夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『昭和の日』を迎えて、齢ばかり重ねた私でも、『昭和の時代』に愛惜を秘めて・・。

2013-04-29 13:24:13 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であり.
今朝、ぼんやりとカレンダーを見たら、『昭和の日』と朱記されていたので、
『昭和の日』かょ・・と朱記されていても齢ばかり重ねた私は、戸惑いながらも微苦笑したりした。

私は『昭和の日』については、遅ればせながら確か2年前の頃に、
日頃から何かとお世話になっているフリー百科事典と名高い『ウィキペディア(Wikipedia)』から学んだ。
《・・
昭和の日(しょうわのひ)は、日本国の国民の祝日の1日である。
平成19年(2007年)から加わった、現在のところ最も新しい国民の祝日である。

国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正により追加されたもので、日付は昭和天皇の誕生日である4月29日。
同法における定義・趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」となる。
ゴールデンウィークの中の1日である。

昭和64年(1989年)1月7日の昭和天皇崩御により、
同年以降の4月29日はそれまでの天皇誕生日としては存続できなくなり、
祝日法の天皇誕生日に係る項を改正する必要が生じた。

当時から同日を「昭和記念日」など昭和に因んだ新祝日として存続させようという意見が出ていたが、
左派の反対からそのような案は見送られ、同年以降の4月29日は『みどりの日』という名称の祝日に改められた。

その後、『昭和の日』の実現を目指す運動に呼応・共鳴する国会議員により、
(略)幾たびか改正法案提出され、
やがて同改正法は平成19年(2007年)から施行され、
同年以降の4月29日は『昭和の日』、従前の『みどりの日』は5月4日に移動した。
(略)
・・》
注)原文にあえて改行を多くした。
               

このように明記されてことで、私は何となく理解できたが、
私は昭和19(1944)年に農家の児として生を受けたので、
昭和64(1989)年の1月7日の昭和天皇が崩御される前年まで、
この日の4月29日は・・身も心も『昭和天皇陛下のお誕生日』と思いながら、
『天皇誕生日』の祝日である、と敬愛を重ねてきたのである・・。


昭和天皇が崩御された後、4月29日は『みどりの日』として制定され、
私は中小業のサラリーマンの時代で、悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であったので、
この時節は日本の多くが若葉に染められ、美しい日本の風土を象徴しているかしら、
と単細胞の私は感じたりしていた・・。

『昭和の日』と改称されたのは平成19(2007)年から施行されたと遅ればせながら学び、
私は定年退職は平成16(2004)年の晩秋であり、
その後は念願の年金生活となったので、少しボケた私は2年前の頃に気付いたりしたのであった・・。

そして、今回『昭和の日』に際して、私の『昭和』の時代は少なからず45年近く空気を共にしてきたので、
もとより私の自己形成は『昭和』の時代であったので、
今でも過ぎし『昭和の時代』は愛惜を深めて、ときおりあのようなことがあったよねぇ、
と私は思ったりしている。
              

私は昭和19(1944)年の秋、東京都の北多摩郡神代村(現・調布市の一部)の農家の三男坊として生を受けた。
長兄、次兄の次に私は生まれたのであるが、
何かしら祖父と父などは、三番目の児は女の子を期待していたらしく、幼年の私でも感じたりしていた。
もとより農家は、跡継ぎとなる長兄、この当時は幼児は病死することもあるが、
万一の場合は次兄もいるので、私は勝手に期待されない児として、いじけたりすることがあった。

そして私の後にやがて妹がふたり生まれ、 祖父、父が初めての女の子に溺愛したしぐさを私は見たりすると、
私はますますいじけて、卑屈で可愛げのない言動をとることが多かった・・。

しかし祖父は不憫と思ったのが、自身の名前の一部を私の名前に命名した、
と後年に父の妹の叔母から、教えられたりした。

私が地元の小学校に入学する昭和26(1951)年の春の当時は、
祖父、父が中心となって、小作人の人たちの手助けを借りて、 程ほど広い田畑、
そして田んぼの中のひとつには湧き水があったり、小さな川も流れ、
母屋の周辺は竹林、雑木林が周辺にあった。

そして母屋の宅地のはずれに蔵、物置小屋と称した納戸小屋が二つばかりあり、
この地域の旧家は、このような情景が、多かった・・。

この頃の生家の周辺には、平坦な田畑、雑木林が続き、
少し離れた周辺はゆるやかな丘陵であり、大人の人たちは国分寺崖、と称していた。

その後、私が昭和28(1953)年の小学2年の三学期に父が病死し、
翌年の昭和29(1954)年の5月に祖父も他界され、
生家は大黒柱の2人が亡くなり、没落しはじめた・・。

そして昭和30〈1955〉年の頃から、都会に住んでいた人たち達が周辺に家を建てられ、
私が小学校を卒業した昭和32〈1957〉年であるが、
この頃になるとベットタウンとなり、新興の住宅街となり大きく変貌した・・。
               

この間、祖父、父が健在だった前、私が地元の小学校に入学する前、
この当時は周辺にも幼稚園もなく、やっと託児所ができた頃であった。

託児所と称されても、寺院の片隅の大部屋を借用して、幼児を預かる程度の施設が実態であり、
お遊戯をしたり、挨拶を学んだり、ときには幻燈機で何かしらの観たりしていた。
幻燈機は若い方には不明と思われるが、
現代風に表現すればモノクロ(白黒)の画面で、ときには総天然色のカラーもあったが、
静止画面のスライド・ショーと理解して欲しい。

私の生家でも、祖父の指示の下で、大きな部屋に、ご近所の家族を招き、
『母をたずねて三千里』などの劇画を観たりした。
総天然色のカラー作品で、私はこの『母をたずねて三千里』に感動し、
涙を浮かべて観たりしたのが、5歳の頃であった。
               

こうしたある日、私は祖父から空の一升瓶を渡され、
『XXに行って・・大丈夫かなぁ・・』
と雑木林の拓いた村道で徒歩10分ぐらいの道のりを歩いた。

私が向った先は、酒屋でそれぞれの日本酒の四斗樽が壁一面に並び、
お菓子、佃煮などが並べられている不思議な店であるが、
この当時は駅の周辺は商店街があったが、駅までは15分の道のりであるので、
実家の周辺には、この店しかなかったのである。

私は空の一升瓶を割らないように大切に抱えて、
人気のない村道を歩き、この店に行った。

そして60歳ぐらいの店主に、私は空の一升瓶を少し振り、
『これ・・お願いします』
と私は店主に言ったりした。

店主は明るい表情を見せながら、壁面に置いてある四斗樽のひとつに、
栓を開けて、枡を満たし、その後は一升瓶に移したりした。

この当時は、冠婚葬祭で一升瓶を贈答したり、年末年始とか行事に限り、
何本かの一升瓶を購入していたが、
平素はこのような日本酒の量(はか)り売りの多い時代であった。

この後、私は祖父から預かったお金を渡し、
店主から満たされた一升瓶を受け取ろうとした時、
お煎餅(せんべい)を3枚を渡された・・。

『おじさ~ん・・ありがとう・・ごさいます』
と私は店主に言いながら、重くなった一升瓶を受け取った。

そして私は今宵の晩酌する祖父と父の表情を思い浮かべて、
薄暗くなった村道を歩いた。
そして右側のポケットに、お煎餅(せんべい)を3枚があり、
『この煎餅(せんべい)、美味(おい)しそう・・』
と思いながら、家路に急いだ・・。

後年、祖父と酒屋の店主は旧知で、もとより昵懇の仲であったので、
何かといじけることが多かった私を不憫に感じた祖父の思いだった、
と祖父が亡くなったある時、私は叔母から教えられたのである。

昨今、私はスーパーで買物をしている時、丸い大きく厚い『草加せんべえ』を見かけたりすると、
ときおり幼年期に酒屋から頂いた煎餅(せんべい)に思いを重ねることもある。
               

この頃、私は母に連れられ、年に一度ぐらい新宿の伊勢丹(デパート)に行ったりした。
母は私と妹を両手につなぎ、末妹は乳児だったので背中にしょっていた・・。
京王線の『金子(現在・つつじが丘)』駅から『新宿』駅まで電車に乗ったりした後、
新宿三丁目まで歩いたりした。

そして階段の踊り場、地下の通り道などで、
不幸にして戦争で身体の一部を失くされ、軍歌の音色とも、その容姿を見るのが恐かった。

ある時は母から私は勝手に手を放して、デパートの店内で迷子となり、
人形の売り場で半ベソの私は、店員さんから救出されて、探していた母の元に行ったりした。
               

私が小学校の高学年になると、映画に魅せられて、
付近の調布、布田、千歳烏山の映画館に、独りでよく通ったりしていた。
こうした中、次兄から都心の日比谷にある映画を観ようと、
新宿から築地行きの都電を乗ったが、乗り物酔いで私はしょげた・・。

確かあの頃の都電は、運賃は均一13円と記憶しているが、
下車したら当然もう一度支払う必要があったので、日比谷まで頑張れ、と次兄に励まされ、
青ざめた顔で日比谷で降りた記憶が残っている。
                

このように私の小学生時代までの思いでは、走馬灯のように思い浮かび、
その後の地元の中学時代、そして都心にあこがれ始めた高校時代・・など限りなく、
昭和64(1989)年の1月7日の昭和天皇が崩御された当時の私は、
中小業の民間会社で情報畑で悪戦苦闘ながら奮闘していた多忙時であり、
もとより私にとっては『昭和の時代』は、あふれるように愛惜を重ねたりするが多いのである。

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