との境界線に数多くあった。

この欅(ケヤキ)が育ち過ぎて間隔が狭まったのを配慮して、
秋に田んぼの稲の米を収穫した後の晩秋期、
祖父、父、そして小作人だった人の協力を得て、薪(まき)にする為に毎年数本切り倒していた。

樹高は少なくとも30メートルがあり、主木の直径は50センチ程度は最低限あり、
大き目の鋸(のこぎり)で30センチ間隔で輪切りにし、
この間に作業が一段落した後、祖父は鋸(のこぎり)の目立てをしたりしていた。

その後、輪切りにした欅(けやき)を鉈(なた)で薪(まき)割りをし、
陽当たりの良い所で乾燥をさしていた記憶が、今でも心の片隅に残っている。

そして、枝葉は竈(かまど)で薪(まき)を燃やす前に使用していたので、
適度に束ねて、納戸の外れに積み上げられていた。

このようなことは、生家の近くの旧家でも多く観られた。

その後、1955〈昭和30〉年の頃から、都会の人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した1957〈昭和32〉年であるが、
この頃になるまでベットタウンの住宅街に大きく変貌した。

昨今、私が地元の小学校に通った旧街道を散策すると、旧家の4軒は、
大きな欅(ケヤキ)が数10本並び、市道となった道路との垣根の代わりに聳(そび)えている。
そして私はこの旧街道を歩くたびに、幼年期の頃の生家の情景が想いだされ、
そうだったよねぇ、と遠い昔に思いを重ねたりしている。


こうした心情を秘めている私は、大きく変貌となった昨今の情景の中で、
大きく聳(そび)えている欅(ケヤキ)を見かけと、 私は立ち止まり、しばし眺めることが多いのである。
               

私は生家の近くに1978〈昭和53〉年の春に、一軒家を構えたが、
つたない私は小庭しかなく、せめてと思い小さな樹を植えたりしている。
               
                モミジ、常緑樹の金木犀(キンモクセイ)、赤目モチなどであり、
      
    この常緑樹も、この季節になると新芽が伸びている。

そして私が民間会社を2004〈平成16〉の秋に定年退職した時、
偶然に小鳥が落としたのが、やがて幼い樹となり、私は何かと悪戦苦闘が多かったサラリーマン時代だったので、
定年退職の記念樹と思いながら、年金生活の中で四季折々眺めてきた・・。

そして先ほど見たら、幼い葉を広げて伸びている。
                 

このような思いを多々秘めながら、この木の芽時(このめどき)が過ぎ、
そして幼いあまたの葉を広げて、新緑を迎えている昨今、今年もお逢いできましたねぇ、
と私は心の中で呟(つぶや)いたりしている・・。


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春の嵐、齢ばかり重ねた買い物担当の私は、戸惑いながら溜息(ためいき)を重ねて・・。

2013-04-03 13:08:48 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そして年金生活を始めて、せめて平素の買い物ぐらいは私がしょうと、家内に承諾を得て、
これ以来、日常の買い物専任者となり、殆ど毎日スーパー、専門店に行っている。

私は根はケチな為か、路線バスには乗らず、
最寄駅のひとつに徒歩20分ばかりの大通りの歩道を歩き、家内からの要望した品を買い求めたりしている。
歩くことは何よりも健康の基本である上、歩きながら四季折々の情景が観られ、
季節のうつろいを享受できるからである。

こうした中で、世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む我が家の地域は、
ここ2週間前の頃から、花桃が咲いたり、平年より早く桜花が咲き、
              
自宅の近くに流れる野川の遊歩道に桜の樹が多い中、満開となった桜花を愛(め)でながら、
過ぎし3月26日より、幾たびか歩いて来たりした。
                   
そして桜の視える桜並木は、わずかながら桜花は舞いながら散り始めていたが、
まだ満開の桜花であり、安堵しながら微笑んだりした。
                    

昨日は本降りの雨降る一日となり、やむなく買い物は中止とし、
小庭に降る雨を眺めたりして、居間で本を読んだりした・・。

そして桜花に思いを寄せたりした・・。
              
花びらが散りはじめ、空中にゆったりと舞いながら散り、
ときおり微風が吹くと、花びらが枝から離れ、青い空の中をさまようように舞いながら、
地上に落下する情景を思い浮かべたりした。
このような情景は古来より、桜の散りはじめ、花びらが舞いながら散る情景を花衣(はなごろも)と称してきた。

或いは川面に花びらが舞い、そして花びらがゆっくりと流れる情景を花筏(ハナイカダ)にも、
私は30数年魅せられてきた。


今朝、雨脚の音で目覚め、その上に風は強く吹き春の嵐となり、
あの桜花はどのようになっているのか、と憂(うれ)いたりしていた。

ときおり激しく降る雨の中、風邪は強く吹いているので、
桜花は花衣(はなごろも)、そして花筏(ハナイカダ)の美景を懇願しても、
この天候では・・と思ったりしていたのであった。

このようなことを午前中のひととき、私は風雨の中に買い物を敬遠して、
ぼんやりと小庭を眺めて、ときおり溜息(ためいき)を重ねたりしている。

追記
午後1時半過ぎ、私は買い物専任者の責務として、
風雨の舞う中、近かくの徒歩10分ばかりのスーパーに行き、
買い物をして帰宅に向かうと、なぜかしら雨は小降りとなり、帰宅した。

こうして綴っている午後2時半過ぎの今、急速に天候は回復して、
雨も上がり、風も止み、清々しい小庭の情景となっている。
そして私は、平素の行いが悪かったのかしら、微苦笑している。


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私のブログ『極楽とんぼ・・』、そして『夢逢人・・』の命名した発想、そして秘かな願いは・・。

2013-04-02 14:05:47 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
民間会社の中小業に35年近く勤めて2004年〈平成16〉年の秋に定年退職となり、
何かと卑屈と劣等感にさいなまれ、悪戦苦闘の多かった半生だったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたく、その直後から年金生活をしている。

そして年金生活を始めてまもなくブログの世界を知り、パソコンの故障、旅行で不在でない限り、
パソコンの故障、旅行で不在でない限り、
毎日投稿してきたので、習性になってしまったかのように投稿を重ねてきた・・。

ブログサイトの多くは匿名制度であり、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活のことから、無知なりに政治の分野まで発露でき、
何より従来のホームページ形式より手軽に開設、運営できると思ったりした。
               
そして私は、2004年(平成16)年11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』という発信名で投稿をはじめた。

私は初めてブログの世界に入り、【アメーバ・ブログ】に加入した時、
タイトル名は私なりのブログ・サイトで要(かなめ)をなすこと思え、深く思案したりした。

結果として、『極楽とんぼ』と命名することとした。
ひとつの発想の根拠としては、他のサイトで綴ったが、私の幼年期からの深い想いでがあった。

私が小学校に入学したのは、1951〈昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、と担任の女の先生がため息まじりに言われたりしていた。

その後、父は病死し、一年後に祖父も死去したので、没落し始めた・・。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、或いは家で独りで留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
 ・・(略)・・
【『越後獅子の唄』 作詞・西條八十、作曲・万城目正、唄・美空ひばり】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

このように、この『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思考、
そして小説家・山口 瞳(やまぐち・ひとみ)・著の『還暦老人極楽蜻蛉』(新潮社)を
私は1992〈平成4〉年の頃に愛読していたので、恥ずかしながら拝借し、
定年退職後の年金生活を、自由自在でブログの世界で綴ってみたい、秘かな思いであった・・。
               

そして【アメーバ・ブログ】に投稿を初め、コメントを頂き、私なりに喜びであり、
コメントをして頂いたお方の日記に、私も盛んにコメントを書き込みをしたりした。

こうした中で、【アメーバ・ブログ】の日記投稿欄の書き込み、送信に、この当時は幾たびかエラーなどが発生し、
初心者として技量もなく、何度も書き直し投稿をしたりした。

その上、各部門による賞金制度が設置されていたので、困惑し、私は他ブログ・サイトを探した。

そしてブログに準じたサイトの【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、入会したのは11月17日であった。

これ以降、2つのサイトが並行として投稿し、1ヶ月を過ぎた頃、【アメーバー・ブログ】の投稿を中止し、
『すくすくブログ】に『極楽とんぼの奮闘記』とタイトルを掲げ、『yumide』の発信名で、極楽とんぼシリーズを移管した。

私は【すくすくブログ】の加入した短い間、この当時、人気の漫才コンビに『極楽とんぼ』の存在を知り、
1部のお方から誤解されたり、
その後、この人気コンビのひとりが女性に不祥事を起こしたりしたので、
もとより無関係の私に非難のコメントを送られたりし、
私は『極楽とんぼ』の命名の由来を明示した通り、
何かしら60数年の心の純潔を汚されたようで、憂鬱な心が、しばらく続いたりした。
                              

その後、幾たびかブログサイトに彷徨(さまよい)い2010(平成22)年の7月から、
【gooブログ】の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』とタイトルを改称し、
そして発信名だけは、2005(平成17)年の春過ぎの頃から『yumede-ai』として、
長らく継続している・・。

そして『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』は、いつまでも年金青年ではないと実感し、
『夢逢人たわむれ記~かりそめ草紙~』と改称したが、
過ぎし3月29日に於いて、何かしら私が短絡的に綴れるのは、《たわむれ》として逃げ場がある、
と後ろめたくなり、『夢逢人かりそめ草紙』と改めたりした。
               

今回、私はこの『夢逢人・・』のタイトル、発信名の『夢逢人(yumede-ai)』の発想を記載する。

私の若き頃の高校生の2年になった1961〈昭和36〉年4月過ぎ、
生家の居間で、次兄と共に何気なしにテレビを視聴していた。

すらっとした大人の女性が、上半身を右に傾けてお辞儀をされて司会をされ、
何かしら毎回のテーマに基づいて、これに伴いショートコントが展開したり、
その間に踊りやジャズ演奏、外国曲の歌唱などがあった番組だった、とぼんやりと記憶している。

この番組はNHKの『夢であいましょう』であり、番組の内容もさることながら、
何よりも司会をされた中嶋弘子さんの都会の大人の麗人のしぐさ、顔立ち、声質に、
高校生の私でも、圧倒的に魅了されて、見惚(みと)れていたのである。

この後、何故かしら中嶋弘子さんは降板され、この後は苦手な黒柳徹子さんが司会をされたので、
これ以降、私は『夢であいましょう』を視聴をやめた。
そして私は17歳の身ながら、中嶋弘子さんに関して、高嶺の花のあこがれの君のような存在となり、
長らく私の心の片隅みに残影し、今でも残っている。
               

私はブログの投稿文を綴ることの内容は、誰しも光と影を有しているので、
つたない私でも書くことのためらう影の内容もある。
たとえば幼児の時は、いじけたことが多く、小・中学生は通信簿『2』と『3』の多い劣等生であり、
文学青年の真似事した時期、新人賞に3回応募したが落選した、
或いは母は生まれてまもなく里子にだされて、やがて私たち兄妹の母親となった、
               
次兄が自営業の資金繰りに失敗し、睡眠薬を多量に飲み自裁し、
この当時の私は住宅ローン返済で苦慮していたので、次兄から無力と感じとられて何の役にも立てずにいた・・など、
多々、私なりに屈折した出来事を余すことなく投稿してきた。

こうした出来事のことは、小心者の私としては匿名であることで発露できたことであり、
心のわだかまりを吐露しなければ、私としては一歩先でも進めない時もあったりした。

このような心のうめごきをリアルな現実の日常生活では、
たとえ私が言葉にしても、対人の受け止めることに困り果てることもある、と感じたりした。

小説、随筆などは、あくまで間接のワンクションンとして読者は受け止めることができ、
ブログの匿名で公開する内容も、ある意味合いでは同じかしら、と思ったりしている。

このような理由も重ねて、私は『夢逢人』と命名したのである。
私の綴ってきたことは、まぎれなく私の知る限り真実を発露してきたので、
リアルな現実でお逢いするのは、私の心の裸身を見られたようで恥ずかしく、
文字通り、夢の世界でお逢いしたいですね、と思いながら命名したのである。


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『桜月(さくらづき)』の3月に別れを告げて、新たな『清浄明潔』の4月を迎えて・・。

2013-04-01 10:56:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に住む年金生活の68歳の身であり.
今朝ぼんやりと3月のカレンダーを切り剥がしながら、『弥生(やよい)』の3月と明記されていたが、
私の住む地域は 『桜月(さくらづき)』だった、と微笑んだりした。

古来より2月は梅の花が咲き、3月は桃、やがて桜の花が咲いてきたので、
『桜月(さくらづき)』、『桃色(ももづき)』と称せられ、春の訪(おとず)れに、
数多くの人々が悦(よろこ)び感じて過ごす時節である。

しかしながら私の住む地域では、昨年の12月頃から平年より寒く、2月を迎えた時は、
我が家の小庭の水仙(スイセン)も莟〈つぼみ〉も見えず、白梅(ハクバイ)、そして紅梅(コウバイ)は莟〈つぼみ〉が固く、
平年より数週間は遅れているのかしら、と苦笑をしたりしてきた。

平年ならば、1月には日本水仙の花は咲き、冬麗の美を感じ、
2月中旬には白梅は凛とした純白の色合い、紅梅は華やかな朱紅色の色あいを見せてくれるので、
早春の美だ、と思いながら毎年過ごしてきた・・。                         

今年の2月は、相変わらず平年より寒さが続き、齢ばかり重ねた私でも、
天上の気候の神々の采配に戸惑い、どうしてなのょ、と空を見上げたりしてきた。

過ぎし2月20日になって、玄関庭にある白梅が、遅れてご免なさい、と言ったように、
恥じらいながら2輪ばかり咲いたりし、
2月の月末に、澄み切った青空で陽射しは燦燦(さんさん)と、風もなく暖かい3月下旬のような陽気となり、
主庭の白梅は数多くの莟〈つぼみ〉か大きく膨らんできた。

そして3月を迎えると、我が家の小庭は遅ればせながら日本水仙、白梅、紅梅が仲良し恋しと彩(いろど)る中、
突然に幾たびか4月の中旬のような陽気に恵まれて、遊歩道を歩いたり小公園に寄ったりした時、
日本水仙から白梅、花桃、そして平年より早くも桜花まで3月にめぐり逢えるのは、
                 
62年ばかりこの地域で過ごした記憶がある中で、初めてだ、と戸惑いながらも悦んだりしてきた。
      
こうした中で、欅(ケヤキ)、クヌギ、コナラ、モミジ、ツツジなど雑木は芽吹き、
幼年期に農家の児として育った私は、見惚(みと)れながらも何よりも愛惜を感じながら、
今年もしなやかに過ごしなさい、と何かと天上の両親、祖父などに励まされてきた。

過ぎ去りし3月は、初旬には日本中の女の子をそれぞれのご家庭で慶(よろこ)び祝う『桃の節句』、
下旬の初めには新たなる旅立つの『卒業式』などが祝賀され、
こうした中で働いて下さる新たなる社会人が不安と希望を秘めてスタートされる時節でもある。

そして社会の中核である働いて下さる諸兄諸姉も、再就職や人事異動などで、
新たなる職場に配属され、戸惑いながらも意欲充分な志(こころざし)で、勤務される時期でもある。

私はこうした時節は、定年後に年金生活を過ごし9年生になった今、
それぞれの人々の人生の門出に、微笑ましく感じて、
3月は『桜月(さくらづき)』だったと感じ深めていたのである。


新たな『卯月(うづき)』の4月のカレンダーを見ながら、
卯月と命名されたのは旧暦で、現在より40日ばかり遅い初夏に近い時節で、
里に多い落葉樹のウツギの樹から名付けられた、と古人から伝えられているので、
少しばかり私は戸惑っている。

四月は世の中は新年度の始まるが多い中、
小学生の入学するピカピカの一年生、新たに中学、高校、大学を入学されたり、
或いは進級される方が数多い・・

そして企業に於いては、緊張感の中で新社会人となった人たちも多い。

私はこの四月の時節は、近くの公園、野川の遊歩道を散策したりとすると、
木の芽時(このめどき)と称せられる雑木のモミジ、コナラ、クヌギ、欅(ケヤキ)等の時節が終わり、
幼いあまたの葉を広げて、新緑に時節に向っている。
      
そして常緑樹も新芽を伸ばしている。
             
こうした情景を思い馳せると、『清浄明潔』という言葉を重ねたりした・・。

古人からの伝えとして、樹木は芽吹き、幼い葉を広げて、草花は花を咲かせ、
春の明るい陽射しの光につつまれて、清らかに生きている万物に恵みの時、
と私は解釈している・・。

こうした思いになると、私は4月は『清浄明潔』の月だ、と心の中で呟(つぶや)いたりしている。


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